じょうらく!!(まだまだしない)
上洛とはなにかと聞かれても、即答は難しいのではないか。
単語を分解すれば「洛」に「上」るである。
「上る」はいいとして、「洛」はなにかといえば、語源は古代中国王朝の多くが都を置いた洛陽である。
古代日本が中国の律令体制を導入した際、都は大和や山城各地を転々とした後に平安京に移ったが、ここをそのまま都の意味で「洛陽」と呼びあらわしたこともあったらしい。
その後に平安京自体の区画整理もあり、呼び名の意味するところも変容。単に「洛」の一字で都を意味することになったようである。これは洛中、洛外という呼び方にも残っているのでわかりやすい。
「つまり「都」に「上る」で上洛。ここまではよいの」
老人は若武衛こと斯波義銀の理解を確かめるようにいったん間をおいた。
義銀は、その湯さましを口に運ぶしぐさが自らの父の所作とよく似ていると思ったが、それは口に出さずに心の中に押しとどめた。
「ではそれが政治的に意味するところとは何か?」
老人は厳かな口調で続ける。
鎌倉時代初頭の承久の乱。その鎌倉を打倒して始まった建武親政、南北朝に観応の擾乱という紆余曲折を経て誕生した室町幕府、都(平安京)に幕府(征夷大将軍による軍政府)を置いた。
日本統一の象徴である朝廷・公卿と、実際に政治権力と武力を司る武家政権の連立政権、つまり公武合体の政権である。
実際、室町の政治には公卿も程度の差こそあれ影響力を持ったし、将軍家を初め、有力守護には官位が与えられた。
鎌倉のように朝廷が完全に蚊帳の外でも困るし、建武親政のような混乱もこまる。そういった弊害を防ぐ上でも、公武一体での幕府(政府)というものは、南朝の諸勢力や反幕府勢力が一定の勢力を保つなかでは政治的な安定をもたらした。
そのため各地の守護は基本的に在京が義務付けられ、地理的制約がある九州では九州探題、東北では奥州探題や羽州探題(この二つは斯波家の一族である大崎氏と最上氏が世襲)などの地方府がおかれた。
中でも鎌倉の関東公方(初代将軍の次男の子孫)は関東全域における幕府の代理人であり、京に守護が在京するように、関東各地の守護に鎌倉への出府が義務付けられていた。
その権限の大きさが歴代関東公方に無用な政治的野心を募らせることになったともいえるが、いかんせん関東は都から遠すぎ、またかつての鎌倉幕府-初めての「武士の武士による武士のための政権」の発祥の地という特殊な環境は、出先機関も何もおかずに統治出来るようなものではなかったことは確かだ。
「坂東武者は気が荒いからの」と、老人はそれを一言でまとめた。
年配者の話が脱線するのはよくあることだが、この老人の場合はそれを自覚しているらしく、すぐさま本題に戻した。
応仁の乱(1467-77)の後、守護大名らは摂津や四国という近隣に地盤を持つ細川氏を除いて争うように帰国した。特に旧西軍に所属した大内氏や土岐氏などは屋敷を焼き払って帰国し「二度と上洛しない」という叛意を明確にしている。
そして旧西軍諸侯だけでなく、東軍に属した諸侯も在京の義務を放棄して次々に帰国した。
10年にも及ぶ領国の不在は体制の不安定化をもたらし、下手をすれば「第2の朝倉」によって自らが追われる危険性もあったからである。(現代に例えるならば、閣議に首相と内閣官房長官(都知事兼任)以外の閣僚(閣僚は道府県知事兼任)が出席しなくなったということであろうか)
唯一残った細川氏は、その後は半世紀以上にわたり幕政を(紆余曲折があったものの)牛耳ったが、自らの家督相続の失敗がもたらした三好家の下克上により、室町将軍と同じ傀儡の管領と化した。
「傀儡の将軍の、傀儡の管領を牛耳るのは、管領家の家臣である三好。三好を牛耳るのはそのまた下の三人衆といった有力な家臣。そしてそれを利用して、誰が将軍になろうと、誰が管領になろうとも権力の中枢に居座る政所執事の伊勢氏という具合じゃの」
「よくわからんだろう」と言う老人に、義銀が頷く。
知識として理解はしていたとしても、複雑化しすぎていて誰に権力があるのか、外からはわからない。おそらく政権内部の人間ですらわかっているとはいいがたいであろう。これでは安定的な政権運営など困難だ。
もっとも織田家の傀儡たる斯波家の次期当主が言うことではないかもしれないが。
「その現状を許容出来なかったのが先代の13代様(足利義輝)じゃな。三好の先代(三好長慶)と伊勢との反目を見て、伊勢の当時の当主を政所執事から解任。反乱に追い込んで討ち取った」
伊勢氏が幕府の官僚集団を取りまとめていたのは、何も自らの権益を独占するためだけではなかったというのは、伊勢氏追放後に幕政や京の行政がたちまち行き詰まりを見せたことで明白になった。伊勢一族の追放には成功しても、誰もその役割は果たせなかったのだ。
「13代様が三好三人衆や松永の息子によって非業の死を遂げられ、朝廷はすぐに従一位と左大臣を贈ることで彼らに反感を示したと『されて』いる。1月はかかったがな」
「伊勢にはそれほどの人望がありましたか」
「討たれた伊勢貞孝個人の人望や能力の問題ではない。伊勢の掌握していた文官らがすべてそっぽを向いたのだ。13代様が不満を感じられたように、その能力に問題がなかったわけではないだろうが、それに変わる文官団がいなかったのも事実なのだろうて。当代の公方擁立を朝廷が認めたのも、伊勢の復権を内々に約束したからだというし」
尾張の地にあり現在でも半ば蟄居状態を強いられているにもかかわらず、よく物事が見えていると義銀には感じられた。「敗者だからすべての能力が劣っているわけではなく、勝者だからすべての面で優れているわけではない」と当代の斯波武衛が言うのも、なるほどもっともである。
「上洛という言葉に政治的な意味が生まれたとすれば、10代様の復権だろうな」
明応の政変により細川氏に追放された10代将軍の足利義尹(義稙)は、諸国を放浪した後、周防の大内義興のもとに身を寄せた。
ともに旧西軍に縁があり(義興の父は西軍の有力大名であり、義稙の父は西幕府の将軍を名乗った足利義視)、細川氏の家督相続の混乱に付け込むことで、上洛に供奉した2万とも3万とも言われる大内氏の軍事力を背景に義稙は将軍に復帰する。
大内義興は、管領こそ自らに味方した細川氏に譲ったが、管領代(管領の代理)として10年近く在京し『天下人』として君臨した。
「尼子が山陰で暴れだし、領国に不安を持った大内氏が政権内の不和もあって管領代を辞任して帰国したことでこの政権は崩壊したが、一定の政治な安定があったのも確かだ。時の帝も、将軍や細川よりも、大内の軍事力を評価して異例の従三位に列して、公卿としたほどだ」
そこで義銀はようやく気がついた。
老人が滔々と語る室町の歴史と、目の前の老人が武衛家当主であった時期が重なっていることに。
「そういえば御爺様は恵林院様(足利義稙)が将軍に復帰されたころに尾張の守護となられたのでしたね」
「永正8年(1511年)に守護になったからの。まだ私の父でそなたの曽祖父にあたる義寛は生きておられたがな」
「まあ、その4年後にあの様となったわけだが」と、先代武衛こと斯波義達は、恥じるでも悔いるでもなくに答えた。
着の身着のままで尾張へと送り返された斯波義達は、守護職と斯波武衛家当主の地位を退いたものの、命はとられなかった。今川氏がそうしたように、尾張国内ですら「そこまでの価値はない」として、以降の義達は政治的な死者として扱われている。先の清洲騒動の折ですら、大和守家にとっては仇敵であるはずなのに襲撃すらなされなかった。
当代の斯波武衛は、この父のおかげで3歳で当主とならざるを得なかった。
そして当主に就任したことで、自らの父を政治的な死者として扱わざるを得ない立場となった。
もっとも義統はそれ以上に個人的感情から自らの父を亡きものとして、大和守家が没落して織田上総介が政権を掌握した後も振る舞い続けている。私的な立場においても同様だ。
子は父と喧嘩して祖父と結ぶというが、義銀もその例にはもれなかった。これは、ある程度は父の目こぼしがあったとはいえ、好々爺然とした祖父が義銀には嫌いではなかったからである。
「以前から一度、お聞きしたかったのですが」
なんとなくではあるが、義銀にはこの機を逃すと次の機会は訪れないのではないかと思われた。
「三河を間において、遠江への遠征が本当に成功すると思われていたのですか?」
義達老人は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの柔和な顔になった。
「何故そう思った?」
「なぜも何も、三河はあれだけ諸勢力がひしめき合っていました。元より守護権力が弱いこともあり、徳川……ああ、当時は岡崎松平でしたか。数千人単位を動員出来る勢力だけ数えてみても、田原の戸田氏に知多の水野氏、東三河の牧野氏、山家衆の奥平と菅野、北部の中条氏や鈴木、西条吉良という具合です」
指折り三河の諸勢力を数え上げる義銀に、祖父は「三河の守護家はどこであった?」と尋ねた。
「え?たしか細川氏ではありませんでしたか。一色が6代様(足利義教)に解任されたあとは阿波の細川だったような」
「そう、その細川は当時は大内に抑えられていた」
大内政権の管領であった細川高国は、家督相続争いの中で阿波細川氏の推す候補者と敵対する間柄にあった。
当然、阿波細川氏に幕政への影響力などないに等しく、細川氏全体の権益を代表する立場であるはずの高国にしても、自らを管領に押し上げた軍事力を背景とした大内氏の意向には反対しづらい。
そこまで説明を受けて、義銀もようやく祖父の言わんとするところを察した。
「……なるほど。御爺様の母上は一色義直(丹後守護)の娘でしたね」
「そう、義直殿のお父上が6代様に討伐された一色修理大夫(義貫)」
「御爺様が一色の名前を使え、なおかつ守護細川家の影響力が制限される時期であったと」
「結局、賭けには負けたのだがな」と、義達は自嘲するかのようにつぶやいた。
努力をしなかったわけではない。斯波氏にとっては父の代から取り組んできた一世一代の賭けであった。それが敗れたにもかかわらず、それを語る義達の表情や態度は実にさばさばとしたものであった。
「遠江で今川に追われた大河内貞綱は、元は吉良の被官であったしな。水面下ではそれなりの話がついていた。一色の母を持つ私になら、三河守護の資格もあったであろうし、元は西軍の公方(義稙)にしても、元西軍の一色の復権にもつながる。仮に成功していれば東海道から美濃の土岐、近江の六角と京までをつなぐことが出来た……勝てていればの話だが」
構想の規模だけならば、現在予定されている足利左馬頭を擁立した織田氏の上洛よりも遥かに規模の大きい話ではある。
何せ応仁の乱における東軍の勝利を前提としていた幕府の体制を根底から覆そうというのだ。
しかし所詮は敗者の政権構想だ。死んだ子供の年を数えるようなものだと、義銀は興奮とともに、どこかさめた思いで祖父の話を聞いていた。
「その話は父上とされたことは?」
「ない」と義達は短く答えた。
「それどころかまともに会話したことも数えるほどだ。あれは、私が多々良氏(義統生母)を殺したと思っているしな」
「そのようなことは……」
「実際殺したようなものだ。本来であれば多々良も当主の実母になるような格式の家柄ではなかったかもしれないし、義統も守護にはならなかったかもしれない。気楽な守護家の庶子として生を全うできたやもしれぬ……しかし、私が負けたことで、その道はなくなった」
結果、母は息子の死におびえ続けながら亡くなり、息子はその死の原因を父に求めた。
そして父は生きながらにして死者となり、今に至るまでその骸をさらし続けている。
「死のうと思ったこともある。しかし死ねなかったし、死に損ねた」と漏らす義達の顔色は、明らかに精彩に欠けていた。
義銀はふと先程の予感の正体が何であるのかに思いが至った。
「ああ、この人はもうすぐ死ぬのか」と、義銀は唐突に腑に落ちた。
「しかしな、こういうと大和守達定に怒られるかもしれんが、やはり生きていてこその人生だと思う。今川も昔年の勢いはなく、織田大和守も伊勢家も滅んだ。かつて手を組もうとした大内も土岐も消え去り、細川や六角とて命脈を何とか保つのみ。将軍家とて、あのありさまだ」
義達は特に感情の篭っていない声で続ける。
「自分自身の不甲斐なさに対する憤怒も、過去に対する後悔も、親しいものが亡くなる悲しみも、とうの昔に過ぎ去ってしまった。されど私はこうして生きている。言い訳かもしれないが、生きてそれらを見届けねばならないと思うようになった」
「しかしそれほど時間が残されてはいないこともわかっておる」と義達は言うと、自らの孫の手をとった。
「年寄りから死んでいくのが世の習い。老少不定とはいえ、この乱世でそれがかなう幸せだけでも十分だとは思う。だが、願うならば岩竜丸(義銀)よ。生きて見届けよ」
「……何をです?」
「すべてをだ」
ひときわ強い口調で、義達は言った。
「足利左馬頭、徳川三河守。武田に上杉、大内を喰らった毛利、細川を喰らった三好、そして斯波を喰らった織田上総介。どのような惨めな姿になってもかまわん。だが、生き延びて彼らの行く末を見届けてほしい。そしてそれを、この爺の墓に語って聞かせて欲しいのだ」
「それは父上に頼まれればよろしいのではありませんか」と義銀があえて言うと、義達は諦めの混じった表情で静かに首を横に振った。
「あれには、斯波武衛家の肩書きと後始末をすでにまかせてある。その重荷の上に、この爺の願いをさらに重ねることなど出来ようか」
義達は孫の手を離すと、静かに両手を床につけ、そして深く沈み込むようにして頭を下げた。
「どうか斯波武衛を助けてやってほしい。そしてどうかこの乱世を生き延びてくれ。どのような形になってもかまわん……今となってはそれだけが、こうして生き恥をさらし続けたこの爺の、最後の願いじゃ」
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永禄12年(1569)年。先代武衛家当主の斯波義達は、尾張清洲にて83歳の生涯に幕を閉じた。
法名は行業院殿一玄安心。
当代の武衛屋形と若武衛は京にあり、その死に立ち会うことはなかった。
自らの父であり先代当主の死に関して、斯波武衛が何か語ったという記録は残されていない。
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- 武衛屋形が(織田弾正忠家主催の葬儀を)辞退したことから、織田弾正少忠信長は尾張国内に一ヶ月の喪に服することだけを命じた - 『信長公記』 -
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老人が去り、新しい時代が始まった。
史実では義銀は祖父義達の養子となり斯波家を相続した説もあるそうです。しかし義統暗殺の際に、義達はいったいどこにいたのだろう?