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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
永禄3年(1560年)5月 - 永禄12年(1569年)正月
8/53

じょうらく!(まだしない)


 鎌倉幕府における征夷大将軍がお飾りのものとなり、関東御家人の連合政権という名目の下、桓武平氏である北条一族が実権を握り、北条総領たる得宗が事実上の日本の首班であったころの話である。


 下野国に足利あしかが家時いえときという御家人がいた。彼がすべての始まりだといっても過言ではない。


 河内源氏の正当な嫡流である将軍家がわずか3代で断絶した後、平賀や武田といった有力な源氏が権力闘争に敗北し、もしくは将軍への野心を利用されて粛清されていく中にあって、八幡太郎ことみなもと義家よしいえの子である義国の次男を祖とする足利氏は、新田氏(こちらは義国の長男を祖とする)とならんで生き残った数少ない有力な源氏の名門であった。


 足利氏は代々の当主の正室を北条一族から迎える事で、得宗一族との結びつきを強めることで生き残ってきた。


 それゆえ足利幕府の初代将軍には北条氏の血が流れているのだが、いまはそれは関係がない。


 家時の母は、藤原氏出身の下級公家である上杉うえすぎ重房しげふさ(のちに関東管領家などを輩出した上杉一族の祖)の娘であり、父である頼氏の側室であった。ほかに家督を継ぐ子供がいなかったからであるが、当然ながらこの生まれは彼にとっての政治的なリスクとなった。


 折しもモンゴル帝国の外圧に日本全体が脅威を感じていた時期であり、当時の征夷大将軍の惟康これやす親王しんのうが、将軍位を継ぐ際に臣籍降下して源姓を名乗ったことから「源氏待望論」が御家人たちの間で広まっていた。


 当時の得宗である北条時宗などはこれらを一笑に付し、実直な家時を信頼していたのだが、時宗が元寇を乗り切った心労により急死したことで風向きが変わる。


 北条の血を引かない源氏の名門の当主。そして鎌倉は創設以来、上総、畠山、和田と数々の名門の血を糧にして、生きながらえてきた。ほかならぬ足利自身が、幾多の陰謀に北条とともに手を貸してきたのだ。そのやり方は身に染み付いている。


 足利家時は自害したとされる。


 没年ですら定かでないのは記録が廃棄されたか、あえて消し去ったか。


 得宗一族への忠誠を示すために自害したとされるが、果たして彼の母親が北条一族であれば彼は自害をするほど苦悩することはなかったのではないか?


 一種の正当な義憤と、源氏の名門である足利がさほど名門でもない平氏一族の下風に立つ現状への不満、さらに北条氏の専制体制が次第に機能不全に陥りだしたのが合わさり、家時の死は神格化された。



「源義家が書き残したというものでな。『自分は七代子孫に転生して天下を取る』とかなんとか……この義家の七代の子孫にあたるのが家時公だった。そして北条の天下が揺るがないのを見て『自分の命をささげるゆえ、三代目の子孫に天下を取らせろ』と言い残して自害したという」


 夜の帳が下り、すでに不寝番と警備の兵を除いた誰もが眠りにつく時刻になっても、清洲の守護屋形の主の部屋には、蝋燭の明かりが燈っていた。


 薄暗い部屋の中には、先ほどまで一世一代の大役を務めていた斯波武衛家当主の左兵衛佐義統と、不測の事態に備えて別室で待機していた若武衛こと義銀が向かい合っている。親子は人払いをして二人で酒を酌み交わしていた。


「その孫というのが等持院様-つまり初代の室町公方である足利尊氏公」と、斯波武衛は珍しく不機嫌なのを隠そうともしない口調で続けた。いつもより杯を重ねるのが早いのは若武衛の気のせいではあるまい。


「家時公の死は呪いとなった。足利を継ごうとするものは、天下を目指さねばらない、将軍にならなければならないという呪いに」


 「呪い、ですか」と義銀は言葉をそのまま繰り返した。


 仮にも室町の将軍家に対して-今やすっかり有名無実化したとはいえ、管領としてそれを支えるべき武衛家当主が口にしてよい内容のものではない。


「それは穏やかではありませんね」

「穏やかな気持ちで、こんな胸糞の悪いことが話せるか!」


 「よくある話だ」と武衛屋形は重ねて吐き捨てる。


 世代交代を重ねることに、自らを慰める嘘は真実となり、過去を知るものがいなくなるにつれて神格化され、そして誰も疑うことすらなくなる。


 自死を選んだ家時公の真意など、本来それは誰にもわかるはずもないのに、いまやそれを疑う足利一族はいるのだろうか?


 「遠江や越前に、愛想をつかされた女房にすがりつく亭主のごとくに、いつまでも未練たらたらであった我が家が言えた義理ではないがな」と自嘲して、斯波武衛は再び朱色の杯に濁り酒を仰ぐ。


 これほどまでに不機嫌な父を見たことは、義銀は生まれてこの方見たことがなかった。


 だとすればその理由は、先ほどまでの会談相手にあるとしか思えない。


「それほどまでに足利左馬頭殿は不愉快な男でしたか?」

「その逆だ」


 当代の斯波武衛が酒に強いのは有名である。1升、2升程度ではケロリとして顔色ひとつ変わらない。


 その人物が酒精で赤く染まった、ひどく胡乱だ目で息子を睨み付けた。


「むしろ気のよい、酒を飲む間柄だけなら実に座持ちのいい男であったよ。元が坊主なので話がうまいし、話題も豊富。教養もある。私は、あれほどまでに座の空気のいい宴会に参加したことはない。何より一条院から命がけの脱出を経験したからか、糞度胸がある」


「不愉快な男であればどれだけよかったことか……あれは」


 そこで言葉を区切り、歯を食いしばるかのようにして干した烏賊の足を噛み千切る。あまりよくない酔い方であることは義銀にもわかった。


「あれは一条院で坊主になるための学問はしてきたが、武門の棟梁になる学問は何もしてこなかった」

「それならば普広院様(足利義教)も同様では?」


 義銀が天台宗青蓮院の門跡から室町の6代将軍に就任した足利あしかが義教よしのりの例を挙げると、斯波武衛は「悪御所様か、なんとも頼もしい前例よの」と鼻で笑った。


「普広院(義教)様は、当時の室町の政治の実相-都における守護と将軍、公卿もふくめた合議体制というものを、書物の中では理解しておられたが、実際には経験していなかった。そして書物の中で称えられるお父上の鹿苑院(足利義満)殿と同じようにやろうとした」

「ですが普広院(義教)様の幕政改革への情熱に関しては」

「ああ、最後はああいうかたちで落命されたが、優秀であられたと思う。寺社と土民を弾圧し、守護家への家督相続に介入することで将軍家の権威を見せ付けた。叡山と敵対することも辞さず、ついには長年の課題であった関東を討伐。見事に平定して見せた。大和国人の鎮圧にこそ失敗したが、勘合貿易を再開し、財政再建にも取り組もうとされた」


「だが、それは将軍の煌びやかな理想と、側溝の汚泥のような現実の折り合いを将軍につけさせることの出来る経験豊富な、酸いも甘いもかみ分けた重臣がいたからだ」と武衛は付け加えた。


畠山はたけやま満家みついえ山名やまな常熙じょうき山名やまな時熙ときひろ)、我が家の斯波しば義淳よしあつ、そして三宝院さんぼういん満済まんさい殿」

細川ほそかわ常喜じょうき細川ほそかわ持之もちゆき)様は」

「あれはその場を取り繕うことと、世渡りがうまかっただけだろう」


 「では今の幕府に誰が居る?」と細川常喜を罵倒してから、さらに続ける。


「三好三人衆に、京の複雑怪奇な政が司れるか?松永の爺は三好の家宰としては優秀でも、天下の宰相がつとまるか?家中の統制すらできない今の六角に、管領代だった弾正少弼(六角定頼)のような手腕を望めるか?内藤?筒井?どこにいるのかわからない細川京兆家?三好の傀儡に甘んじる細川典厩?政所の伊勢?どれもこれも話にならん。その場しのぎだけで政権を維持した細川常喜の段階にすらいたっておらんのだ」


 「まさか我が家が三宝院満済殿の役割を果たせるなどと、身の程知らずの空想にひたっておるのではなかろうな?」と詰問する武衛に、義銀はあわてて首を横に振った。そのような考えがまるでないといえば嘘になるが、今の父の前でそれを口にするほど命知らずではない。


 それで納得したわけではないのだろうが、武衛は胡乱げな視線を息子から外して、手にした空の杯の真ん中をじっと見据えた。


「……権威にしてもそうだが、知識も経験も、すべては時間とともに蓄積されていくものだ。明応めいおうの政変以降、将軍や管領といえども風向きが変われば簡単に追放されるような状況では、幕府の体制のもとでの政権運営の手法や、対決を避けるための政治的な知恵などは、伊勢の家以外には、もはや残ってはおるまい」


 幕府の政所執事を代々歴任してきた伊勢いせ氏は、三好と通じて「13代将軍暗殺」後の、今の政権の下で重責を担っている。阿波の山賊だか海賊だかわからない、あきらかに中央政府を経営するには力量不足の三好三人衆が中心の政権が、曲がりなりにも機能しているのは、この伊勢氏が支えているからだ。


「不忠者と罵るのは簡単だが、伊勢がいなければ、今の伝え聞く洛中洛外の有様はもっと悲惨なことになっていただろう」


 足利左馬頭義昭は伊勢の不忠を罵り、自分の政権では排除すると宣言したという。


 「最初から相手を敵と定めてどうするのだ」と武衛は吐き捨てた。味方を増やし、敵を減らすのが戦の基本。それにただでさえ、先代の13代様は敵が多かったというのに。


「岐阜でなく、清洲にやってきたというのも気に入らない」


 「最初は確信犯かと思ったが」と斯波武衛はひとりごちる。


 将来的に斯波と織田の間に楔を打ち、政権復帰後(まだ上洛の時期ですら何も決まっていないのに!)何らかの形で利用するつもりなのかと思いきや、さにあらず。


「無意識なのだ。あの男は。無意識に人の家に上がりこみ、何の気なく手を突っ込み、不用意に人の心の奥底へと一直線にやってくる。邪気や悪気がないだけに性質が悪い」


「そしてそんな男が、家時公の呪いを真実だと無邪気に信じ込んでいる。足利に生まれた男は、将軍になるべきだと。なる資格があると」


 「憎めたら、どれだけ楽か」と斯波武衛はいう。


 「親しくなれば、どれだけ苦しむことか」と斯波武衛は付け加える。


「愛の反対は憎悪でなく無関心だという。川にかかった一本の丸太橋の、それぞれの入り口に立っているようなものだ。同じ丸太橋にのっていなければ、相手のことになど関心を払うはずはない。私があの男をどうにも許容できないのは、私の心のどこかにもあれと共通するところがあるからなのだろう……そう、あれとだ!」


「私は、あれと私が似たもの同士だというのが気に入らんのだ!」


 酒臭い息を吐きながら、斯波武衛は自らの埒もない話を次のように締めた。


「上総介も、あれには苦労するだろうて」



 後日、足利左馬頭と会談した織田上総介より「斯波武衛と若武衛は必ず上洛に同行して頂きたい」(同行してこれの相手をしてろ)という書状が届き、予想されていた事とはいえ斯波武衛は珍しく肩を落としたという。


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