一色美濃守「親父!空から女の子が股を開いて俺の股間あたりに降りてこないかな?」斎藤道三「何いってんだお前」
われながらひどいタイトル(少しだけ改題しました)
皆様のおかげさまをもちまして日間歴史〔文芸〕ランキングで2位となることができました(H29年8月5日)応援ありがとうございます。どうぞ完結まで気長にお付き合いいただけるとありがたいです。
律令体制とは、日本において古代中国王朝を雛形とし、天皇を頂点とした中央集権国家体制の確立を目指したものである。
とはいうものの交通手段が-あったとしても船と馬くらいという時代であるので、都から各地に国司(都道府県知事)を直接派遣しても、地理的制約もあって強力な統制をするのは困難であった。
そこで大陸における広域的な行政区画である道を取り入れた。
すなわち中央政府のある都が置かれた山城と、周辺の大和・摂津・河内・和泉をあわせて五畿とし、その他の七つの道は西海道(九州)を除いて、その全てが列島の端から街道を通じて、五畿に、そして都に通じるようにした広域的な行政区画-といっても西海道を除いて道ごとの行政府があるわけではない-が設置された。
南海道などは、紀伊と淡路を通じて四国に至るという、現在の感覚から考えてもかなり無理があるような気もする区分をされたが、とにかくこれで都に通じることになった。
西海道(九州)はさすがに地理的に無理があり(接続するとすれば西海道、つまり四国から豊後水道をこえたその先か、山陽道の起点である播磨から延々と下った長門の、関門海峡を越えたその先になる)、大陸-このときは唐(618-907)の北九州への襲来に対する備えもあって独立した道が設置された。
中央集権体制では異例のことではあるが、行政や軍事にかなり権限を委譲された行政府である大宰府が設置されたのであるが、それも道理だろう。唐の北九州襲来が仮に発生したとして、いちいち山城まで使者を飛ばしてお伺いを立ててから対応していたのはとても間に合うものではない。
しかし本来なら国防の最前線である大宰府が、失脚した貴族や官僚の左遷先になるとは、当初この制度を設計したときには誰も想像すらしなかったであろう。
閑話休題
美濃は東山道に属し、山城(京都府の一部)から近江(滋賀県)、そして美濃からは飛騨(岐阜県北部飛騨地方)か信濃(長野県)、上野(群馬県)から下野(栃木県)、陸奥(福島・宮城・岩手・青森の5県)と出羽(山形県と秋田県)に続く。都に至る主要な街道は、当然ながら信濃から「美濃」を経て都に至る。
隣接する東海道も尾張から伊勢、伊賀から山城か大和へ入れないこともないが、北勢の鈴鹿山地を越えて、またさらに伊賀の峻険な山々を更に越え、山城と大和両国の国境となる山々を三度越えることを考えると、お世辞にも陸路の交通手段としては好んで選択したいものではない。
そのため尾張から美濃へ入り東山道に合流し、近江から山城に至るというのが主要な街道となった。
北陸道にしてもいくつかの街道はあるが、たとえば大軍を率いて都を目指すとなると、越前まではいいとして、そこから北国街道を経て近江米原から東山道へ合流するという選択肢を取れないとするならば、どうすればいいのか。
一見すると最短に見える近江の淡海乃海(*)の西側には、鎮護国家を掲げる比叡山延暦寺が、文字通り都の守り手として、怖い怖いお坊さんが神輿を担いで立ちふさがることだろう。
若狭から山城へ、もしくは丹波経由での街道もないことはないが、大軍の往来には適しているとはいえない規模だ。
つまり美濃こそが東海道・東山道・北陸道という東日本から都へ、そして都から東日本全体へと通じる交通の要所といえるのである。
好むにしろ好まないにしろ、この地を手に入れようとしていた織田上総介(信長)が、美濃の地政学的な重要性をどこまで意識していたか、それともあえて「見ない・聞こえない・考えない」ふりをしていたかは定かではない。
しかし上総介にとっては否が応でも西への勢力拡大、つまり都へと上洛するしか、独自勢力として生き残る道はおそらくなかったであろう。
美濃を獲ったあとに上洛をせずに中央政界に関与せず、まして交通の基点である美濃を領有しながら、東日本の諸勢力に対して独自勢力も築かずに中立を決め込むことなど、どだい不可能なのだ。
いささか先の話しとなるが織田上総介は美濃を制覇したのち、臨済宗妙心寺派の僧侶で、信長の幼少期の教育係でもあった沢彦宗恩の提案により、稲葉山の城下町である井の口を、中国の古典からとり岐阜(周王朝の文王と孔子の祖国である魯にちなむ地名を合わせたもので、それぞれの文字が『革命』と『学問』の象徴とされる)と改めた。
これと同時に、後世においてあまりにも有名な、そしてその意味をめぐり現在でも論争が続いている「天下布武」の朱印を使い始めたというのも、なにやら意味深ではある。
あえて見ない・聞こえない・考えないふりをしていた上総介信長に対して、沢彦宗恩が「あきらめろ。死にたくなければ上洛しろ」という非情な現実を突きつけたと考えると、まるでことなって見えるのだが、まあそんなことはどうでもいい。
*
その美濃を土岐氏から強奪したマムシ、さらにそのマムシから強奪した「息子」の斎藤義龍は、自らの力で下克上を成し遂げるだけの能力にくわえ、その後の統治においても美濃国衆を纏め上げるだけの調整能力をもち、かつ卓越した外交手腕を備えていた。
将軍足利義輝に願い出て、それまでの自称であった一色氏を正式に認められると、朝廷からは治部大輔の官位を得たことで、美濃統治の正統性と下克上のお墨付きを獲得した。
織田上総介が「上総守である」という一世一代の大恥をさらしていたのと同年(1559年)には、幕府相伴衆(現在でたとえるなら閣議の出席が可能な無任所国務大臣)に列せられる。さらに丹後一色氏と同格である左京大夫、はては美濃守にも(時期は不明ながらも)任官されるというおまけつきである。
国譲り状1枚だけの、どこかの「上総守」とは比べ物にならなかった。
仮に天がこの男にもう5年、いやせめて2年か3年だけでも寿命を与えていたのなら、ひょっとすると天下布武もなかったかもしれない。
しかしその機会は永遠に与えられることはなかった。
永禄4年(1561年)に左京大夫に任官され得意絶頂の中、一色義龍は35歳で急死した。死因は卒中とも伝わるが定かではない。
道三が国獲りにいたるまでの悪行で積み重なった因縁が、絶頂期の「息子」に降りかかったとするならば、あまりにも悲劇的ではある。まして道三を殺したのは彼なのだ。
まあそんなことは織田上総介には関係ない。
正室の兄-つまり義兄の急死をもろ手を挙げて喜ぶほど性格は悪くはないが、この機を見逃すほど愚かでもない信長は、14歳で家督相続をしたばかりの一色喜太郎(龍興)が率いる美濃へと果敢に攻め入った。
*
「何故、勝てないのでしょうね」
「いや、本当になあ」
もはや何度目かわからない敗戦から引き上げてきた木下藤吉郎に、みずから米のむすびを手渡してやりながら、斯波武衛は笑うわけにも行かずに口元だけを引きつらせていた。
清洲に移ったころの弾正忠の家中は、朝廷から官位を得た貴い身であり、足利将軍家に次ぐ格式の斯波武衛家の当主が護衛もつけず一人ぶらりと台所に入り浸るのに当初こそ驚愕していたが、今ではもう誰も驚くことはなくなった。
慣れとは恐ろしいものである。
織田上総介は義兄の死後、さっそく美濃に攻め寄せたものの、森部の戦い(1561年)では一色側の重臣を何人か討ち取るも、結局領土を確保できずに撤退。
その後は斯波武衛が数えるのが馬鹿らしくなるぐらい、織田と一色は小競り合いも含めると勝ったり負けたりを延々と繰り返してはいたが、いつも織田が戦略的に負け続けた。
若い当主の下、一色家中の不和はここ尾張の庶民にまで聞こえてくるほどである。やれ斎藤飛騨守なるものが重用されて西美濃国衆が反発しただの、東美濃の国人に武田家が接触していただの……そんなのが日替わりで聞こえてくる。
なのに勝てない。
「上総介が弾正忠家の家政代行になったばかりのころを思い出すのう」
織田方が敗戦して戻ってくるたびに、木下だけでなく、佐久間や柴田、丹羽や森といった武将たちに、斯波武衛はおおよそ同じような内容を話してきかせた。
それぞれ反応が異なり武将たちの性格が出ていて非常に面白いのだが、中でも藤吉郎は聞き上手なのか話をしていて甲斐があるらしく、今では武衛のお気に入りの話し相手だ(押し付けられたとも言う)。
「桃巌院(信秀)が卒中で倒れて、15歳の三郎が家政代行となった時だよ。あの時も弾正忠家の親族衆は不満だらけで、清洲の私のところにも三郎の悪評が聞こえてきたものだ。織田大和守は『これで弾正忠家が割れる』と嬉しそうだったがな。結局、これという問題もほとんど起きなかった」
当時の斯波武衛は、ここ清洲にあり織田大和守の傀儡守護として、外から弾正忠家を見ていた。だからこそ異なった視点で語ることが出来た。
「当時の弾正忠家の雰囲気は、考えてみると外敵の存在が団結させていたのではないか?ちょうど今の美濃国人が、内輪でもめてばかりいながら、織田という第三者の存在には一致結束して当たるようにな」
武衛屋形がそのような幾度目かわからない昔話を織田三十郎と、藤吉郎にしていると「ではどうすればいい」と、織田上総介が弟である三十郎の後ろから突如現れて、詰問するかのような調子で問うた。
「押してだめなら引いてみろとはいうが。引いたところで相手は内紛を始めるだけだろうな?それでは駄目……なのだろうな」
「岡崎の松平と和議の話もある。そのような悠長なことをしてはおれ……いられませんな」
「ならば押し続けるしかないのではないか?甲斐の強欲坊主に東美濃をとられてからでは遅いしの」
「そんなこったあ、わかっとるがな!」
何をわかりきったことをと、立ったまま湯漬けを掻き込んだ信長は、苛立ちをそのままぶつけるかのように瀬戸の椀を土間にたたきつけてから出て行った。
「希望がないわけではないだろう」
「ほう、例えばなんでしょう」
実兄の剣幕におびえる三十郎を宥めながら、藤吉郎は油断なく問い返す。
「そのときの状況や置かれた環境は似ていたとしても、喜太郎と三郎は違う人間だということだ。三郎ほどしつこく、あきらめの悪い男はそうはいない……あれは自分が欲しいとおもった女は、それこそ罵倒されようが蹴られようが、何度でも挑戦して最後は手段を選ばずにモノにしてきた男だからな」
「平手の先代が、何度その後始末で泣かされてきたことか……」と語る尾張守護に、「国捕りと女の口説きはいっしょですか?」と三十郎は笑ったが、藤吉郎は真顔で頷いた。
「人は城、人は石垣と申してな。甲斐の生臭坊主の言葉らしいが、国も家もつまるところは人の集まりだ」
「たとえば武衛屋形様なら、あの金華山の頂上に住まう魅惑的な女子をいかに口説き落とされますかな?」
「そういった手練手管は藤吉郎のほうが上手だろう。あまり奥方を寂しがらせるものではないぞ」
藤吉郎の質問を袖にしてから、「ただ言える事があるとすれば」と斯波武衛は付け加えた。
「女に邪険にされ、ふられることを恐れてばかりではいかん。結局は口説こうとしなければ、どうにかなるものではない……天から女が股を開いて降ってくることはないのだ。何が何でも女を抱きたいという強い下心に裏打ちされた強固な決意がなければ、結局のところは何も始まらん」
三十郎があまりに品のない守護の言葉にあっけに取られた表情を浮かべる横で、藤吉郎はわが意を得たりと言わんばかりに笑い返した。
*
織田上総介が一色から美濃を寝取るまでには、結局7年近い月日が必要であった。
永禄10年(1567年)、一色龍興は稲葉山を追われ、織田上総介信長は尾張と美濃の2カ国を治めることとなった。
余談ではあるが道三の死から数えると、この足掛け10年近くにも及んだ美濃攻略において、木下藤吉郎秀吉は、諸国遍歴の経験や人脈を生かして松倉城主の坪内利定を始めとしたや誘降工作や、国人衆切り崩しに大いに活躍。
この小男は織田家の評定に参加できるほどの有力武将へと上り詰める。
また藤吉郎の中途採用の先輩格ともいえる旧斯波家出身の丹羽五郎左衛門尉は、一色方の加治田城の佐藤親子を口説き落とし、これと前後した犬山城攻め(またも織田信清が謀反した)においては2家老を内応させるなど、「計略とはこうするものだ」と藤吉郎に見せ付けんばかりの活躍をし、信長に激賞された。
美濃攻略の後、斯波武衛は「これで伊勢をとれば、三郎は鹿苑院(室町3代将軍足利義満)の頃の土岐氏中興の祖である土岐善忠(頼康)以来、3国をおさめることになるな」と激賞する書状を送り、信長は土岐氏に例えられたことには微妙な顔をしたものの、大いに喜び、その書状を家臣にも見せびらかした。 - 『信長公記』 -
沢彦宗恩は土岐頼康の後継者が鹿苑院に反乱を起こして、土岐一族の本家は美濃一国に押し込められた(土岐康行の乱)経緯を言おうか言うまいか、しばらくの間大いに苦悩したということだが、すぐさま織田家自体がそれどこではない状況に陥ったので、そのうち忘れてしまった。
矢島の武家御所こと、先代将軍の実弟である足利左馬頭義昭が、尾張清洲を来訪したからである。
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「……何ゆえこちらに来るのか。まずは岐阜にいくべきであろう」
斯波武衛は矢島の武家御所の言動に、周囲に困惑を漏らしたという。
*:琵琶湖と呼ばれるようになったのは測量技術が発達した江戸時代。上から見たら琵琶に似てるな?というのが始まりだそうです。都から近い海があるので近江、都から遠い海があるので遠江。肥前・肥後とか、備前・備中・備後とかの位置関係とか、都を起点にして地図を見ると面白いですね。あとウィキペディアって便利(おい