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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
永禄3年(1560年)5月 - 永禄12年(1569年)正月
6/53

織田上総介「守護なにしてますか?(なにもしてないだろ)忙しいですか?(そんなわけないですよね)仕事してもらっていいですか?(というかしろ)」


 今川治部大輔が落命した年、また今川氏の尾張侵攻がささやかれていた時期だというので、おそらく永禄3年(1560年)の5月より以前のことであろう。


 当時、すでに織田上総介信長は、尾張の清洲に居城を移していた。


 以前からの名目上の城主であるはずの斯波武衛義統は、当然のごとく(まあ当然なのだが)そのまま居座っている。


 この年に台風か強風か、とにかく城壁が何十間(1間が約1・8メートルなので、最低でも180メートル以上)にわたって崩落したという。


 塀とも石垣ともいわれるが、それらを総合的に兼ね備えた城の防御施設の一部だったのかもしれない。


 とにかく修理に取り掛かるわけだが、これがなかなか進展しない。


 当然といえば当然なのだが、まずは崩落の状況を調査し-いや、調査するための人員を集めて、それから調査し、分析を加えてから修復計画を立てて(その間に崩落箇所の片付け)、石垣や木材を集め、必要な任側の数を計算し、頭数から日当や一日の食料代を計算して、人側を集め現場の責任者を決めてと事前準備のための時間が必要である。


 手持ちの人足や材料でいきなり修復の出来そうなところから取り掛かるという手もあるが、曲がりなりにも尾張の守護所がある城で、いい加減な普請をすれば沽券にかかわるし、修理を急がせたために防御施設自体の機能をおろそかにしては、それこそ本末転倒である。


 そうした前提条件をすべて理解してはいるが、理解しているからこそ頭のいい人間にありがちなせっかちな気質である織田上総介は、当然ながら工事の遅れを怒る。今川が東海道筋から年内にも大挙して押し寄せてこようという情勢下。修復工事の完了まで待ってくれるわけではないのだ。


 そうした上役の焦燥感は当然ながら普請奉行にも伝播する。


 しかしいくら急かされた所で、出来ないものは出来ないとしか報告しようがない。


 上総介自ら普請現場へ何度も視察を行うのだが、当然、工事はさほど進んでいない。苛立ちはさらに高まる。


 それを知ってか知らずか人もなげな大きな声で「こんなことでは今川に対処できまい」と嘆いた小男がいる。


 その男に上総介は見覚えがあった。


 小人頭の一若いちわかの紹介で働き始めた男で、口八丁の手八丁。そして何より諸国を渡り歩いた経験からか、やたらと顔が広い。


 数年前に働き始めたばかりなのに、今はたしか台所奉行か、薪奉行か-とにかく出世が早い。


 顔に似合わない頭の回転の速さと、その場の空気を読む力。何より必要とあれば自ら率先して馬鹿になれる愛嬌と、なまくらな武士にはない覚悟、そして商売人としての度胸もあるところを信長は気に入って「いた」。


 しかし今のはあまりに間が悪かった。


「ネズミ!そこまで大言するならば貴様がやれ!!」


 こうしてネズミだかサルだか、主君から人扱いされていない小男は、臨時の普請奉行に任命された。



「大したものだ」


 今川治部大輔と弾正忠家との起死回生の戦いに臨んだ混乱と興奮が収束してから暫くして、丹羽にわ五郎左衛門尉ごろうざえもんのじょう(長秀)は、合戦前にはすでに完成していた城壁を仰ぎ見ながら、感嘆の声を上げた。


「いやいや、それがしのやったことなど知れております。でかいだけが取り柄の銅鑼声で、職人の尻を叩いて急かしただけのことです」

「前任の普請奉行も同じことをしていたが、ここまでの速さでは修復出来なかっただろう。つまり今の普請奉行殿のやり方が、何らかの点で前任者より勝っていたということだ」

「そ、そんな。堪忍してくだせえ。丹羽様ほどの立派な方に、奉行などと、畏れ多くて恥ずかしいで、堪忍して……」


 サルともあだ名される顔を丸めた紙のごとくクシャクシャにして、木下きのした藤吉郎とうきちろうが髪をかき、頭を下げるのを見ながら、五郎左衛門尉は「ずるい男だ」と内心だけで続けた。


 実直なだけが取り柄の融通のきかない前任者が必死になって予算をかき集め、人足を確保し、修復のための石や木材を調達していたからこそ、この男は普請の前段階のもっとも手間のかかる仕事に関わることなく、普請の指揮工事「だけ」に集中できた。


 おそらくその準備が終わるまでは、上総介様が普請現場を視察されているのに出くわしていても黙っていたのだろう。


 それだけなら、ただ人の功績を横取りしただけのようであるが、この男は「あの」上総介様の怒りをかう危険性を犯してまで自ら名乗りを出た。


 戦場での先駆けや一番槍だけが手柄の立て方、覚悟の示し方ではない。


 藤吉郎奉行は人足を10組ほどに分け、工事区画をそれにあわせて区切り、互いに競わせたという。


 区画を早く完成させた組には褒美を弾むなどして、功名心と金銭欲をあおり、組の中では独立自尊の気風の強い職人や人足に互いに協力させる余地をつくった。見事という他はない。


「しかし物足りないな」

「はえ?」


 思いもがけない言葉だったのか、気の抜けた返事とは裏腹に藤吉郎の視線が鋭くなる。


 先ほどの謙遜するような言葉とは裏腹に、自らの仕事の完成度に誇りを持っているのだろう。


 たしかに修復工事の完成度という点では、五郎左衛門尉にとっても不足はない。


「奉行殿は、もっと出世したくはないか?」

「なにをいっちょ、いや、おっしゃるんです?」


 藤吉郎はそれこそ目が飛び出んばかりに、顔全体をひん剥くかのようにして驚きをあらわにした。


「確かに見事だ。しかしこの方法は奉行殿にしかできないやり方であろう」

「いや、そんなこったあ。金と知恵さえありゃ、誰にでも……」

「出来んのだ」


 清洲で何かと『噂』される出世人の臨時普請奉行の仕事を、五郎左衛門尉も野次馬と一緒に見物していた。


 だからこそ理解したのだが、これは彼にしか出来ないやり方だ。


 前任の普請奉行は無論だが、たとえ同じやり方をしたとしても、林佐渡守殿にも、佐久間殿にも、柴田殿にも、そして当然ながら自分にも不可能だろう。


「人足を分ける際に、自分達で組み分けさせたのは、呼ばれた場所や出身村落などに配慮したのだろう?」

「……はい。おっしゃるとおりで」


 藤吉郎は自分より身分も家柄も役職も遥かに上からの指摘に素直にそれを認めると、その理由を答えた。


「見ていた限り、人足は頭数をそろえることに力点がおかれていたようでした。あちこちの村から、そこかしこから、とにかくかき集めただけ。あのまま一緒くたにしたままでは、知らぬもの同士で、ほとんど能率など上がらなかったでしょう」

「足軽にしてもなんにしても、普通は複数で行う仕事をする際は顔見知りと組むものだ」

「へえ。そのとおりです。そして後で私が人数調整の名目で、職人やなんかをふりわけました」

「作業を監視する人間をつけたわけだ。それにより、10組にそれぞれ緊張感が生まれた」


 人間の集団としての習性をよく理解している。これなら合戦場において足軽を何隊か指揮させても、うまく出来るだろう。


 だが、それだけだ。


 そして五郎左衛門尉の不満はそこに尽きた。


「10組に指揮する者と監督する者をふりわけた。そして奉行殿は全体を監督した」


 10組それぞれの差配する人間と監視するものを選んだのは、藤吉郎自身である。


 人をよく見て、その任に堪えうるものを選んだ。


 そして自らは『10組すべて』の作業状況を把握しながら、普請工事全体で偏りが出ないように、全体で人数や物資の調整をした。


「普通、全体の調整というものは何人かと共同で行うものだ。しかし奉行殿は己一人でそれをやってしまった


「やれるだけの能力があるし、やらざるをえなかった」とも続け、藤吉郎は今度は謙遜することなく神妙にうなずいた。


 出るくいは打たれるもの、しゃしゃりでる人間は足を引っ張られるものである。


 前任者を押しのけて名乗りを上げた藤吉郎が、前任者が指揮していた幹部から協力を得られるはずがなかった。


 本来ならそこで頓挫してもおかしくないのだが、この男はたった一人で、何十人かで行うべきであるはずの仕事をやり遂げたのだ。


「今のままの立場で満足ならば、それでいいだろう。せいぜい数百人かの指揮であれば、奉行殿の能力なら一人で行えるし、行えてしまう」


 藤吉郎は直立不動で、五郎左衛門尉の言葉に耳を傾けている。


「ではもっと出世したら?もっと多くの人間を指揮するようになったらどうする?たしかに奉行殿は能力がある。だが1人で集団を差配することに慣れてしまっては駄目なのだ。それでは人を使い、より多くの人を差配することが出来なくなってしまう。1人で監督出来る人数には限りがあるし、そこが君の出世の限界になりかねない」


 藤吉郎が日焼けした浅黒いその「手」をぐっと握り締めたのがわかった。


 自分と2歳しか違わないはずだが、すざましいまでの功名心である。足軽の息子と自嘲する小さな男の中で、一体どれほどの熱が燃え盛っているのか。


「だからこそ、自分より能力の劣る人間と仕事をし、仕事を任せることが出来るようにならなければならない」


 たしかに藤吉郎だけであれば、仕事自体は早く片付けられるだろう。そして多くの人間は楽が出来る。


 しかし、それでは余りにもったいないではないか。


 それにあとの多くの人間を遊ばせるだけの余裕は、尾張にはない。


「……どうすれば、よろしいので?」


 30を数えるほどもじっと考え込んだ後、相手の反応を確かめるかのように藤吉郎は上目遣いで尋ねた。


 この男はいつも人を笑わせ、笑いの中心にいることを好みながら、いつも孤独を抱えている。それがどこか捨てられた子供のように五郎左衛門尉には映った。


「この普請を前田の又左にやらせてみたらいい」


 藤吉郎は文字通り「は?」と首をかしげた。


 荒子前田氏の4男である又左衞門は武勇に優れ、信長直属の母衣衆(親衛隊)に選ばれるほどの寵臣であったが、同じ寵臣で同朋衆の一人といさかいを起こし、切り捨てたことから織田家を追放されている。


 そして今に至るまで主君の怒りは解けていない。


「彼とは親しいのだろう?」

「え、ええ、それは。長屋が隣であったこともありますし、嫁同士も親しいので」

「ならば、その性格はよくわかっているだろう」


 藤吉郎は「ふむう」と、幾多の感情が入り混じったかのような押しつぶした声を漏らした。


 仮にあの粗暴で短気、人情味があつく怒りっぽい、金勘定にこまかいくせに妙なところで金の使い方のへたくそな友人に、この工事を指揮させるとするなら……


「……なるほど、そういうことですか」

「顔が広いのだろう。いろいろと当てはめて、考えてみるといい」


 人に教えることは、すなわち自らの中の知識や経験を体系化するということである。


 体系化されていない経験や感覚だけを脈絡もなく伝えても意味がない。きちんと順序立てて説明し、相手の理解度にあわせ能力に似合った仕事を任せる、もしくは振り分ける。


「……どこまでなら任せていいもんですかね」

「その勘所がわかっているなら、私はもっと出世しているさ」


 藤吉郎と五郎左衛門尉は、顔を見合わせて笑った。


「えらく機嫌がいいのう、五郎左」



 いきなり話に割り込んできた無粋な男に、藤吉郎は鼻白んだが、五郎左衛門尉殿は失礼を咎めるでも気分を害した様子もなく、その人物に対して一礼して見せたことにも驚いた。


 弾正忠家において 五郎左衛門尉殿より上役といえば数えるほどだ。


 しかし自分が一向に見覚えがないのは、どうしたわけだ?


「これは、これは。何ゆえこのようなところにまで?」

「自分の城のどこにいようと、私の勝手であろう……と言いたいのだが、何のことはない。いささか腹がすいてな。台所だ」


 藤吉郎は頭を下げるふりをしながら、その人物をとっくりと観察した。


 妙に仕立てのいい肩衣の袴姿で、年の頃は50近くか。武士というよりも学僧という雰囲気をただよわせた品のいい、初老の老人である。


 肩衣にある家紋は二つ引……


 足利二つ引?!


「し、失礼しましたぎゃ!!」


 目の前の男性が尾張守護の斯波兵衛佐義統その人であると気がつくと、藤吉郎はあわてて土下座し、額を地面にこすりつけた。


 身分が高いどころではない。相手は織田上総介様が尾張において唯一仰がざるを得ない人物なのだ。


「ああ、いい、いい。そんな畏まらんでも」

「いや、しかし、そんなわけには!」

「いいからいいから、ほれ。そんなことでは話も出来ない。手を貸すから立ちなさい」


 斯波武衛はしゃがんで手を差し出すと、何の気なしに地べたにこすり付けた藤吉郎の『右手』をつかんだ。


「おや……」

「っつ!」


 藤吉郎はぐっと勢いよく手を引くと、猿が木へと飛び移るが如く、勢いよく立ち上がった。


 握った手を振り払われたことに気分を害した様子もなく、斯波武衛は続けた。


「ああ、そういえば貴様は台所奉行ではないか。ちょうどいい。歩きながら話そうか。腹も減ったことだしな」


 自分が握った右手にあるはずのない「もう一つの指」があったことなど、まるで何事もなかったかのように、斯波武衛はくるりと振り返ると、すたすたと歩き始めた。


 五郎左衛門尉がその後に続き、藤吉郎はそれをあわてて追った。



 親しげに語る斯波武衛と丹羽五郎左衛門尉の会話を聞く限りでは、どうやら近習を差し置いて1人で守護屋形を抜け出してきたという。


 藤吉郎はそれを聞いて密かに呆れたが、五郎左衛門尉の反応を見る限りはこれが初めてではないらしい。


「木下だったか?」


 歩きながら突如としてそう尋ねてきた尾張守護の背中に、藤吉郎は「どうぞ藤吉郎と呼び捨てでかまいませんので!」と答えた。


「そういえば薪の件ではすまんのう」


 過去の一件を思い出したように言う斯波武衛に、藤吉郎が顔の表情を強張らせる。


 織田信長が清洲城に居城を移した頃、藤吉郎は薪奉行に抜擢された。そこで冗長的な薪の使用を改めることを徹底し、経費の削減に取り組んだ。


 その前に立ちはだかったのは、朝から晩まで高い煙をあげつづけ、米を炊き続ける守護所の台所であった。


 「時刻を決めてやれ」と迫る奉行に、守護家の慣例と突っぱねる台所人。


 取っ組み合いの喧嘩になりかけたのを、それぞれの上役が引き取って不問とした経緯がある。


「ああ、その件では大変失礼を!」

「かまわん。貴様は自分の仕事に忠実だっただけだからな」


 そういいつつ、勝手知ったるといわんばかりに守護屋形の台所の裏口から中に入る斯波武衛。台所係もなれたもので、むしろ薪奉行と見慣れぬ武士の存在に怪訝な視線を送っていた。


「やはり米は炊きたてでなくてはの」


 炊き上がったばかりの米を、熱々のまま、塩だけで握りこぶしほども大きなものにむすばせると、斯波武衛は藤吉郎と五郎左衛門尉に手渡して「食べるがいい」とすすめた。


 どうしたものかと迷う藤吉郎の横で、五郎左衛門尉が黙々と口に運んでいる。


 それを見た藤吉郎も腹をくくった。


 ええい、ままよ!


 思いっきり齧り付き、そして叫んだ。


「うんみゃあですな!」


「まだ飲み込んでおらんだろうに」


 苦笑する斯波武衛に、藤吉郎は興奮交じりに続ける。


「いや、匂いがいいですわ!同じ米のはずなのに、下処理と水加減、火加減に注意するだけでこうもちげえますか!台所人の腕がいいんでしょうな!」

「ははは、そこまでほめられると、どうにもむず痒いな」


 湯冷ましとともに、五郎左衛門尉と藤吉郎がかぶり続けるのを尻目に、一番最初に食べ終わった斯波武衛が台所の竃の側に置かれた薪に加工される前の切り株に腰掛ける。


 五郎左衛門尉と藤吉郎も座ればいいとすすめられたが、それを固辞した。


「藤吉郎よ、貴様は男であることを望んで生まれてきたのか?」


 突如として身分違いの老人から発せられた質問に、藤吉郎は訝りながらも首を横に振った。


「は?いや、そんなことはありませんが」

「そうだなあ。人は生まれるときは、男か女かも選べんのだ。男か女か、どんな家に、どんな両親の元に生まれるのか、いつ、どこで産まれるのか」


 そこで話の流れを察したのか、藤吉郎は知らず自らの右手を握り締めていた。


 『5本の指』で、『6本目』を。


 それが五郎左衛門尉にはよく見えた。


 ただでさえ死が身近なものであり、生と死の境目どころか自然現象と怪異の区別すらあやふやで、渾然一体であった時代の話である。


 そんな時代に6本指の奇形で生まれた、それほど容姿の優れていない赤子がいかなる環境で育ったことか。


 村を飛び出し、各地を放浪し、居場所を作ろうとして作れず、笑いたくもないのに笑い、泣きたいのに泣けず。


 ようやくたどり着き、そして自分の場所と家族を何もないところから作り上げた。


 彼が笑っていても孤独に見えるのは、いつかこの場所がなくなることを恐れているからだろう。


 居場所を作り、失い、又放浪して。その繰り返し。


 藤吉郎の右手をとった武衛屋形は気がつかないはずがない、気がついているはずだ。


 では、この話の意味するところは、一体何なのか。


「知ってのとおり、ここでは一日中、米をたいている」

「ええ、薪代では大変苦労いたしましたよ」

「それを言ってくれるなよ」


 藤吉郎の皮肉混じりの指摘に、斯波武衛は咎めるでもなく笑った。


「米を上手にたくには火加減が大事でな。少しでも強くなると硬くなるし、弱くなると軟くなる。それゆえ米をたくときには目が離せない」


 手にした茶碗から湯冷ましを一口すすり、武衛屋形は続けた。


「私の母の多々良氏が言い残したらしい。常に誰かが台所にいるようにしろとな」


 藤吉郎の顔から色と表情が消える。今食べ終えたばかりの握り飯が、逆流しそうになった。


「……毒ですか?」

「さてな。真意はわからんよ」


 切り株に腰掛ける斯波武衛は、ゆっくりと一度だけ首を横に振った。


「私が物心ついたころには、この慣習が出来上がっていたそうだ。母はすでに亡くなっていたがな。私は湯を沸かしていたのを、米に変えたに過ぎん」


 そういえば武衛屋形は、酒以外では、食事の際も常に湯冷まししか口にしないという。


 熱によって毒の成分が消えたり弱まることもあると聞くが、水瓶にくんでおいたのを飲むよりは危険性はすくないのかもしれない。


「母が亡くなった時、父を-先代の武衛を罵ったことがある。何ゆえ貴方は私の父なのかと。尾張を危機にさらし、息子に何もかも押し付けて、何ゆえのうのうと生き恥をさらしているのかと」


 父と母を選べないように、子も両親を選べない。


 そして理屈ではわかっていても、感情とは又別の話だ。


「藤吉郎は私がうらやましいだろうな。五体にも手足も五指に欠けたるはなく、両目も鼻も、体のすべてに異常がない。産まれてから今まで餓えに苦しんだことはなく、戦場で生死をさまよったこともない」


 他人の持っているものは、実際の価値以上によく見えるものだと武衛屋形は付け加え、そして思いもがけないことを口にした。


「私はな、貴様の手を取った時に、心底うらやましいと思ったよ」


 ささくれ立ち、筋がはっていて、指が長く細い。血と土と銭のにおいが染み付いた日焼けした手がうらやましいと武衛屋形は語った。


 その手はさながら女子のように白く、筆と箸以外のものは持ったことすらなさそうに見える。実際にその通りなのだろう。


「藤吉郎のその手は、自分の意思で、自分の生き方を選択することの出来る手だ。欲するものを自分の意思と力でつかみとり、地べたを這いずり回り金を掘り出し、人の心をつかむことの出来る手だ……私には、そのような生き方は出来ないだろう。出来るはずもないと諦めてしまったからな」


「しかし君には、それが出来るのだ」


「経験したことがない辛さはわからない。わかるはずがないのだ。だがあえて言おう」


「指が一本多いからと、何を恥じることがある。誰よりも働き、誰より飯を食い、そして誰よりも笑え。嗤うやつらを出世して笑い返し、貴様の部下にしてやればよいのだ。そうすれば、だれも貴様を嗤うことはなくなる」


「上総介の父もそういう男であった。だからこそ貴様もここに惹かれて来たのかもしれない。貴様にもそれが出来るはずだ」



「柄にもない説教じみたことをした。恥ずかしい。忘れてくれ」

「いえいえ、中々聞かせるお話でした」


 「茶化すな」と、旧主にあたる武衛屋形は顔を赤くした。この人物なりに手をとった際に示した反応を後ろめたく思っていたのかもしれない。


 藤吉郎はあの後、むすんだ米をふたつほど続けて食べてから、辞していった。


 あの小さな体のどこにそんなに入るところがあるのか、五郎左衛門尉には不思議であった。


「次は美濃か?三河か?」


 武衛屋形は気恥ずかしさからか、別の話題を振ってきた。


 今川の脅威から解放された尾張は、周辺国への備えを差し引いたとしても西にも東にも北にも侵出が可能な余裕が生まれた。


「美濃でしょうな」


 五郎左衛門尉は短く答え、その理由も続けた。


「三河は松平と今川との間で合戦が起こる可能性が対と考えています。故に無視してもかまわないかと。あるいはかつての弾正忠家と斎藤家のように、松平と対今川で共同戦線を組むことも可能でしょう。美濃は斎藤道三殿の国譲り状もあることですし」


 斎藤道三は長良川の合戦で戦死する直前、娘婿の上総介信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を記し、使者に託している……ということになっている。


 斯波武衛は複雑な色を表情に浮かべた。


「土岐から盗んだ男に譲られてもなあ。盗品を売買する古物商の気分だな」

「説得力があるかはともかく、大義名分にはなります故」

「美濃は身内には甘いが、排他的な国柄だとも聞く(*)。打ち解けた後は身内の如くだが、それ以外は他人扱い。おまけに手に入れたら手に入れたで、強欲な信玄坊主と国境を接することになる」


 懸念材料をひとしきり列挙した後、斯波武衛は尋ねた。


「道三が2代かかったものを、たかが数年で出来るかね?」

「出来るか出来ないかではありません。進まねばこちらが喰われるだけですので」


 それを聞くと「そういえば貴様が武士であることを忘れておったわ」と武衛屋形はくくくっと笑った。


 この気ままな貴種の老人は、ようやく気を取り直したらしい。


「そういう五郎左衛門も、ずいぶんと藤吉郎に入れ込んでおるではないか」

「ええ、私も武衛屋形様を見習うことにいたしましたもので」

「私の?一体何のことだね?」

「藤吉郎は優秀な男です。いずれ大いに出世し、織田家のために尽くしてくれるでしょうね」


 「つまりその分だけ私が楽を出来ます」と五郎左衛門尉がいうと、武衛屋形は一瞬目をまるくし、ぶはっと噴出した。


 「あっはっはっは!そりゃあいい!」と屋形様は笑い過ぎて出た涙をぬぐう。


「しかしだ、出世を抜かされては元も子もないぞ?!あの男の部下は大変そうだ!」

「それこそ愚問ですな。私の渾名をお忘れですか?こめ五郎左ごろうざですぞ」

「なるほど。いくら副菜が揃おうとも、米がなければ満足な食事にならんか!」


武衛屋形は両手を合わせて叩き、もう一度高く笑った。



*美濃の国民性は、県民性の本から岐阜の項目を参考にしました。話の展開上(美濃攻略の困難さ)を強調するために、あえてえげつないところだけ引用しましたので、不快に思われた方がいらっしゃったら申し訳ありません。


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