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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀3年(1572年)
52/53

浦上美作守(則宗)「ねえエーリン。こっちむいて。越前守護をあげるから♪」朝倉英林「………」


少し長くなりました。


あえて極論を述べるとするなら、言葉とはそれだけでは単なる文字や記号の羅列に過ぎない。例えば林檎りんご・リンゴという単語に最初から意味があるわけではなかった。人類の共同体たる社会や文化が、ある特定の自称や物事を定義付け、その表題として特定の秩序に沿って選ばれ、その共同体において意味するところが(一々説明するまでもなく)共通認識として定着して、初めて意味を持つのだ。例えば梨や蜜柑や西瓜を指して「これは林檎ですか?」と中学英語の教科書のような会話をしていては青果店は経営出来ない。同じく兎型に切り分けた林檎を指して「これは兎ですか?」と聞く人物がいては、日常会話は極めて冗長にして迂遠なものとならざるを得ない。確かに兎型に切り分けた林檎は「兎」ではあるが「兎」ではない。林檎は、汁を絞ろうと、発酵しようと、腐敗しようと切り分けようと、皮と種だけになろうとも、あくまで本質が「林檎」である限りは「林檎」なのだ。「林檎」の本質が変化して初めて「生塵芥」となり「林檎汁」と呼ばれ、もしくは「蒸留酒」と名前を変えるのだ。


にも関わらず、林檎と同様に単なる文字の羅列に過ぎなかったはずなのに、それ自体に負の印象が伴うという点においては『前例主義』なるものは、それこそ諸悪の根源のように語られることが非常に多い。『前例』も『主義』も、それ単独ではこれほどまでの負の印象がないのにだ。ではその前例主義の類義語はといえば-保守主義はともかく、形式主義だの判例至上主義だの、権威主義だの手続主義だの事なかれ主義だの。そのものズバリに「官僚主義」と直訳されることもある。


つまり前例主義とつけるだけで「組織としての新陳代謝を放棄し、伝統墨守で衰えていくばかりの組織がある」と想像を膨らませることが出来る。例えば先ほどの前例主義とその類義語を並べ替えるだけで「形式主義と手続主義が蔓延し、権威主義によりそれまでの失敗を認められず、前例主義によって新たな解決策を見出す活力が削がれ…」と、もっともらしい文章が作れる。


ところがあながちそうとも言い切れないのが、組織における前例主義の難しいところだ。文字通り天変地異と呼ばれるような大災害や、革命的な技術革新による社会構造の変化など、前例のない事態に対応することは出来ないかもしれない。しかし今現在も存続している組織というのは、それなりの経験を「前例」としてくぐり抜けてきたからこそ存在しているのだ。未曾有の事態に際して「前例」に当て嵌めて状況を分類し、解決策に向けた方法を考えるという点では前例というものは決して無駄にはならない。全く新しい事態というのはそうそう起きるものではない。いきなり直立歩行を始めた猿が即座に槍を使って狩猟を始め、火を使い夜を支配したわけではないのだ。大小の数えきれない犠牲の上に小さな前例を一つずつ蓄積してきたからこそ、今の社会や文化がある。


とはいえ腐敗した(とされる)組織において往々にして横行しているのが過剰な前例主義と、それの類義語の類であるのも確かだ。例えばいまの室町の幕府などもその例にもれない。つまり「室町幕府には形式主義と手続主義が蔓延し、権威主義によりそれまでの失敗を認められず、前例主義によって新たな解決策を見出す活力が削がれ…」と、事実に即したものかどうかはともかく、それらしい状況説明は可能である。


これに悪戦苦闘して立ち向かいつつも、志半ばで死したのが足利義輝であり、その弟である今の将軍よしあきはそれを継承したといってよいだろう。伝統的な武家の最高権威者でありながら革新者という両者に共通しているのは『前例主義』を打破したことだ。足利義輝は九州における覇権を握りつつあった大友氏に九州探題、山陽・山陰で勢力を増していた尼子氏に播磨守護を補任するなど前例のない大盤振る舞いを行った。また各地の有力守護を相伴衆(無任所国務大臣に相当)に任じて幕府の体制に取り込んだ。極め付きが越後守護代長尾氏に、山内上杉家と関東管領職の継承を認め、関東政策への関与を深めようとしたことである。その上で各地の対立(上杉・武田、毛利・大友など)を仲裁。幕府と将軍の権威を再構築しようとしていた。今の将軍はその路線を継承しつつ3代将軍以来の朝廷との伝統的な公武合体体制を否定し、より革新的な将軍像を志向していると思われている。


「そりゃ上様にとってはええことしかない話や。何より楽やしな。有名無実化した役職ばら撒くだけで政治献金が転がり込むんやからな。安全な中央で、勝ちそうな方にええ顔してればいいだけの話やし」


上京の茶屋四郎次郎の別邸を借り受けて京屋敷としている播磨守護の置塩赤松氏(赤松宗家)。その先代当主である赤松出羽守(義祐よしすけ)が流感により病床に臥してはや2ヶ月となる。出羽守は見舞いに訪れた斯波治部大輔(義銀)と、但馬守護の山名宗詮入道を出迎えるため、近習に支えられながら布団から上半身を起こすと、脇息にもたれ掛かるようにして態勢を整えてから迎え入れた。35歳とは到底思えないほどやつれた出羽守は、こけた頬を膨らませるようにして話す。


「次郎殿(出羽守)。どうぞ楽になさるがよかろう」

「入道はんの前でそないな無作法が出来るかいな。それに私は御老体の死に顔に小便かけるまでは死なんと決めとる。心配はいらんで」

「ふむ。憎き赤松の小倅が死にかけていると聞いてやってきたのだが。それは残念」

「ふん、死に際の汚さは高祖父の赤入道(山名宗全)譲りやな。さっさと息子に家督を譲って出石に引っ込んでぇや」

「出羽守殿こそ、往生際の悪さは赤松従三位(政則)殿譲りとお見受けするが?」


予想されていたとはいえ、実際に目にするのとでは受け取る印象も違うものである。斯波治部大輔は痛むこめかみを抑えながら腰を下ろした。応仁の乱どころか、嘉吉の乱より山名と赤松といえば不倶戴天の間柄。本来であれば治部大輔も山名入道の同行を拒否したかったのだが、自分の父親とほとんど年齢の変わらない老人を、まして今の幕府内部の不透明な政局が続く局面においては、かつての四職家の一角を占める名門当主を邪険にすることも出来なかった。いけしゃあしゃあと治部大輔の横に胡坐をかく山名入道から赤松出羽守は忌々しげに視線を外して先ほどの話を続けた。


「…前例主義ちゅうのは、多かれ少なかれ、斜陽な組織や御家が陥る自己防衛本能みたいなもんや。銭も兵隊もなく、外戚も頼りにならんとなれば正当性は自ずと家柄しかのうなる。『昔っからここの土地は自分の家のもんや、やから今でも自分の持ちものや』というやつやな。たとえ現実と乖離していようとも、昔はそうやったという事実は変わらんし変えられるものでもない。過去は変えられへんからな」

「さすがに6代様を都で弑逆した赤松の子孫が言うと説得力があるの」

「何。西幕府なる滑稽な代物を担いで、今出川(足利義視)の馬鹿を担いで都を焼き尽くした山名の赤入道殿の子孫には負けるで」


一々、会話に刺を仕込まないと会話ができないのかと斯波治部大輔は呆れながらも、かといって笑うわけにも行かず、こわばった表情で続きを促した。


「っけ。調子の狂う…何の話やったかいな。あぁ、そうやそうや。前例の話やったな。前例っちゅうても、1回や2回では説得力にかけるもんや。うちんとこかて昔、加賀半国守護やったけど、今それを一向一揆の気狂い共相手に言うたところでなんの意味もないわな。入道殿の御家も安芸や備中の守護職を経験されたけど、今更それを根拠に領有を主張するわけにもいかんやろ。執事殿(治部大輔)かて、九州探題やったことある親戚おるそうやけど、その時の伝と人脈で今からやれると思うか?」

「つまり前例と申しても、短期間では意味がないというわけですな」

「治部大輔はんの言う通りや。つまり山名の爺さんなら但馬、斯波武衛家なら尾張、そして我が赤松なら播磨っちゅうわけや」


本貫地があったり、守護を一族で独占してきた国ばかりである。代々守護を世襲することで、これらの国の守護といえばそれぞれの家名が思い浮かぶほど定着したといっても良い。「この例に当てはめるなら甲斐の武田、丹後の一色、若狭の武田なんかもそうなるんかいな」と出羽守が例を挙げると「そうはもうしても」と治部大輔が首をかしげた。


「自分で申すのは何ですが、甲斐はともかく他の守護家はどれもこれも国人や外部勢力の傀儡、もしくは一勢力でしかありません。お恥ずかしながら、我が武衛家とて織田弾正忠家の威光あってのこと」

「そりゃそうやがな。私のところも置塩とその周辺にしか支配の及ばん播磨守護。入道殿にいたっては出石郡だけや。せやけど言いたいのはそこやない。いくら有力な国人なり守護代なりが実力をつけて下剋上してきても、既存の旧勢力に認められんかったら意味がないんやな。私のところに正面から喧嘩売って来た宇野下野(赤松政秀)は、中央と結ぼうとしたけど結局うまくいかんかった。山名入道のところの垣屋にしても、結局のところそうやろ?」

「戦場で勝つのはたやすく、畳の上で勝つことの難しさよの。既存の守護家には国を力により統一する力はなくとも、床の間の座りがよいからこそ続いてきたのだからな」

「山名の爺さんに同意するのは癪やけど、その通りや」


「たとえば美濃の斎藤やな」と赤松出羽守が例を挙げる。斎藤山城守(道三)といえば、織田弾正大弼の義父であり、親子2代をかけてほとんど血縁関係のなかった美濃という戦略的な要地において下剋上を成し遂げた人物である。


「守護代家を相続し、土岐を守護に担いでいるうちはよかったんや。簒奪に等しいとはいえ守護代家として、守護家から委任される形で美濃を支配する正当性を得ていたわけやからな。当然ながら中央の幕府とも関係を保てた。安定すれば領地の運営も商売もうまいこと運びやすい。ところが土岐を追放した段階で、守護代家の価値も吹っ飛んでしもうた」

「その気持ちはわからんでもないがな」


そう言ってのけた山名入道の赤ら顔を、斯波治部大輔は思わず見返していた。没落した名門守護家の当主として国人や守護代の下克上を乗り切り、因幡・但馬2カ国に勢力範囲を広げながら、今では但馬守護でありながら出石郡に押し込められる始末である。にもかかわらず復権を諦めるつもりなど一切ない老人のぎらついた野心と言動にはいい加減慣れていたつもりであったが、まさか下剋上の雄たる道三翁の気持ちが理解出来るとは…山名入道は「驚く程のことでもあるまい」と手を振った。


「あのままならば、斎藤は土岐の代理人でしかなかったからな。実力があるのに、家柄ゆえに認められぬ。山城入道は能力にふさわしいだけの気位と気概の持ち主であったようだし。土岐という枷から解放されて、自分の力だけで美濃を治めてみたくなったのだろうよ」

「しかしやな爺さん。それで国を混乱させては、元も子もあれへんやないか」

「出羽守殿はお若いから理解出来ぬかもしれぬが、業とは抑えきれぬから業なのだよ。理屈の上では土岐を担ぐのが利巧であると考えられても、いや理解しているからこそ認められぬものだ。我が身の全身全霊を尽くしても、既存の秩序を打破出来ぬのかという絶望と一生過ごす位なら、開放感の中で死にたかったのだろう」


山名入道の推察はともかく、道三翁は守護家を追放しても美濃という戦略的な要所である大国をそれなりに治めてみせた。しかし親子喧嘩が内紛となり、あっけなく命を落とした。そしてその息子は優秀であるがゆえに、守護代斎藤ではなく一色の名前を騙ることで既存権威に頼ろうとした。しかし結局は織田弾忠家に飲み込まれ、形式的な守護として斯波治部大輔が尾張と美濃の守護を兼任している。斯波治部大輔は山名入道の赤ら顔を見ながら、ひょっとするとこの老人は蝮の生き様に自分のそれを重ね合わせているのかもしれないと考えた。名門守護の当主としての枷がなければ、自分も道三のようにと…そんな視線に気がついたのか、山名宗詮は苦笑すると、剃り上げたというよりも自然と毛が抜け落ちた禿げ頭を撫でた。


「所詮は爺の勝手な考えよ。蝮の考えが人に理解出来るとは思えぬしな」

「筋目を弁えん腐れ外道の心情なんか、この際どうでもええわいな」

「ほう。筋目正しい赤松の総領殿はさすがにおっしゃることが違うな。そうは思いませんか執事殿?」


なぜそこで私を見るのだと斯波治部大輔は内心だけで罵倒してみせる。言葉にすると余計にややこしくなる事が目に見えていたからで、入道に気圧されていたわけでは断じてない。そして赤松出羽守は心底うんざりしたような表情で右手を体の前で振った。


「もうええがなそれは。どうせ私らは、先祖の遺産を食い潰すばかりの名誉守護みたいなもんやし。大体、私らがなにを言い合ったところで目糞か鼻糞の争いにしかなれへんのやから…ああ、もう爺さんの言いたい事はわかったから、もうええって。ほんまにしつこいな。一向に話が進まんし…」

「私の座右の銘は『人生、諦めない事が肝心』でしてな。かの木下なる織田家の出頭人に追われた後もこの言葉を拠り所にして、各地を放浪しましたからな。それはもう聴くも涙、語るも涙の…」

「わかったちゅうてるやろが、この爺は!もう、ほんまにしつこうてかなわん…えーと、何の話やったかな。あぁ、そうや。朝倉の事やったな」


「前置きが長うて困る」と赤松出羽守は息を吐くが、「貴方も人のことは言えないのではないか」と今度も内心で反論する斯波治部大輔。越前三国湊において斯波武衛が捕縛された一件は公然の秘密として、少なくとも幕政関係者や畿内周辺の諸侯には知れ渡っている。その嫡男たる治部大輔が来るとなれば、話題は出羽守の病状や山名と赤井の領土紛争よりもそちらに集中した。


「そもそも朝倉っちゅうのんは、道三の腐れ外道とは違うて本物の守護代家やからな。元々は日下部氏の一族で、但馬養父郡朝倉を本貫とした一族の分家らしい…のぉ入道はん?」

「私に言われても困る。それを言うなら応仁の乱の最中に英林殿(朝倉あさくら孝景たかかげ)を、西軍から守護職を餌にして引き抜いたのは、赤松ではないか」

「そないな100年も前のこと、私が知るかいな」

「日下部だの何だのは、それこそ200年か300年、もしくはそれ以前の話ではないか。同族の太田垣だの八木だのは健在であるが、いくら私が但馬守護でも責任をとれるわけがなかろう。ならばそのような家を守護代にしたのは斯波武衛の歴代当主ではないか…という点について治部大輔殿はいかにお考えなのか?」


突然矛先を向けられた斯波治部大輔は「だから何でそうなるのだ」と三度、内心で反論した。聞くに耐えない言い争いではあるが、それを指摘すれば即座に自分にも跳ね返ってくる。むしろ相手の傷口や古傷を嬉々としていじり合っているこの二人の方がおかしいのであり、むしろ自分は正常である-と斯波治部大輔は考えることで自分を慰めることにした。それにしても誰も彼も自分の父親の安否を心配しないのは、人徳なのか、それとも体のいい厄介払いが出来たと考えているのか…


「しかしまぁ、私を含めてここに雁首そろえた連中は、どいつもこいつも朝倉と縁があるわけやな」と赤松出羽守がこけた頬を膨らませて嘆息する。


下剋上なる言葉は古くは大陸の隋の歴史書に見えるそうだが、この言葉を体言したのが応仁の乱(1467-77)当時の朝倉氏の当主である7代の朝倉あさくら英林えいりん孝景たかかげ)(1428-81)である。実力者の甲斐氏が病没したのち、越前における有力者に上り詰め、応仁の乱の当時は西軍方の斯波家重臣として活躍。悪名高い足軽大将の骨皮ほねかわ道賢どうけんを討ち取るなど、同じく西軍の斎藤妙椿(美濃守護代)と共にその名を轟かせた。


ところが朝倉英林は東軍より打診された「越前守護」を条件に寝返り、応仁の乱終結の機運を醸成することに一躍買う。そして本人は越前全土で公家や寺社領の横領を推し進め、支配権を絶対のものとすると、名目上祭り上げていた東軍派の斯波家(武衛家の直接の先祖)を追放。幕府に越前守護に任ぜられ、名実ともに下剋上を成し遂げた。


言うまでもなく山名は応仁の乱における西軍の盟主であり、赤松は東軍の主力として西軍方の朝倉調略に暗躍。そして斯波武衛家は先に述べた経緯の通りという、確かにみな朝倉に縁がある家ばかりではあった。


しかしやはり武衛家のそれは飛びぬけている。歴代の武衛家の当主は尾張に次ぐ本貫地ともいえる越前回復をあきらめず、その後も十数年ほど本領回復を狙い暗躍。朝倉の足を引っ張り続けた。そのため朝倉氏は足利の一門たる鞍谷御所を、自ら追放したはずの西軍派の斯波氏に相続させることでこれに対抗。こじれにこじれた男女の別れ話の如く、だらだら延々と続けた。おまけに朝倉は横領した荘園の対応をめぐり中央の有力公卿や寺社勢力と対立。北からは加賀一向一揆の脅威にさらされ続けるなかで、旧主たる斯波武衛家の嫌がらせは恨み骨髄に徹するには十分であった。


何より当代の斯波武衛は、元亀元年(1570年)の志賀の陣における因縁がある。この時、朝倉氏は摂津の本願寺や三好ら反幕府勢力と挟撃する形で一挙に上洛を狙い、織田家主導の幕政打倒を図った。ところが南下する朝倉・浅井連合軍の前に、大和の筒井や幕臣の三淵大和守ら寄せ集めの連合軍を率い、何より朝倉が追放した敦賀郡司の朝倉一族を率いて立ちふさがったのが斯波武衛であった。寄せ集めの連合軍を率いて宇佐山から出撃した織田家の軍勢を救援、宇佐山に籠城した。結果、朝倉・浅井の連合軍は織田家の迅速な撤退もあり上洛かなわず、今に至るじり貧の状況を招く結果となる。それらの経緯を踏まえた上で赤松出羽守は「こんなこというのは、あれなんやけれども」とはばかるような視線を治部大輔に向けた。


「治部大輔はんを目の前に言うのもなんやけど、武衛の爺さんが未だに首を切られていないのが驚きやな。あの爺さんさえ余計なことしなければ、今頃、朝倉の天下であっても可笑しくはなかったわけやしな。逆恨みであろうとそう思っててもおかしくはないで。それに正味の話、あの爺さんに生かしておくだけの政治的な価値があるんかいな?」


それに何故か斯波治部大輔ではなく、山名宗詮がさも当然といわんばかりに答えた。


「何せ先の管領様であるしな。それに名義だけとはいえ織田弾正忠家の主家筋である。名分もなく殺せば、朝倉とて『主家殺し』との批判を免れまい」

「それはそうやろうけど」

「だからこそ、一乗谷は未だに公式には何も見解を示しておらんのだろうな。少なくとも御老体にはまだ利用価値があると考えているのだろう」

「老体も何も、武衛はんは入道殿と大して年齢変わらんやないか」


「おや、そうだったかな?」と山名入道は大仏のような大きな頭を傾けて嘯く。治部大輔が顔を引きつらせて苦笑する中、赤松出羽守は「しかしわからんの」と続けた。


「その価値があるかどうかはともかく、政治的な人質としたいのなら、さっさと正体を明かすべきやろ?幕府か、織田か。誰と交渉したいのかは知らんけど。交渉の場に引きずり出すには、手持ちの札を見せねば話にならんがな」


「ところがその気配はまるでなしや」と出羽守は呆れたように口を歪めた。


「そのくせ捕らえた名分は『身元のわからぬ人物』の捕縛。最初から捕まえる気やったとしか思えんのに…ようわからん。幕臣を開放したのは、交渉の場に引きずり出すための餌だと思ったんやがなぁ」

「…どうにも繋がりませんな」


首をかしげる治部大輔に「然り」と応じる赤松出羽守。目的のわからぬ行動ほど相手を混乱させるものはない。理屈や損得よりも信仰を優先する一向宗ではないのに、慎重さと緻密な理詰めで知られる-少なくとも当代の朝倉の当主らしくはないのだ。


「繋がろうと繋がるまいと、やれることをやるだけですな。朝倉は討伐令の出ている幕府の敵であり、若狭を横領する大悪人。そのような連中と不当な取引などしてはなりません」


どこか試すような視線を治部大輔に向けながら山名入道が嘯く。そして視線に気がついているのかいないのか、斯波治部大輔は「それはそうなのですが」と言葉少なく応じた。あの父親のことだ。ひょっこり帰ってくる気がしないでもないが…


「…まぁ、首だけで戻ってこられても後始末に困るんですがね」


これには赤松出羽だけでなく、さしもの山名入道もギョッとした。




元亀3年(1572年)の9月から10月にかけて朝倉義景が陣を抜け、一乗谷に一時帰国していたという話があります。斯波義統が三国湊、もしくは一乗谷において捕虜となっていたのは確かなようですが、しかし実際にはどうかわかりません。そもそも、この時の朝倉の行動は-


- 越前大学 文学部歴史学科『越前朝倉氏概論』講義録より抜粋 -




元亀3年(1572年)10月5日 近江小谷城 朝倉・浅井連合軍本営


「何を考えておられるのだ朝倉殿は!」


矢盾を並べた机を、岩のような拳骨で殴りつけながら怒鳴る巨漢の浅井新九郎(長政)の剣幕に、朝倉同名衆であり軍を率いる朝倉式部大輔(景鏡)は腕を組んで黙り込むばかりであり、同じく次席の朝倉孫三郎(景健)は「いや、その」と言葉を濁しながら視線を逸らした。その態度にさらに苛立ちを募らせた新九郎が激高しかけるが、海北かいほう善右衛門(綱親つなちか)に押しとどめられ、不承不承ながらも、床几に腰を下ろした。


腕組みをしてそっぽを向く主君と、同じく何も答えない朝倉式部大輔に代わり、海北善右衛門が朝倉孫三郎に尋ねる。


「勘違いしないでいただきたいのですが、我らも武衛を捕えたことを問題としているわけではありません。捕えた後のことを問題としているのです。我が浅井は元亀元年の若狭遠征軍の背後を突き、敦賀まで追い詰められていた朝倉殿の窮地を救いました。官位剥奪という屈辱にも耐えました」

「それについては感謝しておる。我が主も…」

「朝倉様の智謀を疑うわけでもございませぬ。元亀元年の包囲網は、朝倉殿の計画なければ成り立ちませんでした。西と南北から都を出た幕府軍を挟み撃ちにするという壮大な計画は、誰にでも立案出来るものではありません…しかしですな」


そこで一端を言葉を区切った海北善右衛門は、朝倉孫三郎を見据えるように姿勢を正した。主の新九郎より預けられた軍配を握り締めながら、善右衛門は言う。


「同盟関係にあるというのを、忘れておられるのではないですかな。われらはかつてのような貴国の従属勢力ではござらぬ。あくまで対等な関係として、反弾正忠家の同盟を結んでおるのです。にも関わらず今回のようなことをされては、最前線で戦う将兵をいかを説得すればよろしいので?」

「いや、そのようなことは考えておりません。先の三田村合戦(姉川の戦い)における浅井家の奮闘、一貫して対織田の最前線で戦い続けておられることは、それはもう十分に…」

「わかっておられるのなら、何ゆえ朝倉様は黙って帰国されたのです?」

「いや、それは…」


孫三郎は黙り込んだ。そもそも今回の対陣当初から、朝倉家は譜代の前波一族が集団で織田家に亡命し、ただでさえ低い浅井・朝倉連合軍の士気を叩きのめしていた。おまけに事前の軍事機密はすべて筒抜けというおまけつき。これでは援軍にきたのか、背後から弾を馳走に来たのかわかったものではないという浅井側の憤懣を、朝倉は必死に抑えていた。ところかそんな最中の当主の無断帰国である。


「…善右衛門殿のお怒りは最もである」


それまで黙り込んでいた朝倉式部大輔が腕組みをしながら口だけを動かす。その態度に巨漢の浅井新九郎が何かを言おうとしたが、それよりも前に式部大輔は床几から立ち上がると、頭を深く下げた。


「な、式部大輔様?!」


敦賀郡司家亡き後、朝倉同名衆筆頭に上り詰めた大野郡司の振る舞いに朝倉孫三郎を始め、朝倉家中の諸将は驚きを隠せなかった。それは浅井側も同じであり、先度まで詰め寄っていた海北善右衛門ですら呆気にとられたように、一乗谷の名代たる式部大輔の振る舞いを見るばかりである。


「ご協力感謝いたす。しかし我が主には深い考えが合ってのこと。すべてを説明するわけにはいかぬのです。兵には伏せておるが、漏洩すれば士気の崩壊は必須。なにとぞ皆様方の御協力をお願いしたい」

「…式部大輔様。頭をお挙げくだされ」


口ではこういいながら、浅井新九郎は内心で目の前の式部大輔の細首を締め上げてやりたい気持ちを必死に抑えていた。いくら口で対等な同盟と宣言したところで、今の浅井は朝倉の支援なくば明日にでも領内が破綻しかねないほど逼迫している。それ自体は自分の選択であるため覚悟はしていたが、朝倉の同名衆に頭を下げられただけで、慌てふためく自らの家臣や国人らの振る舞いが新九郎の神経を逆なでした。朝廷や幕府、そして何より義兄を敵にしてでも独立を勝ち取らんとした決意が「たかが当主の名代」に頭を下げられただけで…


「われらの盟約を無視したわけではないのは、伝わりました。織田打倒のために、共に尽力いたしましょうぞ」


浅井新九郎が通り一遍等のお題目を唱え、浅井・朝倉の同盟関係の重要性を再確認すると、朝倉式部大輔は漸く頭を上げる。そのまま下げ続けておればいいものをという不快感を押し殺しながら、その顔を正面から見据えた新九郎は、思わず「うっ」と小さく声を漏らしていた。


「…ありがたいお言葉。感謝いたしますぞ浅井殿」


何の感情の色も宿っていない朝倉式部大輔の眼差しは、眼前の新九郎を見てはいなかった。




朝倉義景「おのれ憎っくき武衛め。ここで会ったが百年目、盲亀の浮木に優曇華うどんげの華よ。室町の遺物が、我が覇業を妨げたるとは許せぬ次第」

斯波義統「それこそ笑止千万。そこにいる鞍谷御所が衣の下に隠れる卑怯者が。貴様は織田三郎にはなれぬと何故わからぬ。己が何者かわからぬ、わかろうとせぬ貴様は己が何者か知りたる朝倉伊冊の足元にも及ばぬと心得よ」

朝倉義景「我が名を尾張のうつけと、朝倉名字の恥辱なる裏切り者と並べるとはいかなることか!えぇい!許せぬ!!」


- 福井県三国市に伝わる地元歌舞伎『三国武衛捕物帳』の台本より一部抜粋 -




元亀3年(1572年)10月8日 越前 一乗谷館


「斬らぬので?」


一乗谷城から諏訪館に通じる回廊を、朝倉左衛門佐(義景)は問いかけには応じず歩き続けた。あえて聞こえぬ振りをしているのか、不愉快ゆえに応じるつもりがないのか。「それとも斬れぬのですか?」と斎藤喜太郎(龍興)が重ねて問うと、近習達が顔色を変えて鯉口に手をかける。その音に左衛門佐はようやくその足を止めて振り返った。


「…一色殿」


かつての家名を呼ぶ左衛門佐に、まだ25歳という若さの漲る道三翁の嫡孫は「斎藤でござる」と、あえて守護代家の斎藤の名乗りで応じた。それが、再度自らが下剋上により美濃を回復せんとする意思表明なのかはわからないが、この青年が美濃や伊勢長島、三好三人衆と組んでの本圀寺襲撃など、一貫して反織田弾正忠家として活動しているのは確かだ。その彼からすれば、たとえかつて朝倉と斎藤は因縁の間柄であったとはしても、それと協力するのは極めて自然なことであった。


しかし朝倉の当主の返答は極めて冷淡なものであった。


「斎藤殿。貴殿の御協力には感謝するが、これは朝倉の問題である。口出しは無用に願いたい」

「朝倉の?朝倉と斯波武衛家の問題というのですか。それは織田家との最前線の指揮よりも大事なことなのでしょうな」

「答える必要を認めぬ」


ただそれだけを吐き捨てるように言うと、朝倉左衛門佐は振り返ることなく諏訪館に向かった。館の主は彼の正室ではなく側室である小少将。鞍谷公方の娘との間に産まれた嫡子の阿君丸くまぎみまるが夭折した後、元亀元年(1570年)に愛王丸を生んだ女性である。


「これでは前線から子供の顔見たさに帰ったと言われかねない」と斎藤喜太郎が遠ざかる左衛門佐の背を険しい表情のまま見送っていると、背後より「斎藤殿」と声をかけられた。振り返れば、今回の事態を招いた張本人ともいえる当主の側近が、疲れた顔に怒気を漂わせている。


「鳥居兵庫(景近)か。今回はお手柄であったな」

「戯言を申している場合ではございませぬ」


前波の亡命により奉行職に穴が開いたことで、朝倉家中では玉突き人事が発生し、それまでの順送り人事や慣例による事前調整が難しくなった。そしてこれは今も変わらない真理かもしれないが、当主との近さが権力の源泉となる環境においては、当主の覚えがいい鳥居兵庫に、新たな職責や権限の集中をもたらした。そして今回、三国湊で斯波武衛捕獲の陣頭指揮を執ったのも兵庫である。


「…如何でしたか?肝心の武衛と朝倉の御屋形様との会談は」

「どうもこうもあるかよ。挨拶して終わりだ。特に要求を突きつけるでもなく、世間話のような会話を二言三言しただけ」

「世間話の相手とするために捕まえられたと?」

「まさか。実際、あの老人が京や伊勢や京において、ちょろちょろ動いていたのは確かだからな」


美濃を追われた後、一色龍興は再度「斎藤」に姓を改め、自らに従う家臣を連れて伊勢長島を頼った。それを皮切りに京や畿内を転戦し、一貫して反織田弾正忠家勢力の傭兵部隊として活躍した。その斎藤喜太郎が各地の反織田勢力と接触する中で、常にその目の前をうろちょろとしていたのが斯波武衛であった。決定的ではないが、無視出来ないだけの存在感と影響力をあちこちにばら撒き、斎藤が仕掛けた幕府や織田家中の不和を誘う謀略を何度か潰され、煮え湯を飲まされている。


…いや、正確に言えば煮え湯ではなく、生ぬるい白湯のようなものかもしれない。ただそれをいやおうなしに大量に飲まされるため、こちらとしてはたまったものではない。そんな自らの思惑をおくびにも出さず、かつての美濃国主は嘯いて見せた。


「われら斎藤にしても、朝倉殿にしても斯波武衛は因縁の相手であるからな。そう簡単に気持ちの整理などつくまいよ。まぁ、私の祖父も土岐氏を追放などしなければ、私もここまで苦労しなくてもよかったんだがね」


この言葉に鳥居兵庫はあからさまに胡乱なまなざしを向けた。鳥居だけではなく、大方の朝倉家中の者は、この「朝倉の力を頼りに本領回復を目指している」と思われる厄介者の存在を快く思っていない。しかし当主だけが影に日向にと、この蝮の孫を擁護していた。無論それはいざとなれば斎藤一党を切り離して、幕府に降伏する政治的な手札とするためなのだろうが、当の斎藤喜太郎はそれに応える形で、打倒織田家に向けて尽力していた。


鳥居を始め多くの朝倉家中の目から見れば、いまさら斎藤家の美濃復帰は絵空事にしか思えないのだが、まだ20代という若さが無謀なる挑戦を可能であると信じさせるのか。この若者は何度負けてもへこたれるということがなかった。都との交易が立たれ、越前が次第に苦境に立たされていく中でも、一人意気軒昂として「打倒織田」を叫び続けている。その織田家の「自称」天敵は、笑いながら兵庫に語った。


「まぁ朝倉殿は、良くも悪くも織田三郎とは正反対の性格であるな」


率先垂範で即断即決、陣頭指揮を好むがそれだけ誤算も多い織田弾正大弼と、徹頭徹尾の慎重居士、しかし決して無駄なことはせず最も少ない損失で目的を達成する朝倉左衛門佐。斎藤の言うとおり、確かに政治家としても軍人としても、そして人間的な性格からしても正反対である。だからこそ斎藤も鳥居も、織田を打倒出来るのは朝倉左衛門佐しかいないと考えており、そして実際に元亀元年には「あと一歩」のところにまで到達しかけた。


「志賀の陣も武衛の横槍がなければ…」

「何を言うか。武衛がどうであろうとやればよかったのよ」


鳥居兵庫が悔しそうに臍をかむが、斎藤喜太郎はあっさりとそれを否定した。主君への讒言は許さんとばかりに瞬時に顔を赤らめる鳥居兵庫に、斎藤は「まぁ、聞け」と暴れ馬をなだめるがごとく手を前にやった。


「宇佐山を無視し-それこそ浅井でも抑えに残して都にむかっておれば、織田三郎など行く先もなく降伏していただろうな」

「それは結果論でしょう。織田があそこまで迅速に帰京することや、宇佐山の将兵があそこまで頑強に抵抗することなど事前には想像出来ませんでした」

「たしかに三田村合戦(姉川の戦い)の織田の弱兵ぶりからは想像も出来なかっただろうな。しかしだ。われらはあの時、確かに織田家に負けたのだよ。敗北を敗北として認め、受け入れぬ者に次はない」


かつて追放した守護家の如く、自らも美濃を追われた斎藤喜太郎が言うと妙な説得力があり、またそれをあげつらう様な真似をするほど鳥居兵庫は恥知らずではなかった。しかしその発言にはいささか異議を唱えたい面もあった。


「織田家にですか?武衛家にではなく…」

「馬鹿を申せ。武衛の爺さんは確かに小ざかしいが、我らの敵は織田三郎であり、織田弾正忠家という化け物なのだ。兵が畑から生えてくるでもあるまいに、次から次へと…戦に付き合わされる身にもなってみろ。たまらんぞこれは」

「われら朝倉もかつては加賀一向一揆という損得関係なしの勢力を背後に抱えていましたので、それは理解していたつもりでしたが、正直織田のそれは想定外ではありました」

「一向宗ではあるまいに、あれだけひとつのことに執着し続けられるというのは、単純に怖いわ」


笑いもせずに真顔で織田三郎の特異性を語る斎藤喜太郎。考えてみればこの蝮の孫のしつこさは、かつての宿敵たる織田三郎の美濃経略の中で培われた者なのかもしれないと鳥居兵庫は埒もない考えにとらわれた。


「織田弾正大弼の個人的な性格によるものなのでしょうか?」

「さてな。少しでも不安要素があればこれを排除する慎重居士の朝倉殿だからこそ、若狭征伐と、志賀の陣においてあそこまで織田を追い詰めることが出来たのは確かだ。だからこそ、宇佐山という背後の敵を無視出来なかったのは皮肉としか言いようがないが。同時に周囲への影響も考えずに自らの判断を優先させることが出来る織田三郎だからこそ、張り巡らされた朝倉殿の計略から逃れることが出来た」


少なくとも2度、いや3度。元亀元年(1570年)において織田三郎を討ち取る機会はあった。若狭征伐により敦賀まで幕府軍を引き込んだ時点、三田村合戦、そして志賀の陣。しかしその悉くで機会を逃している。


「いくら武衛が5千ほどの兵を連れていたからといっても、平地であれば浅井・朝倉の3万の軍勢にかなうはずがなかったのだ。無視しておれば…いや、その危険性を合えて無視出来ないからこそ、朝倉殿は3度も織田三郎を追い詰めたのだが」


前提条件がかなり異なるとはいえ、同じ守護代家から下剋上を果たした一族の末裔である。斎藤喜太郎と朝倉左衛門佐には余人には理解しがたい関係を築いている。だからこそ鳥居兵庫は、朝倉家臣として毅然と言い放った。


「わが主君は必ず勝ちます。あのような軽率なる織田三郎に負けるわけがありません…失礼」


鳥居兵庫が会話を打ち切ると、先ほどから遠巻きに様子を伺っていた文官らが「鳥居殿」と駆け寄る。前波亡命事件は未だに継続中なのだ。第二の前波を許さないために統制を強めれば反発されるし、旧前波派やその閨閥を悉く外しては行政が成り立たない。その穴を埋めるべく鳥居兵庫は慌しく文官を引き連れて去っていく。


「武士は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候…か」


敗北を受け入れる強さと、それを許容せずに戦い続ける弱さ。果たして最終的に勝つのはどちらなのか。一人残された斎藤喜太郎は、遠ざかる鳥居の背に、独り言とも悔恨ともつかぬ言葉をぶつけた。




斯波義統「貴様がどれほど努力しようと、宗滴翁にはなれぬとなぜ気がつかぬ。織田三郎を打倒しようと、私を殺そうと、幕府を滅ぼそうと、貴様は織田三郎にも、宗滴翁にもなれぬのだぞ」

朝倉義景「ええい、尾張のうつけの傀儡の分際でわしに説教をするか!」

斯波義統「貴様こそ、宗滴翁の偉大なる影におびえる傀儡ではないか!自分が何者であるのか、まだわからぬのか!」


- 福井県三国市に伝わる地元歌舞伎『三国武衛捕物帳』の台本より一部抜粋 -




「明智十兵衛ですか?あれほど不愉快な男はいませんでしたな。畿内においては越前の住人において、朝倉英林殿ほど嫌われた人もおらんでしょうが、少なくともあの男は一人で越前中から嫌われておりました」


鞍谷御所の足利嗣知は茶筅で茶碗の中をかき混ぜながら、張り出た額が特徴的なかつての朝倉家の客将のことを思い出したのか、顔をしかめていた。どうにもこの御所様は貴人でありながら、越前の中では敬して遠ざける扱いを受けていたらしい。越前守護朝倉家中において、この老人は足利将軍家の連枝であり、かつての守護家たる斯波武衛家の子孫という二重の意味で扱いにくい家柄に属している。そのため久しぶりの公式行事以外の役目に、年甲斐もなく張り切っていた。現に日も暮れたというのに、自ら縄張りを行ったという自慢の茶室に斯波武衛を招くほどだ。


暗がりの中、おっかなびっくりで茶室に通じる石畳を歩いていた斯波武衛であったが、中の蝋燭の光が最も効果的になるように切られた石灯籠をいくつか組み合わせて、茶室全体を浮かび上がらせるように照らした趣向にすっかりご満悦であった。警護のために無理にでも押し入ろうとする毛利十郎に「刀もないのに邪魔である」と追い返し、意気揚々と乗り込む始末である。その態度が、またいたく御所様のお気に召したらしい。


血は水より濃いという。拗れるとこれほど厄介なものはないが、波長が合えばこれほど心安くなるものかと、斯波武衛だけでなく鞍谷公方も感じていた。遡れば応仁の乱以前より、斯波武衛家の家督を争った因縁の間柄であるにも関わらずだ。朝倉左衛門佐は何度か斯波武衛を訪ねたが、老人2人が酒を酌み交わして談笑する姿に何も言わずに引き上げるだけであった。最も訪問する度に警護の兵を増やすという嫌がらせは忘れなかったが。


そしてそんな嫌がらせをまるで気にしたそぶりも見せず、鞍谷公方は遠い親戚たる斯波武衛家の当主に茶を振舞う。


「明智は永平寺の学僧にも負けぬほど古典に通じており、体術を始め槍に刀に弓にも通じ、浪人であるにもかかわらずどこで覚えたのか鉄砲にも通じておった。当然ながら瞬く間に朝倉左衛門佐のお気に入りとなったのだが…」

「嫌われる要素しかないですな。あまり人の陰口を言いたくはないが、織田家中でも嫌われておりますよ」


「であろうな」とため息をつく鞍谷公方。文字通り一流の細川兵部大輔(藤孝)にいわせるならば、その文人としての才はたいしたものではないらしいが、それでも文武ともに武士としての一般教養として備えておくべき最低限のものを遥かに超えた地位にある。そうでなければ出自の定かでないものが、対一向一揆の間者対策のために他国者に厳しい朝倉や、とにかく足の引っ張り合いに事欠かない幕府に仕えられるはずがない。そして明智十兵衛は、その能力に似つかわしいだけの矜持と自尊心の持ち主であった。


「能力をひけらかすような、浅ましい真似こそしなかったものの、あれは自分と同じ能力や知識を前提に話す癖がある。越前時代、私も相当辟易させられましたよ」

「大人が子供との身長差を無視して振舞うようなものですからな」

「その通りだ。そして周囲に合わせろと言えば『仕事の質を下げろとおっしゃるので』と、こう反論する。否定すれば自分の能力が明智より劣ることを認めることになるため、表立って反論は出来ない。憤懣は溜まるの悪循環よ」

「英林殿時代ならいざ知らず、ある程度安定した朝倉家中では難しいでしょうな」


「だからこそ織田家中では上手く当てはまったのだろうな」と鞍谷御所は、柄杓を置きながら頷いた。織田三郎は尾張を統一した後、美濃を10年近くかけて攻略。瞬く間に畿内を始め数カ国に影響力を及ぼす大勢力に上り詰めた。本来であれば信頼できる尾張出身者や織田一族で固めておきたいところではあるが、中央との交流や交易を通じた付き合いこそあったとはいえ、基本的には尾張国内で完結していたのが織田弾正忠家である。にも関わらず10数年ほどで爆発的に勢力が拡大したため、当然ながら慢性的な人材不足に喘いでいた。そのため一族であろうと譜代であろうと新参であろうと、当主と直接的な血縁関係にあろうとなかろうと使わざるを得なかったのだ。そして性格の悪さなどはたいした問題とはされなかった。


「それにしても朝倉殿が明智殿を気に入っておられたとは知りませんでしたな」

「一色の小僧が申しておったが、朝倉と織田三郎は相反する性格の持ち主であるが、同時に非常に似た性格の持ち主でもあるそうだ。そう考えると不思議ではないな」

「似ていますか…」


言葉を途切れさせた斯波武衛に、鞍谷公方が身を乗り出して如何にも興味津々といった体で尋ねる。どうにも外との話題や会話に飢えているらしい。


「朝倉金吾(宗滴)殿が、最後に織田三郎の行く末を見届けたいと申したそうですが」

「あぁ、その話は聞いたことがあるな。実際、左衛門佐に確かめたことはないが。本当だとすると、敵愾心を燃やすには十分な理由となるだろう」


鞍谷公方が指摘するように、朝倉金吾が後見して育てたのが朝倉左衛門佐。金吾翁が「心残りよ」と言い残したのが、朝倉一族でも何でもない尾張のうつけである。幼少より聡明で知られ、実際に家政に取り組むと、若狭を殆ど損害を出さずに領国化し、歴代朝倉家の中でも最大の勢力圏を築き上げた。その左衛門佐からすれば、同じく尾張と美濃を攻略したとはいえ、1歳年少の織田三郎の手腕は失策続きの見苦しいものであっただろう。それが天下の覇者とならんとしているのだ。心穏やかでいられるはずがない。


「故に使者を出すことも、帰属することもしなかったのだろうな」

「織田の政権をひっくり返す為に綿密な計画を立てた上で、若狭征伐を迎えた。いや若狭征伐に誘い込んだといったほうが正しいのですかな?」


斯波武衛の問いかけに、鞍谷公方は「私にはわかりませんよ」と苦笑して手を振った。


「なにせ天下一の極悪人、天下悪事始業の張本人の子孫ですからの。あれは」

「朝倉英林殿ですか」


斯波武衛はさもあらんと大きく頷いた。おそらく越前朝倉の7代当主朝倉英林(孝景)ほど、同時代の公家や寺社から嫌悪された存在もなかったであろう。越前において彼は一切の遠慮もなしに押領を行い、弁解も弁明もなく既成事実として領土に組み入れたため、蛇蝎のごとく嫌われていた。当時の関係者の日記では口を極めて批判されており、その死の知らせには「天下の極悪人が死んで、近年まれに見る慶事」とまでかかれる始末である。「下剋上という言葉を体現したような存在であったのだな」という鞍谷公方の言葉はその点では間違ってはいない。


「統治には苦労したようだが、単なる盗人に朝倉家中や越前の民は従わぬものよ」

「御所様の存在のたまものですかな」

「まさか。からかわないでいただきたい。月並みな表現ではあるが、かの御仁は智仁徳を備えた大将であり、戦場においては兵と同じものを食べ、同じ境遇で過ごした。常に最前線に立つが故に兵は彼を信じた…なにやら、織田三郎を褒めておるようだな」

「私も途中からそう思って聞いていました」


斯波武衛と鞍谷公方は顔を見合わせて笑った。越前国内の反朝倉勢力、そして後に北からの加賀一向一揆の脅威を前に、英林はきわめて合理的な政治家として振舞った。合理的な説明の出来ない戦場における因習を嫌い、勝つ為にはいかなる手段もいとわなかった。無能な人間を家柄だけで任命することを禁じ、実力本位の人事を断行。精強無比なる軍団を作り上げ、応仁の乱では八面六臂の大活躍を果たした。そうした姿勢が当時の知識人には嫌われたのだろうが、代を重ねても尚、その精神は確かに朝倉家中に受け継がれている。朝倉金吾の「武士は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」は、その代表例であろう。


「しかし、合理的なだけで人はついてきますか」


『どうなんですか?』なる奇怪な文字の書かれた扇子を広げて尋ねる斯波武衛に、鞍谷公方はしばらく黙り込んだ後「…答えにくいことを聞かれる」と口を開いた。


「結果を出し、恩賞が出る限りはついてくるでしょう。人は確かにカラクリではござらん。しかし正当なる評価がされるとわかっているのなら、たとえ負け戦でも人はついていくでしょうな」

「私を捕らえ、いまだにまともな政策判断を決めかねている人が合理的といえるのですかな?」


さすがにこれには鞍谷公方は顔色を変え「言葉を慎まれよ」と小さな声で叱責した。どこに朝倉の息のかかったものがいるかわからない環境において、その問いかけに応じるつもりは彼にはなかった。むしろそのような不用意な発言をした親戚を忠告する人の良さを見せたのだが、斯波武衛はそれを完全に無視して、声を潜めるでもなく続けた。


「綿密に作り上げた計画は、ひとつ前提が狂えばまたたく間に机上の空論と化すもの。確かに元亀元年の朝倉殿の手腕は見事であった。しかし『織田信長』の首は獲れなかった。それが全てではありませんかな?」


この言葉にはさすがに鞍谷公方も我慢できなかったのか、声を荒らげる。


「何を言われる!朝倉は負けてはおらぬ!現にこうして、貴殿を捕らえ、小谷において睨み合いを」

「しかし勝ってもいない。勝てなかったのですよ」

「次に勝てばよかろう。あれは失敗から学ぶ事が出来る男だ。だからこそ、ここまで勝ち残ってきたのだからな」


その言葉を斯波武衛は「次、次ですか」と何度か咥内で繰り返した。


「失敗こそ織田三郎の御家芸ではないか。朝倉にそれが出来ぬ道理があるとでも?」

「朝倉金吾翁は九頭竜川で一向一揆100万の大軍相手に『次がある』と考えたとは思えませんな…負けてよい戦などありませぬが、確かに負けてよい戦と、負けてはいけない戦というものはあるのですよ」

「…朝倉にとって、それは次の戦…いや、今の戦であると私は信じている」


鞍谷公方の言葉には直接答えず、斯波武衛は扇子を閉じると視線を背後の行灯に外した。夜の帳が下りて一刻か弐刻。茶室の周囲こそ石灯籠により照らされているとはいえ、茶室は基本的に薄暗い。暗闇を嫌うのは人としての本能である。それをぼんやりと、しかし確かに照らす行灯の光は、なんとも幻想的ですらあった。


「その点は見解の相違といわざるをえませんな。しかし南蛮には『幸福の女神には前髪しかない』という諺があると聞きます」


鞍谷公方は目の前に座る自分とよく似た顔つきの武衛家の惣領の顔を見返していた。行灯の方向を見るその目は、ここではないどこか遠くを見ているように思える。それが先ほどまで酒を酌み交わしていた気のよい老人ではない、言葉の通じぬ狂人の如く思えて、鞍谷公方は季節はずれの汗をこめかみに浮かべていた。それでもさすがに言われっ放しは癪に障った。あえて意地悪い調子で言葉を重ねる。


「次の、いや今の戦のために貴殿を捕らえられたのでしょう。武衛殿こそ、今どうされるおつもりなので?」

「そこよ、そこ。困っておるのだ」


武衛は両手を合わせてひとつ叩くと、声を弾ませた。その変わり様に鞍谷公方があっけに取られる中、老人はどこかこの絶望的な状況を楽しげに嘯いて見せた。


「身元を保証する幕臣は帰国させられ、私はいわば住所不明で身元不明。無宿人と変わらぬ存在ですな。曲者と切り捨てられてもおかしくないという状況ときておる。幸いにして警護の兵だけは山ほどいるが、それは私の生命が、朝倉左衛門佐の掌中にあるということ。あの、朝倉の才槌頭の気分次第ということになるな」

「…状況をそこまで理解されているのに、何ゆえそこまで自由に振舞えるのですかな?」

「先代の織田三郎との約束もあるが、結局のところ、私の人生など所詮は『おまけ』のようなものだからな。ならば精々、面白おかしく過ごすだけのことよ。それに…慎重居士と優柔不断は紙一重。いまだに決めきれぬ朝倉が、私を殺せるものか」


時折意味の通じぬ内容を話す斯波武衛であったが、さすがに最後のそれは鞍谷公方も看過出来るものではなかった。布巾でぬぐい終えた茶器を乱暴に置きながら、はき捨てるように通告した。


「あれは貴殿を解放するつもりなどないぞ。元の敦賀郡司の一件で懲りたようであるしな。下手に温情をかければ、それがどれほどの災いをもたらすのかを思い知らされた。殺さずとも、この一乗谷で飼い殺しにするつもりだろう。覚悟されるがいい」






「それは面白くない、いや困りますな。せっかく我々がこうして出向いたというのに」






暗闇の中からいつの間にか背後に控えていた巨漢の男に、「何者か」と声を上げようとした鞍谷公方であったが、顔の下半分が隠れそうなほどの大きな手をあてられて声を封じられた。見れば男はもう片方の手を握り、人差し指だけを立てて自らの口の前にあてると「しー」と告げた。天下のあらゆる権威を虚仮にしたかのような態度に、斯波武衛は見覚えがあった。


「な、何者だ」

「お静かに御所様。怪しい者です」


短い付き合いではあるが、特徴的な艶のある声に目を細めた斯波武衛は、その彫りの深い顔が行灯の明かりによって浮かび上がるよりも前に「遅いではないか」と不満を漏らした。おそらく男の部下と思われる人物に鞍谷公方を任せると、声の主は光によって陰影がさらに強くなったその顔を芝居気たっぷりに深く下げながら、全く謝罪するつもりのない調子で応じてみせた。


「これは失礼」


小島弥太郎は顔を上げると、白い歯を見せてニカッと笑った。



骨皮道賢「ふははは!このグッドファミリーばかりプラウドオブするポテト武者め!ユーらがホワットヒューマン集まろうとも、このロード賢を討てるとシンクするなよ!」


朝倉英林「……あの武衛(斯波義廉)様。私あれと係わり合いになりたくないんですけど……え?駄目?」


細川聡明丸「か、かっこいい(羨望の眼差し)」

細川勝元「やめなさい!!!」


(参考:ルー語変換)


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