斯波武衛「囚われの姫君なら話は盛り上がるんだけどね」鞍谷公方「互いに還暦近い老人ですからなぁ」毛利十郎「………」
- 三国湊は越前坂井郡の九頭竜川の河口にあります。古くは『続日本紀』に記録が見える古い港でして、大和興福寺領に属しました。日本海側における数少ない要港であり、応仁の乱(1567-77)の最中に越前を守護である斯波より乗取った守護代朝倉氏は、当然のようになし崩し的に横領しました。その上で完全なる直轄とするために地元の堀江氏を追放して、奉行を置いたわけです。
つまり三国湊は朝倉の重要拠点であったわけですね。そう考えると、この時の前管領たる斯波義統とその一行の行動は軽率の謗りを免れません。朝倉義景は幕府と正面から対立していたわけですからね。前年(元亀2年)に成功していたからといって、今回も成功する、もしくは見逃してもらえると考えたのでしょうか。
元亀3年9月21日。三国湊に物資補給のために寄港した武衛一行の乗る関船に、待ち構えていたかのように乗り込んだのは鳥居景近。当主義景の側近ですが、取次を務めていたこともあるのでそれなりの家柄だったのでしょう。とにかくこの鳥居-三国湊奉行を名乗っていたそうですが、彼は脇目もふらずに斯波義統のもとに歩み寄り「不審故召し捕る」と宣言したそうです。これには細川ら幕臣が抗議しましたが、正式な幕臣である彼らとは違い、斯波義統には身分を証明するものがありませんでした。この時、義統はいきり立つ近習や幕臣をなだめ、悠々と捕縛を受け入れたということです-
- 越前大学編纂『福井県の歴史』より抜粋 -
元亀3年(1572年)10月1日 甲斐 躑躅ヶ崎館
「戦争から輝きと魔術的な美がついに奪い取られてしまった」と、欧州のとある島国の老宰相が嘆くのは、これより3世紀半ほども後の時代である。しかし「魔術的な美」があったとされる時代において、第三者として観測出来る立場の人物ならともかく、その当事者がそのようなことを感じる暇があったであろうか?家臣を奮い立たせるため、もしくは自分自身を(意図的にしろ無意識にしろ)騙す為に英雄主義的な言動に酔う者もいたであろう。しかし全ての兵士や将軍に対して大儀に殉じる戦士となり、英雄主義に陶酔することを望むのは不可能であった。
そしてこの館の主は、その怜悧な頭脳により現実というものを誰よりも理解しているが故に、どこまでも自己陶酔的な言動とはかけ離れていた。目の前の飢えた家臣や農民を食べさせていくためには、迂遠なる百の理想よりも、一の勝利が必要だったからである。戦に関してはおそらく当時の甲斐のみならず近隣諸侯の中でも右に出るものがない戦上手の先代は、それが最後まで理解出来なかったが故に追放された。そして後継者は、館の主に言わせるならば「理想論で国を危うくした」が為に廃嫡され、自害に追い込まれた。
「他国とその領民を犠牲にしても、自国とその領民を豊かにする」-父親以上に同盟関係や外交関係を半ば弄んでいながらも、この一環した方針がある故に、当代の当主は甲斐国内において絶大なる信任を得ていた。戦に勝ち、なおかつ国を豊かにする。後継者を粛清して駿河を獲った時点で、すでに次の目標は決まっていたともいえる。ここ数年の織田-武田間の外交は、その現実を如何に糊塗するかでしかなく、両家共にそれを踏まえて行動をしていた感もある。
先遣隊が出陣しているにもかかわらず、甲斐府中には各地から集められた兵士や物資が満ちていた。おおよそ1年ぶりの当主直々の出陣、また昨年2月から5月にかけて三河・遠江への侵攻作戦が中途半端な形で中断せざるを得なかったこともあり、将兵の戦意は非常に旺盛であるように上野箕輪城代の内藤修理亮(昌豊)の目には映った。
(戦意は低いより高いに越したことはない。ないのだが…)
考えにふけりながら館の中を歩く内藤修理。あいも変わらず薄汚れた小袖と肩衣という平時と変わらぬ格好では、下っ端の文官にしか見えない。何ゆえこのような所にくたびれた老人がいるのかとすれ違う将兵は首を傾げ、上州総督とでもいうべき立場にある内藤修理であることに気がつくや否や、飛び退く様に道を譲った。そして当人はといえば、それに鷹揚に手を上げて応じるだけであった。
(美濃と三河・遠江の同時侵攻策…と見せかけた戦力集中か)
当たり前ではあるが、通信手段が現代のそれとは比べ物にならないほど限定されていた時代の話である。いくら現状において武田家が攻勢に出る主導権を握っているとはいえ、『普通』であれば戦力集中の原則に反して部隊を分けるなど、相手に各個撃破の機会を与えるだけの愚策にしか思えない。ましてそこからさらに戦力を再結集させるなど、机上の空論である。『普通であれば』の話であるが。
内藤修理は知る由もないが、戦争より魔術的な輝きが失われた後の世界の指導者は、小さな執務室において多くの書記官に囲まれることになった。外交や、その延長線上である戦争というものが、君主や指導者個人の能力だけではどうにもならないほど大規模かつ複雑化した結果である。とはいえこの当時の戦争指導が現代に比べて容易であったわけでもない。まして公(組織)と私(個人)、そして御家の興亡が渾然一体と化していた時代においては、これら複雑に入り組んだ要因を、たとえ一つでも見誤れば、個人にとってもお家にとっても即座に命取りとなった。そして甲斐・信濃守護の武田大膳大夫(信玄)は、個人の能力において外交戦を仕掛けて戦争を主導し、それを直接、もしくは間接的に指導するという点においては、おそらく同時代において隔絶した能力があった。
遡る9月29日、山県三郎兵衛尉(昌景)・秋山伯耆守(虎繁)率いる3千の先遣隊が三河に向けて出陣した。局地戦における指揮官としても、大局を指導させても一流の山県。そして秋山伯耆は信州伊那郡代として、古くから美濃・遠江・三河方面の取次(外交官)であり、当然ながら織田家と武田家の同盟交渉における武田側の代表者でもあった。欺瞞工作とは知りつつ、相手に…いや、相手が「武田は和戦両面で望むのではないか」と思考を誘導する。少なくとも徳川三河守がその迷いに囚われている間は、武田に対する対応が遅れるだろう。内藤修理は主君の采配に、ただ感じ入っていた。
(問題があるとするならば…)
「修理様」
「やぁ、筑後殿(長坂昌国)。御屋形様は『山』の中だろ?」
いかにも気がつかなかったという素振りで手を上げる内藤修理に、警護の兵を引き連れた長坂筑後守は困惑気に眉をひそめた。奥近習六人衆に数えられ、後継者粛清にも関与したとされる。自分の手を汚すことを厭わない能吏は、この掴みどころのない上州総督を苦手としていた。まして背後の『山』は主君の究極の個人的な場所ともいえる場所。そこに重臣とはいえ家臣を通すのは躊躇われた。
「筑後。かまわないから通せ」
やもすると出陣間際の喧騒でかき消されそうな音量でありながら、不思議とそれが通るのは声に含まれた覇気の滲むせいか。内藤修理がそのようなことを考えながら頭を下げると、長坂筑後が渋々といった調子で『山』に通じる戸を音もなく開いた。
「遠慮は要らぬ。入るがよい」
「これが本当の臭い仲という奴でしょうか」
「下らぬことを言うな」
「厠だけにですか」
厠本来の役目を果たす『本体』の近くに寝そべっていた武田大膳大夫は、体を起こしながら「もうよい」と手を振った。無駄に広いとされる主君の厠の中は、常に書状や書物であふれているという噂が嘘のように、整然と片付けられていた。いや、確かについ先日までここには机や書物があふれていたのだろう。畳の上の日焼けの痕や、へこんだ窪みがそれを証明している。
「ちょうど目処がついた処だ。散々、次郎(信繁)に片付けろと言われたものだが、いざ綺麗になると寂しいものだ…して?」
「遠山七頭が再度寝返ったと聞きました」
「相変わらず耳が早いな。秋山配下の下条伊豆守(信氏)を向かわせた。飛騨と東美濃から動員する動きを見せておけば、北近江で対陣中の弾正大弼(信長)も容易には動けまい」
そもそも武田家と織田家の同盟交渉は、両家に従属する遠山一族を通じて結ばれた婚姻が基本となっている。弾正大弼の妹婿が遠山一族であり、その娘が諏訪四郎(勝頼)の正室となった。娘が一子を残して死去した後は、それぞれの嫡男(織田家)と娘(武田家)の婚約が結ばれ、今に至るまで破談となっていない。古くから美濃(土岐→斎藤→一色→織田)と、信濃(武田)の両勢力に服属する遠山一族だからこそ成し得た婚姻外交であったが、武田と織田の対立が本格化するにつれて旗幟を鮮明にする必要に迫られた。
先手を打ったのは織田である。5月に遠山一族の主要人物の逝去が重なったこともあり、未亡人となった年下の叔母である岩室殿(おつやの方)が名代を務める東美濃岩村城に軍を進め、息子である御坊丸を遠山宗家の養子とした。いわば織田による遠山の事実上の乗っ取りであったが、これは織田が遠山を見捨てない、息子を事実上の人質としたとも受け取れた。
「未亡人をたぶらかすとは、御屋形様もお人が悪いですな」
「岩村殿が織田と武田を天秤に掛けただけのことよ」
武田大膳大夫はさして面白くもなさそうに返した。本来であれば織田の代理人として振舞うべき岩村殿は「武田出陣」を知るや、直ぐさま織田の軍勢を追放。甥の子供である御坊丸を土産に武田への寝返りを打診した。東美濃国境において、武田の深刻な脅威と直面し続けた彼女に「自らの体に流れる織田の血よりも、遠山の家を残すことが大事ではないか」と囁いたのが武田の取次であったかどうかは、定かではない。
「女が絡むと、男は冷静さを失うものだ」
「体験談ですか?」
「そういうことにしておいたほうが、面白いか」
武田大膳大夫はかんらかんらと笑った。久しぶりに見る主君の柔らかい笑みに安堵しながら、内藤修理は「やはり」と内心だけで呟く。ここ最近は小康状態が続いているとは聞いている。しかし如何に肌に色を塗り、頬に綿を詰め込んだとはいえ、病の影は隠しきれていない。万年床ならぬ万年厠と揶揄されていた『山』の片付けといい、覚悟するところがあるのだろうか。内藤修理の憂慮を知ってか知らずか、武田大膳大夫はあえて何時もの調子で、自らの考察を確かめるように数え上げる。
「岩村が寝返ったことで、飛騨・東美濃、そして近江小谷と、織田の本拠地である岐阜を三方位から牽制することが可能となった。そして京では中央の政局をめぐる将軍との綱引き。これで織田は動けぬであろう」
「尾張はどうでしょうか」
「北畠が旗幟を鮮明にし、長島一向一揆が押さえ込まれたのは想定外であった。南伊勢において北畠が不安定な立ち居地であれば、もう少しやり様があっただろう。とはいえ弾正忠家が三河に派遣するであろう援軍が万単位で増えることはない」
「それに織田の弱兵が1万程度増えようとも、たいした障害にはならぬ」と大膳大夫は続けた。戦略家としても戦術家としても優秀な甲斐の虎からすれば単なる事実を確認しただけに過ぎず、その点では内藤修理にも異論は無かった。故に次のような問いが投げかけられるのも、十分に想定出来た。
「して、何が不満か」
普段は迂遠な物言いを好む甲斐の虎からすれば、いかにもその問いかけは率直に過ぎたかもしれない。内藤は先代当主に仕えた重臣工藤氏の子であったが、実父の謀反により国を追われ、武田大膳大夫が政権を奪取した後に帰参したという経歴の持ち主である。いわば甲斐という国の抱える矛盾を他の重臣と共に経験しながら、今日の地位にまで上り詰めた「創業の功臣」。にもかかわらずそれを感じさせないのが、この人物の妙であった。能力があるからこそ信頼出来ないという風潮が横行する中で、武田の一門衆ではないにも関わらず、能力がありながらも信頼されるという奇異な政治的立場を築いている。故に率直な諫言が可能であった。
「今回は奪うのではなく、統治する必要があると考えます。幕府から信濃守護を獲得されるまでに費やされた血と銭を考えますと、現地において徳川や織田の軍勢を蹴散らすことは容易くとも、尾張のような商いの先進地帯において統治の大義名分を獲得するのは、いささか難しいかと」
「勝てばよい」
「勝つのはたやすいでしょう。しかし破壊は容易いですが、新たな秩序の建設は困難です」
何が正しいかは人によって異なるが、受け入れられない提言など意味がないと内藤修理は考えている。ましてそれが正式に否定されれば、いかに見るべきところがあったとしても、それは政策的な死を意味していた。だからこそ内藤修理は自らの言葉の修飾を出来るだけ削り取り、端的な表現で指摘した。主君に最後まで多くの選択肢を残すことこそが、臣下の務めと考えているからだ。
「古くて新しい問題です。遠江で穴山殿(穴山信君)が苦労されておられるように、在地勢力に配慮すれば実入りが少なく、排除すれば様々な形で対抗をうけます。今は小田原との同盟があり、越中一向一揆と加賀一向一揆の連合により、雪が降り始めるまで上杉を引き付けることは可能でしょう。しかしその後はどうでしょうか」
内藤修理の穏やかな表情や、のんびりとした口調によって中和されてはいたが、言葉や単語だけを羅列すれば外交政策への痛烈な皮肉に他ならない。後継者を粛清してまで家中を統制した主君相手に、これだけ厳しい指摘が出来るのは、今や馬場美濃守(信房)と内藤修理ぐらいの者であろう。そして絶対的な権力者である武田大膳大夫は「その通りである」と鷹揚に頷いて見せた。
「今回の戦は、単に勝てばよいというものではない。とはいっても奇策を使うという意味でもない。古今東西、味方を増やして敵を分断したものが勝利を得てきたのだ。その原則に忠実に従うまでのこと」
「敵の分断ですか。ではその中において、美濃や尾張を統治する大儀が得られるとお考えで?」
「15カ条の意見書なる怪文書はともかく、織田弾正大弼はそれを自己の政治行動の正当性の喧伝に逆利用し、反織田勢力は幕府における織田の専横を喧伝する材料として利用している。幕政の主導権を握ろうと暗闘が続いているのは確かだ」
そしてそのような中央政局は、各地に敵を抱える状況にある織田家にとって「戦略的な失敗」が許されない状況であるということだと、武田大膳大夫は静かに付け加えた。あらゆる手段を使い戦う前から相手に戦略的な縛りをかけさせ、戦術的に劣勢と知りつつも戦わざるを得ない状況に追い込む。甲斐の虎の十八番である。そして内藤修理はおそらくこれもその一環であろうと考えながら尋ねた。
「伊勢といえば…斯波武衛殿が、越前三国湊で捉えられたようですね」
内藤修理はたった今、思いついたかのように尋ねたが、武田大膳大夫は何も答えない。そして何時ものように全く気にした素振りも見せずに、修理は言葉を続けた。
「かの老人、越後や越中で上杉不識庵殿と何を話されたのやら。確かめようも無いことではありますが、気にならぬといえば嘘になりますな」
「その通りだ。気にしても仕方がない」
「そして確かなことが一つある」と武田大膳大夫は、内藤修理に対して、言葉を選びながらも断言した。戦とは生き物であり、戦場には魔物が潜んでいる。どれほど用意を重ねようとも確実な勝利などないことは、あの越後の軍神との戦いにおいて散々思い知らされた。だからこそ『不確定要素』はどんな小さなものでも摘んでおく必要がある。「兄上が瀬田の唐橋に武田菱を立てるところが見たいのです」と言い残した次郎に応えるためにも、そして「今の幕府は滅ぼされるべきです」と平然と公言していたあの異形の軍師、そして自分を信じ散っていった多くの将兵のためにも失敗は許されない。
「新たな時代を切り拓くのは、織田でも足利でも、そして上杉でもない。我が武田である。そして自ら血を流さずに先祖の遺産を食いつぶすばかりの遺物が暗躍する余地など、私は決して認めぬ」
甲斐の老いた虎は、頭を撫でながら、壮絶な笑みを浮かべた。
斯波武衛「やぁやぁ、朝倉の家臣は礼儀を知らぬ。この将軍家より許されたる足利二両引きが目にはいらぬと見える」
鳥居兵庫介「笑止千万片腹痛し。この越前においてそのような世迷いごとが通じると思うな。捕らえよ!」
毛利十郎「この不埒者が、その手を離せ!」
斯波武衛「あいや待て十郎よ。朝倉の民も幕府の民。これを傷つけてはならぬ。ここはおとなしくつかまろうぞ」
細川陸奥守「なんと気高き志か。貴人たるものかくあるべしと心得よ」
- 福井県三国市に伝わる地元歌舞伎『三国武衛捕物帳』の台本より一部抜粋 -
元亀3年(1572年)10月3日 遠江 浜松城
清洲城に斯波武衛家の一族が押し込まれていた頃であったと思う。どんな話の流れでそうなったのかは覚えていないが「世の中には不器量な男が好きという、物好きな女がいる」という話になった。特に女性経験が豊富でもない宗家の斯波武衛曰く、男が駄目であればあるほど、ある特定の性格の女性は「私がついていないと駄目である」という思いに駆られ、より一層献身的に尽くすらしい。割れ鍋に綴じ蓋の一種なのかと当時の斯波義虎は聞き流していたが、まさか父と因縁のある遠江の地において、その実物を見るとは想定すらしていなかった。
「おお、おお。龍王丸。父じゃ、父。ほれ、ちーちと申してみよ」
「ははーうえ?」
「母上ではない、父上じゃ。ち、ち、う、え。ほれ。ち、ちー」
遠江浜松城の一角に与えられた屋敷において、今川上総介(氏真)は3歳になったばかりの我が子を膝の上にのせながら、相好を崩していた。もともと下膨れで、ただでさえ締まりのない顔がいつも以上に緩んでいる。とてもではないが現職の駿河・遠江守護であり、幕府相伴衆に列する名門今川の当主とは思えない振る舞いである。
「貴方様。斯波遠江様(義虎)が」
「ほれ、ちーち、うーえ」
あいも変わらず息子をあやすのに夢中な主人に溜息をつきながら、今川上総介が正室の早川殿は「申し訳ありません」と主人に代わり頭を下げた。今の零落した今川がそれなりの体面を保てているのは、賢夫人たる彼女が奥を取り仕切り、今川屋形への絶対的な忠誠で知られる朝比奈宗左衛門(泰勝)の存在が数少なくなった今川家臣団を取りまとめているからだと聞いている。義虎は早川殿を見ながら、何故か斯波武衛が「駄目な男に引っ掛かるのは、むしろ器量のある女よ」とうそぶいていたことを思い出していた。
2年前、義虎は宗家の当主である斯波武衛の斡旋により徳川三河守(家康)の客将となった。付け焼刃とはいえ京において叩き込まれた伊勢流の有職故実の師として招かれたのだが、義虎の父が50年ほど前に遠江守護代として活動していた時期もあり、かなり縁遠くなっていたとはいえ遠江の国人とはそれなりの関係があった。故に徳川三河守からも、新たに領土に組み入れた遠江支配に斯波氏の権威を利用できるとあってそれなりに重宝されていたのだが、今のように明らかな厄介者-権威はあるが実権のない、それでいて無視は出来ないが自分(三河守)は相手をしたくないという、今川氏の相手を体よく押し付けられてもいた。
今更、戦場で槍を振るうわけにも-まして相手は武田である-いかない年齢となった義虎にとってはむしろ都合が良かったが、それにしてもかつての臣下であり敵対国の中で、ここまで寛げる今川上総介の神経がどうにも理解出来なかった。あえて暗愚を装っているのかとも思ったが、目を細めて息子を可愛がる姿は隠居した老人のようですらある。
「武田が攻めてくるようですな」
「そのようだの。おーおー、龍王丸。そんなに顎を引っ張るではない」
「…山県率いる武田の先遣隊は既に北三河へ入ったと聞きました。田峯と長篠の両菅沼、作手の奥平ら山家三方衆が先導となり、ここ浜松を目指すか。それとも周辺を切り崩してそのまま岡崎を目指すか」
しびれを切らした早川殿が上総介の代わりに答える。いかに武田が情報秘匿に長けているとは言え、2万を超える軍勢が動員されるとあれば軍事物資の動員は隠しきれるものではない。むしろ今回の場合、武田はそれを隠すどころか大っぴらに見せつけるかのように振舞っていった。現に動員の動きがあるという一方だけで早馬や伝令が、浜松を中心に慌ただしく遠江と三河を飛び交い、国境周辺の諸侯や城主の疑心暗鬼を引き起こしている。
「岡崎には築山殿と竹千代殿が居られますしね」
「石川伯耆守(数正)殿は優秀なお方ですので、心配はしていませんよ」
「…なにせ私の目を盗んで、私の親族でもある両人を駿府より連れ出した御仁であるしの」
龍王丸の頬を引っ張りながら、今川上総介が唐突に発した言葉に、義虎だけでなく早川殿も思わず顔を見合わせた。徳川三河守の正室は今川氏出身の築山殿。嫡子の竹千代は岡崎松平家-徳川三河守家の後継者であるのと同時に、かつて東海に覇を唱えた今川氏の血も受け継いでいる。徳川三河守は「単身赴任」の形で前線たる浜松城にいたが、いずれは妻子を呼び寄せるものと思われている。しかし『今川の血を引く徳川の後継者』という、いわば古くて新しい政治課題は、そのまま今川上総介とその郎党の今後に直結する問題でもある。故に早川殿も斯波義虎も直接的な言及を避けるようにしていたが、当の上総介が唐突に持ち出したのだ。
「大体、奥方が実家の血筋を持ち出すとろくな事にはならぬものよ」
「上総介様。それはいかなる」
「意味もなにも、その通りでしかない。前漢の呂氏然り、外戚のもたらした政治的悪弊は数知れずだ」
「のー、龍王丸ー」と、脇の下に両手を差し込んで再び息子を持ち上げる上総介。顔を緩める早川殿とは対照的に、斯波義虎は今川上総介がどこまで理解しているのか確かめたい気持ちに駆られたが、それをぐっと押し込めた。早川殿がどう感じているかはわからないが、聞き方や受け取り方次第では、武田との同盟再締結を優先とした妻の実家である北条氏批判にも受け取れるからだ。故に、続いて上総介が発した言葉への対応が少し遅れた。
「武衛殿も越後まで御苦労なことだ」
「…さて。どこで聞かれましたか」
「ここは徳川三河の政庁たる浜松だぞ。真偽を確かめなければ、情報などいくらでも転がっている」
遊び疲れて居眠りをはじめる龍王丸を膝に下ろし、上総介は何でもないかのように言う。河原に転がる大小の石の中から、翡翠の原石を見つけ出したというのか。理屈の上では可能だが、可能性を現実のものにまで落とし込めるのは限られた人間にしか出来ない。その鋭さがまるで見えない今川上総介に、斯波義虎は内心で首を傾げながら続けた。
「三国湊に入港した途端、朝倉の奉行が臨検を称して乗り込んできたそうです」
「事前に情報が漏れていたか?」
「幾ら忍びの旅とは言え、あれだけ派手に越前や越中で振舞っていては…能登畠山氏がつけた護衛の輪島水軍も、朝倉領内ということで手出しが出来ず、船外より見るばかりだったそうです。臨検の割に荷物にも目もくれず客を改め、斯波武衛とその近習数名のみを捕縛したと聞きました。同行していた細川陸奥守(輝経)殿らは『身元確認が出来た』として早期釈放」
「狙われたか。その中でなら輪島水軍が金をつかまされたというのが、一番しっくりくる」
「まさか。能登畠山が朝倉や一向一揆と手を組む利点など…」
「裏切られることに関しては、私は一家言あるぞ」
武田の駿河侵攻の際、自らの不手際もあり国人衆や家臣団が雪崩をうって寝返ったことへの自虐を込めて今川上総介が笑うと、早川殿が怒気を漂わせた視線を上総介に合わせた。義虎がいなければ「この痴れ者が!」とでも言いながら殴りかからんばかりの剣幕である。今川上総介は流石に空気を読んだのか、咳払いをして続ける。
「可能性だけなら同行していた幕臣、幕府内部の武衛一派と敵対する勢力、警護を引き継ぐ予定であった丹後水軍とその盟主である一色、接待した上杉不識庵とその郎党。色々考えられる。これが全員捕縛であれば朝倉単独の暴走となるが、武衛単独となれば相手陣営に疑心暗鬼を誘うには、十分すぎる材料となる」
「やはり武田ですか?」
「経験者として言わせてもらうなら、その可能性を排除することは出来ない」
「しかし断言も出来んな」と息子の頭を撫でながら今川上総介は付け加えることも忘れなかった。自らの手を汚さず相手に始末させるやり方は確かに武田のやり方に似ているが、確証があるわけではない。第一、証拠を残すような真似をするはずがないのだ。
「孫子かなんだか知らぬが、相手の心を攻めるというものだ。信玄入道殿に至っては攻めることなどしなくても、勝手に相手が自滅する始末。現にこうして我らも、状況証拠のみで話すしかない」
「思うのですが、そこまで承知しておられるのなら何故…」
今川上総介は斯波義虎が言い終わるよりも前に、苦笑しながら手を振った。
「岡目八目というやつよ。当事者であった時には頭に血が上っていて、今の様に落ち着いて考えるだけの精神的な余裕も時もなかった。まぁ、後知恵ならいくらでも有効な策は立案出来る。大事なのはその時に私が対応出来ず、武田入道にいいようにあしらわれたということだ。所詮私は、床の間の飾り刀でしかなかったのだな」
その言葉に早川殿が「…命まで狙われたというのに、随分とお優しいこと」と皮肉を呟く。相模亡命中、今川上総介は武田家の刺客に狙われた。この時の対応や甲相同盟締結をめぐり、今川上総介…というよりも早川殿が実弟である北条相模守(氏政)に激怒。相模守の子である国王丸との養子縁組を破棄し、徳川三河守を頼る事になった経緯がある。しかし上総介はどこか緊張感の欠けた声で応じた。
「あぁ、私もまだ命を狙われるだけの価値があるということだな」
「貴方様!」
「怒るな、怒るな…のう龍王丸よ」
早川殿を抑えるように手を胸の前にやりながら、今川上総介は眠る龍王丸の頭を撫でた。飄々と振る舞いながらも、その顔には隠しきれない心労が刻まれている。その点が斯波武衛との違いであろうかと義虎は内心だけで呟いた。そして早川殿と斯波義虎が見つめる中、今川上総介はその本音を零した。
「…いざとなれば、小田原の後ろ盾を得られる龍王丸のほうがよかろう」
その絶望とも諦観ともつかぬ言葉に義虎が返す言葉もなく黙り込む中、早川殿はしばらく顎に手をやるような姿勢をした後、膝を進めると姿勢を正して上総介の正面に座り直した。訝しげにその顔を見返す今川屋形から息子を受け取ると、早川殿は静かに語り始めた。
「私は北条左京(氏康)の娘であることよりも、貴方様の妻であることを選びました。確かに私はこの龍王丸の母ですが、貴方様の妻として殉じる覚悟はとうに出来ております。いざとなれば子供などいくらでも産んで差し上げます。故に…」
早川殿はそこで言葉を区切り、今川上総介の襟元をたぐるように引き寄せる。あまりのことにあっけにとられる義虎の前で、彼女は息子を起こさぬように声を潜めて凄んだ。
「もう一度、私の前でそのような泣き言を漏らしてみなさい。その陰嚢を踏み潰しますわよ」
思わず股間を抑えた義虎が、なんとか「…愛されておりますな」と絞り出すように口にすると、今川上総介は乾いた笑い声で応じた。
鞍谷公方「おぉ、室町の偽将軍に従う偽武衛よ。よくも我が前に姿をあらせたものよ」
斯波義統「越前の田舎将軍が何を言うか。一乗谷の山猿の大将が」
鞍谷公方「うぬ、その暴言許さぬ!そこに直るがよい」
斯波義統「笑止千番片腹痛し!国の始まりが大和であり、島の始まりが淡路の島、泥棒の始まりが朝倉ならば、田舎芝居の大将こそ貴様ならん」
- 福井県三国市に伝わる地元歌舞伎『三国武衛捕物帳』の台本より一部抜粋 -
越前一乗谷をたとえるなら、地理的条件を生かした巨大な要塞である。現代でも一級河川として残る大河の九頭竜川、その支流の足羽川。さらにその支流である一乗谷川沿いに位置するのが一乗谷。東西約5町(約500m)、南北にして約1里にも満たない(4km弱)という狭い土地ではあるが、福井平野の東端から山地に入って直ぐという好立地。また北陸道の主要街道である美濃街道、鹿俣峠を越えれば府中街道、朝倉街道などを抑えやすいという交通の要衝でありながら、攻めにくい地形であった。
東西と南を山々に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害。南北には城戸や空堀を設けて、その間に武家屋敷や寺院、職人町や町屋が計画的に整備されていた。当然ながらこれらは有事にはすぐさま軍事転用されることを前提として立てられている。一乗谷を中心に見張台や出城が築かれ、警戒は厳重。唯一脱出が可能におもえる一乗谷川沿いには番所が立ち並び、不審者の侵入はおろか脱出すら許さない。
そんな脱出不能な要塞に連行された斯波武衛と毛利十郎を始め数名の近習は、一乗谷の鞍谷御所に身柄を移された。これには感情をほとんど顕すことのない毛利十郎も思わず顔色を変え、警護役に食って掛かったほどだ。
鞍谷公方は元をたどれば政争に敗れた足利将軍家の一門を祖とし、代々越前鞍谷に居住してきた一族である。本来であれば斯波武衛の相手をするには格好の名門であったが、この家は斯波武衛家と因縁があった。実は斯波武衛家から養子を迎えているのだが、それが応仁の乱(1467-77)当時、今の武衛家の先祖と家督を争った対立候補が相続したのだと聞けば、この人物を指名した朝倉氏の執念深さが解っていただけるだろう。
毛利十郎ら近習達はいざとなれば刺し違えても主君を脱出させる覚悟を固め、敵の本拠地たる鞍谷御所の邸宅に足を踏み入れた。
「うーむ、この酒は美味いですな」
「でありましょう。我が越前には酒造りの名手がそろっておりますからな。雪解け水に米も豊富、何より白山神社などに奉納する神酒や、今庄を始め宿場町や港町などそれぞれで独自性のある酒造りが盛んでしてな」
「冬の間、雪の下では子作りと酒造りしかすることがないからではないのか?」
「あっはっは!その通りでござるな!!」
越前一乗谷の鞍谷御所こと足利嗣知と肩を組んで酒を酌み交わす主君を見た毛利十郎は、その光景を見た途端「俺にも酒をくれ」と言い放ったという。それはともかく部下の悲壮な決意を打ち砕いたことを知ってか知らずか、斯波武衛は再度杯を傾けた。
「しかし、そっくりですな」
何がとはいわなくても通じる。武衛の言葉に鞍谷公方は苦笑を返した。目の前を見れば、毎朝手水鉢で見慣れた顔が同じ年恰好の背丈で座っているのだ。斯波武衛家と鞍谷御所の因縁や、朝倉と斯波武衛家の関係などといった小難しい理屈は、二人の間では互いを見ただけでどこかに吹き飛んでしまっていた。
「貴殿は織田殿の、私は朝倉の傀儡であるあたりもですか」
「謙遜されますな。鞍谷殿は足利御一門ではありませんか。いざとなれば将軍を目指すことも可能。私とは違いますよ」
「将軍ですか」
杯を呷りながら「そんなにいいものですかね」と鞍谷公方は続けた。
「悪いものではないでしょう。何せ将軍なのですから」
「…朝倉左衛門佐が越前を統治する苦労を見ていますからな。実権のない最高権威者がよいとは思えないのですよ。それに越前はそのような無駄飯ぐらいを嫌う風潮も根強いですし」
「力なきは罪ですか」
鞍谷公方が斯波武衛と似た顔を縦に動かして頷く。手水鉢を見て話しているような妙な気分になるが、それはお互い様であろうと武衛は口にはしなかった。下剋上の元祖ともいえる朝倉氏は、それが故に応仁の乱の後も既存の勢力と戦い続ける宿命にあった。旧領復帰を目論む斯波武衛家、甲斐氏残党。そして北からは加賀一向一揆。こうした環境が越前に停滞と無能を許さないという独自の政治文化を築き上げた。朝倉金吾(宗滴)の薫陶を受けた当代の朝倉氏当主は、まさに朝倉精神の申し子とも言える存在である。
「そういえば、永禄11年(1568年)に亡くなられた阿君丸様の母上が」
「私の娘です」
「両方とも物故しておりますが」と鞍谷公方はあっさりと答えた。義景の正室(細川京兆家の晴元の娘)や継室(近衛稙家の娘で前久の姉。つまり足利将軍家とも縁戚になる)に子がいなかったため、有力な対立候補のいない少年は早くから後継者とみなされていた。中央の政局と関係なく後継者を育成できる好機であったともいえる。ところがその夭折によりすべては水泡に帰した。落胆した朝倉義景は義昭を擁立した上洛を取り止めたとされるほどである。
「実際のところ、どうなのです?本当にご子息の夭折により諦めたのですか?」
斯波武衛が身を乗り出すが、鞍谷公方は「それは」と身を引いて居住まいを正した。気がつけば廊下を踏み鳴らす音がこちらに向かって近づいてくる。優雅であれと-武衛に言わせれば格好をつけたがる朝倉武士にはあるまじき無作法にも思えたが、勢いよく両手で障子を開いた人物に「なるほどなぁ」と斯波武衛は思わず言葉を漏らしていた。確かにこの人物でなければ、この規律と規則で統制されている一乗谷において、これほどまでに自由に振舞えるわけがないのだ。
うわさに聞いていた通りの張り出た額に、後ろに絞ったような特徴的な後頭部。いかにも切れ者という雰囲気を漂わせている。鼻は大きく眉は太い。切れ長の細い大きな目には、怒りとも困惑とも歓喜ともつかぬ多種多様な感情を宿しながら斯波武衛を見据えている。そして小さな口が震えるように言葉を搾り出した。
「…ようやく、お会いできましたな。斯波武衛殿?」
「朝倉左衛門佐殿か?斯波武衛である」




