斯波武衛「怪しいものではござらぬ。某は尾張の材木商の隠居で……あ、ちょっと!最後まで聞け!せっかく考えたのに!!」細川陸奥守「あ、私達は無関係ですので」
【元亀3年(1572年)9月4日 山城 上京 武衛屋敷】
足利将軍家の若御所誕生の祝賀行事がひと段落した9月の初頭。久しぶりの休暇を満喫しようとしていた侍所執事の斯波治部大輔(義銀)は、屋敷に思いもがけぬ来客を受けた。
多くの貴人を診察していることから『歩く国家機密』との異名をもつ曲直瀬道三は、後学と教育を兼ねて口が硬い有望な助手に薬箱を持たせている。しかし今回はかなり年配の従者に薬箱を持たせていた。定期的な診察のために曲直瀬を屋敷へと招き入れた斯波治部大輔は「珍しいこともあるものだ」と思ったが、その従者の細面の顔と視線を交えた途端に、表情が固まった。
「二条と申します。以後お見知り置きを」
関白二条晴良は、翁の能面のような張り付いた笑みを浮かべて、いけしゃあしゃあとこう挨拶してみせた。
*
曲直瀬を別室に通して歓待を命じた後、斯波治部大輔は従者に扮した二条関白を、庭の離れに新たに設けたばかりの茶室へと案内した。医師ではなく助手を茶室で饗すという奇妙な振る舞いに斯波武衛家の家臣達は疑念を覚えたものの、本来のこの屋敷の主のそれよりはましであろうとの妙な諦観により、さして気にしなかった。
「ほう、よい茶室だの」
新しく普請したばかりの木と畳の香りのする茶室に入るや否や、二条関白が感嘆の声を上げる。
わざと薄汚れた服を身につけている関白に、当然ながら斯波治部大輔は着替えを勧めたのだが、この老人は案外この格好が気に入っているらしく、やんわりとそれを否定した。あるいは帰路の手間を少しでも省くためなのか。斯波治部大輔は苦笑しながら席を勧めた。
「父の趣味、あるいは私の好みと言いたいところですが、そうではありません。堺の田中与四郎に任せたものです。私としては4畳とはいかにも狭すぎると思うのですが」
「広いだけが部屋の使い方ではなかろうて。茶にしても商談にしても、政にしてもそうだ。大人数を接待するのと、少数を接待するのとでは自ずからやり方は異なるもの。使う『器』も異なるのは当然」
頭巾と鬘を取ると、二条関白の真っ白な頭髪が露わになった。
これも田中の趣味らしく茶室には天井と南向きに明かり取りの窓が申し訳程度にあるだけ。おまけに今日は曇りがちであり、太陽が頂点近くになろうかという頃合だというのに、部屋の中はどこか薄暗かった。
その薄明かりの中で二条関白の真っ白な頭だけが妙に際立っており、斯波治部大輔は「翁というよりも白髪鬼だな」と心の中だけで感想を漏らした。
治部大輔は懐から小刀を取り出すと、手馴れた所作で柿を櫛形に切って黒焼の平皿に盛り付け、竹を割って作った楊枝を添える。それを二条関白にすすめると、今度は火を熾す用意を始めた。
「ふむ、柿か」
「筒井陽舜房(順慶)殿よりの進物です。些か種が多く食べにくいですが、味はよいものです」
「武家は子種とかけて種の多いものを好むというが……ほう、たしかにこれは中々」
老人が柿を頬張り咀嚼する様は、暗がりの中で翁の能面が動いているような不気味さがあったが、斯波治部大輔は何も言わなかった。ただでさえ烏丸邸襲撃の一件以来、朝幕関係は冷え込んでいるのである。余計な火種を持ち込むつもりもない。
もっとも指摘したところで、この老人の厚い面の皮を貫けるとは思ってもいないが。
「同じ大和でも松永霜台(久秀)はこうはいかぬ。真に煮ても焼いても喰えぬ老人よの。無論、切ることすらかなわぬ」
「幕府に敵対したわけではありません。本人は幕府の大和一円切り取りの有効性は、今も完全に喪失していないと申し立てておるようですが」
「三好左京(義継)はあのような忠臣をもって幸せよの」
本心なのかどうか、それどころか心というものがはたして存在するのかすら疑問を抱かせる二条関白に、斯波治部大輔は気圧されている。官位は無論、年齢も経験も相手からすれば児戯に等しい。
その老人が態々、変装までして武衛屋敷を来訪した理由がわからない。
いや、大方ろくでもない内容なのは想像に固くないのだが。
二条関白が老人なりの言い方で讃えたように、大和の松永霜台は織田弾正大弼(三郎信長)からの近江小谷への出陣命令を受諾しながら1月近く行動に移さなかった。そしてようやく出陣したと思えば、大和と山城の国境も近い木津表へ進撃。苅田沙汰を行うと、現地に1週間ほど滞在して多聞山城へと撤兵した。
畿内と幕府に再び衝撃を与えたその軍事行動の目的は不明だが、松永が未だに本心では服属していないことは明らかになった。
「織田三郎の命令は、あくまで要請ですからな」
斯波治部大輔は、あえて幕府の実力者である織田弾正大弼を官職ではなく三郎と呼んだ。
永禄の初上洛以来、公的な場はともかく私的な場所においては、そうしたざっくばらんな話し方が出来る個人的な信頼関係を築いている-と治部大輔は考えている。あえてこの場で三郎と呼んだことがどう受け取られるかという考えがなかったわけではないが、目の前の二条関白にはそうした自分の思惑も全て見透かされているようで、治部大輔は妙に居心地が悪かった。
「三郎の幕府の正式な役職といえば、幼少の伊勢氏の当主名代として政所代行に就任したことぐらいです。幕府に属する勢力の中では飛びぬけた領土と軍勢を保有していますが、ただそれだけともいえます。幕府という組織の中で、大和の松永に命令を下せるだけの法的な権限があるわけではありませぬし、松永とて『幕府の大和切り取り自由に従って行動したまで』という言い訳も可能なのです」
「大樹も織田も、松永の掌というわけか」
「経験豊富なのは確かです。三好筑前(長慶)殿の側近として、将軍不在や管領不在という、おおよそ考えられるありとあらゆる幕府の体制に関わり、実際にそれらを運営していた老人ですから……その点は関白殿下の方がお詳しいでしょう」
治部大輔が指摘すると、かつての三好家の朝廷における政治的な盟友であった二条関白は「ほほほ」と口だけで笑った。
摂関家における二条・九条の政治的な同盟を率い、いつの間にか三好と手切れして足利義昭と連携し、烏丸の一件で朝幕関係が悪化した後も独自の政治的な人脈を維持しつつ朝議を牛耳る老人。
自らの父親がこのような化生の如き存在と交渉していたことに斯波治部大輔は改めて感嘆しつつ、北陸道のどこかで遊びほうけているであろう父親と今の自分の有様を比べて、どうしよもうない苛立ちを覚えた。
「して殿下。此度はいかなる仕儀にて」
「何、武衛屋形が留守の間、幕府を取り仕切る治部大輔を直々に慰労しようと思っての。とはいえ大樹(将軍)に無用の警戒を与えるわけにはいかぬ。そうした理由でこうして変装してやってきたというわけだ」
「……三淵や細川兵部、政所代の朝倉中務大輔(景恒)など、優秀な人材の賜物です。私の力など微々たるもの」
「その朝倉が辞意を申し出ておるそうではないか」
斯波治部大輔が手にした柄杓の先がわずか揺れ、水が鉄釜の表面に零れた。「失礼しました」と布巾を取り出しながら、斯波治部大輔は無駄な抵抗とは知りつつも一応はとぼけてみせた。
「……さて。何のことでしょうか」
「守護が横領を後押ししては、本末転倒であろう。所領裁判を管轄する政所としては『李下に冠を正して、瓜畑で靴を履きなおす様な真似』は止めるべきというのはもっとも。筋の通し方や出処進退の潔さは、さすがは宗滴殿の義孫よな」
治部大輔は諦めたように溜息を漏らした。この老人がどこから聞きつけたのか知らないが、朝倉中務大輔の発言を一言一句違わずに言ってのけるとは。これでは秘密も機密もあったものではない。
幕府に服属した元の三好三人衆が一人の岩成主税助(友通)が京の賀茂神社領を横領した問題は、織田家と政所が再三にわたり所領の返還を命じていたが、岩成がそれを拒否する事態が続いていた。
ところが新たに南山城守護となった光浄院暹慶(山岡景友)は、岩成に返還を説得するどころか、独自に賀茂神社の必要経費を岩成が負担するという代替案を両者に提示。これに朝倉中務大輔は「横領の既成事実化ではないか」と猛反発して辞意を伝え、斯波治部大輔は必死に慰留していた。
この他にも禁裏の御祈祷所がある石清水八幡宮領の山城狭山郷について、織田弾正大弼が直々に所領安堵を認めた朱印状を発給したにもかかわらず、幕臣である御牧摂津守が横領を続けている問題など、主に山城周辺における所領問題は山積しており、解決する目処すら立っていない。そうした積み重なった不満が朝倉中務大輔の辞意の背景にあった。
「そもそもが本圀寺の変の後、織田家を中心とした幕府軍が畿内掃討戦において各地を転戦したが、横領された寺社領の問題について何も決めていなかった。端的に言えば織田と幕府の間で基本的な取り扱いについて合意がなかったが故に、現在のような混乱を招いておるのだろう」
二条関白の指摘に、斯波治部大輔が反論する。
「しかし殿下。実務的なことを申し上げさせていただきますが、例えば織田三郎は美濃を平定してから所領問題を解決するためには2年から3年の時間が必要でした。恩賞だけではなく織田に味方した既存の勢力の所領安堵や相続との関係もあります。例えそれが横領したものであったとしても、とりあえずは安堵しなければ、まとまるものもまとまりません。自らの支持基盤を破壊してしまっては、本末転倒。まして織田は中央の政治に関わった経験も乏しく……」
「上洛してからもう5年近くになるというのに、まだ時間が必要だと?迅速で知られる織田弾正大弼らしくないのう」
何時如何なる時にも嫌味を付け加えることを忘れない二条関白に、斯波治部大輔は辟易した。
基本的な指針を立てるといっても、横領された時期や世代交代により相続権が分散している場合、また直系の家が絶えて傍系に相続権が移行している場合、また新たに開墾された田畑の取り扱いなど、これらを一貫した指針によって取り扱うのは困難を極める。
安定政権により政治的な信頼性を高め、公平な判決の積み重ねの上に受け入れざるをえない政治的な文化を醸成する。もしくは圧倒的な軍事力を背景に、理不尽であろうとも判決を強制執行するだけの軍事力を担保する。今の幕府はそのどちらも困難であるからこそ、ここまで苦しんでいる。
その点は斯波治部大輔に指摘されるまでもなく、かつての三好政権の政治的な同盟者であった老人も理解しているはずだ。だからといって自分やその支持基盤である勢力の手当を後回しにされては、この老人の政治的な沽券に関わりかねない。
あえて物分りの悪い老人としてごねるからこそ、頼りがいのある派閥領袖として振舞うことが出来るのだ。
物分りがよくては、全てを奪われかねない。
まして今の公方は、朝廷と距離を置く姿勢を鮮明にしている。親族間の紛争を理由に烏丸邸を焼き討ちし、淀城普請では根回しも遠慮もなく都の公家衆に負担を求めた。初代将軍以来の公武合体としての幕府を否定し、かつての鎌倉の執権のような武家優位の体制に作り変えようというつもりか?
疑念と疑惑が能面のような二条関白の表情の根底に流れている。
「岩清水の件では塙九郎左衛門尉(直政)が、賀茂については稲葉(一鉄)がそれぞれ尽力しております」
「確かに小さな問題かもしれない。しかしそれがいつまでも解決されずに先延ばしにされては、世間の信頼を損ないかねないだろう。先の織田三郎の上洛をもってしても解決しない。もしくは解決されないのは問題が別のところにあるからではないのかと思われても、仕方があるまい」
二条関白の指摘に、再び黙り込む斯波治部大輔。その点は幕閣にあって事態収拾に奔走している治部大輔自身が誰よりも理解していたが、目の前の老人の真意がわからないことには軽々に答えられるような問題でもなかった。
はっきりとした点は、東に武田、西に本願寺、北に朝倉。そしてひょっとすると南から松永という情勢にあって、中央において政争を引き起こすような真似はするべきではないということだ。
「たとえ自分がそのつもりであっても、相手が同じ意見でなければ意味がない。希望的観測による願望を前提に、何か政治的な解決策を考えていては、良い結果がもたらされるはずがないのだ」
「……関白殿下の御言葉は高尚であり、私の頭では理解出来かねます」
惚けようとする斯波治部大輔に、関白はその感情の読み取れない顔を近づける。
ほの暗い茶室において、関白の白髪だけが妙に目立ち、治部大輔は自分が得体の知れぬ化生と対峙しているかのような気分に陥った。
「内部における立場を失ってからでは遅いと申しておるのだ。考えても見よ。そうなった時に誰が大樹を止めるというのだ」
そのひどく冷たく聞こえる言葉に、治部大輔は「私は何も」と反論しようとしたが、関白はそれにかまわず続けた。
「幕府の役職がない織田三郎が何を言っても、現に松永は言い逃れておるではないか。あれがよい例だ。今の細川京兆にしろ、畠山尾州家の当主にしても、役職についていないがゆえに、敬意は持たれていても手足となって動く武将や足軽がいない。いかに幕府が形ばかりとなったとは言え、法的な正統性は使い方次第では十分に武器になるからな」
治部大輔は今度こそ黙り込んだ。
確かに仮に今の自分が幕府における役職を失えば、官位と斯波武衛家の嫡子である以外の肩書き以外は何も残らないだろう。尾張と美濃の守護職を剥奪されれば、中央における政治的な立場のみならず尾張における弾正忠家への立場も危うくなる。
いや、それ自体は問題ではないかもしれない。どうせ織田三郎のお陰で得た立場だ。
問題は自分とその派閥が幕府からいなくなることによって引き起こされるであろう……
そこまで思いが至った所で治部大輔はハッと顔を上げた。
今、自分は何を考えていた?
「……仮定のお話にはお答えしかねます」
「治部大輔が良いというのなら、それもよかろう」
毒気を散々にまき散らかしながら反応を確かめていた二条関白は、しごくあっさりと引き下がった。そして最後に残った柿を咀嚼すると、懐紙を取り出して口元に当てる。
「いっそ種無しならよかったのだがな。このように手を汚さずに済んだものを」
治部大輔がその真意を尋ねるよりも前に、二条関白は懐中から油紙で包まれた何かを取り出した。
「……それは?」
「爆弾だよ。爆弾。それも飛びっきりのな」
二条関白は口元だけを器用に歪めて、何が可笑しいのか「ほほほ」と笑い声を上げた。
*
8月24日 松永霜台(久秀)が大和木津表へ手勢を派遣し苅田沙汰を強行。
8月28日 松永軍が大和木津表より撤退。興福寺多聞院が使用人を派遣して現地調査を行う。
8月29日 三淵大和守(藤英)、細川兵部大輔(藤孝)が近江小谷へ将軍の使者として下向。「陣中見舞い」という。
9月 2日 政所代の朝倉中務大輔(景恒)が辞意。「賀茂社問題」が理由という。侍所執事の斯波治部大輔(義銀)が慰留。
9月 3日 斯波治部大輔が一色式部大輔(藤長)と将軍面前で口論。「武田の隠居」がこれを一喝したという。
9月 6日 朝倉政所代が正式に辞意を表明。和泉守護の斯波和泉守(統雅)、近江守護の細川藤賢ら斯波系の幕臣がこれに従う動きを見せ、幕政混乱。「織田弾正忠家臣」の島田但馬守(秀満)が仲裁を図る。摂津守護の中川駿河守上洛。
足利義昭が畠山播磨守(高政)に管領を打診するも、播磨守は固辞。侍所執事更迭の噂が流れる。
9月 7日 山名入道(宗詮)、二条城召喚を受けるも「病」により固辞。「斯波治部大輔の後任か」。山岡(南山城守護)、中川駿河(摂津守護)が武衛屋敷において斯波治部大輔と面会。斯波は辞意を否定。
9月中 時期は不明なるも、織田弾正大弼が(信長)が『17箇状の意見書』を将軍に提出。
- 『多聞院日記』『兼見卿記』より -
*
一、光源院(足利義輝)様は宮中への参内を怠りがちでした。それゆえ神仏の加護も無く、永禄の政変によりあのような不幸な最期を遂げられました。私は日頃から上様に参内を怠りなく勤められるようにと申し上げておりましたのに、近年怠りがちのようで遺憾に思っております。
一、諸国に催促して、馬を献上させていることは聞こえが良くありません。再考なさるべきです。必要がある時には、この信長に申し付けてくだされば、そのために奔走すると殿中法度において約束申し上げました。私の介添え状なしに、このように内密に事を進めるのは宜しくないと思います。
一、上様は幕府の忠臣に対しては恩賞を与えず、身分の低い新参者に恩賞を与えておられます。このようなことでは忠誠心など不要となってしまいます。人聞こえも悪い…
一、最近、私と上様の関係が悪化したと噂になっています。将軍家の家宝類を運び出された事は京の内外に知れ渡っております。これでは苦労して普請した二条城も無駄になってしまいます。とても残念なことです。
一、賀茂神社の社領を没収して岩成友通にお与えになり、岩成に賀茂神社に対し経費の負担をするよう表向きは厳命なさり、裏では「それほど気にかけなくても良い」とお伝えになったと聞きました。そもそも正当な理由もなく寺社領を召し上げるという行為は良いことではありません。岩成がもし所領に困っているのであれば、正式に申し出ていれば私が都合のいいように取り計らいました。このように内密に行動されるのは風聞がよくありません。
一、私に対して友好的な者には、女房衆はおろか、どんなに下位の身分のものであっても不当な扱いをされるため、彼らは迷惑していると聞きました。どういった理由があるのですか。
一、何の落ち度も無いのに、功績がありながら全く恩賞を受けられない者達が私に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の面目がありません。観世国広・古田可兵衛・上野豪為のことです。
一、若狭安賀庄の代官の不行跡について、粟屋孫八郎が告訴しましたが、私も賛同して上様に進言しましたのに、音沙汰の無いまま今日に至っております。いつになったら判決が出るのですか。
一、ある幕臣が妻の家に預けてあった刀や、質に入れてあった脇差までも没収したと聞きました。彼が謀反を企てたりしたのなら別ですが、彼は喧嘩で死んだだけです。この措置は法規的に処理されていません。人々は上様を欲深い将軍だと考えるでしょう。
一、「元亀」の元号は不吉なので改元したほうがいいという世評があり、私も意見を申し上げました。宮中からも催促があったようですが、上様が改元のための費用を少しも負担されないものですから今も滞ったままです。
一、烏丸(光康)を懲戒された件です、光康はともかく、その子である光宣は赦免したほうが良いと申し上げたはずです。ところが光康から金銀を受け取って再び出仕を許されたと聞きました。嘆かわしいことです。今や公家は彼らのような者が普通なのですから、このような処置はよろしくありません。
一、諸国から金銀を集めているにも関わらず宮中や幕府のためにお役立てにならないのは何故でしょうか。何の目的があるのですか。
一、近江坂本の明智十兵衛(光秀)が徴収した地下銭をその地の代官に預けておいたところ、その土地は延暦寺領だと言って差し押さえになったと聞きました。明智の領土は旧延暦寺領を織田弾正忠の当主である私が十兵衛に与えたもの。そのような行いは不当です。
一、昨年の夏、兵糧庫の米を売って金銀に変えられたと聞きました。将軍が商売をなさるなど前代未聞、聞いた事がありません。兵糧庫に兵糧がある状態こそ、世間の聞こえも良いのです。いざという時にどうして銭金で戦うことができるのですか。上様のやり方には驚いてしまいました。
一、寝所にお召し寄せになった若衆を、功績があろうとなかろうと、能力の良し悪しに関わらず厚遇するのは世間から悪しざまに批判されても仕方ないではありませんか。
一、幕府に仕えている武将達は戦など眼中に無く、もっぱら金銀を蓄えているようで、これは浪人になった場合への対策と思われてしまいます。上様もいざとなれば御所から逃げ出してしまうのかと。そのために金銀を蓄えていらっしゃるのでしょう。「上に立つものは自らの行動を慎む」という教えを守ることは上様にとっても簡単なことでではありませんか。
一、世間一般の人々は「将軍は欲深いから人がなんと言おうとも気にしない」と口々に言っております。農民でさえ上様を「悪御所」と呼んでいるそうです。かつて普広院(足利義教)様がそう呼ばれていましたね。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。
以上
*
「……え?え?何これ?え?俺は知らんぞ」
*
【元亀3年(1572年)9月10日 近江 坂本城】
旧延暦寺を望む近江坂本を領有する織田弾正忠家家臣の明智十兵衛(光秀)は、近江横山城からの帰途に立ち寄った細川兵部大輔(藤孝)に対して茶を立てながら、どちらかといえば楽しそうな調子で告げた。
「やられましたなぁ」
「喜んでいる場合か」
細川兵部は織田弾正大弼と同じ天文3年(1534年)生まれなので38歳。一方の明智はからは享禄元年(1528年)とも大永6年(1526年)とも、果ては永正13年(1516年)ともされ、正確にはわからない。しかし少なくとも細川兵部よりは10歳以上は年長であったのは確かだろう。
文字通りの貴人であり文武両道の幕臣である細川兵部と、自称は土岐氏の庶流であり、鷺山殿の従兄であるともいわれるが実際にはよくわからない明智十兵衛。
この2人が肝胆相照らした友人関係であるというのはいかにも周囲からすれば不思議であったが、明智が素浪人時代から始まった交友関係は、明智が近江滋賀郡一円を領有する領主となった今も続いていた。
その根底にあるのは、おそらく家柄や身分ではなく、わが身一つとなろうともいかようにでもこの乱世を乗り切ることが出来るという不敵な自信であろうか。あるいは相手が誰であろうと己の思うとおりに振舞う気ままさが似ていたのか。
明智十兵衛が立てた茶を飲みながら、細川兵部は相変わらず感情が見えにくい地蔵面で口を開く。
「山城はおろか、大和・河内・摂津に播磨と各地に、それもほぼ同時期にばら撒かれているようだ。それも御丁寧に『17箇状の意見書』なる表題がつけられてだ。兄上(三淵大和守)は激高していたが」
「御屋形様も気の毒な事ですな。身の覚えのない怪文書で責め立てられるとは」
織田弾正大弼が足利大樹に突き付けたという『意見書』が畿内各所にばらまかれたことで、幕府は三淵、細川兄弟を使者として岐阜に送り、織田弾正大弼に直接抗議した。
織田弾正大弼の答えは「自分には覚えがない」という想定の範囲外を突き抜けた予想外のものであった。
「おそらく『これ』を作成したものは、幕府の政についてよほど注意深く観察しておったのでしょう」
どこから手に入れたものか、明智十兵衛は『意見状』なる怪文書の写しを懐中から取り出すと、自らが推察した犯人像を語る。
「御屋形様と上様との齟齬を事細かに観察し、そして事実だけを箇条書きに連ねる。脚色されてはいますが、若狭問題や、人事への苦言そのものは確かにありました」
「確かに嘘ではない。だがこれが事実というわけでもない」
細川兵部大輔はそう付け加えると、自らの丸太のような腕を組むと忌々しげな表情で続ける。
「あきらかにこれは織田弾正大弼殿が、幕府を都合の良い存在として取り扱うことだけを考えていた、それに従わない上様を非難している……このような筋書きを前提として、内外に印象付けることを目的としているようだ。ただひたすら自分の正当性と、上様の非だけを並べ立てているのは、亭主の女癖への不満を繰り返す女房の愚痴のようだと織田弾正大弼の品格を貶めながらな」
「さすがは兵部大輔様。例えが上手いですな」
「笑っておる場合か」
あくまで事態の推移を楽しむような明智の態度に細川兵部は眉を顰めながらも、ひとつ息をはさんで続けた。
「嘘ではないが事実ではない。これが一番難しい。根も葉もない嘘であれば、自然と立ち枯れする。しかしこれは根も葉もあるが、ありのままの事実でもない。当事者たる幕府内部にいた我等、もしくは幕府との交渉に当たられた織田家中の者にはわかるが、それ以外の第三者には伝わらぬ」
「こちらが否定すればするほど、事実である根や葉に注目が集まりますからな」
「その通りだ。処で十兵衛殿」
細川兵部は居住まいを正して明智十兵衛に向き合った。
「単刀直入に聞こう。誰だと考える?」
「名前を挙げるだけならいくらでも可能ですが、浅井や朝倉はあり得ませんな。同じ理由で武田もあり得ませぬ」
「遠すぎるな」
「いかにも」と明智十兵衛は頷く。これは幕府の内情に通じ、かつ政の中枢にいなければ書けるものではない。幕府と敵対している浅井や朝倉、そして武田には不可能なことだ。政治的に物理的に距離がありすぎる。
「人事にたいする不服を申し立てた7つめ。観世座小鼓役者を頭に持ってくるなど、よほどの事情通でないと知りえぬことです。確かに上様は観世座流を好みませんし、またこの人物は細川兵部殿の小鼓の師でもある。幕府における親織田派とされる貴殿と上様、そして御屋形様の間にくさびを打つ絶妙な一手といえます。これがあるとないとでは、怪文書の信憑性が異なります」
「つまり幕府の内部に疑わしいしいものがいるというわけか」
「織田家の内部かもしれませぬぞ」
明智十兵衛は大仰に肩をすくめた。
「そう思わせることで、実は織田家からの宣戦布告とする最初の御疑念が正しいのかもしれません。幕政における混乱の責任を問い、主導権を上様から奪取するための先制攻撃。この解釈が最も素直かと」
「しかし織田弾正大弼のあの様では……」
横山城で見た織田弾正大弼の動揺を思い起こすにつけ「それだけはないだろう」という考えが細川兵部の中で確固たるものとなる。あれが演技なら大したものなのだが、恐らくそうではあるまい。
今の織田家にとって大事な事は幕府内部の主導権争いではなく、まずは東から来る武田という脅威に対処することだ。各地に点在する本願寺系勢力への対処だけでも手一杯なのに、中央で政争を仕掛けるだけの余裕はないだろう。
「本願寺や旧延暦寺の残党という可能性もなくはないが……」
「犯人探しよりも、今優先されるべきなのはこれからの問題ではありませんかな」
沈思黙考する細川兵部大輔に、明智十兵衛が指摘した。
「問題だと?これ以上何が問題だというのか。幕政のど真ん中に爆弾が投げ込まれたというのに。これで中間派なるものはすべからく吹き飛んでしまったのだぞ」
あえて嫌味ったらしく言い返す細川兵部大輔に、明智十兵衛が何のためらいも見せずに冷徹な現実を突きつけてみせた。
「すでに上様と織田弾正大弼様の対立なるものは、満天下に晒されてしまったのです。『敵』に先手をとられた以上、織田家としても細川兵部大輔様自身としても、何らかの対抗策を考える必要があるでしょうな」
「待て待て待て」
細川兵部大輔は体の前に両手を突き出した。
「敵とは何だ。まずはその敵を明確にするために、この怪文書の犯人を見つけ出さねばならないだろう。明らかな利敵行為だからな。確かに私にも思うところはある。だからといってこの状況下において、武田がいつ西進を開始しかねない情勢下で幕府における主導権争いに加担をするつもりはないぞ」
「貴殿も兄上の大和守殿も、幕府内部では織田派と見なされております。斯波治部大輔様を始め、幕府内部には弾正大弼様と近しいとされる勢力は一定数存在しております。これが解任されてからでは、対処するには遅すぎますぞ」
「十兵衛!貴殿、言葉が過ぎるぞ!」
普段の冷静さをかなぐり捨てて顔を真っ赤にして怒鳴る細川兵部大輔に、十兵衛は年少の友人に対して「事実を申し上げているまでのこと」と短く答える。
しかし十兵衛は視線を兵部大輔から離そうとはしなかった。
「すでに選択肢はないのです。元来あった対立の火種に、これは改めて火をつけただけの事。幕政における不安定な均衡は、すでに叩き壊されてしまったのです。あとはどちらが主導権を握るか、ただそれだけです。この現実を見据えて、いかに判断されるかは織田弾正大弼様の御決断次第でしょうな」
「喧伝戦ではなく、すでに実際の戦に移っているということか」
「……私としては友人である兵部大輔殿がうまく立ち回られることを希望致します」
先ほどまでとは打って変わって真摯な態度でそう告げた明智十兵衛に、細川兵部大輔は黙して応えなかった。
*
近江横山城に対陣しておられた御屋形様(信長)は、常々幕政の混乱に頭を悩ませておられた。そこで今回、上様に対して17箇条の意見書を送られた。これは足利の大樹(足利義昭)の幕政における振る舞いを諫言する為であり、御屋形様は『自ら』この写しを各地に配布し、その主張の正当性を天下に堂々と問うたわけである。
小谷における浅井・朝倉と、織田家の対峙が続く。東美濃と信濃の国境において武田家に不穏な動きがあり、林佐渡が警戒……淡路に四国三好の先遣隊が上陸との知らせ。和泉国衆、再度離反の動き-
徳川三河守より援軍要請数知れず。御屋形様は武田を無用に刺激する恐れありとして、これを受け入れず。
- 『信長公記』 -
*
「刺激も糞もあるか!!武田は国境線を越えて挑発を繰り返し、現に万以上の軍勢が国境沿いで演習を繰り返しておるのだぞ!伯耆(石川数正)、貴様が行ってもう一度要請をしてこい!!」
- 『大久保彦左衛門の覚書』 現代語訳 -
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京において村井長門守(貞勝)と、中川駿河が17箇条の意見書を幕府に提出したと聞いた。斯波治部大輔がこれを受け取ったという。幕閣は大樹派と織田派に分裂し緊張状態にある。中立派の斯波治部大輔が朝倉や細川典厩らを留意し、緊張緩和に奔走するという。筒井陽舜、大和に帰還し、松永の手勢とにらみ合う。
- 『多聞院日記』 -
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【元亀3年(1572年)9月12日 建仁寺 永源庵】
京都五山のひとつにして臨済宗建仁寺派大本山の建仁寺は、鎌倉幕府2代将軍の源頼家(1182-1204)の支援を受けて栄西(1141-1125)が開山したことに始まる。伽藍は宋の百丈山を擬した華麗なものであったというが、応仁の大乱を始め、応永や文明というたび重なる大火に何度も襲われたことから、創建当時のものは残されていない。
伽藍だけではない。建仁寺は創建当時から天台・真言、そして栄西の伝えた禅の三宗並立であった。既存の2大勢力に栄西が配慮した結果なのだが、50年ほどした正元元年(1259年)に11世住職となった蘭渓道隆(1213-78)の影響により純禅の寺院となり、今に続いている。
「それほどまでして伝統的な権威に配慮した栄西が、その象徴たる叡山が焼け落ちたと聞けばいかなる顔をするであろうか」
掛けられた栄西の肖像画を見ながら、将軍足利義昭の招きにより建仁寺の永源庵を訪れていた吉田兼見は、そのような考えにふけっていた。
おりしも政所代の朝倉中務大輔の辞意と、織田弾正大弼のいわゆる『17箇状の意見書』による幕政混乱の真っ只中。楽観的だと自負している吉田をしても今回の見学は延期されるものだとばかり考えていたのだが、予定通りで結構であるという将軍からの使者には驚かされたものである。
そして兼見は招待を受けることを決めた。なにせ今回の目的は、貴人であり都の顔役たる吉田神社の主であろうとも、そう簡単に見ることすら叶わない代物であったからだ。
「これがその実物ですか」
「左が後醍醐帝の御旗、向かって右が等持院(足利尊氏)様の御旗。そしてこれが等持院様が着用されたという大鎧である」
感に堪えないと声を上げる兼見に対して、自ら解説役をかって出た将軍足利義昭は続けた。
「さすがに鎧は大きいですな」
「今とはそれこそ時代が違う。馬上ではともかく、これでは腕が上がらぬのではないかと思うほど草摺から何から大きい。今では良い的でしかないが、当時はこれが最先端だったと思うと、時代の流れを感じるとは思わぬか」
後醍醐天皇は言わずと知れた鎌倉幕府打倒に立ち上がった帝であり、最後は吉野の山奥に追われながらも最後まで皇族主導の政権確立を目指した反骨の君主。その後醍醐天皇と反目したのが足利尊氏なのだが、この政治家としては疑問符がつくものの、人物としての器の大きさは桁外れの初代将軍は、この権力者でありながら権力者になることを嫌った天皇のことが嫌いではなかったらしい。後醍醐天皇追悼のための寺を建立したほどである。
その2人の御旗を同時に見比べることが出来る日が来るとは。吉田兼見としても感じ入るものがある。
「200年近く前のものとは思えませんな。色落ちがほとんど見られません」
「生地もよい物を使っているが、保存状態がよかったのだろう。最後は敵対したが、この2人が時代を切り開いた英傑であったことは確かだ。代々の将軍家にとっても価値あるものであったのだろうな」
大鎧に手を触れながら、足利義昭は不自然なまでに上機嫌な口調で続けた。自分が希望しておきながら言えた義理ではないとは十分承知しつつも、吉田は将軍の空元気にも見える振る舞いが、どうにも腑に落ちなかった。
「しかし本当によろしいのですか?このような状況下において」
「かまわぬ。二条でのみ将軍家の財を保管していては、いざという時に纏まって焼失する恐れもあるしな。実際、応仁の大乱では多くの寺院がそうなった。その点、ここは伽藍こそ焼け落ちたが鎌倉以来の書物や貴重な仏像が数多く残されている。保管技術や緊急事態における移動という点でも、これ以上の場所はなかろう」
「確かにそのとおりではあるのですが……」
相変わらず腑に落ちない表情の吉田兼見に言い聞かせるように、足利義昭は「意見書の件か?」と吉田が最も気にしているであろう一件を自ら切り出した。
「織田弾正大弼があれを書くほど、間抜けだとは私も思ってはおらぬ」
「……?いや、しかし現に織田殿は、あれは自分が書いたと公言しておられますが」
「私も一条院門跡時代によく経験したものだ。怪文書に対処するための方法論としては正しい」
個別の事実をある特定の意図の下に抜き出して脚色した場合、否定は返って逆効果となる。織田弾正大弼はそれを逆手にとって、あえて肯定しつつ相手の仕掛けた土俵を自ら乗っ取ることを選んだ。仮に最悪の事態-幕府内部での親織田派と反織田派の権力闘争が始まったとしても、先手を打つためである。
「現在の政権内部における均衡の破壊。あの意見書を書いたものは、その目的を達成したわけだな」
将軍の言葉に、吉田は思わず礼を失するとは知りつつその顔をまじまじと見返していた。その顔がよほど面白かったのか、義昭は笑いながら続けた。
「横山から戻った三淵と細川に聞いた。合戦上であろうと諜報戦であろうと相手の機先を制する点については、さすがは『御父上』である」
「しかし、その……よろしいので?」
吉田兼見の疑問には直接答えず、義昭は下問した。
「この永源庵は誰の菩提寺か知っておるか?」
「確か細川兵部の……」
「左様。貴殿の従兄弟でもある藤孝が跡目を相続した和泉上守護家細川の菩提寺がここだ。あれが織田に近いことは知っておろう。そして私と距離があると噂されているのもな。この他にも意見状において『正当に評価されていない』とあった小鼓役者の観世国広は、兵部の師でもある」
義昭は自ら指摘すると「つまりはそういうことだ」と、虚勢でもハッタリでもなく自然に笑った。
政治的テロリズムに便乗して打消しを図ろうとした織田弾正大弼に対して、織田派とされる細川兵部の菩提寺に、足利累代の財宝を持ち込む。いったいどのような神経をしているのか、吉田には理解の範囲を越えていた。
しかしこれまでの室町幕府の在り方を振り返ってみれば、義昭の対応は理解出来なくもない。
室町将軍は10代や13代のように自らが権力闘争の主体となった時にはあっけないほど簡単に放逐されたが、それ以外の場合では驚くほどのしぶとさを見せて今日まで続いてきたのだ。それを考えれば義昭の行動は不思議ではない。表面上は敵対しているようでも、水面下で手を握るぐらいのことはして見せるという自信の表れなのか、それともただの根拠のない思い込みなのか。そこまでは吉田兼見にはわからなかったが。
しかしここで問題になるのは、実権のない征夷大将軍というあり方を変えようとして、志半ばで死したのが彼の兄である光現院(足利義輝)であった点だ。その後継者足らんとして、朝廷や既存の寺社勢力との対立も辞さなかったのが当代の大樹ではなかったのか。
これまでの政治的な信念を曲げたのかという不信感を覚えつつ、兼見は尋ねた。
「しかし上様。幕府内部の均衡が崩れたということは、何もかも今の体制を崩そうという相手の思惑通りにことが運んでいるということではないのですか。北近江で浅井・朝倉と織田が対峙し、武田の東進がささやかれている今、中央が混乱しては」
「最近、摂津が穏やかだとは思わないか」
吉田兼見は、目の前にいる小太りの貴人が何を言ったのか即座に理解出来なかった。
そしてその意図するところを察し、顔から血の気が引いた。
つまり大樹は全て理解しているのだ。理解したその上で……
「『知らぬは中川駿河ばかりなり』というわけだな」
将軍は相変わらず上機嫌のまま、大鎧を撫でた。
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- 『北条三郎覚書』より以下抜粋 -
元亀3年10月1日。不識庵様が越中富山城を制圧した。2ヶ月前まで一向一揆に押し込まれていたのが嘘のようである。
9月初旬、越中の平野部に秋雨が半月ほど降り続いた。不識庵様は事前に地元の国人や修験者などの協力を得て天候を定期的に調査していたらしい。その経験を踏まえた上で雨が降ると知っていたのだ。
義父上の底知れぬ智謀には、恐れ入るばかりだ。
長雨により一揆勢は頼みの綱である大量の鉄砲が使えなくなり、形勢は逆転。上杉は新庄城を攻め立てていた一揆勢を西へ通し戻すと、後退しようとする一揆勢に総攻撃をかけた。琵琶川の堤の尻垂坂で反転した一揆勢と激戦となったが、上杉家は一揆勢を圧倒。川が血で赤く染まった。
富山城へ敗走する一揆勢を追い立て城を包囲。その上で不識庵様は上州から北条・武田軍が退散したので、上田衆を急ぎ越中へ呼び寄せた。これで勝利は決まった。神通川を越え西進すると、一揆方の拠点を次々と落とした。
この間、飛騨高原諏訪城主の江馬常陸介(輝盛)殿が不識庵様の要請を受けて出陣した。狭い飛騨の中で姉小路氏を名乗る三木氏と、江馬氏は覇権を競う間柄である。不識庵様は「三木が武田なので今回は上杉なのだろう」と笑っておられた。
ところで富山城包囲が完成したころ、ようやく「厄介な客人」が帰ると宣言した。
幕府の前の管領である斯波武衛とその一行。能登畠山の先々代を越後に押し付ける、対武田の共同戦線について相談するという本来の目的はとうに達している。
一足先に織田弾正大弼様の使者として来ていた小笠原殿が帰洛。そして夏の盛りを過ぎても、一行はまだ帰らない。「まさかこのまま冬を越すつもりか」と家中一同で噂していたが、さすがに寒さの厳しい越後において越冬するつもりはなかったようだ。
「都の米が恋しくなったから帰る」という言い方は、いかにもこの老人らしくて笑ってしまった。
都においては織田弾正大弼様が、恐れ多くも上様に対して意見状を提出したという知らせが届いた。不識庵様はまともに受け取ろうとしなかった。
「馬鹿馬鹿しいけど、敵にとっての敵を減らすという戦略の要点はおさえている。誰が敵だか味方か、わからなくするだけでも効果はあるだろうね」
「こんなにわかりやすい怪文書に乗る人がいるんですか」と尋ねると、何故か不識庵様ではなく、たまたま居合わせた斯波武衛様が答えられた。
「そんなことは上様も弾正大弼も理解しているはずだ。しかし理解していてももやらざるを得ない状況に相手を追い込む。それが謀略であり怪文書というものだろう。与えられた答えには人は疑問を持つものだが、自分でたどり着いた答えについては、そう簡単には疑わないものだからな」
「自分で解を導き出したと錯覚させると?」
その疑問に「優秀な養子がいて幸せですな」と武衛屋形が言うと、義父が微妙な表情をしていたのが印象的だった。
思えばこの老人も不思議な人である。不識庵様は武衛屋形様のことを苦手にしているらしい。
らしいというのは、本人の口から直接聞いたことがないからだ。永徳院様(上杉定実)と似ているらしいとは一度聞いたが、それ以上のことは口が貝のようになる。小島弥太郎殿は「近親憎悪のようなものですな」と笑っていたけれども、その意味はよくわからない。
当の武衛屋形様は(それに気がついていたのかはわからないけど)、積極的に上杉家中との交流を深めていた(単に酒の相手を探していただけかもしれない)。
直江・河田・山本寺に斎藤。山浦や上条、喜平次殿など不識庵様の他の養子とも。陣中なので露骨に迷惑がられていたけれども、それにかまうことなく瓢箪片手に陣中を渡り歩いていた。
そのため警護責任者の弥太郎殿などは度々「あの爺はどこへいった!」と言いながら金棒片手に飛び回っていた(それなら一緒に飲まなければいいのに)。
放生津までは、私と小島弥太郎殿、河田豊前守(長親)殿らと少数で見送りをした。一向一揆との戦いが続く中では不識庵様は見送りをするわけにはいかない(最もそれだけが理由ではないのだろうけど)。
相変わらず武衛屋形は弥太郎殿とつまらない軽口を叩きあいで、細川陸奥守(輝経)殿は豊前様ともっぱら話しこんでいた。苦労人同士、気が合うのだろうか?
ここからは能登の輪島水軍の警護を受けて、北陸道の港をいくつか経由して丹後まで戻る予定だという。加賀一向一揆や越前朝倉という幕府と関係が良くない勢力の元も経由しなければならないのに、武衛屋形様は気にしていなかった。「お忍びだから心配ない」というのは、理由にはならないだろう。しかし何の根拠もないのに、不思議と相手に「そういうものか」と思わせる奇妙な安心感はあった。
「またお会いしましょう」と私が挨拶すると、武衛屋形様は、何故か私の手を握ってきました。
何でも南蛮の「握手」という挨拶だそうです。
その年相応に油の抜けた手は如何にも貴人らしいものでした。
「また会いましょうか。それは若者にしかいえない言葉であろうな。明日が来ることを疑ってもいない」
面倒なことをいう爺さんだと思いつつ「ではこのような時、武衛様ならば何を言われますか」と尋ねた。
「そうだの……」
武衛屋形様は天下の難題に臨むかのような態度で首を捻られてから続けられた。
「長く生きれば、否が応でも人の死を見送らざるを得ない。しかしそれでも生きねばならない。死ぬことが許されるまでは」
この言葉は、妙に私の中に印象に残った。
「また飯でも一緒に食べよう-ではどうだろうか」
「また会いましょうと何が違うというのです」
そう混ぜっ返した弥太郎殿の言葉に、皆が笑いました。
なんとも気持ちのよい、それでいてどこか寂しい別れの言葉であったと思います。
生意気なことを言わせていただくなら、私はこの妙な老人をすっかりに気に入っていました。
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10月1日。武衛様が発たれてから10日後には富山城が落城。椎名右衛門大夫(康胤)らの勢力を掃討すると、不識庵様は越後春日山に帰国しました。
本来であれば大勝利です。
しかし不識庵様は「間に合わなかった」と小さく呟やかれていました。
空を見上げると、暗い雲の間から白い雪が降ってくるのが見えました。
武田信玄に対する戦略的な敗北でした。
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この3日後、甲斐の躑躅ヶ崎館から武田大膳大夫殿が出陣したそうです。
そして武衛屋形様が、三国湊で捕らえられたという知らせが届きました。
「私はこんなもの出しておらんと……いや、出したかもしれんが、あ、これは言ったと思う…この2番目と3番目、あと最後から3番目のこれは直接申し上げた記憶が…あ、違う!いくらなんでも、このように直裁で嫌みったらしい物言いは…したかもしれないが、いや、そういわれてみると7番目も申し上げた記憶があるような……いや、いくらなんでもここまで露骨な物言いはせぬ!!…あ、8番と13番は書状で伝えたことがあるような…」




