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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
天文11年(1542年) - 永禄3年(1560年)
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服部小平太「えーマジ今川!?」服部小藤太「今川が許されるのは田楽狭間までだよね!」


 萱津合戦より2ヶ月ほど経過した天分21年(1552年)11月の中旬。尾張守護である斯波武衛の仲介により、織田伊勢守信安を立会人に、織田信友と織田信長は起請文を互いに交換し、正式に和睦が成立した。


 そして2週間ほどで、起請文はただの紙切れとなった。


 信義もなにもあったものではないが、無理はない。


 桃巌(信秀)存命中から散々煮え湯を飲まされ続けた大和守家からすれば、年若い分家の当主が体制を固め切れないうちに、なんからの経済特権の押収か、それとも拡大した領土を削減するかして、大和守中心の既成の秩序体系に組み込まなければ、自らが下克上の荒波に呑み込まれてしまうという切実な焦りに突き動かされていた。


 これに対する弾正忠家としても、信長個人に対する様々な不満はあっても、せっかく得た権益をおいそれと渡してやる道理など存在するはずもない。降りかかる火の粉を自ら払おうとしないのなら、それは最早武士ではない。


 とはいえ『大義名分』がないままに相手を軍事力において闇雲に押し潰そうとしても、世評や領民の理解は得られない。


 そしてこの両家は、動員可能な軍事力という点では、それほどかけ離れてはいなかった。


 本来であれば弾正忠家は大和守家を上回る動員が可能なのだが、日和見を決め込んだ勢力や、今川氏への対処もあってそうもいかなかったのだ。


 結果、相手の政治的失点を待ちながら、多数派工作に尽力するという、畳の上での戦争や銭の戦争がしばらく続いた。


 弾正忠側では庶兄である織田五郎三郎が反乱したり、次席家老であり信長の傅役でもあった平手政秀が自害するなどの混乱が見られた。


 しかし痺れを切らした-いや、当時の日本における有数の経済都市をかかえる弾正忠家との経済戦争に耐え切れなくなったのは、織田大和守家であった。


 美濃の斎藤家と婚姻関係にある織田弾正忠の当主である織田信長さえいなくなれば、後は分断して個別に撃破。もしくはこちらに取り込むことができるであろうという、いささか安易で願望交じりの考えにより、大和守家では坂井大膳を中心に信長の暗殺計画に着手した。


 坂井大膳は和解を名目に、清洲城における尾張守護家主催の連歌会を開催させ、信長を呼び出そうとした。


「上手くいくわけがなかろう」


 銭の流れとは、すなわち情報の流れである。まして経済的な締め付けにより一層苦しんでいたのは大和守家のほうであった。


 おそらく斯波武衛が密告しなくとも、何れは織田弾正忠側に何らかの形で情報は漏洩していただろう。


 しかし、大和守信友はそうは考えなかった。


 大和守家の-その当主である信友の認識からすれば、尾張を守護家の政治的賭博から救おうとして自害に追い込まれたのが達定である。


 その仇の子供が自分の居城でのうのうと暮らしていることだけでも許容しがたいのに、その上で大和守家は一族を上げて、尾張の為だからということで私情を押し殺して守護に擁立。今に至るまで「飼って」いたのだ。


 その恩も忘れて、敵に情報を売るとはいかなることか!


 守護殺しの汚名を恐れる坂井大膳や織田三位の必死の諫言を突き放し、信友は守護暗殺の謀議に没頭。


 主君の決意の固さに、普段は強硬論で主君を突き上げる側であるはずの重臣連が折れた。


 何よりこのままでは、弾正忠家に経済的に追い詰められてますます劣勢になるのは明白だったからである。



 天文23年(1554年)7月12日。ついに事態は動く。


 義統の嫡男である14歳の義銀よしかねは、主だった一族や家臣を連れ、以前から希望していた川狩りに出かけた。


 斯波義虎などの一族をはじめ、近習や同朋衆、武衛屋形に仕える侍女なども併せて300人ほどからなる大規模なものであったという。


 信友はこれを大いに歓迎し、盛大に見送り、そして……


「敵は尾張の宿痾である斯波武衛とその一族!女子供といえど容赦はせんでよい。殺せ!殺して、殺して、殺せ!」


「その血をもって、我らが新しい尾張を切り開くのだ!敵は清洲武衛丸にあり!」


 織田信友は自ら兵を率い、織田三位、河尻左馬助らと守護屋形に攻め入った。


 義銀一行が屋敷をあけた今、館に残っているのはせいぜい30人ほど。万が一にも負けるはずがない。


 尾張のために立ち上がりながら無念の死を遂げた達定の仇、そして今の大和守家苦境の原因。


 尾張弱体化の元凶を、今ここに永遠に断つ!


 そして弾正忠家と伊勢守家を倒し、尾張を大和守家のもとに統一する!


 信友は積年の鬱屈したものを発散するという狂気じみた歓喜に浸っていた。




 人っ子一人いない守護屋形の、ぽつんと置かれた文箱。その上に公式文書の花押でいやというほど見覚えのある筆運びで書かれた、その書置きを見るまでは






『世話になった。武運を祈る』






「よ、よ、よ、義統えええええ!!!!!」







「死んで花実が咲くものか……いずれは死ぬる身、急いでどうなるというのだ。馬鹿馬鹿しい」


 大和守家と弾正忠家との間で行われた安食あじき合戦のあとに行われた首実検で、ずらりと並んだ大和守信友と、その重臣の首を見下ろしながら、斯波武衛はひどく冷めた感想を漏らした。


 何のことはない。あえて大和守家を誘うために、嫡男と主要な家臣を川狩りという形で清洲城から脱出させ、自らは少数の手勢と、台所の裏口にある抜け穴から逃げ出したのである。


 亡き信秀がかつて清洲奉行として在番していたこともあり、清洲城の改築に津島や熱田の息のかかった大工や人足を紛れ込ますことなど、弾正忠家にとっては容易い事であった。


 戦う前から勝敗は決していたのだ。


「武衛屋形様」

「おう、五郎左衛門か」


 朴訥とした顔の所々に返り血をつけたままの丹羽五郎左衛門(長秀)が甲冑姿のまま近寄ってくる。


 丹羽家は斯波氏の譜代の家臣であったが、彼の代から織田弾正忠家に仕え始めたという家柄である。


 そして「うちに来ても仕事がないからな」と弾正忠家への仕官を勧めたのは、ほかならぬ武衛屋形自身であった。


「岩竜丸(義銀の幼名)はどうしておる?」

「気丈に振舞っておられますが、やはり刺激が強すぎたようです」

「子供は子供らしく、吐いておればよいものを」


 一体誰に似たものやらとため息をつく武衛屋形に、五郎左衛門はただ苦笑いするだけで応じた。


 旧主である武衛屋形が僅かに青ざめていることを指摘するほど、彼は野暮ではなかった。


 大和守家の残党狩りの中、守山城主の織田孫三郎信光が流れ弾に当たり「戦死」し、末森城主の織田信勝が忍び込んだ大和守旧家臣の河尻与一に刺殺されるという悲劇はあったものの『清洲騒動』とよばれる一連の混乱は一月ほどで決着した。



- 清洲に入った織田信長に、武衛屋形が「織田大和守家の名跡を相続するか」とたずねるも、信長は即座に断った - 『信長公記』 -



 織田上総介信長は、旧大和守家の領土を接収して居城を清洲に移すと、返す刀で岩倉織田氏との抗争に突入する。


 それまで犬山城にあり、岩倉寄りの姿勢を示していた従兄弟の織田信清と再び共同戦線を組み、2年ほどかけて岩倉勢を切り崩した。岩倉城落城後は先んじて降伏した信安の次男である織田おだ信家いえのぶら一部を除いて、伊勢守家を尾張国外に追放した。


 この岩倉攻めの間、舅である斎藤さいとう道三どうさん(利政)-娘婿の織田上総介と、斎藤さいとう義龍よしたつ-岩倉織田氏の連携が成立し、美濃国内においては道三が「息子」に滅ぼされた。


 美濃への救援も間に合わず、孤立無援となりかけた弾正忠家であったが、その義龍も美濃国内の取りまとめに必死で、尾張に侵攻してくることはなかった。


 こうして永禄2年(1559年)までには、尾張は弾正忠家当主である「尾張守護代」織田上総介信長によって事実上の統一を果たしたのである。



「いや、上総介……ああ、上総『守』殿。大儀、大儀」


 この間、清洲城内の改築された守護屋形に戻った武衛屋形は何もしていなかった……わけでもない。


 武衛屋形は岩倉織田氏との決戦を前に、西の不安(駿河今川氏の東進)に対処するため、上総『守』信長の発案による外交戦略の主体として活動していた。


 具体的には斯波氏が主体となり、三河の東西両家の吉良氏や石橋氏(武衛屋形の正室の実家)、駿河今川もふくめた足利一門に広く盟約を呼びかけたのである(当然ながら今川からは無視されたが)。


 事前交渉により盟約の内容はほどんど詰め終わり、呼びかけに賛同した足利御一門である石橋いしばし義忠よしただや、三河の西条吉良家当主の吉良きら義昭よしあきとの最終会談に臨もうとした斯波武衛であったが、直前に斯波氏と吉良氏のどちらが上座に座るか(格式が上か)という、実にどうでも……よくはないが、第三者からすれば目くそ鼻くその席次論争が勃発した。


 この時、武衛屋形は日頃の陽気さをかなぐり捨てて、相手の吉良側が「正気を疑う」ほど強気な姿勢を崩さず、ついには必死にとりなす縁戚の石橋義忠を振り払い、尾張清洲へと帰国した。


「足利将軍に次ぐ家柄ぐらいしか誇れるものがないのに、それをおいそれと売り渡すようなまねができるか。まして相手が今川という名も実もある相手ならともかく、相手もこちらと同じ名しかない没落守護家相手に。同じく矜持を売り渡すにしても、もう少しまともな相手でないとな」


 後に駿河今川氏がこの盟約を利用し、尾張侵攻に際して斯波氏から協力を得ようという工作があったことが露見する。


 図らずしも武衛屋形は今川の陰謀を阻止したことになる。


「……武衛屋形様は大人しくしていただいたほうが、私の仕事が少なくてすみますな」


 露見した今川氏の謀を嫌みったらしく報告する信長に「だから最初にそう言ったではないか」と応じると、三郎信長は顔を真っ赤にして立ち上がった。


 そのまま足早に退出しようとする三郎を、義統は、これまたのんびりとした口調で呼び止めた。


「あ、すこし待て。最近気になっていたのだが、三郎の官位のことだがな」

「私も忙しいので!失礼!!」


 何かの感情をぶつけるかのように廊下を踏み鳴らして退出する『上総守』。


 無論、それは父親であり先代の三郎信秀のそれとは異なり、正式な官位ではなく自称である。


 以前は上総介を名乗っていたのだが、大和守・伊勢守と対抗する意味もあり、長官である「守」を名乗るようになったとのことだ。


その三郎信長は尾張統一が成就したことを宮中と室町に報告するため、明日から100人ほどの手勢を引き連れて上洛する。桃巌院(信秀)時代に尾張に多数訪問した公卿などの縁故を使い、畏れ多くも主上と接する機会が得られるかもしれないということで、尾張全体が大いに盛り上がっていた。


 武衛家の京屋敷は、現在は十三代様あしかがよしてるが使用されている。


 空の屋敷にしておいても仕方がないので別にそれはそれで構わないのだが、13代様と面会するとのことなので、せっかくだから息子よしかねだけではなく自分も同行して良いかと尋ねると「尾張守護が尾張を離れてどうなさるのです」とにべもなかった。


 まったく、短気は損気という言葉を知らぬのか。


 斯波武衛は人知れずため息をついた。



 ところで上総の国は、常陸・上野と並んで親王任国しんのうにんごくであり、守(長官)である国主は皇族しかなれない。


 つまり宮中や室町で織田上総守信長と名乗ればどうなるかといえば……


「……武衛屋形様」

「だから待てといったであろうが。年長者の話は最後まで聞くものだぞ?」


 意気揚々と上洛し、宮中はもとより洛中洛外に「悪い意味で」その名を大いに轟かせ、盛大な赤っ恥をかいた上総介信長は、以降は何事にも前例を徹底的に研究するようになったという。


「うむ。勉強するのはよいことだ」


 一族の何人かを引き連れて上洛に同行し、尾張への帰途には同行した信長の家臣団から針の筵にさらされた「若武衛」こと斯波義銀は、あっけらかんとした父の態度に何かを言いかけて、そして諦めた。


 同じく恥をかいた者同士、信長と義銀は「とある人物」の悪口で意気投合し、多少なりとも距離が縮まったというのは、どうでもいい話である。



 上洛珍道中の翌年である永禄3年(1560年)3月。


 今川いまがわ治部大輔じぶたいふ(自称)義元よしもとが、駿河・遠江・三河より3万とも4万とも言われる大軍勢を引き連れて尾張に侵攻したが、わずか5000人ほどしか動員できなかった織田「上総介」信長によって返り討ちにされ、歴史的な大敗を喫した。


 尾張守護である斯波武衛家からすれば、先代武衛義達の遠江遠征における意趣返しを、45年ぶりに果たしたと解釈出来なくもないが、おそらく-というよりも全くもって当代は興味がなかった。


「無論私は上総介の勝利を信じていたとも」

「父上、まずはその纏めた荷物の片付けから始めませんか」

「うむ、これは川狩の用意なのだ。別に他意などないが、確かに邪魔だな。十郎(毛利十郎)よ、片付けておくように」



織田信長「上総守です」


これ信長にとっては、若いころのヤンチャよりもよっぽどキツい黒歴史だと思う。足利義昭と上洛した後、すぐに帰国した理由のほとんどはこれだと勝手に思ってる。


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