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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀3年(1572年)
49/53

長尾景虎「いい知らせかな?『守護が死んだ』とか」直江与兵衛尉「若!」(約30年ほど前の越後春日山の日常風景)


「室町幕府15代将軍の足利義昭は、兄の13代将軍義輝の政策を踏襲し、全国各地の有力な勢力を守護や遠国探題に任命するのと同時に、和睦と上洛を呼びかけています。この上洛が織田信長への牽制とするのは早計であり、かつての足利将軍と守護との関係同様、中央に諸侯が集まり『天下之儀』、すなわち幕府という中央政治を再構築する構想であったと私は考えています。実際、当時の義昭の書状には、この単語が散見されます」


「元亀3年(1572年)6月から8月にかけても、足利義昭を中心にいくつかの和平交渉が行われています。越甲和与-上杉と武田、そして本願寺と織田の和平交渉です。これは義輝時代の尼子と毛利への和睦呼びかけ、そして義昭自身が行った北条と上杉、大友と毛利との和睦仲介交渉同様に、中央から離れた地方で敵対する2大勢力を仲裁することで、将軍の権威と幕府の再興を示す狙いがあったのでしょう」


「ところが越甲和与と本願寺・織田の和睦は、当初の政策的な意図とはかけ離れた様相を示すようになります」


「大友と毛利の和睦は、毛利の北九州の損切りがあった上での戦略的妥協、越相同盟にしても反武田の産物でしかないという皮相的な見方も可能です。幕府が何か主体的に動いたというよりも、地方の現状追認以上の効果があったのかという見方も出来ますね。紛争の当事者からすれば『ここは中央=幕府が認めた領域である』という領地経営の大義名分になりました。同時に紛争再開時には相手に非があることを喧伝する材料になるわけですね」


「しかし幕府の裁定それ自体に、何か実行性や強制力があるわけではありません。ちょうど今の国際連合における安全保障理事会の議決のようなものでしょうか。常設の国連軍が存在していないように、常設の幕府軍などありませんでした」


「話を戻しますと、ではこの二つは何が違うかといえば、それはすなわち『幕府≒織田家』が紛争の当事者であるという側面です。現在の国際情勢で例えるなら『安保理の常任理事国が紛争の当事者となっている場合、安保理決議に有効性を持たせられるか』という問題と似ています」


「さて先の上杉と武田の和与ですが、織田信長は非常に積極的であり、例えばこの書状では「幕府からの上意の使者に織田家も人を付ける」としています。ここまではいいですね。仲介交渉に織田家も関与するということですから。問題はこの後なんですが、ちょっと現代語訳して取り出してみます」


- 織田信長は上杉謙信と多年にわたり友好関係を維持しており、武田信玄ともまた「無等閑」であることは通達した通りである -


- 「越甲共」は「公儀」に対して長年にわたり疎略にしていない。和睦に応じ「天下之儀」を馳走を希望する -


「上杉と友好関係にありながら、武田とは「無等閑」。これはいかにも無理があります」


「たしかに織田家と武田家の間では外交交渉は続けられていましたし、それぞれの嫡子と娘との婚約も破棄はしていませんでした。しかしそれと上杉と織田との、武田を仮想敵国とした友好関係にあるのです。これで『善意の第三者』として立会人になろうというのですからね」


「もっとも立場を使い分けることが悪いといっているわけではありません。ですがこれでは将軍義昭という「公儀」を大義名分とした、あからさまな「武田封じ込め」とみられても仕方がないでしょう。むしろこれこそが武田の狙いだったのかもしれません」


「さて本願寺と織田の和睦交渉ですが、ここでは将軍義昭は武田信玄に仲裁役となることを求めています」


「8月に武田信玄が石山本願寺坊官に送った書状なんですが、これによると足利義昭より「御使節」として幕臣2名が甲斐へ派遣され、石山本願寺・「信長」間の「和平」を武田信玄に「媒介」する命令が通達されたと伝えています。そして武田信玄はこれに「被応将軍之命」、つまり応じると書いています」


「この立会人に織田家の人間の名前がないのは当然ですね。紛争の当事者なのですから。そして本願寺顕如の決起文はあくまで「織田信長」が対象であり、幕府に対して名指しでの批判は避けていました」


「つまり武田信玄が本願寺顕如との義兄弟の関係により『善意の第三者』として、本願寺と織田家の和睦を仲裁するということです。こら、そこ。笑ってはいけませんよ(笑い声多数)」


「足利義輝と義昭の外交政策は、地方の2大勢力の緊張緩和には一定の効果がありました。しかしそれはあくまで「中央の実権なき最高権威者」としての幕府の追認であり、義昭の思考していたような将軍独裁を基本とした幕府の体制とはそぐわない外交政策だったのかもしれません」


「結局、紛争の当事者が『善意の第三者』として振舞おうとするところに無理があったのですね……念のため申し上げておきますが、これは今の『国連外交』なるものを批判しているわけではないので、皆さんあしからず(笑)」


- 東都文化協会主催「戦国時代を語る」第5回-1570年代前半の室町幕府の外交政策と諸大名の関係-講義録より一部抜粋 



【元亀3年(1572年)8月15日 甲斐 躑躅ヶ崎館】


 男子は顔に生き様があらわれるというのが馬場美濃守(信春)の座右の銘だが、内藤修理亮(昌豊)はその例外だろう。先に評定の間にいた彼の横に腰を降ろしながら、馬場美濃守は埓もないことを考えた。


 馬場美濃守は58歳。平均寿命をとうの昔に通り過ぎて間もなく還暦を迎えるという老将は、この場にいる者全てを足しても足りるかどうかわからないという戦歴と武功の持ち主である。武田家の伝説的な宿老の一挙手一投足に、一門衆である諏訪四郎(勝頼)や武田後典厩(信豊)などは憧れの眼差しを隠そうともせず、同じく一門の穴山入道(梅雪)などは露骨に美濃守の存在を無視していた。


「美濃守様」

「なんじゃ、修理ではないか。おったのか」


 このように気安く声をかけるのは、内藤修理亮ぐらいのものである。馬場美濃守の挨拶代わりの強烈な皮肉にもかかわらず、当の本人は春風に顔を撫でられたが如く、長閑な顔をしていた。


「先ほど御屋形様とお会いしてきました」


 内藤修理亮は、挨拶もそこそこに懐から笹で包まれた「何か」を取り出して、馬場美濃守に尋ねた。


「食べられますか?」

「……結構だ」

「それは残念です」


 まったく残念とは思ってもいなさそうな表情で、明らかに崩れたであろう不格好な米のむすびにかじりつく内藤修理。威厳も何もあったものではないが、これで武田家の上州(上野)方面の総督として上杉や北条との最前線を守りきっているのだから、人は見かけによらない。


 馬場美濃守と同じく内藤修理の実力と功績は折り紙つきであり、この場に出席を許されている一門衆や武将にとっては周知の事実である。だがそのどこか気の抜けた風貌と言動で、良くも悪くも「武田家らしく」ないため、この人物はどこにあっても浮いた存在であった。


 必要以上に自分の存在感を強調する武田諸将の中で、これだけ存在感がないにもかかわらず、これだけ確固たる地位を占めているのも珍しかろうと、馬場美濃守は老人なりの言い方で内藤を讃えたことがある。この男は笑うばかりで怒りの欠片も見せず、かといって媚びる事もなかった。


 どこであろうと誰が相手であろうと自分のあり方を変えない。その点については馬場美濃守はこの男を評価していた。


「美濃守殿はお聞きになられましたか。小谷における朝倉の一件」

「前波親子か?」


 馬場美濃は不快感を隠そうともせずに鼻毛を抜く。


「対陣中に重臣が相手の本陣に駆け込むなど、あそこまで大胆な返り忠など聞いたこともないわ。少なくとも私の経験ではな」


 武田家に属する数多くの国人層の中から、40年以上の戦場経験により武田譜代の名門馬場氏の名跡の相続を許されるほどの功績を上げてきた老人ですら経験したことがないと否定する『珍事』が、この8月初頭に近江小谷において発生した。


 8月8日。越前守護の朝倉左衛門佐(義景)率いる1万5千の軍勢が近江小谷に着陣する。


 織田家が徹底的に周囲の寺院や砦を焼き討ちしていたため、朝倉勢は小谷近くの山を要塞とするため普請工事を開始しようとしていたその矢先。工事を指揮する奉行の前波まえば九郎左衛門尉(吉継よしつぐ)が毛屋猪介、戸田与次郎、富田弥九郎ら1千から2千の兵と共に織田軍の陣を目がけて一目散に走り出した。


 織田家と浅井・朝倉の両陣営共に「すわ抜け駆けか」「功名を焦ったか」とにわかに緊張が知ったが、なんと前波と一味はそのまま織田家に降伏。世にも珍しい「敵前逃亡降伏」をしてのけた。


 この寝返りに織田弾正大弼(信長)は大いに喜び、即座に前波親子と謁見。自ら帷子や小袖などを下賜することで大いに労った。翌日には毛屋・戸田・富田の3人とも面会する厚遇ぶりである。


 前波氏は亡き兄が当主の側近(志賀の陣で戦死)であり、代々奉行職を歴任していた朝倉譜代の重臣である。おまけにその直前までの浅井・朝倉の軍事情報のほぼ全てと、手持ちの兵力を携えての亡命である。朝倉と浅井の士気と戦意は地に落ち、織田家のそれは鰻のぼりとなった。


 織田弾正大弼の異常な歓喜と過剰なまでの厚遇も当然であろう。


「兄の戦死を正当に評価されなかったのを恨んだのでしょうか」

「理由など後からいくらでもこじ付けられるわ。食べるに困ったところに金で釣られたのだろう」


 至極当たり前の予想を意図的に口にした内藤修理に、こちらも懐から煙管を取り出しながら馬場美濃守が応じた。煙草嫌いな穴山入道がわざとらしく咳払いをするが、美濃守はそれを無視して火をつけ、大きく煙を吐いた。


 本当に咳き込み始めた穴山入道を一瞥すらすることなく、馬場美濃守は続けた。


「越前がいかに豊かだとはいえ、畿内や京との商売なしでは成り立つまい。背後の一向一揆が味方になったとは言え貧乏人が少しだけ贅沢したところで、たかが知れておる。一向一揆の貧乏人と引き換えに越後との商売は不可能となったし、無駄遣いでは右に出るものがない叡山は焼け落ちた。同じ貧乏人の浅井は商売相手にはならぬ。石山本願寺は地理的に遠すぎるし、物理的に遮られておる」

「浅井に関してはむしろ朝倉殿が援助する側です。かつての盟主として、幕府と織田弾正忠家を裏切ってまで味方したものを見捨てては朝倉の沽券に関わるでしょうしね」

「っは!」


 馬場美濃守は自分の本心ではないことを周囲に強調するかのように鼻を鳴らした。


「沽券で飯が食えるようになるなら、これほど楽なこともない。幕府と織田家を敵としたが故に、濃尾平野と畿内の両方の商圏を失ったのだから自業自得ではないか」


 馬場美濃は国人とは名ばかりの農民とほとんど変わらない出自であるがゆえに、この場にいる誰よりも実感がこもっていた。これに対して説得力のある議論が展開出来るとすれば父親が百姓ともいわれる高坂弾正(昌信)ぐらいであろうが、高坂弾正は信濃海津城にて上杉に備えているため、この場にはいない。


 沽券や家柄で飯が食えるかという馬場美濃の言葉には、ある一定の年齢以上の武田家重臣からの参道と同意が得られたようだ。実際、馬場美濃への明確な拒否感を隠そうともしない穴山入道ですら、その点には賛成するかのように、忌々しげに頷いている。


 それとは対照的に諏訪や真田の兄弟が首を傾げているのが、美濃守にとっては誇らしくもあり、また苛立たしくもあった。直接的な飢餓を経験したことのない彼らにとって、それは知識であり伝聞でしか知らないのだ。


「しかし困りましたな」


 内藤修理が相変わらずまったく困っていない口調でいう。おまけに口髭に米粒がついているため、ただでさえ乏しい尊厳が更に損なわれていた。


 本人は気にした様子もなく、内藤修理はあえて若い武将達に言い聞かせるように発言した。


「先の木曽殿(義昌)の出兵により、飛騨の姉小路を牽制。越中一向一揆に加賀のそれを合流させることで、越中に出陣した上杉不識庵殿の足止めには成功しつつあります。北条との和睦も、いくつかの諍いこそありますが何れは締結されるでしょう」


 上杉不識庵はこの8月から越中に出陣している。「何故か」加賀一向一揆が「何者かの」仲介により提携し、「理由は不明」なのだが神保や椎名ら守護代や国人までが「反上杉」で一致結束。日宮城や富山城など上杉方の拠点を落とし、完全に泥沼化していた。


 どれぐらい泥沼なのかというと、上杉不識庵が予定していた越相同盟廃棄に伴う関東出兵を取りやめるほど泥沼化しており、酒量が増えたことで養子に怒られるほどであった。ちなみに武田家はそれを見越した上で、将軍と織田家が仲介役とする上杉との「和与」について、のらりくらりと交渉を続けてきた。


 上杉を戦略的に孤立化させながら、大義名分のない戦を嫌う不識庵が従わざるを得ない権威を引っ張り出す。まさに武田の十八番である。


 とはいえ武田家も西進にむけて全てが順調というわけではない。


「伊勢は想定外でした。長島と北畠が完全に押さえ込まれてしまいましたからな」

「北畠の太り御所が、あそこまで果断だとは思わなんだ。あれで伊勢が『反長島』で結束してしまった」


 馬場美濃が眉をしかめる。


 昨年末の「三瀬の変」において太り御所こと北畠中将(具房)は、家中の反織田勢力を粛清。長島一向一揆を重大な脅威と位置づけ、家中を親織田路線で統一させた。北畠独特の朝廷に対する考えを基本に、一向一揆の狂乱から神宮(伊勢神宮)を守る。北畠家の大義名分としてはこれ以上ないものであろう。


「……伊勢水軍の引き抜きには、北畠の先代に尽力頂いた。懸案の武田水軍の強化には成功している」

「そのような露骨な引き抜き工作を仕掛けるから、織田に目をつけられたのではないのかの?」


 駿河方面を管轄し武田水軍の編成に関わる穴山入道が自らの行動の正当性を述べると、馬場美濃は正面からこれを揶揄してみせた。穴山入道は顔を真っ赤にして反論しようとしたが、馬場美濃守の冷ややかな視線と態度には何の変化も与えられそうにはなかった。


 一門衆の重鎮とたたき上げの宿老という相反する重臣同士の緊迫した空気に、多くの武将達は緊張の色を浮かべた。対して諏訪四郎や武田後典厩ら血の気の多い連中は、どちらかといえば楽しそうな気配すら漂わせていた。


「しかし北畠中将は、実に鮮やかな手並みでしたなぁ」


 内藤修理がいつもの調子で発言すると、評定の場の張り詰めた糸がぷっつりと切れた。表情はともかく内心はほっと安堵の息をつく穴山入道とは対照的に「余計なことをするでない」と馬場美濃が鋭い視線を向けるが、内藤修理は相変わらず不格好なむすびをボソボソと食べているばかりであった。


「幕府や織田弾正忠家との折衝をしたのは、尾張の斯波武衛だそうですが」


 それまで黙り込んでいた甲斐都留郡の領主である小山田越前守(信茂)が口を開くと、馬場美濃守は再び「っは!」と笑い飛ばした。


「織田家の烏帽子でしかない斯波武衛家の当主に、そのような器用な真似が出来るものか。管領という重責をわずか半年もせずに放り出した老人だぞ」

「老人とおっしゃいますが、武衛屋形様は美濃守様と殆ど年齢が変わらなかったはずですが」

「修理!貴様は余計なことを言うな!」


 馬場美濃と内藤修理の掛け合いに、穏やかな笑い声に包まれる評定の場にあって、先程の小山田越前だけが腕を組んで黙り込んでいた。


 果たしてあの時期に斯波武衛が南伊勢にいたのは単なる偶然なのか。足利将軍か織田弾正大弼、どちらかの使者だったのではないか。長年、北条と武田の関係を取り持ってきた小山田越前には、その考えが捨てきれなかったかた。


(しかし腑に落ちないことも多い)


 織田の代理人であれば先代北畠のみならず潜在的な親武田となりかねない北畠一門をことごとく粛清する方法もあったはずだ。ならば足利将軍の代理人としてならばどうか。これも北畠当主の主導権を確保しつつ反織田派の粛清を図る。これによって南伊勢と大和宇陀郡の安定を……


 駄目だ。どうにも線と点がうまく繋がらない。


「御屋形様はいかにお考えなのか…」


 小山田越前守は「厠」の方を見ながらそう呟いた。



【元亀3年(1572年)8月27日 越中 新庄城】


「はっはっは!武衛屋形様は、貴族にしておくのが惜しいですなぁ!」


 身長が6尺に及ばんとする小島弥太郎が、遠慮の「え」の字もみせずに客人である老人の背中をばしばしと叩きながら酒を注いでいるのを見た河田豊前守(長親)は、その光景に一瞬気が遠くなりかけた。


 相手は前管領にして、幕府の実力者たる織田家の(名目上とはいえ)主君にあたる人物である。それをさも気安げに、地下の店屋での交わりがごとくに肩を組んでいるのだ。そのようなことはありえない。あり得るはずがない。


 だからきっと床で大の字になり、瓢箪を口に突っ込まれたままで白目を剥いているのは細川陸奥守(輝経てるつね)殿ではないはずだ。きっと他人の空似に違いない、そうに違いない……


 豊前守は柱に手をつくと、南蛮渡来の眼鏡なる視力を矯正するものを外して目頭を揉む。


 その横を背の高い青年が慌てて通り過ぎると、小島弥太郎に駆け寄った。


「何をしてるんですか弥太郎さん!あぁ、すいません武衛様……ああもう!こんなに零して、どうするんですか!」


 どうやら夢ではないらしい。河田豊前守は気が遠くなった。


 しかしこの惨状を作り出したであろう巨漢の声と態度には、一向に反省の色が見えない。


「三郎。戦場では刀の前で、そして畳の上では酒の前には身分も性別もなく平等であるというのが、私の唯一の信仰なのだよ」

「弥太郎さん、言い訳はみっともないですよ。もういい年なんですから、そろそろ落ち着いてくださいよ」

「私はまだ50だ!」


 怪力無双と謳われる弥太郎の投げた瓢箪を、北条三郎こと上杉景虎は上体を逸らすだけで逸らしてみせた。それが震えながら立ち上がりかけた細川陸奥守の顔面に見事に命中したが、河田豊前は見なかったことにした。


 弥太郎に絡まれているはずの斯波武衛はというと、「お見事!」ときゃっきゃと手を叩いている。手に広げた扇子には『酒仙万歳』なる意味不明の文字。素面に見えるが、相当酔っているようだ。上杉家の兵站を一手に取り仕切る能吏は、どこが現実逃避したことを考えながら、この場の収拾について思いを巡らせた。


 そして倒れた細川陸奥守の介護をする北条三郎の肩に手をかけて言った。


「……三郎。任せた」


「え?!あ、ちょっと豊前守様!?いや、ちょっとそれはないでしょう、ねえ!あ、ちょっと!!」



「お待たせいたしました小笠原殿」

「うまく押しつけたね」


 新庄城の書院造りの茶室に入るや否や、主君の上杉不識庵(謙信)が茶化すように言うと、河田豊前守は苦笑して肩をすくめた。臨時の不識庵の部屋として使用されている茶室に入室が許可されているのは、当主である不識庵か、北条三郎。そして河田豊前守位のものである。ここで下手な発言をして、後で保護者から聞いた三郎から嫌味を言われてはたまらない。


「……」


 客として招かれた織田弾正忠家の家臣である小笠原喜三郎(貞慶)は、主君と家臣のやり取りが終わるのを待っていた。彼も往々にして世情の軍神像を鵜呑みにしていたため、世の評価と実際に自分の目で見た人物像の差を埋めることに苦労していたらしい。


 それでもこの旧信濃守護の一族である26歳の青年は、亡命先である畿内を中心に年相応以上の苦労を重ねていたがゆえにいち早く認識のずれを修正することが出来たたしい。彼は風炉の灰を整える不識庵の所作を見ながら話し始めた。


「実のところ、どこからお尋ねすればよいものか迷っております」

「上杉が対武田で頼りになるのかどうかを確かめに来られたんだろう?」


 武田に追われ、畿内の三好政権下で苦労を重ねたといっても、青年の経験は不識庵には劣ったようだ。会話でも戦場でも先手を打つのが不識庵流と言わんばかりに、不識庵は続ける。


「まず北進を目指す北条だけど、私の甥である喜平次(長尾ながお顕景あきかげ)に長尾上田を中心とした上田衆をつけて派遣した。上田衆だけは三郎に任せるわけにはいかないからね」

「関東は現状維持というわけでしょうか。管領殿、私は御自身が出馬されるおつもりだと聞いていました。上杉勢の本体がここ越中にある状況では、北条勢が上州では利根川を越えて出てくる可能性があるのではありませんか?」


 その直接的な物言いが不識庵の気に召したらしい。軽くうなずいてから首を傾げた。


「北条もそこまで武田を信用してはいないさ。それは喜三郎殿のほうがよくご存じだろう?」


 小笠原喜三郎は苦々しい表情で頷くと、名門らしからぬどこか人の表情を窺うような目付きで不識庵を見返した。


「北条は上州よりも佐竹や佐野、宇都宮ら、北関東の反北条諸侯との争いに注力するとお考えですか」

「北関東諸侯の行動原理は簡単だよ。北条の敵が味方。それだけだからね。彼らとしては、どれだけ不満があったとしても上杉と組むしかないんだ。そして北条が関東の領国経営を安定させるためには、彼らを叩くのが一番手っ取り早い。それに北条が武田に尽くす義理もない。上州で動く姿勢を示すだけでも十分だと考えるだろうね」

「だからこそ援軍は喜平次殿だけで十分だと?」

「あれは姉様に似て敏いから、心配していないさ」


 小笠原喜三郎はこれまでの発言のどこに軍神の本心があるのか窺おうとしたが、三好家中での腹の探り合いを経験してきた彼であっても、その薄い笑みを浮かべた表情からはなにも読み取ることが出来なかった。


 喜三郎は話題を変えた。


「越中はいかがですか?」

「正直、ここまでとは思っていなかったね。加賀一向一揆が国を越えて越中と協力し、さらに神保の反上杉や椎名まで同心するとは。こちらの前線基地たる日宮城が落城し、越中のほぼ中心部である富山に敵の大軍が立て籠もっている。そして上杉がそれを包囲している」


 危機的ともされる越中戦線の現状を、不識庵はあっさりと説明した。


 北陸の一向一揆は、その数と比べて統一的な指揮の欠如が指摘されていた(これは全国的に共通した問題だが)。そこで本願寺顕如は加賀の杉浦壱岐守(玄任げんにん)を総司令官に任命。本山との連携を強化した。この加賀一向一揆の決起にあわせて、越中一向一揆の拠点である勝興寺と瑞泉寺が呼応。椎名・神保もくわえて総数は3万とも4万ともされる軍勢が越中になだれ込んだ。


 河田豊前守が指揮する越中の上杉方面軍もよく耐えたものの、ついには前線基地たる日宮城が落城。各地の拠点も落とした一揆勢は越中西部から中部の大部分を支配下におさめ、この新庄城が越中中部における上杉の最後の拠点となっている。


 ここに至って不識庵は関東出陣を取りやめ、8月10日に自ら1万の上杉軍本隊を率いて越中へと出陣。上杉はじりじりと前線を押し返してはいるものの、一揆勢の豊富な鉄砲隊を前に勝ちきれない状況が続いている。


 織田弾正忠家の家臣として幕府の公式な使節に加わっている小笠原喜三郎は、幕府(と織田家)が最も恐れている可能性について、上杉家当主の見解を尋ねた。


「恐れながら、上杉が越中で敗退される可能性はあるのでしょうか」

「ないわけじゃない。可能性を自分から否定するほど愚かなこともないからね。それにしてもさすがは本願寺だよ。大量の鉄砲と経験豊富な射手をそろえている。簡単には勝たせてくれない」


 ここで「負ける」とは言わない辺りが、不識庵が軍神と呼ばれる所以であろうか。小笠原喜三郎は苦笑した。勝てる戦しかしないからだと揶揄されるが、それは負け戦を避けることが出来てから言うべきであろう。少なくとも負け続けの喜三郎としては何も言うべきことはない。


 小笠原喜三郎はさらに尋ねた。


「一揆勢はどこからそれだけの鉄砲を運び込んだのでしょうか?」

「鉄砲そのものや火薬に火縄などは、地元である程度は現地生産出来るだけの体制を作り上げているんだろうね。優秀な射手に関しては、それこそ一般の行商にでも化けさせればいい。織田は基本的に関所を廃止しているし、全国を渡り歩いている雑賀の人間には変装はお手の物だろうさ」

「御実城様」


 話が脱線している懸念からか、河田豊前が口をはさんだ。


「敵の分析よりも、いかに現状を打破するかについて考えられるべきでは」

「豊前。あせってもしかたないよ。幸いもうすぐ9月だしね……」


 河田と小笠原がそろって疑問符を浮かべるが、上杉不識庵は気に留めずに、どこからか取り出した瓢箪の蓋を開けて中身を口に付けた。


 その酒臭い息に河田豊前は顔をしかめるが、不識庵は唐突に話題を変えた。


「去る15日、めでたく上様に男子が誕生された」

「男子……ですか。そうですか」


 特に感慨もなく「おめでとうござる」と告げた河田豊前とは異なり、それを受けた小笠原喜三郎は複雑そうな表情で何度かそれを繰り返した。


 次期将軍後継者の誕生。確かに慶事ではある。


 だからといってそれにもろ手を挙げて喜ぶほど、喜三郎は気楽な亡命生活を送ったわけではない。まして自分は今は織田弾正忠家の禄を食んでいるのだ。


「これで晴れて、後見人も外戚のしがらみもない将軍後継者が出来たわけだけど」

「御実城様、いささかお言葉が」

「わかってるさ豊前。それにしても、そんなに子供というのは可愛いものなのかなぁ」


 不識庵は暫く目を瞑って何かを考えていたが、再び唐突に口を開いた。


「喜三郎は湖雪斎殿(元信濃守護の小笠原長時)には会われたかい?」

「いえ、まだです」


 言葉数少なく小笠原喜三郎は否定する。阿波の三好氏は小笠原の諸流とされている。武田に信濃を追われた守護小笠原氏その伝手を頼り、旧領復帰を目指そうとしたが結果的には失敗した。


「三好政権が崩壊してから、あまり連絡を取っていませんでしたので。その、どうにも気まずくて」

「年寄りくさい小言は好きじゃないんだけど、いなくなってから親のありがたさが解るものさ」


 不識庵は目を細めながら続けた。


「私だってあの父親が死ぬまでは、越後がここまで大変な土地だとは想像出来なかったさ。確かに気まずいだろうけど、生きているうちに苦労や経験を聞いておくことは、決して君にとって損にはならないよ」

「はぁ」


 明らかに乗り気ではなさそうな喜三郎に、河田豊前がかねてからの疑問を問いただした。


「それにしても小笠原湖雪斎殿はよく幕府から赦免されましたね。確か本圀寺襲撃にも参加さていたのでしょう?」


 河田豊前守の疑問に、喜三郎は「襲撃に参加した私の叔父も討死しました」と付け加えた。


 信濃を追われて都の権力者だった三好筑前(長慶)を頼った小笠原親子であったが、三好の没落とともに息子は織田に属し、父親は流浪の末に再び越後に戻った。その間には三人衆に味方して一時期幕府に反抗しており、いわばお尋ね者だ。


 その父親が赦免された経緯について尋ねられた小笠原の御曹司は「実はですな」と頭をかきつつ、その理由を述べた。


「武衛様より御口添えを頂きました。あくまで襲撃に参加したのは三好の決断であり、小笠原はそれに巻き込まれたのだと。本圀寺に実際に立て籠もられた武衛様の執り成しのため、大樹様もさほど反論されずに」

「なるほどね。やっぱりあの老人か」


 不識庵はふっと笑みを見せる。何故かそれが酷く酷薄なものに思え、小笠原喜三郎は背筋に冷たいものが流れた。


「今回、織田方の使者として喜三郎殿を同行するように決めたのも武衛屋形かい?」

「いえ、それは違います。元々織田家が御当家へ使者を送る計画があり、それなら顔が利く者の方がいた方がよいだろうと武衛様が村井長門守様(貞勝)と、三淵大和守様(藤英)に御相談されまして……あの、御実城(不識庵)様?」

「なんだい喜三郎」

「私は何か、御実城様の機嫌を損ねるようなことを致しましたでしょうか?」


 再び窺うような視線を向ける貴公子に、上杉不識庵はその張り付いた笑みを崩して「いやぁ、そういうわけじゃ」と崩れた笑みを浮かべた。


 喜三郎と、表情には出さなかったものの河田豊前守は安堵のため息を漏らす。


「……伊勢は痛いと思うよ」

「政所の伊勢氏ですか?」


 突如伊勢の名前を出した主人の意図を尋ねる河田豊前に、軍神は答えることなく瓢箪に再度口をつける。小笠原喜三郎は「形式的にでも茶に招いておきながら、それが主人の態度なのか」と思わないでもなかったが、そういえばこの人はそういう性格であったと自らの記憶を掘り起こしていた。


「前の管領に何かあっては一大事だしね。特に今、上杉領内でなにかあっては困るんだよ。武田入道ならやりかねないから」

「それ故に弥太郎を警護役に付けておられると?」


 単に弥太郎が酒を飲みたいだけが理由ではなかったのか。河田豊前は首をわずかに傾げながら尋ねた。


 確かにかの老人は足利将軍に次ぐ名門の当主であり前管領である。しかし在任期間はごくわずかであり、世間で言われているほど幕政に対する直接的な影響力はないと河田豊前は考えている。仮に世評で言われるように幕政に欠かせない重臣であるならば、この時期に越後くんだりまで本人が出向けるはずがない。襲撃の対象となるだけの政治的価値があるかというと疑問ではないか。


 しかし河田豊前の考えを聞いた主君は「それはどうだろうか」と、部下の考えを否定した。


「喜三郎は知らないだろうけど定実、いや永徳院様のことは豊前も知らないか」

「……ひょっとして、元の越後守護の永徳院様(上杉うえすぎ定実さだざね)のことでしょうか?」


 河田豊前は永禄2年(1559年)の上洛の際に近江で召し抱えられた近江衆の一人であり、小笠原喜三郎にしては信濃を追われた守護の子である。天文19年(1550年)に死去した越後守護のことを知る由もない。


 しかし河田豊前は以前から自らの主君が語る言葉の端々に、その越後守護への複雑な感情を、ありていにいえば嫌悪感のようなものを常日頃から感じていた。


「永徳院様のことを唐突に持ち出されたこともそうですが、御実城様は如何なる理由で永徳院様をそこまでお嫌いになられるのですか?御父上(長尾為景)に擁立された、言葉はなんですが傀儡の守護では」

「それは違うんだよ豊前」


 不識庵は驚くほど大きなしぐさで首を左右に振った。そこには隠そうとも隠しきれない感情の色が窺え、豊前だけでなく喜三郎も驚いた。


「父上が当時の越後守護だった上杉うえすぎ民部大輔(房能よしふさ)公に対する下剋上の神輿として定実公を擁立したのは事実だ。しかし考えたらわかることなんだけど、当時の越後じゃ他にも候補者はいたんだ。それこそ外から連れてきてもいい。そちらの方が御輿としては担ぎやすいだろうしね」


 なぜ長尾為景が上杉定実を選んだのか。不識庵はそれに対する自らの推察を語った。


「年齢、経験、ましてや徳なんていうわけのわからない抽象的な概念で父上が選ぶわけがなかったんだよ。あれは共犯だよ。それもかなり早い段階から父上の計画に関わっていた」

「……証拠はあるのですか」

「ない。まったくね」


 河田備前の問いに首を振り「兄上から家督を強奪した後に調べてみたけど、なにもなかった」と不識庵は語った。


「いっそ不自然なほどに記録が抹消されていたさ。そして守護に就任した途端、永徳院は宇佐美父子や上条定憲、揚北衆といった反長尾勢力を取り込んでいた。彼らを使って春日山城を占拠したこともある……失敗したけどね。いや、失敗するとわかっていても、それでもやったのかもしれない。長尾が上杉一族と敵対を決めた以上、自分以外に幕府が認める守護がいないと知っていたからさ。その挙句に伊達から養子を迎えるとして、意図的に越後国内の分断を図った」


 不識庵の語る上杉定実像に、小笠原喜三郎は「それこそ考えすぎでは?」と疑問を呈する。それほどの謀略家であったとして、それを実証するすべが自分にはないからだ。しかし不識庵は自らの推察に疑問を抱いていないようであり、さらに続けた。


「その行きつく先が天文の大乱(1542-48)。越後だけでなく奥州全体が混乱し、その中で明らかに主導権を握ろうとして最後まで暗躍し続けたんだからね」

「なるほど。お話を聞く限りでは筋道は通っているように聞こえます


 織田弾正忠家の家臣である小笠原喜三郎は、同盟相手の主君に対する対する敬意を、まずはその意見を認めることで示した。


「そして畏れながらそれには証拠がありません。現段階では御実城様の推察にすぎません」

「証拠かい?証拠ならあるさ……何せ本人から直接聞かされたからね」


 その口調と、それ以上に自らの感情を雄弁に物語っている不識庵の表情に、今度こそ両者は黙り込んだ。


「自らに流れる越後上杉の血統の価値と限界を、あの人は誰よりも理解していた。そして誰よりも絶望していた。血統でしか自らの政治的な地位を証明することが出来ない今の体制にも、それに甘んじていることにも。だから自らの血統を証明するために越後を手に入れようとしたし、それが叶わぬと悟った途端に、全てを壊そうとした」


 淡々とした口調とは対照的に、その表情にはやるせなさと怒りが浮かんでおり、両手で殻の瓢箪を握りつぶしていた。その怒りと感情の激しさに喜三郎は思わず後ろににじるように下がり、河田豊前守は膝を手で押さえながらも、話を本題に戻した。


「その永徳院様と武衛屋形様に、どのような関係があるのでしょうか」

「そっくりだからさ」


 あっけらかんと不識庵は両者の共通性を指摘すると、それについても語り始めた。


「何でもかんでも知ってると言わんばかりの思わせぶりな態度、家柄だけでその座に座り、口先だけで相手を動かそうとする政治姿勢。自分以外のあらゆるものは、自分が利用するか、それともされるかでしか区別していない……武衛屋形様は永徳院様とは違い、戦場に自ら立つだけの胆力と気概はあるようだけどね」


 不識庵の言葉に喜三郎は無論、河田豊前も驚きを隠せなかった。てっきり主君はあの老人を気に入っている、すくなくとも好意的に解釈しているとばかり思っていたからである。


「まぁ、確かに嫌いな性格じゃないよ。酒を飲んで騒ぐのなら楽しい人さ。永徳院の野郎だってそうだった。だけど友人にしたい奴かどうかとは、また別の問題さ……織田弾正大弼殿が、かの老人を持て余してるのが解るような気がするよ。あるいは野心を隠そうともしなかった永徳院様のほうが、やりやすかったもしれないな。何を考えているか分からないっていうのが、一番困るからね」


 自ら握りつぶした瓢箪を手のひらでもてあそぶ不識庵に、小笠原喜三郎は言葉を選びながら尋ねた。


「では、永徳院様と武衛屋形様は完全に同質のものであると?」

「喜三郎、この世に全く同じ人間などいないさ。だけどそうだね……」


 僅かの間だけ思考にふけり、不識庵は自らの考えをまとめた。


「永徳院様がこの世のすべてに絶望していた悪意の人だったとすれば、武衛屋形様はこの世のすべてを希望的に解釈されようとしている善意の人だね」

「……それはひょっとして、褒めておられるのですか?」

「光には影がともなうものだよ。影のない光は、それこそ歪だと思わないかい?」


 遠くから聞こえる酒盛りの喧騒を背景に、軍神は肩をすくめて見せた。


「まったく、厄介な客人だよ」



我ながら趣味に走りすぎだと思う。だけど今さらだと思って吹っ切れました。



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― 新着の感想 ―
[一言] 中盤の上杉謙信の部屋での場面から、文章が重複しているのでご報告です。 一度目に読んだときは気になりつつも、先が気になって放置してしまったので。
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