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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀3年(1572年)
48/53

鷺山殿「北風~小僧の~勘九郎~」林佐渡守「今は夏です」


斯波武衛「出番がない」



 斯波治部大輔(義銀)。尾張と美濃の守護にして侍所執事(都の軍事警察権を管轄)の32歳。


 独身である。


 足利将軍家に次ぐ武家の名門斯波武衛家の次期当主。


 くどいようであるが独身である彼は、普通であれば引く手あまたのはずなのだが、どちらかといえば相手側から「いい人なんだけどねぇ」「家柄はいいんだけど」と断られる性質の人間であった。


 中央からしばらく遠ざかっていたため閨閥が期待出来ない傀儡守護より、実力のある弾正忠家と直接縁戚関係を結んだほうが得策であると、年頃の娘をもつ多くの親は考えたのだろう。


 だから客観的な事実がどうであれ、本人は「父親」の存在は関係ないと信じている。


 その斯波治部大輔は、父親がいつものようにフラッといなくなった二条城において、多忙を極めていた。


「6月の大和の震災について、南都より復興支援をお願いしたいと」

「浦上遠江守(宗景)より毛利家との和睦の仲裁についてですが、備中佐井田城と松島城の所属問題について-」

「山城狭山郷の横領について、八幡宮より抗議が」

「毛利家より浦上との和議について確認したい条項があると。また因幡武田と尼子残党の紛争について、幕府の見解を確認したいと」

「宇喜多和泉守(直家)が龍野赤松氏を支援していると置塩より」


「織田の取次ぎは何をしているのだ!山城の所領問題はともかく、遠国の紛争については侍所執事の管轄ではないぞ!朝山日乗か、武井夕庵かどちらでもいい!ここに連れてこい!」

「治部大輔様は弾正大弼殿(三郎信長)の上役ではありませんでしたかな」

「三郎が俺の言うことを聞くわけがないだろうが!」

「自信満々に情けないことを言わんでください!」


 斯波治部大輔と三淵大和守が押し寄せる使者や書状の山を前に、現実逃避気味の掛け合いを続けるのを見ながら、前田孫十郎(玄以)は「これが名高い尾張万歳というものか」と、こちらもどこかズレたことを考えていた。


「あの糞親父、幕臣を連れて行くなら事前に申請すればいいものを。職務の引継ぎも何もなく。あちらこちらから文句を言われるのは息子の私なのだぞ」

「とはいえ細川陸奥守(輝経てるつね)殿や、小笠原殿などは家柄は確かでも、伊勢や蜷川のように慣習的に定まった役職や、確固たる人脈が幕府内部にあるわけでもありませんからな。引継ぎをするにしても一体誰にするのかという問題があります」

「幕府の役職が名誉職扱いとは、幕臣の肩書きも軽くなったものだな」


 尾張と美濃という日本有数の大国の守護大名である斯波治部大輔がいうと、悪い冗談にしか聞こえない。本人はいたって真面目に語っているので、前田孫十郎は帰宅してから腹を抱えて笑ってやろうと思った。


「浦上問題は時間が解決するだろう。上様も織田三郎も、毛利との協調姿勢を維持することに重きを置いている。北九州から撤兵した毛利は尼子残党に注力している。次は自分だと浦上遠江も理解しているはずだ」

「しかし浦上に譲歩を迫るなら、因幡の問題も同時に解決しないことには毛利も仲裁案を受け入れないでしょう。むしろこの問題で強気に出たほうが、交換条件を吊り上げるためにはよいのではないかという意見もありますが」

「今の幕府や織田家に西国問題に本腰を入れて介入するだけの力があるか!摂津の芥川山城を堅持するだけでも手一杯だというのに、そのような虚勢を張っても意味などない」


 斯波治部大輔は苛立たしげに首を振った。


 織田家の後ろ盾を得てもなお、幕府の影響力は畿内一円はおろか山城とその周辺に限られている。将軍の義兄弟である河内半国の三好左京(義継)と、その重臣である大和の松永霜台にしても、4月(河内)と5月(大和)の遠征に協力、もしくは降伏したとはいえ、現段階では幕府寄りの中立でしかない。


 残る河内半国に関して言えば、守護代の遊佐河内守(信教)は形式的ながら幕府に帰順したものの、当初の構想は完全に破綻。幕府が任命した新守護の畠山次郎(尚誠なおまさ)を体の良い傀儡として、自らの下剋上を事実上幕府に認めさせた。


 和泉守護でありながら、いまだに一度も入国出来ていない治部大輔の叔父である統雅むねまさに至っては、話にもならない。


「結果論に過ぎぬかも知れませぬが、遊佐も河内に兵力を貼り付けられないことを見越した上での行動だったのでしょうな。東の武田に西の本願寺、北の朝倉。国内には長島一向一揆。これだけ敵が多くては織田家と幕府も交渉に応じると考えたのでしょう」

「そして実際にそうせざるを得なかった。忌々しいことにな」


 大和守の推察に治部大輔がうなずく。


 遊佐河内守はまだ24歳の若さだが、河内国内で10年以上の長きに渡って三好筑前(長慶)と争い続けてきた。その間に何度もの落城と放浪を繰り返し、辛酸を嘗め尽くしてきている。今の河内があるのも自分の尽力と献身によるものであり、守護など誰でもよい。そう考えるようになっていたとしても、不思議ではない。


「可能性を検討することと、実際に行動に移すかどうかとは別の問題でしょうが」

「言葉に気をつけろよ大和守。あくまで畠山紀伊守(秋高)殿は『自害』されたのだからな」

「建前ばかりを取り繕っても……いや、失礼しました」


 さらに言葉を続けようとした三淵大和守であったが、周囲の奉行人の視線に気がつくと口をつぐんだ。


「因幡問題や尼子残党、そして赤井氏との問題にしても、結局は山名入道(宗詮)ですからな」


 前田孫十郎が話題を振る。


「私としてはあの老人、それほど嫌いではないのですが」

「好き嫌いの問題ではない。個人的な好悪の感情が裁判や判例に優先されることなどあってはならない」

「実に御立派な意見ではありますが、織田家はともかく幕府に一貫した外交政策を期待出来ますか?」

「それは今に始まったことではあるまい」


 前田孫十郎の試すような問いかけに、斯波治部大輔は内心の不愉快さを隠そうともせずに吐き捨てた。


 そもそも南朝勢力や幕府内部の権力闘争の過程において、代々の室町将軍は独自の軍事力というものをほとんど有さなかった。


 いや、持ち得なかったといってもよい。


 昨日の敵は今日の盟友、今日の宿敵は明日の親友といった具合に無節操なまでに切り崩しを行ったからこそ、南北朝の統一は成し遂げられたのだ。


「今では応仁の乱もあって幕政混乱の元凶だったと批判されるが、将軍家が守護の家督相続に首を突っ込むことで、中央の権威を示すことが出来たのだ。そもそも守護は在京が基本。中央政治との距離がそのまま家督相続や守護人事に影響した……京における政争にとどまっているなら、それはそれで都合がよかったのだ」

「中央の人事や裁定が気に入らぬと、反乱を起こした者もいたと記憶しておりますが」

「それこそ周辺諸侯の草刈場となるだけよ。実際に多くのものはそうだったではないか。勝利に勝る大義なし。まして中央のお墨付きがあれば、いかな名門とてな。足利茶々丸が伊勢氏に討たれたように」

「跡継ぎですか」


 三淵大和守が険しい表情で指摘すると、治部大輔も鸚鵡返しに「跡継ぎだ」と答えた。


 播磨を引っ掻き回した宇野下野守(赤松政秀)の娘として将軍に仕える侍女だった彼女は、将軍義昭に見初められた。その「さこの方」の腹は順調に大きくなってきている。次期将軍後継者かもしれぬ者の母親が、何の政治的な後ろ盾もない。


 この新たな状況が幕政にいかなる影響を及ぼすか、斯波治部大輔や大和守も計りかねていた。


「上様が幕政において外戚の影響もなく全権を振るうことが可能となるでしょうが」

「自前の兵力も持たぬのに?……いや


 治部大輔には思い当たる節があったらしく、手を打った。


「だからこその山城守護であり、岩成(友通)の引き立てか。朝議の影響力を廃し、有力守護や諸侯の影響力を排除した政治」

「現状でも、このありさまですからな」


 聞こえはいいが、実際にそれは実現可能な政治なのかという点では、治部大輔だけではなく大和守ですら懐疑的であった。


 「若武衛の率直さは父親譲りか」と三淵大和守は考えながら「腹のお子の性別がわかるような方法でもあればよろしいのですが」とない物ねだりをする。


「さこの方を正室にするわけにはいかぬのですか?」


 空気を読んでいるのかどうかわからない前田孫十郎が、将軍正室問題について突っ込んだ質問をした。


「後ろ盾もない赤松庶流の娘を、将軍の正室とすることは難しいだろう」

「ですが仮に男子が御生れになり、外戚の影響のない後継者となられたとしてもです。治部大輔様が御指摘されたように、実際の幕政には織田家の後ろ盾と協力が必要不可欠。いささか僭越ではありますが、将来的に織田弾正忠家と婚約を結ぶことにすればよいではありませんか」

「どれ程馬鹿馬鹿しくとも、先例は先例だ。新規で何かをするにしても、理屈が必要なことに変わりはない」


 孫十郎は否定的な理由となりえる可能性について例を挙げた。


「さこの方様が、第三者に要らぬ知恵をつけられる恐れがありますか」

「個人の素質の問題ではない。もっとこう、生々しい問題だ。たとえば仮に、孫十郎の主張する通りに男子だとしよう」


 斯波治部大輔は厳かな口調で、さこの方が男子を生んだ場合の問題点について触れた。


「次期将軍後継者が、龍野赤松を通じて宇喜多和泉守(直家)と縁戚関係になるのだぞ?」


 斯波治部大輔が問いかけるまでもなく、三淵大和と前田孫十郎は即座に首を横に振った。


 宇喜多和泉守の悪評は都でさえ轟いている。曰く山賊行為により財を成した、曰く娘婿を毒殺した、曰く舅を殺害して出世の足がかりとした等々。今でこそ浦上遠江守の配下であるが、誰もそれを信じてなどいない。


 そんな曰くつきの人物が、龍野赤松氏を挟んで将軍家と縁戚になるかもしれない。


 気〇いに刃物のような破壊力である。下手をすれば備前や播磨の、それもほとんど間違いなく宇喜多和泉守が中心となるであろう諸問題に、将軍家が直接の利害関係者になりかねない。毛利との関係はおろか、西国政策そのものを根底から揺るがしかねない。


「歴代将軍が日野の娘や近衛の娘を正室にしていたのは、朝廷との一体性を演出する他にも、直接的な領土紛争の当事者とならぬための知恵でもあったのだろうな」

「しかし上様にもお考えはございましょう」

「それはわかるが、しかしもう少しご自身の立場というものを……」


「ところで治部大輔様は、まだ御正室をお迎えにならないのですか?」


前田孫十郎の何気ない問いかけに、斯波治部大輔の顔面は凍り付いた。



【元亀3年(1572年)6月30日 美濃 岐阜城】


「浅井ならば相手にとって不足はなしですか」


 わざわざ自室にまで押しかけた上に、今回の出陣の意義について等々と説明する林佐渡守(秀貞)に、織田弾正大弼の正室である鷺山殿さぎやまどのは悪戯っぽく笑う。


「今の浅井ならば恐れるに足らずの間違いではありませんか?」


 鷺山殿は子供がいないためか体型が崩れていない。華美ではあるが派手ではない単色の小袖や打掛は、それひとつで城とまではいわなくても家のひとつが街中に買える程度の代物である。にもかかわらずそれらの衣装全てが、主たる女性を引き立てる役割を果たしていた。


「そのような言葉遊びをするために参ったわけではありません」


 同性であっても思わず息を呑むような艶かしい視線を向けられたにもかかわらず、林佐渡守は一切表情を緩ませず、むしろ忌々しそうなそれで「北の方様」と続けた。


「奇妙丸様は北の方様の養子でもあるのですぞ。尾張と美濃の両国融和のためには、北の方様が奇妙丸様をしっかりと支持なさる姿勢が何よりも大事」

「わかってるわよ。ちょっと佐渡をからかっただけじゃないの」


 滔々と正論を説く老臣に対して、鷺山殿は砕けた口調になりながら笑いかけた。


「でも両国の融和が大切だというなら、それはあの人が私に直接言うべきじゃないの?」


 ……この意地の悪さは亭主に瓜二つである。佐渡守は心の中だけで呟く事で、その憂さを晴らした。


 代々が子沢山の織田弾正忠家の例に漏れず、織田弾正大弼には何人もの子供がいた。正室である鷺山殿との間には子供が生まれなかったが、家を相続する嫡子に関して言えば早くから生駒氏の生母をもつ奇妙丸と定められていた。


 生駒氏は尾張から三河にかけて商売圏を持つ有数の大商人である。他の男子の母親は身分が生駒氏よりも低いこともあり、尾張を統一した弾正忠家の実質的な継承者としては奇妙丸が最もふさわしいと判断された。


 10年近い月日の末に美濃を攻略した織田弾正大弼は、岐阜(旧稲葉山)に居城を移すと同時に、この奇妙丸を正室鷺山殿の養子とした。


 織田家が美濃攻略の大義名分としたのは、斎藤道三のいわゆる『国譲り状』である。それが実物だとしても、何の法的根拠もない私信に過ぎない。一方で旧国主の一色氏は、朝廷からも幕府からも正式に認められた正当な美濃の統治者。「元の国主である隠居の娘の夫」と比べることすら出来ない。


 美濃を領有した以上、織田家としては少しでも弾正忠家の正統性を強化するために、そのか細い糸の鷺山殿に母親違いの息子を養子とした。たとえ糸が細く薄くとも代(実効支配)を重ねれば重ねるほど正統性は強化されるからだ。


 気苦労ばかりが積み重なる夫とは裏腹に、鷺山殿はこの問題に関しては表向き関心が乏しい。


 蝮の娘はやはり蝮であり、彼女には「勝利に勝る大義なし」という感覚が染みついていたからだ。とはいえ問題を理解出来ないほど愚かではなく(むしろその逆である)、理解していながら林佐渡守をからかっている節がある。


「まったくあの人ときたら。生駒の奥方に気を使ってるのかどうか知らないけど、言いたいことがあるなら貴方を使わずに直接私に言えばよいのに」


 まったくその通りであると、林佐渡は胸中で同意した。


「戦場には真っ先に駆けつけるのに、そういうところだけは妙に神経が細かいのよね」

「北の方様。御屋形様は決して北の方様を粗略にされているわけではありませんぞ」

「わかってるわよ。それより浅井相手に奇妙丸殿の初陣でしょ」


 鷺山殿は脇息についた手をひらひらと振って見せた。


 尾張の後継者が、美濃のかつての統治者の娘の養子となり、元服して直ぐに両国の兵を率いて北近江の浅井攻めで初陣する。対外的にはともかく、国内的にはこれ以上ない政治的アピールになるだろう。


「それにしても2年前には考えられなかったわね。浅井があそこまで落ちぶれるなんて」


 鷺山殿からすれば奇妙丸の初陣よりも、そちらの方が気になるらしい。


「浅井は叡山籠城で最大の顧客たる京への交易権を自ら放棄しました。その結果として淡海(琵琶湖)の水軍衆が離反。丹羽や木下が付け城を築き、田植えひとつ満足にさせておりません。苦しくなるのは当然かと」

「横山の木下は大した活躍のようね」

「ええ。地下の出ではありますが、軍功は目覚しいものがありますな。譜代の者にはない突発力と執念があります。不破の関辺りを所領とする竹中氏を取次に、浅井に属する国人への切り崩しを続けております。御屋形様も大変評価されております」


「ところで大丈夫なの?」

「大丈夫とは」

「朝倉よ」


 鷺山殿の顔に、にやけたような笑みが浮かぶ。そうした表情ですら、この弾正忠家の正室にはよく似合っていた。


「浅井を攻めれば、また野村合戦(姉川の戦い)のように朝倉が出てくるんじゃなくて?」

「それこそがまさに今回の出兵の狙いでもあります」


 林佐渡守は、むしろ浅井ではなく朝倉をおびき出して打撃を与えることが狙いであると説明した。同時に佐渡守は朝倉家の弱体化についても語った。


「昨年を通して朝倉は兵を慎み国力の回復に努めておりました。しかし越前も京や畿内というお得意先を失っている現状に変わりはありませぬ。ここで少しでも戦力を削ぐ事が出来れば、美濃や近江、そして京は北の脅威から緩和されます。さすれば浅井征伐にも目処がつくでしょう」

「ま、転んでもただではおきない人だからね」


 鷺山殿は口元を袂で隠しながら笑い声を上げた。


 本来であれば今年の織田家は上洛したまま畿内の地盤を固め、幕府と織田家の協調体制を内外に示すはずであった。


 それが幕府における予想を上回る将軍との駆け引きの末、武田の西上の動きもあり無用な対立を避けるためとして2ヶ月程度で美濃へと帰国している。


 本来の目的こそ達成出来なかったが、動員した部隊に関しては損傷が少なく、そのまま他の戦線へと展開することが可能な状況であった。大和が駄目なら北近江というわけである。


「相手がされて一番いやなことを見抜くのが上手い人だからね。佐渡守には不服でしょうけど、あの人は問題を雪だるま式に膨れ上がらせるのも得意だけど、危機になると不思議と何でも解決して来たんだから、安心してもいいと思うわよ」

「……情況が好転した際に油断して、とんでもない失態をする癖だけはどうにかしていただきたいものですが」

「ま、そこが可愛いんだけどね」


 世の中に女人は数多くいれども、織田三郎を「可愛い」と評するのは、先に亡くなられた生駒殿を除けばこの人ぐらいのものであろう。林佐渡守はまたも心の中だけで続けるが、次の言葉で絶句した。


「で、武田対策でしょ?」


 織田家には斎藤家の御家騒動で道三側についた親族が何人か仕えているが、林佐渡からすれば誰も彼も道三と同じ一族とは思えぬ者ばかりであった。


 それが蝮の血を最も濃く受け継いだのは、皮肉にも自らの子を成すことが出来なかった娘であるとは。


 あるいは自らの血を分け与えなかったが故に、結果的にそうなったのかもしれない。そのような愚にもつかないことを考えながら、佐渡守はなんとか口を開いた。


「……おそらくは、北の方様の御推察通りかと」

「飛騨では三木氏を攻めたし、遠山殿が亡くなられたしね。でもいまさら武田の同情に頼るつもり?」

「武田家に対しては効果がなかったとしても、対外的には当家が武田家へ配慮を示していたという姿勢にはなります。あくまで外交交渉や婚約を廃棄したのは武田側であり、織田弾正忠家ではないと主張する必要があるのです」

「遠山七頭に御坊丸を押し込んだのに、ちょっとそれは無理がない?」


 遠山七頭は東美濃に勢力を持つ国人衆である。


 土岐氏の凋落により武田に属し、同時に斎藤氏に与力し、一色時代には織田弾正忠家から妻を娶るという、いかにも国人らしい節操のなさで勢力を維持してきた。


 元亀3年(1572年)。つまり今年の5月に武田家は信濃の木曽氏と遠山の一族に、飛騨の三木氏(姉小路氏)を攻めさせた。この時、従軍した遠山一族が戦没しているが、時を同じくして(*)東美濃を守るためにその汚名を被り続けた岩村城主の遠山大和守(景任かげとお)も死去した。


 遠山大和の妻は織田弾正大弼の年下の叔母であったが、こちらも子供がいなかった。


 俄かに遠山七頭で発生した後継者問題に、先手を打ったのは織田家だ。


 武田に対する配慮よりも織田家の影響力を強めるべきだと判断した信長は、遠山七頭に自らの子(御坊丸)を養子として送り込んだ。


 これにより織田家が直接遠山一族を取り込むと共に、対武田の最前線に御坊丸を置くことで二重の意味において「人質」とした。


 仮に武田と織田家が手切れになれば、東美濃は最前線となる。信長の叔母が後見役とはいえ、いつ殺されてもおかしくないという意味では、確かに御坊丸は人質であった。


 御坊丸は信長の息子であったとはいえ母親の身分は低く、その意味では失われることすら計算に考慮されていた可能性がある。


「御坊丸も気の毒といえば気の毒だけど、こういう御時勢だしね。合戦に負けて一族郎党全滅するよりはましとあきらめてもらうしかないわね」

「御理解を頂き恐縮です」

「ま、自分が腹を痛めた子供じゃないからこんなこと言えるだけかもしれないけどね」


 林佐渡守は咳払いをすることで円滑的に注意しようとしたが、この人にはそれは通じないであろうと、しぶしぶ口を開いた。


「北の方様。それは趣味の悪い冗談というには、あまりにも度が過ぎておられるかと」

「はいはい、悪かったわよ。それで武田入道の娘の婚約者を元服させて岐阜に置いておくわけね」


 関係悪化が続く織田家と武田家をかろうじてつなぐ細い糸が、奇妙丸と武田家の松姫との婚約関係である。その松姫は織田家との関係悪化後も『新館御料人』、つまり奇妙丸の婚約者を預かる形として武田家中で遇されていた。


 実質はどうであれ武田側から婚約を廃棄するつもりはないという外交的メッセージではあるが、奇妙丸や御坊丸とはわけが異なる。何よりも相手が武田入道であることを考えれば、それを鵜呑みにする事は事実上不可能といってもよい。


「岐阜を攻めた段階で『婚約者』が『元婚約者』になるわけか。武田側から織田家との婚約と同盟を廃棄したと強調出来る。普通の領主が相手なら格好の交渉材料になるはずなんだけど……」


 鷺山殿の懸念は林佐渡も理解していたのか、重苦しい息を吐く。


「むしろあの入道殿なら嬉々として攻めてきそうね。殺しちゃえばあとくされがなくなるとか考えてさ」

「否定出来る材料が何一つありませんな」


 外交的配慮を相手の弱さであると、悪意を持って確信犯的に解釈するのが武田流である。ある意味において蝮よりも質が悪い。


「確かに対外的な喧伝も大事だけど、勝利に勝る大義なしよ。百の噂より一つの勝利。あの人はともかく、初陣の奇妙丸には貴方からよく言い聞かせておきなさいな」


 「国母」たるにふさわしい覚悟を示した鷺山殿に、林佐渡守は畏まって頭を下げた。



7月 1日 織田弾正大弼が先に降伏した松永霜台に7日に江北小谷城への攻撃に参加するため出陣を命令


7月 3日 勝龍寺城主の細川兵部大輔(藤孝)へ石山本願寺への通行者が商人に偽装・往復していることにつき注意喚起。不審者は捕獲するように織田弾正大弼が『命令』。



「天下」に対し「造意」を企んだ石山本願寺は前代未聞であり許し難いもので、織田分国中の門下が大坂への出入することを停止し、専福寺には「代坊主」を設けて、末寺は7月15日迄に門徒を退散させるべきこと、違反者は成敗することを命じられた


- 『美濃専福寺文書』 -



7月19日 織田信長が嫡子奇妙丸を伴い美濃岐阜城を出陣。総数約2万5千。奇妙丸の「具足初」だという。


7月20日 織田軍が前日の赤坂を経て近江横山城に入城。

7月21日 織田軍が小谷城を包囲。佐久間・柴田・木下・丹羽・蜂屋らに町屋を焼き討ちさせ、先遣隊が城下町に布陣。

7月22日 木下藤吉郎が山本山城の阿閉淡路守(貞征)を挑発。山本山城より出撃した足軽100騎余を撃退し、敵首50余を討ち取る。信長はこの戦功に対し「御褒美斜めならず」と喜んだ。



「敵に立てこもるような場所を残してはならぬ。元亀元年の叡山籠城を忘れるな!。疑わしきものは全て焼け!!」



7月23日 近江・越前国境の与語・木本地蔵坊中など「堂塔伽藍名所旧跡」を残らず焼き払う。

7月24日 近江草野谷に放火、大吉寺に於いて敵勢「一揆僧俗」を『殲滅』。また明智十兵衛が琵琶湖の水軍を率いて海津浦・塩津浦・与語入海・江北の浅井領を焼き払い、竹生島の一揆勢を『殲滅』。


「奇妙丸よ、いや勘九郎信重よ。この光景をよく覚えておけ。我らが勝たねば、岐阜や清洲において、武田入道の軍勢は同じことをするだろう。ここは敵地、情けは無用、容赦は仇となり自らの首を絞めることになるぞ。同情と共感は異なる。心得違いをしてはならぬ」


7月27日 織田弾正大弼が朝倉義景出陣の報を聞く。



「出てきたかっ!よし、朝倉が到着するまでに虎御前山の普請を完成させよ。相手はどこにも立て籠もる場所はない。今度は浅井・朝倉に虎御前山攻めをさせるのだ!急いで普請を進めよ!……松永の到着はまだか!あれは普請巧者だから頼りになるのだが……」



7月29日 朝倉義景率いる1万5千余の軍勢が浅井救援のため近江小谷に到来。隣接する大嶽に布陣。


同日 何故か出陣を遅らせていた松永霜台、江北出陣の隙を窺い山城方面へ出撃。



「あんっの糞爺ィ!!!」



(*)遠山景任は8月に病死したとされています。ひょっとすると旧暦と新暦の差かもしれませんが、話の展開上5月とします。



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