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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀3年(1572年)
47/53

斯波義銀「あの馬鹿親父はどこだぁ!!!」三淵大和守「ちょっと越後まで避暑にいってくると、先ほど出て行かれました!」


 元亀3年(1572年)の5月の中頃。今日も今日とて、これという仕事もないのに二条城へと遊……出仕して来た斯波武衛は語った。


「京の夏は暑いと思わんかね」


 その言葉通り、だらしなく胸元を広げて自分の扇子で風を送っている。


 これに対して「管領様の御相手」との陰口とも慰めともつかぬ、有難くともなんともない異名で知られる三淵大和守(藤英)は「はぁ」と肯定とも否定ともつかぬ生半可な返答を返したことが、そもそもの始まりであった。


「比べる術はないが、尾張清洲よりも明らかに暑くはないか?」

「京は四方を山に囲まれているためか、溜まった熱の逃げ場というものがございませんからな。海風は無論、川からの風も限定的ですし」

「うんうん、そうであろう、そうであろう」


 後に三淵大和守は「なぜ自分はその時、その言葉の意味について深く考えなかったのだろう」と、この時の自らの対応について後悔することになる。




- ちょっと越後まで出かけてくる。涼しくなる頃には帰ると思うので、よろしく頼む -





- 前の管領の斯波武衛、5月24日に京を立つ。小笠原喜三郎(貞慶さだよし)、細川陸奥守(輝経てるつね)ら30名ほどを率い丹後から一色水軍の協力により三国湊経由で能登へ。能登からは輪島水軍の協力により越後へ向かう。『暑さを避ける』ための私的な旅であるという。若武衛(斯波義銀)と三淵大和、大いに苦労す - 『細川両家記』 -



 えー、この時の『暑さを避ける旅』という表現、これが日本における避暑の始まりという話もありますが、今のところは賛同を得ておりませんね 


- 西日本大学『近代避暑地とリゾート開発にみる私営鉄道の経営』講義録より抜粋 -



 北陸道はかつてはこしと呼ばれていた。高志とも古志とも書いたようだが、一説によると「ここをせば蝦夷(大和朝廷に服属していない地域)」という意味であったらしく、そのため出羽や蝦夷もふくめて越と呼ばれたという。


 時代が下り律令体制が導入されると、西より越前(若狭を除く福井県)、越中(富山県)、越後(佐渡などを除く新潟県ほぼ全域)と3つの国に分割された。


 都に近いほうから前・中・後である。


「実にわかりやすい名付け方でしょう?」


 自らと名乗る庵号とは裏腹に、国名の由来に関する薀蓄を披露した上杉不識庵(謙信)。これに対して客人であるところの斯波武衛は「はてな」と首を傾げた。


「何か足りなくないかね?」

「能登と加賀ですね」


 白頭巾を片手に笑いながら頷いた不識庵であったが、この時の彼は越中出兵を前にして多忙を極めていた。それも直前には関東上州から帰還したばかりである。


 その理由は、またもや性懲りもなく決起した越中一向一揆を討伐せんがためだ。急遽決まった出兵のための軍勢の再編成に追われる越後春日山は、慌しい喧騒に満ちていた。


 そうした状況下でありながら前触れもなく突然訪問した斯波武衛の一行を、上杉家は(表面上は)快く受け入れた。本来であれば相手などしている暇はないのだろうが、幕府や織田弾正忠家とは対本願寺で共通の立場にある。その両者に対して影響力のある斯波武衛家のを無碍にするわけにもいかなかない。


 ……という一見すると至極もっともらしいサボりの理屈と理由をこねる当主に、上杉家の重臣らはあきらめつつも接客の対応を押し付けた。


 春日山の中でもほどんど唯一といってもよい静寂に満ちた城主の部屋は、昨年と替わらずに汚かった。書物や経文が乱雑に積み上げられて、幾つかは雪崩を起こしている。書き損じた紙がくしゃくしゃに丸められて、まるで童が雪合戦に及んだ後のごとくに部屋のそこかしこに落ちていた。


 そんな中で不識庵はさも当然といわんばかりに腰を下ろしていた。右隣には酒の入った瓢箪をいくつも並べている。


「あまり知られてはいませんが、加賀国は室町に幕府が置かれる頃までは、越前の扱いだったのですよ。能登は……まあ、その越中の一部になったり独立したり、また組み込まれたりとで、正式な成立まで100年ほど掛かりました」

「越中の一部ですか。匠作畠山の先々代(畠山義続)が聞けば怒るだろうな」


 武衛が匠作畠山の名前を出したことに不識庵は一瞬だけ剣呑な視線を向けたが、直ぐに酒色を帯びたものへと戻した。


「よくぞ畠山左衛門佐(義続)殿を説得出来ましたね。あのお方は妹2人が承禎入道(六角承禎)の正室と継室。義理の弟が南近江で織田弾正大弼(信長)殿とあれだけしぶとく戦い続けておられるというのに……」

「なに。遠くの親戚より近くの他人といいますが、本領回復の宿願を唆したまでのこと。それに匠作畠山は色々と使いやすいですからな」

「幕府にとってですかな?それとも織田家にとって?」


 斯波武衛はそれには答えることなく、不識庵から勧められた瓢箪に口をつけた。


 畠山家の中で能登畠山とも呼ばれる匠作畠山家は、足利義満の時代に一時的にではあるが本家の家督を相続するなど、きわめて格式が高い。応仁の乱では西軍に属して畠山義就(畠山総州家初代)を支持しており、同じく西軍であった六角との婚儀も自然なことであった。


「天文の終わりごろだったと記憶していますが、晩年の畠山尾張守殿(畠山稙長。畠山高政の伯父)が、匠作畠山の左衛門佐(義続)を跡継にしようとしたことがありましたね」


 不識庵は、かねてからの疑問を前の管領に投げかけた。


「実子や実弟がいるのに、能登の分家から養子を迎える意図がわかりませんでしたね。外から見ている限りでは御家騒動の種を自ら呼び込んでいるようにしか見えませんでしたが」

「当時の能登は畠山修理大夫殿(義総)の下で匠作畠山の全盛期。能登の財力を背景に傾いた家を立て直そうとしたようだと聞いている。それに匠作畠山からすれば東西の畠山家を一統する好機……まあ義総殿が没したこともあって破談となったようだが」


 応仁の乱で東軍に属したのが畠山尾州家、西軍に属したのが畠山総州家と能登畠山である。


 こうした関係にもかかわらず天文14年(1545年)に死の床についていた尾州家の稙長たねながは尾州家の後継としてに、能登畠山の左衛門佐(義続)を指名。稙長には弟がいたため、話は混乱した。


 結果的には義総が没して義続が能登畠山を相続し、尾州家は弟の政国が跡目を相続することで決着がついたが、この政国の子が当代の播磨守(高政)である。


「今に負けず劣らず当時の畿内も混沌としておりましたからね。仮に左衛門佐殿が尾州家を相続しておれば、今頃はどうなったでしょうか」


 水を向ける不識庵に「どうにもならぬだろう」と斯波武衛はそっけなく答えた。


「三好か細川かそれと木沢か。そのどれかに抵抗するまでもなく押しつぶされていたであろうよ。義総殿が健在であり、六角が支援したとしても戦力にかけている。仮に匠作畠山の当主が誕生していたのなら、河内や紀伊では外様に過ぎぬし」

「その左衛門佐殿を、いかなる理由で越後にまで連れてこられたのですかな」

「六角と手を結んで、下らぬ動きをされてもかなわぬからな」


 悪びれもせず押し付けにきたと語る斯波武衛に、不識庵は伸びた髭を撫でる。


「越後ならば孫(義慶)が当主である能登七尾は目と鼻の先。能登に帰りたい老人と、厄介払いをしたいこちらの思惑が合致したわけだ」


 その点については幕府内部の政治的駆け引きも含めて、不識庵も承知している。


 尾州家の守護が暗殺された河内半国守護には、総州家の畠山次郎(尚誠なおまさ)が就任した。とはいえ100年近く対立を続けてきた尾州と総州の両家である。一時とはいえ尾州家の後継候補となったこともある老人が、それも南近江で織田家相手に抵抗を続ける六角と縁戚関係にある人物が畿内にいては幕府にとっても迷惑なのだろう。


 だがそれは幕府の理屈だ。


「こちらが引き取る義理があるとは思えませんが」


 越後には何の関係もないとする不識庵に、武衛が品物を売り込む商人のような口ぶりで、老人の利用価値について語る。


「能登への牽制にはなるだろう。なにせ追放されたとはいえ元の守護だ。使い道はいくらでもある」

「輪島水軍が黙認するだけの影響力ですか」


 能登の輪島水軍は張子の虎ではない。船舶を臨検して元能登守護が同乗しているのを確認しながら「問題なし」として通行を許可した。この点を日本海経由で畿内との取引も多い越後の国主としては如何に評価するべきか。


 わずかの間、不識庵は瓢箪を傾けながら思考に耽り、反駁する理論武装を整えた。


「左衛門佐(義続)ではなく、幕府の重鎮たる武衛殿に配慮したということではありませんか?」

「無論その側面はある。だがそれはそれとして左衛門佐の越後下向の情報は七尾にも伝わっているだろう」


 先に既成事実を作り上げておいてよく言う。不識庵は表情に出さず呆れた。


 畠山親子(義続・義綱)は匠作畠山の重臣合議により追放された。能登の新たな混乱の火種となりかねない人物の移動が伝わっていながら黙認した。あるいは見逃した。


 つまり能登は一枚岩ではないということだ。


 とはいえその程度のことは不識庵と上杉家にとっても周知の事実である。不識庵は頭をくしゃくしゃと掻いた。


「能登と加賀・越中一向一揆は仲の悪い双子のようなものです。前者が一枚岩ではないのなら、後者も同じこと。端的に申し上げて、まだ私は左衛門佐(義続)を引き取る積極的な動機が見つからない」

「今すぐ使えなくてもよいではないか」


 体よく断ろうとする不識庵に対して、説き伏せようとする武衛の口調は、わけありの布地や腐り掛けの野菜を押し売りする物売りの如くにしつこかった。


「現に越中はもともとは尾州家が分国ではないか。血による繋がりというものは、いつどこで役に立つかわからぬもの。手札として手元にあっても損はなかろう?ひょっとすると越中国内の統制にも使えるかも……うん?越中?」


 そこで斯波武衛は唐突に目を瞬かせて黙った。


 怪訝に思う不識庵に対して、武衛はあたりをはばかるようにして越後国主の顔を覗き込んでから言った。


「……神保の先代。ひょっとして死んでおるのか?」

「勘のいい人は嫌われますよ。特に私とか」


 冗談めかして不識庵が言うと「おぉ、怖い怖い」と斯波武衛は両肩をすくめて見せた。



【元亀3年(1572年)7月3日 甲斐山梨郡古府中 躑躅ヶ崎館】


 諸国の風俗(県民性)を記した『人国記』と呼ばれる書物がある。


 その中のどこにも書かれていないが、筆者は信濃(長野県)の人間であることは間違いない。


 何故なら『人国記』の中で、信濃以外は味噌糞に評価されているからだ。


 例えば和泉(大阪府南部)だと


- 実直さがない。基本的には有能なものはおらず(千人に一人か二人はいるかもしれない)、末法の世めいた場所である。元々河内と紀伊より分離した国だそうだが、共通しているのは人を騙くらかす文化 -


 ……よくもまあ、わずか2行か3行でここまで悪し様にいえたものである。


 それが信濃のことになると


- 信濃の国の風俗は、武士の風俗天下一なり。百姓町人の風儀も律儀で義理強くして臆することなく、百人に九十人は律儀 -


- 然れども辺鄙な国なるが故に、かたくへなき事も多しといへども、善十にして悪一、二の風俗なり -


 おそらく信濃出身の作者は故郷を出て散々に世の中の辛酸を嘗め尽くし、故郷に帰ってからこの本を書いたのだろう。面白いといえば面白いのだが、一体全体、どんな苦労をすればこうも根性の捻じ曲がった文をかけるのかと、ある意味不思議で仕方がない。


 そんな出所はおろか執筆者も不明の本の愛読者が、甲斐の躑躅ヶ崎館にいる。


「ふむ……『甲斐の人勇を持って始めとし勇を持って後とす』、これはその通りであろうが。ふむ……『機微の分かる人間を遣わせて、厳然と威を正しくして公平な治世を教えこめば自然と道理に服す』か……ほぅ、なるほどな。当たっている面もあるか」


 『善1に対して悪10なり』と自らの領国を評した書物に目を通しながら、武田大膳大夫(徳栄軒信玄)は、剃り上げた頭を撫でていた。


 風俗(県民性)という、一見合理的に見えて何の根拠もない感想のような本を、合理主義の塊のようなこの男が愛読しているのは、如何にも滑稽なことのように思われたが、それを指摘するものはこの場にはいない。


 当たり前である。ここは厠だ。


 たとえ畳六畳という異様な広さであろうとも、書類箱が置かれていようと、文机が置いてあろうとも、香が立ち込めていようとも、音を消すためのいくつもの仕掛けが施されていようと、食べ掛けの干し柿がおかれていても、ここは厠である。


- 太郎様、また厠ですか -


 そういえば、昔はこうして厠に籠もる度に次郎(信繁)に呆れられたものであった。


 武田大膳大夫はふと昔に弟と交わした会話を思い出しながら、『厠』の畳の上で仰向けに寝転がった。


(3人、いや4人か)


 天井の木目を追いながら、ふと感じた天井裏に控えている気配を数えてみる。昔から勘は鋭い方だが、最近は特に敏感になったようだ。


 おそらくそれは……


- 論理的ではありませぬな -


 あの隻眼の男であれば、微塵の笑みも見せずに否定しただろう。今から思えば、そこがあの男の長所であり、限界でもあった。こうやって自分が『人国記』を読むことも「おおよそ根拠のない第三者の思い込みを戦略の根幹にすえてはいけませぬ」と否定的であった。


 無論、この記述をすべて鵜呑みしているわけではない。しかし思い込みであれなんであれ、このように風俗を解釈した人物がいて、読みつがれて来たのは厳然たる事実だ。


 あの越後の詐欺師がと名乗るように、人の手と目の届く範囲には限界がある。全てを自ら知ることも経験することも不可能となれば、このような『愚にもつかない書物』にも、おのずから使い道というものが見えてくるというものだ。


 人とは他人からの評価に飢えた獣であると、武田家の当主は捉えている。


 あらゆる煩悩も突き詰めれば、その多くが自己承認欲求にたどり着く。人は他人を評し、自らを評価されることに飢えた存在だ。


 故に根拠があろうとなかろうと、他者を「こういうもの」であると決め付けたがる。


 それが評価する側であれ、評価される側であれ、最も自分と共通の性質を持つ人物を見つけるための最短の手段であるからだ。


- 貴様は新羅三郎義光以来の武田を相続するにふさわしくない!この儒子じゅしが -


 「あの男」がそうやって自分を否定する度に、弟と勘助は自分の味方となった。


- 太郎様こそ、楯無たでなしを着るにふさわしいお方です -


- 大事なのは御屋形様に御意思があるか否かです。それ以外は瑣末なこと -


 異形の軍師と同腹の弟は、性格的にも個人的にも関係は良好とはいえなかったが、不思議と考えは似通っていたように思う。最も本人達はそれを否定するだろうが。


(落命する時まで合わせずともよかったものを)


 ふつふつと腹の底から静かな激情がこみ上げてくるのを感じる。


 余人を持って代えられない弟と、生涯において二度と得がたい腹心を同時に失った4度目の川中島。


 上杉不識庵個人に向けた感情ではない。


 決着をつける事を焦り、判断を誤ったことで多くの家臣を失ったことへの自分自身に対する怒りであり、そしてその感情を未だに制御することの出来ない自分自身に対してのものだ。


 脱線した思考を戻さねばならない。


「あの男を足止めするためには……」


 武田大膳大夫は起き上がると文机に向かい『人国記』の越中の項目を引いた。


- 陰気のうちに智あり、勇あり、佞なるところ多し -


「ふむ……」


 越中一向一揆と上杉不識庵、つまり越後守護代の長尾氏との因縁は、その祖父の代にまでさかのぼる。


 越中を大きく東西に二分する西の神保氏と東の椎名氏の争いは、後者に越後長尾氏が味方し、前者に一向一揆が加担。不識庵の祖父を敗死へと追い込んだ。不識庵の父親も、そして不識庵自身も延々と戦い続けている。


「佞なるところ多し」


 神保と椎名は上杉派であったかとおもえば一向一揆に味方するという叛服常無しという有様(両者に支援を与えて扇動しているのは武田である)。


 越中一向一揆も上杉への降伏と蜂起を繰り返し、さながら乾燥しきった冬の山火事が如く火種の絶えることがない(火種を大きくする努力をしているのも武田である)。


 たしかに「佞なるところ多し」か。


 椎名右衛門大夫(康胤)は問題なかろう。ただ神保はどうか。


 神保家は秘しているが、先代の神保宗昌(長識)はすでに死去したとの知らせを武田大膳大夫は確認している。


 神保宗昌は上杉から寝返って一向一揆についた。だがその息子はどうか?経験も覚悟もない若い当主に、椎名と協調して上杉と戦うのを求めるのは無理というものだろう。


「陰気のうちに智あり、勇あり、か……」


 日本海側の雪国気質とでも言うべきか、越中は謹厳実直ではあるが暗いと『人国記』に記されている。


 しかし知恵はあるし勇気もある。あの戦にだけは人後に落ちない軍神相手に一歩も引かずに、諦めることなく戦い続けるのを見れば、それは証明されている。


 しかし将来的な目的があるわけではないので、結果的に向背定かならぬ。それが「陰気のうちに智あり、勇あり」。


 知恵と勇気はあっても目的がない。だからこそ直ぐに従うし、直ぐに歯向かう。


「これでは足りぬ」


 神保や椎名が越後の詐欺師に勝てるとは思わない。しかし足止め役ぐらいは果たしてもらわねば困るのだ。


 これでは明確な遅延戦術など望むべくもない。


 それでは意思なき集団に意思を芽生えさせるためには如何にすればよいか。


 大膳大夫は再び『人国記』をめくる。


- 風俗、上下ともに爪を隠して身を陰かに持つ、諸事の道につき、吾が国より外に差して替る道理もあるまじきなどと、他を求むる気これなき風俗にして -


「ふむ。自尊心が高く、それにふさわしい能力もある。しかしいざという時は動きが鈍くなる……」


 加賀の項目を何度も指でなぞりながら、武田大膳大夫は何かを確かめるように何度も口の中で繰り返す。


「乞食の自尊心を煽り、強盗に意思を持たせる。後は……」


 そこまで考えを巡らせた大膳大夫は、脳裏に浮かんだ越後の詐欺師の幻影に顔を顰めた。


 知恵も勇気も胆力もありながら自分のためには戦わないと嘯く男。いったいあの男のためだけに、我が武田家がどれほど煮え湯を飲まされたことか。


 だが所詮、あの男も自らの意思を持たぬ男である。


「大義名分がなければ戦わぬか。ふん。それだけ戦う理由が欲しければ、望みどおりにくれてやるまでよ」


 もはや自分の傍には目的達成のためには手段を選ばぬ策を立案する腹心も、自分を他の誰よりも理解してくれた弟もいない。


「まだ条件がそろわぬか」


 それでも自分はこの歩みを止める事はないだろう。


「まだ動けぬ」


 武田の御旗の下、死者への責任と生者への義務を果たす為に。


「しかしその時は必ず来る」


 そして自分自身が何者であるかを、新羅三郎の血ではなく自らの生き方によって証明する為に。


「それまでは……」


 自らの疼く胃の臓を抑えながら、武田大膳大夫は独語した。



老成した金髪の儒子。ただしハゲ。上杉のモデルが紅茶提督だと、どうしてもね。



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