斯波武衛「三郎は激怒した。必ずかの邪智暴虐の甲斐の王を除かねばならぬと決意した」織田弾正大弼「拝啓-春の暖かさを感じる日が増えてまいりましたが、入道殿には如何お過ごしでしょうか」徳川三河守「おい」
5月3日 大和諸勢力に織田家から正式な通達あり。松永征伐か。
5月4日 大和に一両日中に織田軍着陣との知らせに「以之外物騒」な状態になる。
5月5日 織田軍の先遣隊が大和西京に着陣。筒井より大和興福寺へ種々の通達あり。
*
いや本当にこの度は御迷惑をおかえしております。いやいや、織田弾正大弼様はそのような無体なことは致しませぬ。不肖この陽舜房が許しませんとも。叡山はあくまで浅井・朝倉という幕府が討伐令を出した対象と手を組んだため。いくら織田弾正大弼殿とて、何も理由なく焼き討ちなどいたしませぬ。東大寺を焼き、古の帝の眠る地を城や砦とした松永霜台(久秀)の悪行と比べるまでもありま……
え?織田弾正大弼が地蔵で石垣を?
何をおっしゃいます、貴方それをご覧に……
あ、なられた?二条城造営の現場で見た?
あー、それはたまたま石の削れた文様が地蔵のように見えただけで……
え?据え置いた場所から持っていくのを見た者がいる?
どこのどなたですか、この大和の危急存亡の事態において、そのような伝聞で話をされるとは如何にも無責任……
あ?貴殿御自身?
あ、いやいやいや、そのようなつもりで申したわけでは。あー……、それは、いや、そのやむを得ない場合のみで。決して織田弾正大弼様は神仏を軽んじるお方では(以下略)
- 大和興福寺首脳陣と筒井陽舜房(順慶)との会話(現代語訳) -
*
同時期に興福寺領で山木の立ち枯れが相次ぐ。多聞院英俊(興福寺多聞院主・法印権大僧都)が「寺頓滅ノ期至歟」「武家入国旁々心細者也」と記す。
5月7日 織田軍の本隊が大和国西京表に布陣。
*
いやいやいや、ご心配はごもっともですが、織田の軍律は三好三人衆とは比べ物にならぬほど厳しいものです。私は京で実際にこの目で見ております。一銭切りと申しましてな、足軽が一銭盗んでも首を切るという苛烈さ………
え?その代わりに自主的な軍資金提供という形で合法的に恐喝するつもり?
いやいや、そのようなことは。ただ大和への駐在に際しまして、皆様の御力添えと御協力を御願いしたいという次第でございまして……
ええ、ご心配はごもっともですが、お考え下さい。支払う先が松永から織田へと変わるだけでございますから。いやいや、私はただの代理人でございますので。織田弾正大弼様も私も、この際ついでに吊り上げようなどとは毛頭思っておりません。私の頭をご覧下さい。毛がない、つまり毛頭ないわけでございまして、はい……
え?面白くない?
- 大和今井の年寄会に出席した筒井陽舜房の説明(現代語訳) -
*
5月8日 銀子320枚(大和国全体として)、銀子100枚(興福寺)、銀子50枚(東大寺)、大和入りする直前の織田家に上納。多聞院英俊は「先以安堵了」(間に合ってよかった)と記す。
5月9日 筒井順慶が東大寺南大門に布陣
同じ9日 織田軍が多聞山城を包囲。松永は幕府と織田家に対する敵対姿勢を明確にした。
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ついに、ついにこの日が来た!皆の者共、苦労をかけたっ!!
……思えばわが父が死去して早22年、松永霜台なる他国者に大きな顔を許してきたのは、中央における権力闘争、そして我が筒井の力のなさであった。筒井城を追われ、大和各地を放浪し-(略)-というわけだ。思えば我筒井の家は興福寺が
(中略)
者共、多聞山攻めじゃ!松永霜台の皺首、わが父と叔父の墓前に備えるのだ!!!
- 東大寺南大門における筒井陽舜房の決起宣言(現代語訳) -
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この松永霜台、幕府と織田家に弓引こうとは夢にも思わず。この度は『不幸』な『行き違い』によりこのような仕儀となりましたが、過去のことは水に流しまして、是非にも前向きな対応で善処していただくことを希望する次第です。我が主の三好左京(義継)もより一層の幕府への忠誠を誓うと申しております。
*
即日、織田家は松永の謝罪を受け入れたものと思われる。大和平定の目的を達成。
5月11日 幕府軍と織田軍が帰洛
5月14日 織田信長、岐阜へと帰還を開始。
- 『多聞院日記』『吉田兼見日記』より -
*
「…………は?」
- 塙九郎左衛門(直政)より織田家の大和撤退を知らされた筒井陽舜房の反応 『信長公記』 -
*
【元亀3年(1572年)5月21日 京 上京武者小路 旧徳大寺邸宅跡(織田弾正大弼屋敷普請現場)】
「また大和の筒井陽舜房(順慶)からですぞ」
石を運ぶ人足の掛け声に混じって、前田孫十郎(玄以)が一尺はあろうかという書状の束を、普請現場を指揮する村井長門守(貞勝)にうんざりとした表情で突き出した。
送り主は筒井陽舜房。多聞山城まで押し寄せながら、わずか数日で撤退を攻めた織田家の対応をひたすらネチネチと詰り、延々と恨み言を経文のように書き連ねた書状が日に2度、多いときは3度送られてくる。
村井長門守は自分では気の長い性格だと考えてはいるが、これにはいい加減疲れ果てていた。
「なにゆえ私のところに送ってくるのだ。大体、大和の取次は塙九郎左衛門であろうが」
「私のところだけではござらぬ」
「なんじゃ、来ておったのか九郎左衛門」
玄以の背後から件の塙九郎左衛門が顔を見せると、村井長門が咎めるような視線を向けた。
「お主は取次として何をしておるのだ。ちゃんと筒井と話しておるのか。お主の頭越しに京の私の所にまでこのような恨み状が来ておるぞ」
「長門守様だけではございませぬ。あの糞坊主……いや失礼。筒井殿は島田但馬様、中川駿河様、明智十兵衛様に幕臣の細川兵部様、三淵大和様と手当たり次第に幕府や織田家の有力者に送りつけております」
よく見れば塙九郎左衛門は自分以上に草臥れており、頬髭も心なしか垂れ下がっているように見えた。書状の送り先から「貴様は何をしているのか」と詰られたのだろう。
とはいえ取次とはそうしたことも含めて、相手が不満なら因果を含めて納得させるのも仕事の内である。
「筒井殿が面倒な性格をしているのはわかるが」
「自分の不手際について言い訳するつもりはございませぬが、私個人としても、今回の御屋形様の大和遠征は対応が不十分ではなかったかと考えております。自分が腹の底で納得していないものを、他人に説くことは……」
「九郎左衛門、それ以上の発言は許さぬ」
村井長門がピシャリと断言すると、九郎右衛門は居住まいを正して「心得違いでありました」と頭を下げた。
いかにも文官という村井長門守が、主君と共に幾多の戦場を渡り歩いてきた勇者を圧している。言葉にすると不自然だが、経験の差というものはこうも如実に現れるものかと前田孫十郎は生意気にも感じ入っていた。
ひょっとすると与えられた権限による覚悟の差なのかもしれないと孫十郎が考えていると、村井長門が「とはいえ」と溜息をついた。
「たった1日では、いかにも最初から示し合わせていたのではないかという不満も最もではあるか。それでも説得してもらわねば困る」
「正直、私では松永霜台殿の相手は荷が重すぎます。あのお方は私の頭越しに明智殿や佐久間(信盛)様と平気で接触なさいますし、幕閣との繋がりも。ある事ない事、そしてない事……その真偽を確かめているうちに日が暮れてしまい、挙句に御屋形様と直接話すなど言い出す始末」
「それを何とかするのが、貴殿の役割であろうが」
「一度城を攻めて、謝罪を受け入れて撤退。そして岐阜への即時の御帰還です。織田家が武田入道を恐れているという噂が大和で流れています」
「意図的に噂を流すものがおりますな。誰とは言いませんが」
前田孫十郎が指摘すると、塙九郎右衛門は頬髭を撫でながら苦虫を噛み潰したように呻いた。犯人の心当たりはあるが、確証はどこにもない。松永に三好三人衆、織田に好意を持たない南都諸勢力、六角残党……疑い出せばきりがない。
噂を否定しようにも、武田が織田家にとって東部国境における驚異なのは事実である。ただそれを織田家に悪意のある解釈をして流布する勢力に対して、大和の取次としてどう対処するべきか。
ほとほと困り果てている塙九郎右衛門に、長門守が言う。
「徳川三河守殿からは援軍を出して欲しいと矢の催促だ」
「徳川様には先の野村合戦(姉川の戦い)を始め、幾多の合戦で軍事的支援を頂きました。ある程度は仕方ないのでは?」
九郎右衛門の現状認識に大して、長門守は強い口調で反論する。
「九郎右衛門。西は大友と毛利から山陽・山陰の各国の小勢力、東は武田は言うに及ばず上杉、北条、奥州伊達に至るまで。そして全土に散らばる一向一揆や六角残党。今の織田家はいくら手があっても足りぬのだ。徳川殿には申し訳ないが武田単独なだけ、まだましともいえよう」
「されど駿河を挟んで北条氏が武田と和睦した今、武田入道は後顧の憂いなく西進してくるでしょう。一方的にお手伝い戦ばかりでは」
「だから御屋形様は岐阜へと戻られたのだ」
朝廷や幕閣との折衝においてこの手の説明になれている村井長門守は、説いて聞かせるように続ける。
「岐阜への御帰還は東美濃への牽制の意味合いもあるが、御屋形様が岐阜に滞在することで武田に対して飛騨や信濃方面の東山道と、東海道の二正面作戦を武田に強いる事になる。それだけでも徳川家の負担は少なくなるだろう」
「いざとなれば援軍を岐阜や尾張から出すことも可能だと?」
「越後の軍神を、北陸道の一向一揆勢が足止め出来るのも限界があるしな」
長門守の説明を受けた九郎右衛門は顎に手を当てて考え込んでいたが、自分の思考と疑問を整理し終えると、納得したように語った。
「昨年の武田の東遠江と東三河侵攻は約3ヶ月でした。3ヶ月が武田家の軍事作戦期間の限界と考えると、北条と再同盟を結んだことを考慮しても、武田単独では半年程度が限界でしょうか」
「左様。半年持ちこたえてくれれば、我らに勝機がある」
『武田に戦いを強いた』のではなく『武田に戦いを強いられた』の間違いではないかと前田孫四郎は考えたが、言わずもがなのことを敢えて言うことはしなかった。
無論その点に関しては村井長門も九郎左衛門も理解していたが、言葉にするとそれが真実と認めるようであり、また武田家と正面から戦わざるを得ない徳川家への後ろめたさから同じく口にはしなかった。
「松永殿はまことに煮ても焼いても食えぬ御方です。まぁ松永や武田はともかく…いや、確かに武田は重大な脅威ではありますが。実際のところ、私の懸念はそこにはありません」
「口幅ったいな九郎左衛門。何が聞きたい」
塙九郎左衛門は一瞬だけ言い澱んでから、ずばりと切り出した。
「上様と御屋形様との関係です」
声がかき消される普請現場は、格好の密談場所でもある。顔色を変える前田孫四郎とは対照的に、村井長門守は平然と「どこから聞いた」と訪ね返してみせる胆力を示した。
「さこの方様の御懐妊や御正室の問題、但馬山名と丹波赤井氏の問題の路線対立、尼子再興運動と毛利氏との関係……武田の西進同様、こちらも種々の情報が乱れ飛んでいます」
「その中に虚報ではないものが含まれていると考えた理由を申してみよ」
試すような長門守の設問に、塙九郎左衛門ははっきりと答えた。
「上山城守護の人事、少なくとも私は直接に斯波武衛様を始め幕閣の何方からもお聞きしておりません。また御屋形様からもです。また岩成主税助(友通)が賀茂神社領を横領したと聞きました。新たな守護である光浄院殿(山岡景友)の黙認がなければ、都においてそのような無理無体が通るわけがありません」
「うむ」
村井長門守はその回答に対して流石に御屋形様(信長)が抜擢した幹部候補なだけはあると、満足げに頷いた。
近江大津の園城寺(三井寺)は伝教大師(最澄)の弟子が天台宗のあり方をめぐり分派したもの(寺門派)で、在りし日の叡山(山門派)と激しく対立した。何しろ大津は叡山と目と鼻の先。武力衝突も度々起こった不倶戴天の間柄であった。そのため叡山焼き討ちの際には織田家の本陣を喜んで迎え、叡山が焼けても天台は健在という喧伝役をむしろ積極的に果たした。
光浄院は園城寺にある子院の一つで、近江瀬田-すなわち近江と山城の国境を本拠地とする山岡氏が建立した。代々の院主は当然ながら山岡氏であり、当代の光浄院暹慶もそうである。その光浄院の院主を、将軍足利義昭が上山城半国守護に任命したのが5月8日。
すなわち大和に織田家の軍勢が入る前日である。
*
「あの糞将軍があああ!!!」
「御屋形様、陣中でございますぞ、どうぞ気をお鎮めに。床几を蹴って怪我でもなされればどうなされます……権六(勝家)の髭達磨め、また逃げたな……あぁ、いやいや、こちらの話でござる」
「お腹立ちは最もでございますが、ここは松永の申し出を受け入れるべきでございましょう。美濃の遠山からも武田家の不穏な動きが報告されておりますし、徳川三河守殿からも矢の催促でございます。ここはひとつ」
「私が京にいないときはあれだけ政務を停滞させておきながら、あの将軍、いざ私が京から離れた途端に好き勝手しおって!ならば私が普段から岐阜におっても、それぐらいの速さで懸案を処理すればよいのだ!何が私の意向を伺うだ!殿中御掟をいかに考えておられるのだ!!!」
「……いや、まあそれは御屋形様も在京されていない弱みというものがございますし、村井長門守殿や斯波武衛・若武衛(義銀)親子にしても、上様の御意向とあれば正面から反対出来ません。彼らは所詮は代理人であり、御屋形様ではありませんので。むしろ勝手な判断をされるほうが重大な問題かと」
「では何故私に直接言わない!なにゆえ事後承諾なのだ!!!」
「その点は帰洛されてから、直接上様にお尋ねなさればよろしいかと。ところで多聞山との交渉ですが」
「……右衛門尉(佐久間信盛)に任せる!!一当てして引き上げの用意をいたせ!!!」
*
「……ということがあったらしい。佐久間殿も気苦労なことよ」
まるで見てきたように語る村井長門守に、塙九郎左衛門は「折衝の結果はどうなりました」と尋ねた。
「どうにもこうにも。受け入れざるを得まい。その点は上様は強かだ」
園城寺に影響力を持つ山岡氏は、かつて六角氏に従い上洛軍に抵抗したが、叡山焼き討ちを前後に幕府と織田家に帰順した。
光浄院暹慶は当代の山岡氏当主の弟であり、瀬田という戦略的な要所に影響力を持つ地元有力豪族である。また園城寺が現政権を支持し続けることは、織田家にとっては叡山焼き討ちの大義名分を確保し続けるためには欠かせない。
この点を合わせて考えれば、光浄院暹慶の山城守護任官は幕府にとっても織田家にとっても悪くはない人事だ。
「山城はこれまで守護が置かれていなかった。上山城守護代に勝竜寺城主の細川兵部大輔(藤孝)殿、下山城守護代に真木島玄蕃頭殿が任命されていたが、考えようによっては織田派ともされる兵部大輔殿の棚上げとも受け取れようの」
「この場合は棚下げとするべきか」と長門守が続ける。
「御屋形様は光浄院暹慶個人に対する不満があるわけではない。現状の混乱を考えれば、もっと早期に空席を生めるべきだったという御意見だ」
「織田家の軍勢が京の周辺にいたからこそ出来た人事ではございませんか?いくら人事案が優れていようとも、地元国人が受け入れなければ絵に描いた餅です」
上山城の守護職といえば政治色を帯びざるを得ませんからな。織田家の軍事力を背景にしていたからこそ、上様は人事案を押し通せたのでしょう。まさか織田家に断りもなしに決めた人事だとは思いませんよ、普通はね」
前田孫十郎の推察に「だからお怒りなのだ」と村井長門守は両手を握り、人差し指で角の形を作って額に当ててみせた。15歳で事実上家督を押し付けられ、それ以来延々と一族や外戚、外部勢力と権力闘争の荒波を延々と戦い続けて、今日まで来た織田弾正大弼である。足利義昭の見え透いた意図-というよりも露骨すぎて隠す気すらない人事案は、上洛してこの方『山積する幕政の課題』を処理し続けてきた織田弾正忠家の当主の神経を逆なでするのには十分であった。
「幕政の主導権を見せつけたいのだろう。山名入道への肩入れにしてもそうだ。御屋形様からすれば『自分と織田家がいなければ何も出来ない存在なのに何を今更』とお考えなのだ」
「さて長門守様が織田家の意見を代弁しましたので、不肖ながらこの前田孫十郎が恐れ多くも大樹様のお考えを代弁いたしましょう。『何を言うか!だからさっさと在京しておけといったのだ!余が軍事的な後ろ盾のない京においてどれほど苦労して幕政を運営してきたと思っておるのだ!都合のいい時だけ上洛して口煩く、何様だ!』…とまあ、このようなことかと」
人足達が奇妙なものを見る視線を向けていることなど気が付きもせずに身振り手振りを交えて好演?する前田孫十郎。渋い顔をする村井長門とは対照的に、塙九郎左衛門は呆れているのか言葉もない。
両者の反応に満足したのか、孫十郎が続ける。
「京の幕府と岐阜の織田弾正忠家という二元政府。ある意味仕方がなかったとは言え、そのツケですな。山名と赤井、尼子問題……」
但馬守護の山名氏と、丹波の有力国人である赤井氏の紛争問題では、ともに幕府に属する勢力だから公平に裁判しようという織田家とこれを支持する政所、山名宗詮(祐豊)の嫡子に名を与えた(義親)足利義昭は山名に同情的である。これとは対照的に尼子問題では心情的に尼子残党に同情的な織田弾正大弼と、所領の関係から幕府の「毛利派」である上野中務小輔が反対となる。
では将軍の側近集団は団結しているのかといえばさにあらず。先の河内半守護の後任人事では、遊佐河内守(長教)の討伐を主張する畠山播磨守(高政)と、現実的に河内の混乱を嫌った細川兵部大輔(藤孝)らが畠山総州家の擁立を主張するなど、側近同士が対立。摂津においては反攻作戦において積極策を主張する幕臣の和田氏(前の守護である和田伊賀守の遺児)と、これに反対する現在の守護である中川駿河(重政)が対立。中立派ともいえる侍所執事の斯波義銀や三淵大和守(藤英)が仲裁に走り回るものの、既に「なぁなぁ」で済まないまでに対立が激化している案件もあった。
「やはり御屋形様の岐阜への御帰還は悪手だったのでは?当初の予定を大幅に切り上げての帰国とあっては、幕府と織田家の決裂と風潮される可能性が」
「九郎左衛門の懸念も最もだが、今回に限って言えば、滞在し続けることの政治的な危険性をより重視した。御屋形様が京に留まれば余計に対立が激化したであろう。いわば感情のもつれであるからな。根も葉もない噂という言葉もあるが、事実より説得力のある証拠もない。上様の強引とも思える人事にしても、結局のところは織田家の軍事力が頼り。それがなくなれば如何に上様とて、それほど無茶はされまい」
村井長門が主君の考えを代弁したが、九郎左衛門は首を捻ったまま疑念を呈した。
「しかし『御屋形様(信長)のいない幕府』という問題の解決にはならないのではありませんか?御屋形様のいない幕府の取り仕切りにようやく慣れた上様は不満でしょうし、自分のいない幕府の運営、その割に問題が解決されていない現状に我慢ならない御屋形様とて決して満足しているわけではないでしょう」
「何事も一挙に問題解決とはらなぬものよ。今回の上洛については『織田家あっての幕府』であり『幕府あっての織田家』。その教訓を両者が得たものと考えれば、将来的に損にはなるまい。そして御屋形様は物事の優先順位を間違えられぬ。現下の状況において最も憂慮すべきなのは甲斐の武田。そう考えられたからこその帰国である。九郎左衛門も左様心得て、大和取次に励むように」
「特に、このような書状を送らせぬようにな」と村井長門守は筒井陽舜房の分厚い書状を手に、目だけが笑っていない笑顔で塙九郎左衛門に告げた。
*
「村井長門は頭が良すぎるのだな」
塙九郎左衛門と、何故か付いてきた前田孫十郎の訪問を受けた斯波武衛は、武衛屋敷の茶室に彼らを通すと、何故か茶をたてるでもなくお櫃を持ってこさせると、やおら腕をまくり始めた。
「…あの武衛屋形様?」
「いやなに、最近握っていないと思ってな」
手馴れたしぐさで塩を手に塗り、湯気の立つ米を取ると一口大の大きさに結んでいく。一握りで寸分の差もなく同じ量の米をとっていく様は見事であったが、それが何の役に立つのかはわからない。あっけにとられる九郎左衛門の耳元で、前田孫十郎が「こういう人ですから」と囁いた。
「そもそも息子に尾張守護を譲って楽隠居のはずが、どうして隠居したあとのほうが忙しいのか。まったく年寄りをこき使うとは、織田三郎には敬老精神が足りぬとは思わんかね」
「若いころに遊んでいたからではござらぬか?」
「叡山で遊びほうけておったお主が言うではないか孫十郎…まあ遠慮するな。食べていけ」
「…おいしいですな」
九郎左衛門がおっかなびっくり口に運んで思わずそう呟くと、斯波武衛は「そうか」と人好きのする笑みを浮かべた。
「やはり人間、働きすぎはよくない。ほどほどに働いて、よく食べてよく寝る。これが一番だの。織田三郎(信長)も上様も働きすぎなのだ」
「武衛屋形様はもう少し働かれたほうが」
「年寄りを働かせるとは、孫十郎はひどいやつだな!」
顔を見合わせて笑う前の管領と織田家の家臣。なるほど噂どおりの御方であると塙九郎左衛門は結びをほおばりながら一人感じ入っていた。
「武衛屋形様。頭が良すぎるとはいかなる意味でございましょうか」
「論理的思考に優れた人間によくあるのだがな…何事も自分を基準に物事を判断するゆえ、常識がわからなくなるのだ。早い話、阿呆の考えることがわからなくなる。阿呆は論理的に物事を考えられぬがゆえに阿呆なのだ。そして世間には阿呆が掃いて捨てるほどいる」
「そういえば嘗て長門守様は、叡山の意思決定構造について理解出来ぬとおっしゃっておられましたな」
「孫十郎も覚えがあるか。そういうことだ」
「その点、織田三郎は違うぞ」と斯波武衛は布巾で手をぬぐいながら続ける。
「あれはたわけだの虚けだの散々によばれていたが、基本的に頭の回転が速い。しかしあれの本質は諦めの悪い阿呆だ。普通の人間ならとうの昔に諦めていたであろうことでも、決して諦めない。意志の強さと申してよいかもしれぬな。故にただの頭の良い人間には出来ぬことを、三郎は多く成し遂げてきた。ただの阿呆には出来ぬし、頭でっかちの人間にも出来ぬことをな…うむ。上手く出来たな」
満足げに自分で結んだ米をほおばる斯波武衛に、塙九郎左衛門がさらに尋ねる。
「恐れながら大樹様は」
「諦めの悪さでは三郎にも負けず劣らずだが、頭が良いのは確かだな。しかし経験が足りない」
「一乗院門跡から征夷大将軍になられたお方です。経験という点は致し方ないのでは」
「……ふむ。そうだな。『これをこうすればああなる』故に『するかしないか』を決める。これが論理的思考だとすれば、上様のそれは『これはこうあるべき』『だからこうする』というものだ。一種の理想主義者であるな」
「御屋形様はそうではないと?」
「日ノ本広しといえども、あれほど現実主義者な男もそうはおらぬわ。現実を理想や願望で歪めてみることがまったくない。頭が良すぎるのでな。そして目の前の課題を誰よりも死に物狂いになって片付けてきて、いつの間にやら上り詰めていた。『天下布武』なる印も、どこまで本気なのか…いや」
そこまで言うと、斯波武衛は「どうであろうか」と首を横に振った。
「私が織田三郎を推し測かれるはずもない。おそらく本気なのかもしれぬし、ただ格好がいいから使い続けているだけなのか。とてつもない阿呆か。とてつもない理想主義者か…ふむ。わからんな」
「恐れながらもうひとつ。上様は何ゆえ上山城守護を唐突に決められたと御考えですか」
「それは簡単だ。自前の兵を欲したのだろう。織田に頼らぬ自分直属の。13代様を直接害した岩成の賀茂神社横領を見過ごしているのも」
斯波武衛は両手のひらを天井に向けて肩をすくめる。塙九郎左衛門は顔色を青くし、前田孫十郎はまたもニヤニヤと笑い始めた。
「つまり織田家と争うと?」
「違う違う。どうしてどいつもこいつもそうも先走るのか…そうではない。曲がりなりにも幕府としての体制を整え、いずれは奉公衆の再編という形にしたいのだろう。さすれば彼らに与える領土も金もいる」
「…なるほど。それゆえ兵糧米を金銭に変えたり、財宝を移したりしておられるわけですが」
昨年の和田伊賀守敗死後、都への物流規制はさらに進み、諸物価は高騰した。そこで幕府(義昭)は炊き出しを…するのではなく、なんと兵糧米を高く商人に売りつけ、莫大な利益を得た。これにはさすがに庶民はもとより朝廷や織田家からも苦言が出たが、義昭は「幕府財政立て直しのための最善の策」として意に介さなかった。
「実際に領土らしい領土が今の幕府にあるわけではない。全国の大名から役職目当てに送られてくる政治献金と、全国各地にある幕臣領から集めたもの。あとは京の町をめぐる数々の既得権益の再配分ぐらいのものか。幕府が機能していないという織田三郎の批判ももっともだが、いくらなんでもただで働く人間などおらぬ」
「しかしその点につきましては、御屋形様が殿中御掟で幕臣への褒美や領土は自分が負担すると」
「…三郎が意識していたかどうかはわからぬが、それは織田家による幕府の乗っ取りであろう。上様はそれを理解しておられる。頭が良いからな。しかし同時にどうすればよいのか。それはどの書物にも書かれておらぬことだ」
「武衛様は何も…あ、いや、その失礼しました」
言葉が過ぎたと思ったのか謝る九郎左衛門に「かまわぬ」と武衛は手を振る。九郎左衛門は知らず息を呑んでいた。「驚くことでもあるまい」と前の管領であり幕政の重鎮とされるはずの人物は平然と現在の幕府の欠点を指摘して見せたのだ。
「事実であるしな。問題点を指摘することは誰にでも出来る。それこそ私ですら出来ることだ。しかしな、私は京にいて誰よりも幕府のことを見ていたからわかるが、それを何とかしようと動かれたのは大樹様御一人なのだ。大樹様ほど問題を理解している者はおらず、大樹様ほどそれを深刻に考えている者もいなかった。故に誰にも頼らず、自分で何とかしようとされた。そのため悪名も御一人で背負われることに…」
「私にはその覚悟がなかった」と斯波武衛はどこか悔いるような表情で続けた。
「何に対する覚悟でしょうか」
「共に悪名を背負う覚悟だ。本来であれば斯波武衛家の当主として、上様と共に歩むべきだったのやも知れぬ。しかし私はそうしなかった。いや、出来なかったというべきか。何を言うても言い訳にしか聞こえぬであろうが、腹をくくられた上様を前にしては、それを否定することは私には出来なんだ。かといって共に歩むことも、そこまで上様に心酔出来なかった。とはいえ完全に見捨てることも…まこと血とは因果なものよ」
白湯を口に含み「しゃべりすぎたな」と斯波武衛は、黙ってこちらを見つめる塙九郎左衛門と前田孫十郎に苦笑して見せた。
「血によって与えられた地位というものは、その者が死ぬまでついてまわる。呪いのようなものだな」
「呪いとは穏やかではありませんな」
「そうだな。呪いであれば祓うことが出来るやもしれぬが、血となればそうもいくまい。改名しようと改元しようと、その者の本質というものは、変わろうとしなければ変わらぬものだ。強制されればなお更の」
『改元』という単語に、両名が反応したのを見た斯波武衛は小さく頷いた。なるほど、次世代の人材が次々と育ってきている。これではな…
「織田三郎が上様に改元を提案した。曰く『元亀なる元号は、改元以来縁起が悪い』ということだ。当然ながら費用は先のこともあるし」
「……それはつまり」
唾を飲み込む音がして、九郎左衛門は思わず自分の喉を触った。しかしそれは自分ではなく、隣の前田孫十郎のものであった。
「幕府の主導権はどちらが、いや誰が握るか。本格的な鞘当の開始というわけだ。さてどうしたものか」
それに巻き込まれることは避けられないはずの斯波武衛は、他人事のように首を傾げた。
*
5月19日 織田信長「天下の儀」を仰せ付けて美濃国岐阜へ帰還。
19日 大和国興福寺をはじめ奈良中の寺々のいくつかが、筒井順慶に金銀を上納する。5月中、松永系勢力が大和国内において襲撃される事件が相次ぐ。
*
「もう織田には頼らぬ。これからは私の力で、筒井が大和の支配者であると認めさせてくれるわ!!」
*
6月 1日 大和奈良に於いて巳刻終頃に『大地震』が2度発生。余震多数で被害甚大。
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- というわけでございまして、是非にでも幕府のご支援をお願いしたいわけでございます。大和を代表する筒井といたしましても、度重なる天変地異における被害の甚大さに -
- というわけでございまして、是非にでも織田弾正忠家のご支援を伏してお願いする所存であります。もしご支援いただければ大和の国はその御恩を末代まで語り継ぐことでありましょう。そもそもわが筒井は(略) -
筒井陽舜房「だから私をオチにつかうな!」




