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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀3年(1572年)
45/53

ルイス・フロイス「東西南北、十三面待ち国士無双!アイヤーイヤイヤー」瑶甫恵瓊「あなた本当に南蛮人ですか?」


 後世において石山戦争と呼ばれる事になる浄土真宗本願寺派と織田家の対立は、延々と互いに戦陣を絶え間なく続ける緊張状態にあったわけではない。


 北伊勢の長島においては織田家とそれに従う諸侯が、長島を陸上と海上から監視する経済封鎖を築いてはいたが、先の敗戦で懲りた織田家としては『冷戦』体制を維持することが最優先。『熱戦』には程遠かった。


 理由こそ全く異なってはいたが、本願寺も「幕府から信長を排除」するという当初の目的を放棄する事はなかったが、『熱戦』の長期化は望んではいなかった。寺内町を中心とした各地の寺院から膨大な上がりを吸い上げる本願寺としては、戦よりも平時の方が儲かるのだ。


 その証拠が織田弾正大弼の、文字通り「手」の中にある。


「それが本願寺門跡より送られたという白天目茶碗か」

「良いものだろう?」


 織田弾正大弼(信長)の京における現在の宿泊所としている妙覚寺。その境内に設けられた茶室において、同じく本願寺門跡より送られたという南宋画の玉澗ぎょくかん万里江山ばんりこうざんじくが掛けられた床の間を背景に、織田弾正大弼は珍しく上機嫌であった。


 手に入れたものをとにかく自慢したくて仕方がないらしい。こういうところだけは「昔」となにも変わっていない。斯波武衛はどこか微笑ましく思いながら、織田弾正大弼の万里江山の解説という体の自慢に相づちを返している。


 それを知るすべもない茶席の主人は、今度は両手で茶碗を持ちながら斯波武衛に見せびらかすように持ち上げてみせた。


 先の上洛以来、茶に凝り始めた弾正忠家の当主は、金に糸目をつけずに名物と呼ばれる茶道具を集め始めた。村井長門守(貞勝)などは「御屋形様の外交戦略の一環」と考えているようだが、岐阜の留守政府を率いる林佐渡守(秀貞)に言わせるなら「ただの収集癖で御座る」とにべもない。


 真意はともかくとして集められた名物は-無論当たり外れはあるのだが、不思議と当たりの数が相対的に多いのは織田家に目利きが多いのか、それとも事実上の政治献金に手を抜く馬鹿はいないというだけの話なのか。斯波武衛にはわからなかったが、ここ最近はろくなことのない織田三郎の機嫌がよいに越したことがない。


「卵の殻を割ったかのような粗い土に、無造作にかけられた釉薬が厚くかけられている。しかしこの茶碗の素晴らしいところはそこではない。見えるか。ここだな、ここ。釉薬が垂れて溜まったあとが二筋、これが茶碗全体に絶妙な緊張感をもたらしている。私に言わせればこれがなければいかに大名物とはいえ、この茶碗はただの野暮ったい茶碗にしかならぬ……聞いておるのか」

「うまいな、この麸の焼き。中身は白味噌かね」

「如何にも左様。こちらには山椒をあえた味噌のもございます」

「頂こう……おぉ、ピリッとするがこれもまた美味い!三郎。茶をくれ」


 青筋を立てて、一瞬だけ手に力が入った織田弾正大弼であったが、手に持つのが大名物であることを思い出す。慌てて力を抜くと、茶頭役を務める茶人に手渡した。


「お預かりいたしまする」


 白天目といえばそれで砦が一つ買えると言われるほどの代物。にも関わらず茶人というにはあまりにも似つかわしくないゴツゴツとした大きな手で大名物を受け取るせんの宗易そうえきには、それに全く気遅れした様子が見受けられない。


 大きな手で小振りの茶道具を巧みに扱いながら、流れるような仕草で湯を注ぐ。いつの間にか自分が茶人の所作を目線で追っていた事に気がついた織田弾正大弼は、咳払いをして誤魔化してから茶人に尋ねた。


「聞いてもよいか?」

「はい」

「宗易もその価値を知らぬわけではあるまい。だというのに貴様の所作には迷いがない。それほどの大名物であっても、緊張はせぬのか」

「名物といえども、元をたどればただの土の塊であります。たかが土塊に何の気後れをすることがありましょう」


 武衛の表情が強張る。宗易なる茶人の主張は、これまでの織田三郎の自慢話を真正面から否定したに等しい。面子を潰された三郎信長が激昂するのではないか。せっかくおだてて機嫌良く帰ってもらおうと思っていたのに。


 斯波武衛が様子を伺うと、予想に反して三郎信長の顔には怒気は見られなかった。むしろ堂々と臆する事なく自らの考えを語った茶頭に対する、隠すつもりもない好奇心が垣間見えた。


「ふむ。ただの土塊か。では何故人はそれに大金を積む」

「土塊は土塊のままであるなら、誰も興味を示すことなどありえません。それをわざわざ地中から掘り出し、造形して焼き締め、幾年の月日と苦難を乗り越えたからこそ、今こうして私の手の中にあります」


 いとおしそうに茶碗の肌を撫でながら、当代有数の茶人と名高い宗易は続けた。


「大名物という名声は本質ではないのです。余人はいざ知らず、私はこの器に宿る歴史や先人たちの思いには敬意をはらうべきだと考えております」

「美しさ故ではないのか」

「何を持って美しいとするか。人が多種多様であるように、美しさも人それぞれ。大名物という名声によってこれが美しいとされるのは私は違うと思います。この茶碗は大名物という歴史がなくとも美しいもの。無論、その由来を知っていればなお一層愛おしくなりますが、それだけには囚われたくありません」


 ふむふむと頷く織田弾正大弼とは対照的に、斯波武衛は会話に口を挟むことなく黙り込んでいる。だが内心では冷や冷やしていた。


 この大柄な茶人の言をそのまま素直に解釈すれば、先程まで白天目の造形を褒めていた三郎信長の在り方を揶揄しているようにしか聞こえない。いつ三郎信長が逆上してもおかしくないと、少しだけ腰を浮かせつつ麩焼きを食べ続けていた。


「この私が名物という名声、いや虚名に囚われていると?」


 あに図らんや武衛の懸念に反して、そのようなことはなかった。むしろ織田弾正大弼は先ほどよりも機嫌が良さそうに見える。


 宗易はそれすらも考慮のうちであったかのように続けた。


「この白天目を見て美しいと思われたのは弾正大弼様ご自身でございます。先ほどの賛辞、受け売りではなく真の感情の発露であると愚考いたします……私は茶の湯においては、その偽らざる心こそが大事であると信じております。たかが茶碗、されど茶碗。その茶碗に美を見出す。矛盾ではありますが、それこそ人の本質かと」

「なるほど。たかが茶碗か……」


(何を言っているのだこやつら?)


 顔をほころばせる織田弾正大弼と、ついていけないと麩の焼きを噛る斯波武衛。


(三つ子の魂なんとやらだな)


 武衛は三郎信長の満足げな横顔を見ながら、また悪い癖が出たなと内心で嘆息した。


 顔には出さないよう努力しているとはいえ(あまり効果が出ているとは言いがたいが)、三郎信長は人の好き嫌いが苛烈だ。そして尾張のうつけと呼ばれた頃の血が騒ぐのか、良くも悪くもハッキリとした気性の人間を好む癖がある。それは悪名高き人物であろうとも、むしろそれを面白がって傘下に入れたがる悪癖としてあらわれていた。


 林佐渡守(秀貞)は「問題児を集めるように茶器を集めないで下さい」(逆さまではない)と何度か諫言しているが、双方とも直る気配はみられない。今井や津田ではなく、この言葉を飾らない大柄な茶人を茶頭として登用したのも、その性格が気に入っているからなのだろう。


 無論、その振る舞いだけが理由ではない。織田弾正大弼は『茶人』千宗易だけではなく、堺の会合衆にも名を連ねる大店の納屋衆(倉庫業を基本として運送・人材派遣・金融と幅広く手を広げていたと思われる)の魚屋ととやの主である『商人』田中与四郎としての手腕も同様に評価していたと思われる。


 これが今井彦右衛門(宗久)や津田助五郎(宗及)では三好色が強すぎ、また代官とした今井と津田、そして田中(千)らもそれを踏まえて、堺における役割分担をしていたようだ。無論、織田弾正大弼としてもそれは承知していたが、そこまで手を入れるつもりはなかった……少なくとも今の段階では。


「では本願寺の門跡は、これにいかなる意味を持たせたものか」

「矢留(停戦)を買ったということで御座いましょうな。北陸道の雪解け、越後・越中による一向一揆の足止めの用意が出来るまでの時を買おうとしたものかと」

「ふん、随分と安く見られたものだな」


 田中与四郎の言葉に、したり顔で頷いてみせる織田弾正大弼。


 先程まで新しい玩具を与えられた童のごとく喜んでいたのはどこの誰であったか。


 そこまでは斯波武衛も口にはせず、茶で満たされた白天目の茶碗を口に運んだ。すると口腔内のどちらかといえば濃い目の味付けであった麩焼きの塩気が流され、一転して茶の甘さが広がる。


(なるほど、実に大したものだ)


 斯波武衛は茶人·宗易の趣向に、これだけで参ってしまった。


*


 かくして名ばかりの前管領を黙らせてから、田中与四郎は切り出した。


「上杉と北条の手切れ、及び相模と甲斐の和議は確実な情勢です」

「……確証があるのだろうな?」


 土倉業と納屋衆は切っても切れない関係にある。堺の会合衆に名を連ねるほどの納屋衆の主ともなれば、全国における金融取引と物流を把握することが可能だ。その主である田中与四郎からの情報に、織田弾正大弼は一転して険しい表情になった。


「相模小田原の商家から鞣皮や硝煙といった軍需品の買い付けが著しく増加しています。通常の北関東や房総半島への出兵だけでは説明が難しい規模です。それと本願寺関連の商家や土倉業者が振り出した甲州関係の証文についても確認致しました」

「何故それが甲州関連だと断定出来るのだ」

「十合枡ではなく甲州升を基本とした甲州俵による証文ですので」


 武田家とて上方や東海との大規模な取引はこれが初めてだったわけではないだろう。その気になれば京升(十合升)を基軸とした度量衡を使うことで軍事作戦の秘匿は可能だったはずだ。にもかかわらずそれをしなかった。


「隠す気すらないということか」

「むしろこちらにそれを意図して見せつけることが狙いかと」

 

 自らの存在を見せつけることこそが最大の外交圧力だとでも言わんばかりの振る舞いをする信玄入道に対して苛立ちをにじませる織田弾正大弼に、田中与四郎は続けた。


「遠国との為替取引を専門とする土倉専門、および両替を専門とするいくつかの替銭屋に確認がとれました。東海から畿内にかけて甲州金に対する銀や銭、そして米の比率が著しく低下しています。何者かの手によって甲州金による決済が大量に行われていることの証左に他なりません」

「大規模な軍事行動を起こす前段階と見るのが自然か……ふんっ、本当に安く見られたものだな」


 織田弾正大弼は、先程までの興奮が嘘のように冷ややかな目つきとなると、手にした白天目茶碗を指で弾いた。大名物の価値はさておき、本願寺が自分がこの程度のもので買収されると考えていたのだとしたら不快であるとでもいわんばかりだ。


 もっとも先程のふるまいを見ている限りでは説得力に欠けるのだが……


 これまでは越後の上杉と相模の北条が同盟して武田と対抗しており、これに織田と徳川が水面下で接触することで反武田包囲網を模索していた。そこで武田入道は反武田だった北条氏先代の死去に付け込んで手を突っ込んできたわけだ。


 越相同盟が解消されれば北関東における北条の軍事行動は本格化する。関東管領上杉氏としてはこれを放置しておくことは難しい。これに北陸の一向一揆や会津の蘆名などが加わればどうなるか……いかに越後の軍神といえども、同時多方面での軍事行動に対処する事は簡単ではない。


 どれほど上杉が精強無比だったとしても、上杉不識庵は1人しかいない。


「北からは朝倉と浅井、東からは武田入道、西(摂津)からは本願寺と四国三好、内側からは六角残党と長島一向一揆……大体このようなところかの」


 茶席の話題にしてはいかにもきな臭いが、そう言っていられる状況でもない。斯波武衛は手の指を折りながら、武田家と行動を共にする可能性のある勢力の名前を列挙すると、2年前の包囲網(1570年)について振り返る。


 前回は討伐例の対象になった朝倉左衛門佐(義景)が中心となり、三好三人衆の手勢によって摂津方面で軍を引き付けている間に、浅井·朝倉連合軍が湖西を南下。本願寺や六角残党を決起させて織田家領内をかく乱しながら、延暦寺の協力を得て上洛を目指した。


 この時は宇佐山の奮戦(志賀の陣)により浅井・朝倉の早期の京確保は失敗。降雪と朝廷の仲介により休戦となった。


 では今回、朝倉左衛門佐はどう動くか。織田弾正大弼には、自分とほぼ年齢の変わらないという朝倉氏の当主の苦境が手に取るように理解出来た。


「長年の宿敵だった加賀一向一揆との和睦。朝倉にとっても先の動員は賭けだった。一世一代の大勝負に勝ちきれなかったことで当主(朝倉義景)への不満も高まっている。足元を固めきれない勢力が包囲網を主導することは難しいだろう」

「尾張や美濃で負けなれている三郎と、負けたことのない朝倉の違いが出たな」


 揶揄するような口調でそう言った斯波武衛に、織田弾正大弼はぶすっとした表情を浮かべた。


 織田弾正忠家が負けなれているというのも事実である。永正12年(1515年)の斯波武衛家の先代(斯波義達)が主導した遠江遠征、天文13年(1544年)の織田桃厳(信秀)の美濃稲葉山城攻め、永禄年間(1558年-70年)の10年以上に及んだ美濃一色氏との抗争………戦に強くない尾張兵と、それを率いる織田家にとって局地戦で負けることは珍しくなかった。


 勝つことの難しさと、負けたあとに再度立ち上がるまでの困難な道のり。下剋上から成りあがった織田弾正忠家はそれを経験則として知り尽くしている。だからこそ当主への権力集中にも、清洲から小牧山へ、そして美濃岐阜へという本拠地の度重なる変更にも家中から極端な異論は出なかった。


 「お前らが弱いからだろうが」と言われれば、ぐうの音も出ないのだ。


「小谷に追い詰められている浅井は言うに及ばず。ということは東の武田と西の本願寺、これが列島を貫く横軸となり、長島と朝倉・浅井、あと六角等が縦の小さな軸になり、四国三好等もこれにつくというところでしょうか」


 商人とは思えぬ戦略眼の鋭さを見せる田中与四郎に、織田弾正大弼が視線だけを横の斯波武衛に向けて言った。


「今回の河内と大和への出兵は、武田が西進してくる前に畿内の足場を固める意味合いがある。これらの地域は表面上幕府と織田家に従っているに過ぎないからな。いつ寝返ってもおかしくはない……それもこれも南伊勢は武衛屋形の『尽力』により姿勢が鮮明となり、南大和や北伊勢の長島に対処しやすくなったからでもある」


 探るような織田弾正大弼の視線にも関わらず、斯波武衛は我関せずと茶を喫している。


 三瀬の変以来、あの難しい気質の茶筅は我儘を言わなくなり、真面目に勉学に(身についているかどうかはともかく)励むようになったという。どこまでこの老人が暗躍したかはわからないが、少なくとも茶筅に何らかの影響を与えたのは事実のようだ。


 親としては複雑極まりないが、織田家の当主としての評価はまた別の話だ。


「して、武田に勝てますかな」


 ズバリと斬り込んできた田中与四郎に、織田弾正大弼はやけくそのように笑いながら答えた。


「自慢ではないが、我が織田は勝てる戦よりも、負けない戦をするのが得意でな」

「……本当に自慢することではないな」


斯波武衛が呆れたように言うが、田中与四郎は織田弾正大弼の顔に勝利への執着は見つけられても、敗北を許容する諦めの色は見なかった。


言葉遊びのようではあるが、織田弾正忠家は負けない戦が得意である。正確に言えば決定的な敗北をするような事態になるのを避けているというべきかもしれない。美濃攻略における幾多の負け戦は織田弾正忠家の尾張支配に何の影響も与えなかったし、畿内や北陸道における反幕府勢力との戦も、織田家の本貫地となりつつある美濃や尾張の支配体制を揺らがさなかった。結果的にはこれが第一次包囲網における朝倉最大の誤算であったといってもよい。


 一時は尾張を脅かした長島一向一揆ではあるが、今では尾張まで外征するだけの力を失っている。織田家が津島や熱田、そして伊勢山田など主要な自治都市に圧力をかけ、経済封鎖を強いているからだ。


 だからこそ本願寺も織田家に対しての短期決戦路線は放棄しつつある。細川京兆家にそうしたように、長期戦であれば自分達が優位な立場で講和することも可能であると考えたからだ。


「本願寺の坊主共の真意はともかくだ」


 織田弾正大弼は腕組みをしながら続けた。


「武田家は信用出来ない事が信用出来るという家風だ。これだけこれ見よがしに見せつけるということは、相手にも当然思惑はあるはずだ」

「実際に武田が西進を開始するまでには、いくらかの時間的猶予があると」

「むしろそれが相手の狙いなのだろうな。時間をかければかけるほど国境の東美濃や遠江の諸侯は自分になびくと考えているのだろう」


 先代の時代から甲斐武田家には領土拡張の一貫性や大義名分など存在しない。信濃にしても上野にしても遠江にしても、獲りやすいところから確保してきた。領有の大義名分は勝利の後からついてくるとでもいわんばかりだ。


「あそこまで突き抜けると誰も文句が言えぬ。坂東のことは自分で取り仕切りたいという考えしかない小田原とは、利害が一致したのだろう。本願寺とて長島のように我らの邪魔は出来ても、正面から単独で戦うだけの力はない。朝倉はわからぬが、浅井・六角・三好あたりの勢力も同じこと。武田がおらねば勝てないと考えていることだろう。つまり武田家さえ注視しておれば、これらの勢力の動向はある程度予測が可能だ」

「なるほど」


 織田弾正大弼は武田家に勝てるとも負けるとも断言しなかったが、田中与四郎はそれ以上の追及を避けた。堺における親織田派としては織田家に勝ってもらったほうが都合がいいのも事実だが、身上の全てを賭けるほど入れ込んでいるわけでもない。


「本願寺も『負けぬ戦』が得意なのは御当家と共通しておりますな。組織としてのありようが異なるとは言え、三河一向一揆が鎮圧されても本山の本願寺は痛くも痒くもありませんでした。そしてそれは長島や加賀一国一揆も同じこと……ある点では織田様と同じ悩みを抱えているのやもしれませぬな」


 田中与四郎の指摘に、織田弾正大弼は「であるな」と不機嫌そうな顔で頷き返した。


 負けない戦をするということは、相手に対して勝ちきれない戦を強いられるということでもある。それは正しく圧倒的な兵力の差がありながら、今の織田家が各地で苦しんでいる状況だ。


 再び白天目茶碗を手にした田中与四郎は「何時までも戦ばかり続けば、こちらが干上がってしまいます」と本音を漏らした。


「結局のところ戦というものは、差し引きすれば儲からない事のほうが多いですからな」

「儲からぬ?武具に人に糧食、馬に資材。いくらでも商いの種はあるように思うが」


 至極単純な疑問を口にする斯波武衛に「それは合戦の一面ではありますが全てではありません」と田中与四郎が首を横に振った。


「小規模の小競り合いはともかく、大きな戦が常にあるわけではないのです。武衛屋形様がおっしゃられたものは、いずれも在庫が場所をとりますし手入れの手間も時間も掛かります。支払先と相手先を恒常的に確保する必要がありますしな。必要な時にだけ仕入れようとすれば、相手に足元を見られる……かといって在庫ばかり抱えていても赤字の種にしかなりません。いざという時に御用達出来なければ、これも納屋衆の名折れ」


 恒常的な商いの柱とするには合戦は割に合わないと田中与四郎は言い切った。


「捕虜の交換事業や人買いの儲けなど、これらの恒常的な投資に比べれば知れております」

「これだけ戦が日常に溢れているのにかね?」

「戦が『いつ』『どこで』『誰と誰が』『どれほどの規模で』『いつからいつまで』、なおかつ『どちらの陣営が勝利する』まで事前にわかっているのなら話は別ですが。合戦をするのは武士であり、商人ではありません。確かに当たれば莫大な利益を得られる可能性は高いかもしれません。ですがまともな商人であれば、そのような博打に身代を丸ごと乗せるような博打はしませんよ。かといってある程度の規模の商家となると、それだけを全く扱わないというのも難しい」


 田中与四郎は雄弁に語ってはいたが、先程までの茶器のそれと比べると、明らかに熱は伴っていなかった。自分の商売に関する話でありながら、どこか突き放したかのような印象を斯波武衛は受けた。


「扱う商品の関係上、事前にある程度情報の得られる今井殿などは損失を穴埋めしているようです。事前に前金でお支払い頂く程の裕福な家中は近年珍しいですからな。硝石のような値の張る管理の難しい品は必要最低限しかお買上になりません……私共といたしましても、織田弾正大弼様には末永いお付き合いをお願いしたいものです」


 複雑そうな表情で織田弾正大弼は茶を喫した。商人との付き合いは津島や熱田で慣れているという自信があったが、堺の商人気質というものは、地元商人のそれとはまた異なっている。


 あちら(津島・熱田)が狼なら、こちら(堺)は鵺だ。


 先々代である信貞が掌握した津島や、先代の信秀が手に入れた熱田などは、程度の差こそあれ織田弾正忠が尾張の主であることを疑っておらず、三郎信長としても彼らの支持と支援を受けながら領主として振る舞えばよかった。


 かつての自治都市である堺や今井(大和)は独立独歩の気風を残しており、織田家の代官を受け入れたといっても形ばかり。権力者が一夜にして入れ替わる畿内の政治風土に慣れていることから、権威というものに対する猜疑心が極めて根強いのも特徴だ。商人との付き合いに慣れているはずの織田家の奉行衆ですら、彼らには手を焼いている。


「実は、織田様にひとつお知らせしたいことがあります」


 田中与四郎は別の高麗茶碗に満たした白湯を差し出しながら言った。


「……聞きたくはないが、聞かねばならんのだろうな」

「弾正大弼様は、イエズス会のルイス・フロイス殿をご存知でしょうか」

「あぁ、金平糖の」


 織田弾正大弼のつぶやきに斯波武衛は噴出していた。献上された食べ物で記憶していたのが笑いの壺に入ったと見える。意地汚いどこぞの武衛家の当主にだけには言われたくないと、織田弾正忠家の当主は憤慨した。


「フロイス殿は現在、九州の府内にいるようです。そのフロイス殿を通じて九州探題殿が上洛を望んでいるので取次ぎを願いたいと、内々の打診がありました」

「九州探題といえば、光源院様(足利義輝)が指名した」

「大友休庵(宗麟)殿ですな」


 織田弾正大弼は眉をしかめる。


 唯でさえ今でも全国各地の諸問題に振り回されているというのに、この上新たな、それでいて飛び切り厄介なものを斡旋しおって……と、ここまで考えが至ったところで、ふと自分の横に座る老人が件の宣教師と顔馴染みであることに気がついた。


「私の一存であれこれ答えるわけにはいかぬ問題だからな。こうして立会ってもらったのだ」


 言外に事前に承知していたことを仄めかす斯波武衛を無視して、織田弾正大弼は田中与四郎に尋ねる。


「毛利と大友が係争中だったのは筑前と豊前か」

「博多が焼けてくれたおかげで、堺はあちらでの商いがし易くなりました」


 戦は儲からぬといっていた口で、戦で儲けやすくなったと田中与四郎は嘯く。これには織田弾正大弼だけではなく斯波武衛も引いていたが、当人は構わずに続けた。


「神谷や島井、大賀など博多の主だった者は逃れることに成功しましたが、再興するには10年以上は必要かと。大陸との勘合貿易は絶えて久しく、南蛮貿易は平戸や長崎、そして大友領の豊後府内に集中しています。貿易を続けるにしても紛争に巻き込まれやすい博多よりも、そちらのほうが安全でしょう」

「堺にとっては競争相手が増えたということではないのか?」

「博多に集中していた頃よりも、むしろやり易いですな。経験のない者は扱いやすいですし、経験のあるものは以前ほど財力を持ち合わせていません」


 「正面からの殴り合いでは、基本的な財力がものをいいますから」と語る納屋衆の主に、織田弾正大弼は「この男は三好三人衆よりも、よほど発想が物騒なのではないか?」という感想を持った。


 それはともかくイエズス会経由の宗教的な色眼鏡の入った報告や、毛利経由のそれでは伝わらぬ、あくまで金銭を物差しとした西国情勢は幕府にとっても織田家にとっても重要であることに変わりはない。


「九州探題には我が一族(斯波氏経)も補任されていた時期がある」


 それまで黙っていた斯波武衛が口をはさんだ。


「渋川も元をたどれば、わが武衛家の親戚のようなものだからな。その関係もあったのだろう」

「だから双方とも立たなかったのか」

「これは痛いところを!」


 織田弾正大弼の皮肉に、斯波武衛は笑いながら自らの額をたたいた。


 室町幕府の九州における出先機関の九州探題は、一部期を除いて渋川しぶかわ氏が世襲でこれを務めていた。しかし地元守護の少弐氏しょうにしとの権力闘争に敗れ、北九州の覇権をかけた大内氏と大友氏の権力闘争の中、いつしか歴史の中に消え去った。


 そして大内氏を相続した毛利と、源頼朝以来の豊後守護である名門大友氏の熾烈な覇権争いは、幾度かの攻防の末に地元の地の利を得た大友が一時的な優勢を保ちつつ、現在に至っている。


「だからこそ13代様も大友殿を九州探題に任命されたのだろうが、しかしこれは難しいな」


 織田弾正大弼は腕を組んだ。すなわち大友と毛利は北九州をめぐる因縁があり、毛利は備前の浦上や山陰の尼子残党問題など複数の問題を抱えており、幕府と表面上の和親政策をとっている。


 フロイスを通じた打診は、その毛利の頭越しに大友が織田と接触しようとする事に他ならない。


「嘗て堺を支配下にした細川京兆家は、勘合貿易をめぐって博多を支配下とする大内と争いました。細川京兆家と三好は衰え、大内を相続した毛利が博多を焼いた今、われら堺としては北九州の覇権を握るのはどちらでもかまわないのが正直なところです」


 都合のいいところだけ丸投げをするなと言ってやりたいのをこらえながら、織田弾正大弼が自分の考えを述べる。

 

「しかし毛利は尼子対策や浦上問題などで幕府との協調姿勢を示している。それを無視するわけにもいかぬ」

「何、あくまで九州探題として受け入れればよいではないか」


 慎重に言葉を選びながら語る織田弾正大弼とは対照的に、斯波武衛はあっけらかんとした口調で口をはさんだ。


「いざとなれば馬関から周防や長門をつけるやもしれぬ者と手を組むのは、決して損にはならぬのではないか。尼子や浦上問題については共同歩調は取れても、その先も同じとは限らぬしな」


 その如何にも室町幕府的な勢力均衡の発想から発せられる斯波武衛の言葉に、織田弾正大弼は顔を顰めたが、同時にそれも考え方としては間違ってはいないと理解していた。


 とはいえすぐさま毛利と敵対しても構わないと割り切ることは難しい。かつて大内氏は追放された足利将軍を擁立して上洛し、天下に覇を唱えた。その後継者たる毛利の虎の尾を踏むかもしれない行為を安易に容認することは躊躇われた。


「……全く。東だけで精一杯というのに、西からも難題が次々とやってくるとは」

「内にも難題はございます。河内の遊佐河内守(長教)、真に許されるおつもりですか」

「許さねば河内がまとまるまい」


 北九州よりも境にとってはよほど切迫した問題である河内守護家の問題について尋ねる田中与四郎に、織田弾正大弼はこちらは迷いなく答えた。優先順位をつけるまではひたすら思考と思案を重ねるが、いざ優先順位を付けた後の決断の速さは並大抵のものではない。


「三好左京と松永霜台の幕府に対する態度を明確化させ、早急に幕府の体制を強化。畿内を固めつつ東の信玄入道と朝倉の南下に備える。これ以外に方法はなかろう」

「面白みにかけますが、やむを得ませんな」


 田中与四郎ではなく千宗易として評して見せた茶頭に、織田弾正大弼は三度顔を顰め、斯波武衛は、その肩をすくめた。



 元亀3年(1572年)4月。織田家を中心とする幕府軍は河内に出陣した。


 織田家からは佐久間右衛門尉(信盛)、柴田権六(勝家)、幕府からは細川兵部大輔(藤孝)、三淵大和守(藤英)、そして和田一族や上野ら。これに摂津守護代の池田筑後(勝正)、いつのまにか幕府軍に帰陣した伊丹次郎(親興)が加わり、総勢は約2万余に及んだという。


「筒井殿!河内の松永勢を降した幕府軍が大和に入ってくるとの噂があるが真なのか!!!」

「どういうことだ陽舜房!貴様、織田家を手引きしたのか!!」

「震災復興もまだ途上だというのに、この上、叡山を焼き払った織田家がくるとは……終わりじゃ!この世の終わりじゃ!」

「どう責任をとるのだ貴様!!」

「やはり松永様を頼るしかないのでは?」

「阿呆か貴様は!その松永親子を討伐するために来るのだろうが……あ?筒井の小僧はどこへ行った!出でこい筒井ィ!!」

「筒井ィ!!!」


筒井陽舜房は逃げ出した!



筒井陽舜房「だからどうして私はいつもネタキャラあつかいなのだ!!」


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