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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀3年(1572年)
44/53

織田弾正大弼「こんなところにいられるか!俺は岐阜へ帰るぞ!」島田但馬守「やめてください」


【元亀3年(1572年)3月24日 京 妙覚寺】


「但馬、この仕事が終わったら俺は岐阜へ帰る。手配をせい。たとえ公方が何と言おうが、二条からどんな嫌みを言われようとも、俺は岐阜に帰る……」

「この仕事とはどの仕事ですかな。まずはそれを正確におっしゃって頂きたい。とりあえず政所より送られてきた先の書類に決裁を。すでに三尺ほど溜まっております。安威兵部少輔様、三上兵庫頭様が先ほどからお待ちです。大徳寺の寺領問題についてだそうですが、大和への出兵についても御相談したいと。それと伊勢空斎殿との会食の予定ですが、いかがなさいますか」

「御屋形様。毛利家への返書の件ですが、尼子残党問題について但馬の山名がこれを支援していると抗議がありました。これに関する返書の原案が」


「俺の話を聞けぇ!!!!」


 京の妙覚寺を借りうけて臨時に設けられた執務室において、織田弾正大弼(信長)は癇癪の赴くままに文机を蹴り飛ばした。


 これに島田但馬(秀満ひでみつ)と、村井長門守(貞勝さだかつ)は何も言わずに新たな文机を取り出す。その上に菅屋九郎右衛門ら奉行衆が拾い集めた書類を再度並べる。


「東大寺八幡宮社人と大仏寺人の諸役についての関連書類がこちらになります。河内畠山の問題につきまして、畠山紀伊守(高政)殿が早急にお会いしたいと。伊勢大河内城の北畠中将殿より大和宇陀郡秋山氏が訴えの儀これありとのこと」

「奈良の震災復興処理ですが、興福寺一条院より申し入れがありまして」

「お二方とも、あの、それ以上は……」


 顔を真っ赤に震わせながら肩を大きく上下させる織田弾正大弼の剣幕に、幕府政所代として実務を取り仕切る朝倉中務大輔(景恒かげつね)が、腫れ物に触るような態度で織田家の両奉行に取り成そうとした。


 しかし島田但馬守は鬼気迫る表情で「反論無用」と言わんばかりに言い放つ。


「朝であろうと昼であろうと夜であろうと、子が泣こうが僧兵が喚こうが誰某が腹を切ろうが、それこそ戦場においても日々決済。それが中央のまつりごと。それは中務大輔様も御承知のはず」

「いや、まぁそうなのだが……」


 この自分よりも20歳以上も年長の老人は、3度目となる上洛よりこの方、ほぼ毎日のように働きづめである。実際に織田弾正大弼の最終的な決済と判断を必要とする案件がある以上は、休めばいいとは言えなかった。


 領土紛争解決と相続の確定こそが「武士の武士による武士のため」の政権たる幕府の根幹であるが、いくら裁定を出したところで当事者が従わねば意味がない。政所執事を世襲してきた伊勢氏の権威と威光、そして解決のための人脈や政治的な知恵が失われつつある今、いくら公平な判決を出したところで、その裏付けとなるものは軍事力しかない。


 それはすなわち織田弾正忠家の当主に加速度的に仕事が集まることを意味しており、それが信長を苛立たせていた。


「そんなことはわかっている!!」


 幾度目になるかわからない島田但馬守の諫言に怒鳴り返しながらも、織田弾正大弼は筆を走らせる。


 農業的にも商業的にも恵まれた環境にある尾張の人間は自然と不遜な態度が多くなるというが、この織田弾正忠家の当主は珍しく……・いやだからこそ尾張を統一できたというべきか、基本的に真面目で勤勉な性質だ。尾張人らしく物事を妙に楽観視して墓穴を掘ることがあるとはいえ、良くも悪くも我慢強いとされるらしさも兼ね備えている。


 朝倉中務大輔はそんなことを考えながら、不遜とは知りつつも目の前で不平不満をもらし続ける幕政における最高権力者を見やっていた。


「……大体だな、先の上洛の際には、このような仕儀にはならなかったぞ。なにゆえ今回はこのような仕儀となっているのだ」

「最初に確固とした方針を決めていなかったからでしょうな」


 その当時は敦賀郡司として幕府を外から見ていた朝倉中務大輔が推察を述べた。


「最初(1569年)の上洛は先の14代政権を打倒し、今の幕府を作り上げること、2度目(1570年)は本圀寺の変を皮切りに各地で決起した反幕府勢力の掃討という軍事作戦に重きを置いておられました。それ自体はやむを得ぬことでしたが、いずれかの段階で外交方針や寺社政策、所領裁判等に関する前政権の判決や判例を継続するか否か、せめて方針だけでも幕閣の首脳と打合せしておくべきでしたな」


 京と岐阜という二元代表制の問題よりも、幕府と織田家の根本的な齟齬があった点を淡々とした口調で指摘すると、京における織田家の代理人として孤軍奮闘していた村井長門守は無言で何度も頷く。


 流石にその点への反省と自覚はあるのか、織田弾正大弼は誤魔化すように咳払いをする。


「政所代は私が幕閣に丸投げであったと申すが、どこの馬の骨ともしれぬ織田弾正忠家が突然出てきて幕政を取り仕切ると申しても反発が起きただけだろう」

「上洛軍で最も多い軍勢を率いられた当主が方針を示さなければ、どうにもなりますまい」

「……確かに最初に何らかの方針を決めておくべきだったかもしれぬが、それを私から言い出すというのも。放浪中の大樹に従っていた幕臣もいたではないか」

「その遠慮が現在の混乱の原因ではございませぬか」


 朝倉宗滴流の毒舌を振るう中務大輔であったが「とはいえ」と付け加える。


「最初から露骨なまでに権限をよこせと主張していれば『朝日将軍』(木曽義仲)の二の舞となり、京におけるあらゆる勢力や幕府関係者から袋叩きにあっていたでしょうな」

「だったらどうすればよかったというのだ?!」


 血管が切れんばかりの勢いで恨み言を吐き捨てる織田弾正忠家の当主は、記し終えた書状を近習に手渡しながら疑問を口にした。


「……大体なぜこんなものにまで私の直筆が必要なのだ。右筆ではいかんのか」

「ものは考えようでございます。最初にしゃしゃり出ずに身を謹んでいたからこそ、現在の幕政の混乱から距離を置いていた御屋形様に対する待望論があるのです」


 主君と同様に手際良く新たな書類を積み重ねていく島田但馬守が「遅ればせながら『最初』が肝心です」と言葉も重ねた。


「御屋形様にとっては今回が幕府の中での『仕事始め』でございます。何でもかんでも代理というわけにはいきませぬ。幕政に対する本気度が疑われますぞ。官位はともかく、御屋形様が幕府の正式な役職に就いておられるのなら話は別ですが」

「但馬守殿のおっしゃる通りです。断っておきますが、これでも絞ったのですぞ。ある程度はこちらの村井殿と相談しながら、処理可能なものは決裁していたのですが」


 判決の書類の多くは、本来であれば政所執事代行たる織田弾正大弼の花押までは必要ない。


 今の政所は幼少とはいえ正式な政所執事の伊勢氏の当主もいるわけであるし、朝倉中務大輔の各種裁判の取り扱いは控えめに見ても公平であり、うがった見方をすれば付け入る隙がない。政治案件を除いて織田弾正大弼が個別裁判に介入するほどの問題もそれほど極端に多くはない。


「……裏書のない手形証文など、誰も信用せんか」


 諦めたように手形証文の裏書に例えた信長に「そういうことです」と朝倉中務大輔は頷いた。


「幕府が信用されておらぬのです。判決を出すだけで執行する能力がないと足元を見られているのですよ」

「……幕臣である貴殿がそういうのなら、確かであろうな」

「織田殿でなくても三好筑前(長慶)であろうとも、細川京兆家が管領であろうとも変わらぬ構図です」


 必要以上に生真面目な、返って慇懃無礼にも聞こえかねない口調で朝倉中務大は言った。


「幕府という体制よりも、幕府という体制を『誰が』動かしているかということです。畿内の諸侯や寺社勢力は、政変のたびに裁判結果を覆され続けてきました。つまり彼らが見ているのは判決の公平性ではなく、判決に従わない相手が出た場合に武力でそれを執行する能力です」

「だから私の裏書が必要だというわけか」

「叡山を焼き払われた織田様の裏書とあっては、阿漕な土倉が自ら非を認めて謝罪と賠償金を払うほどの信用があります」


 朝倉中務大輔の例えに、織田弾正大弼は露骨に嫌な顔をして見せた。


「あれは向こうから喧嘩を吹っ掛けてきたのだぞ。私は最初に、朝倉・浅井と手を切るなら所領を安堵する、せめて中立をしろ、しないなら焼き払うと宣言していたのだ。それを無視したのは奴らだ。金蓮院准后様とてそう考えておられるからこそ、今でも二条御所で謹慎を続けておられるのだろう」

「そう、まさにその通りですな」


 どこまで真実味があるかわからない調子で中務大輔が頷く。


「織田弾正大弼様の御言葉には実があるのです。良くも悪くも発言された内容は実行してこられた。これは信用という大きな武器となります……叡山僧房を焼き尽くした煙は、京のみならず大和や摂津、河内からも見えました」

「……何が言いたい」

「実像がどうであれ法親王殿下の謹慎も、逆らうものは皇族であろうと罰するという強迫だと認識されています」


 それ以上会話を続けていると、また文机を蹴り上げそうになる。その間も手は動かし続けていたが、ぶすっと黙り込んだ。


 主君を宥めるように、村井長門守が言う。


「但馬守殿がおっしゃる通り、ものは考えようでござる。叡山の狼煙は良い警告にもなりましょう。織田は言ったことは必ず実行に移す。これは諸勢力に対する抑止力と同時に交渉の材料となります。ひいては織田家を通じた幕政の安定にもつながります」

「実際、運上金(臨時課税)という形で金を巻き上げるのが楽になりました」


 身もふたもないことをいう島田但馬守に、村井長門が続けた、


「然り。そしてまずは河内守護の問題です」


 村井長門守の言葉に筆を止めた織田弾正大弼は、考え込むように腕を組んだ。


 現状のままでは立ち行かないことは誰もが理解している。しかし現状の課題に対処するためには、現状の体制のまま対応しなければ間に合わないという悪循環。これを打開するにはどうすればよいのか。


 朝倉中務大輔が幕臣としての立場から進言する。


「政所としても、現状のような体制がいつまでも続くとじゃ考えておりません。織田弾正大弼様個人の負担があまりにも大きいからです。失礼を承知ながら申し上げると、ある程度の公的な役割分担、幕府の体制下における織田弾正忠家中の割り振りが必要になるかと思われます」


 つまり幕府の公式な役職を補完する形で、弾正忠家の中において各勢力への取次や職務権限を定めるべきだと朝倉中務大輔は主張した。


「かつて細川京兆や三好筑前も重臣に対して裁量権を与え、国、あるいは郡ごとの対応を任せました」

「現状ではある程度の委任もやむを得ませんな。上様はおひとり、御屋形様もおひとり。早急な体制づくりが必要になると考えます」


 村井長門守と島田但馬守もこれに同意したが、織田弾正大弼の機嫌はよくない。


「……あのクソ親父、いや祖父の代から進めてきた弾正忠家の当主への権限集中を、今更放棄しろと申すか」


 織田弾正大弼がすっと目を細めて政所代を睨みつけるが、朝倉中務は「私は幕臣です」と躱した。


「対処不可能ならば、それもやむを得ないことです。幸いにして先例はいくつもあります。細川京兆、大内、三好筑前……成功も失敗も経験だけは蓄積されておりますので、検討するには困らないかと」

「中務大輔殿……」


 織田弾正大弼は何かを言いかけて、その言葉を飲み込んだ。


 今の発言は幕臣である朝倉中務大輔が、現在の幕府の制度が機能不全に陥りつつあることを認めたに等しい。


 細川京兆、大内、三好筑前の各政権がそうであったように、今の幕府は特定の有力諸侯の後ろ盾と関与がなければ、通常の行政すらままならない。そして幕政への関与を強めることが意味する事とは……


 朝倉中務大輔だけではなく、村井長門守も島田但馬守も信長の思考の妨げにならないように黙り込んだ。その気遣いが今は無性に腹が立った弾正忠家の当主は、嘆くように言葉を漏らした。


「……こんなつもりではなかったはずなのに、一体どうしてこうなるのだ」



「よくきたな。まぁ、ゆっくりしていかれるがいい」

「そういうわけにもいかんだ……いや、いかぬでしょう」


 幕閣との挨拶回りや織田家の首脳部との会合を終え、京の宿泊先としている武衛屋敷に戻った筒井陽舜房(順慶)は胡坐をかきながら武衛老人と挨拶を交わした。


「どうも風向きが変わったの」


 またどこで仕入れたのやらわからぬ『御苦労様』と書かれた扇子で陽舜房をパタパタと仰ぐ斯波武衛は、相変わらず年の割には血色が良さそうである。


「お疲れのようだ。だからおそらく聞きたいことから先に答えてやろう」

「お願いいたします」

「まず河内攻めだが、佐久間や柴田権六(勝家)など2万程が動員される予定だ。和田氏など幕臣も動員される。おそらく時期は4月。遊佐河内守(信教のぶのり)が畠山次郎(尚誠なおまさ)の守護職に異議を唱え無かった以上、そう長くはならぬ」

「つまり三好左京(義継)殿への牽制であり、松永霜台の討伐の……」

「まぁ、そう先走るな」


 扇子をひっくり返し『早い男は嫌われる』なる文字の書かれた側を見せつける斯波武衛。


 筒井陽舜房は3月に入ってから箸尾や岡など筒井党に近い国人と接触を重ね、堂々と大和国内における政治活動を再開した。


 おおよそ10数年ぶりとなる筒井の帰還にもかかわらず、予想していたような松永側からの表だった妨害はなかった。


 これを「妨害出来るだけの余裕が松永にない」と判断した筒井陽舜房は、先の念仏会での武衛の助言に従って、すぐさま側近のみを率いて上洛。身動きの取れない松永霜台に代わり、京において幕臣や織田家と接触し、中央政界においても存在感を示しつつあった。


「随分ご活躍と聞くぞ。幕閣の間や上京の各地を飛び回り、織田三郎(信長)と面会。佐久間や明智の知遇を得たそうではないか。その割には顔色が優れぬようだが、お疲れのようだな」

「正直、ああいう場は慣れません」

「言葉で相手の腹を探るのは坊主の十八番だと思っていたが」

「坊主にも色々あります」


 陽舜房は茶碗に入った湯冷ましを飲んでから続けた。


「私の先祖は興福寺の衆徒でしたが、元は大和の荘官や名主。つまりあり方としては他国の武士となんら変わらぬ存在でした。興福寺に仕えていたので坊主の格好こそしていますが、私は自分自身が武士であることを疑ったことなどありません」


 剃り上げた頭を撫でながら陽舜房は語った。疲れた顔色の中で、その眼には爛々とした野心が燃え盛っている。松永霜台を追い落とし、自らが大和の支配者にのし上がらんとする意気込みが僧形の若者の全身から満ち溢れているようだ。


 斯波武衛はその見えない熱を冷ますかのように、パタパタと扇子を仰ぎ続けている。


「しかしな、これからだぞ」

「わかっております。松永の勢力は未だに大和国内において健在。これを切り崩す戦いはまさに乾坤一擲の大勝負が……」

「そうではない。そうではない」


 扇子を閉じ、体の正面で左右に降る武衛。意気込みを遮られて眉間にしわを寄せる筒井の若当主に対して、説いて聞かせるような口調で続けた。


「筒井家の当主には釈迦に説法だろうが、南都は排他的かつ結束が固い。大和の国人や衆人も同様に他国の介入を嫌う。鎌倉も室町も守護を設置することは出来なかった。その代わりに大和最大の寺院たる興福寺を持って守護代理としてきた」


 突如としてそのような話を始めた武衛に、陽舜房は困惑するしかない。


「尊氏公が室町に幕府を置かれてからは、隣国の河内や紀伊の守護であった畠山家がその代理のような役割も果たしてきた。しかし今ではそれも衰え、大和国内における外からの影響力は限られるようになった」

「……おっしゃっていることの意味がわかりませぬが」

「まずは河内攻めと申したであろう」


 自らの胸の前で広げた手のひらの指を折りながら、武衛は情報を詰めていく。


「先にも述べたが大和と国境を接する方の河内半国守護の畠山次郎の継承を、遊佐河内守が認めた。また現段階では機密だが、同じ半国守護の三好左京も幕府支持を明確に打ち出す事と相成った。そして幕府軍と織田家は、河内国内において松永霜台側の勢力を征討する予定である」

「いや、ですからそれは目出度いことでは……」

「坊主のくせにカンが悪いのう」


 茶化した斯波武衛に筒井陽舜房は顔を真っ赤にしたが、次の一言であっけにとられた。


「河内のあとは幕府軍と織田家による大和攻めだ」


「……はい?」

「不服か」

「い、いやその、不服というよりも……」


 むしろ願ったりかなったりである。まさか父の無念をこれほど早くに果たす機会が訪れようとは、想像だにしていなかった。しかし、いや待て。松永霜台を討伐するという事は……


「お主があれだけ引っ張りだこだったのは何のためだと思っていたのだ?」


 そしてさらに次の一言で、筒井陽舜房は頭に上りかけていた血の気がさっと引いた。


「興福寺を始めとした大和の諸勢力への連絡役か案内役のために決まっておろうが。松永霜台が頼りにならぬ今、お主しかいない」

「や、大和に軍を入れられると?」

「まさか幕府や織田家は外にいて、大和のことは大和の中でケリを付けるつもりだった等と申してくれるなよ。こちらは北の朝倉と西の本願寺で手一杯なのだ。南の大和で積極的な日和見を続ける松永霜台など許されるわけがない。潰すためには兵も入れる。だからこその大和出兵だ」

「た、確かにそれはその通りでしょうが!」


 筒井陽舜房はどうにかして理屈をひねり出した。


「し、しかし興福寺は反対するでしょう。賛成するとは思えません」


 今度こそ斯波武衛は呆れたような、それでいて何かに同情するかのような表情を浮かべた。


 陽舜房が何か反応するよりも前に、武衛は閉じていた扇子を片手でバサリと開き『御苦労様』と書かれた面をもう一度筒井の当主に見せつけるようにして広げた。


「それを説得するのがお主の役割というわけだ。まぁ、頑張ってくれよ」


 今更ながらに自分の置かれた立場に顔色が悪くなった筒井を無視するかのように、斯波武衛は脇息に肘をついた。


「そうそう、貴殿に紹介したい人物がおったのだ」


 武衛が両手をあわせて二度叩くと背後の襖が開く。


 そこには一人の男性が顔を伏せて鎮座していた。


「構わんから入れ。遠慮は無用だ」


 そうざっくばらんに語る斯波武衛に対して、男は「はっ」と短く応じると、見た目に似つかわしくない機敏な仕草でにじり寄るようにして入室した。


 くせ毛交じりの髪を茶筅髷に結いあげ、頬髭が目立つ。年の頃は40になったばかりと思われるが、動作に隙はなく、戦場を幾多もくぐり抜けた者だけが持つ気迫のようなものに満ちている。顔伏せてはいるが、その頬には火傷の痕が目立つ。床についた手の特徴的なタコをあわせて考えれば、火縄銃を扱う者にみられる身体的特徴といえた。


 筒井陽舜房はそのように男性に対する目処をつけたももの、それ以上のことはわかりかねたし、斯波武衛が自分に引き合わせた理由も意図も想像出来なかった。


「今のところ織田家における大和方面の取次は佐久間右衛門尉(信盛)殿ということになっておるが、大和問題にだけ専念することは難しい。近江坂本の幕臣でもある明智十兵衛も北の越前朝倉や、幕政への関係もあるからな」


「そこでこの男だ」と斯波武衛は顔を上げるようにいうと、男が顔を上げた。


 どちらかといえば肉付きのよい顔にどんぐり眼。火傷の跡が目立つその顔は、お世辞にも容貌が整っているとは言えないが、武将としての風格は十二分に兼ね備えている。


 陽舜房はそのどんぐり眼の奥に宿るものが自分と同じ野心の色であることを理解した。


「今の段階では地位は足りておらぬが、妹は織田三郎(信長)の側室。後添えが柴田権六の娘よ。馬廻り出身で赤母衣衆として織田家の殆どの戦場を経験している稀有な男でもある。何れは織田家の重臣となるであろうな」

「武衛屋形様、あまり煽ててくださいますな」

「何、事実だからな……あぁ、そうだった。紹介がまだであったな」


 男性は筒井陽舜房に向かって名乗りを上げた。


「尾張大野木城主のばん九郎くろう左衛門ざえもん直政なおまさと申します。今後、私が御当家を始めとした大和の取次となります。どうぞお見知りおきを」


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― 新着の感想 ―
[良い点] >……こんなつもりではなかったはずなのに、一体どうしてこうなるのだ だって、自分の命どころか先祖代々の利権さえ危険な混沌極まりない情勢で、軍事力と経済力持った有言実行してくれる権力者が現…
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