宇喜多和泉守「弥三郎ぉ!!!」赤松弥三郎「おもしろきことは良き事なり!」
奈良時代の行基上人は、ひょっとすると日本で最初の非政府組織を組織した人物だったのかもしれない。
かつて日本において僧侶は宗教者であるのと同時に高級官僚であり、最先端の技術者を兼ねた教育者でもあった。行基は官に属さず独自に技術者や僧侶を率いて教えを説く傍ら、各地で開拓事業や治水事業を行った。政府に頼らずとも独自に行動できるだけの技術的な蓄積以外にも、何らかの資金源があったと思われる。
当然ながら中央集権体制を目指す朝廷は、政府の許可なく活動する行基を弾圧する。どこから金が出ているかわからぬ非政府組織が名声を高めていく状況を許すわけにはいかないからだ。しかし聖武天皇は大仏造営を初めとした国家事業への協力と引き換えに、この集団を公認した。
行基という人物は偉大な宗教家であるのと同時に、強かな政治家でもあったといえる。
摂播五泊は、その行基上人が摂津から播磨にかけて建設した港の総称である。室生泊・韓泊(福泊)・魚住泊・大輪田泊・河尻泊の5つだ。
この中でも大輪田泊(兵庫湊)は平相国の日宋貿易の舞台となったことで知られ、現代においても名前を変えて港湾施設として継続しているものも多い。行基上人と彼が率いた集団がいかに優れた技術者であったのかが、この点を見るだけでも明らかであろう。
さて、播磨(現在の兵庫県西部)である。
- 播磨の風俗智恵有て義理を不知(播磨の人間は知恵あるも義理を欠く)-
- 親は子をたばかり、子は親をだしぬき、主は被官に領地を鮮く与へて好き人を堀し出し度と志し、亦被官と成る人は主に奉公を勤る事を第二に而、調儀を以所知を取らんと思ひ(親は子を子は親を出し抜き、主君は家臣を、家臣は主君を騙す)-
- 偏に是国は上古より如此の風俗終に暫くも善に定る事なし(この国は古くから善に傾くことなかった) -
『人国記』にある播磨の風俗(県民性)の評価である。
よくもまあここまで味噌糞に言われたものであるが、その理由の多くは播磨の風俗を執筆する際の雛形となったと思われる守護家に原因があるのだという。
室町幕府の守護家の中で、赤松氏というのは特異な家だ。
鎌倉幕府の守護であった千葉に武田、大友や島津、有力御家人であった山名(新田氏庶流)や富樫、そして足利将軍家の庶流である斯波・細川・畠山等々。もしくは将軍家の縁戚である上杉氏(藤原氏)。南朝から帰順した北畠は言うに及ばず、菊池や大内も真偽はともかく綺羅星の如き家系図を誇る家ばかりである。
では赤松はといえば、村上源氏の流れとされるのだが……まあ実際にはお察しというやつである(*)。
佐用庄赤松村の地頭か地頭代か、それともただの御家人か。家柄はともかく赤松氏は数多くの良港に恵まれた環境を利用して瀬戸内海交易に乗り出し、それなりの財産を築いていたらしい。港湾労働者と言えば気の荒い人間が集まると相場は決まっている。
荒くれ揃いの人足や労働者を統率する海上武装商人といえば、想像がつくだろうか。
鎌倉幕府末期、後醍醐天皇の子である護良親王の綸旨を受けて決起したのが赤松円心入道(1277-1350)。彼は一族を引き連れて、極めて早い時期から反鎌倉で活動した。
にも関わらず建武新政において、赤松一族は全くと言っていいほど評価されなかった。これにより新政に見切りをつけた円心入道は、足利尊氏の決起に呼応。尊氏が九州に逃れると、一族と共に播磨に残り、ゲリラ戦を展開して足利方の拠点を守りきった。
この功績により、赤松一族は播磨を始め美作や備前など数カ国の守護を兼ねる山陽道の雄へと上り詰めることとなり、幕閣にも名を連ねるようになった。
つまり赤松氏は家柄などではなく、室町幕府創業の功績により成り上がった家である。
ところが6代将軍足利義教-守護家の強引な統制を推し進めていた悪御所の時代に、次は自分が対象と考えた当時の当主が「プッツン」してしまう。鴨の親子を見物に来た将軍を自分の京屋敷で暗殺し、屋敷を焼き払って播磨に帰国したのだ。
いくら創業の功臣とはいえ、これでは許されるはずもなく、直後に幕府軍によって鎮圧された(嘉吉の乱)。
赤松入道とプッツンした赤松相善(満祐)に播磨の風俗(県民性)を代表されては、播州人もたまったものではないだろう。
*
「赤松相善を討伐したのが、我が高祖父である山名宗全ですな。そのまま山名が播磨守護であれば、今日のようなことにはならずに済んだのですが」
京の武衛屋敷の一室において、但馬守護の山名宗詮は剃り上げた……というよりも自然と抜け落ちた毛のない頭をつるりと撫でる。
このあまりにも現実と乖離した発言に侍所執事の斯波治部大輔(義銀)は動揺を見せ、多忙な村井長門守(貞勝)の代理として出席していた前田孫四郎(玄以)は、ニタニタしながら赤入道と若武衛のやり取りを観察していた。
現状がどうであれ、老人の高祖父である山名宗全は6代将軍を暗殺した赤松氏をほとんど単独で討伐することで、細川勝元に並ぶ幕府の有力者に上り詰めた。今から約130年ほど前のことである。
細川氏と山名氏は、政敵である管領の畠山や伊勢氏を政権から追放するために政治同盟を締結(勝元が宗全の娘婿でもあり、宗全の一子を養子としていた)。これに成功した。この関係がそのまま続けば、実権を剥奪された8代将軍のもとで政治的な安定がもたらされたかもしれない。
「この両者が対立する契機となったのが、ほかならぬ赤松氏の再興運動です。後南朝の残党を赤松旧臣が討伐した功績をもって再興を認められ、赤松従三位(政則)が加賀半国守護に。その後押しをしたのが細川勝元です。赤松は悲願である播磨回復を諦めておらず、姑息な策動を繰り返したわけですな。おかげで播磨は政情不安が続きました」
山名入道は自身の高祖父が旧赤松領において赤松旧臣や国人勢力を徹底的に弾圧したこと、それに対抗するために彼らが赤松再興を掲げていたことなどは噯にもださない。
その赤松再興運動は、主要な原因とまでは言えないとしても、応仁の乱(1467-78)における細川(東軍)と、山名(西軍)の政治対立の一因となったのは確かだ。
この年寄の小便が如くだらだらとキレがなく続いた戦乱は、10年してようやく終戦の兆しを見せたものの、講和に最後まで反対したのが、西軍においては畠山義就(河内半国守護に返り咲いた畠山総州家の祖)と勘合貿易の競争相手である細川を蹴り落としたい大内氏、そして東軍においては赤松従三位であった。
畠山と大内はともかく、赤松の反対理由は『旧領復帰』のためだ。
「赤松とはそのような権力亡者の家柄なのです。平時よりも戦を望む野蛮人であり、播州人の気性を利用して生き延びてきたに過ぎませぬ。我ら山名が播磨守護をあと2代か3代でも続けていれば、そのような悪弊を打開できたものを」
宗詮入道の赤松評はともかくとして赤松従三位と山名宗全の孫であり後継者の弾正小弼(政豊)は、和睦後も互いに熾烈な争いを繰り広げた。赤松が山名側の因幡や伯耆の不穏分子に手を突っ込めば、山名が播磨攻めをして大敗。これを見た赤松が但馬攻めをして大敗という具合である。
その結果として赤松と山名は仲良く守護権力を弱体化させ、戦国時代に突入した。
「祖父の山名弾正小弼は幸せ者です。私のような優れた器量の後継者を得たわけですからな」
そう平然と嘯く入道に対して、斯波治部大輔は驚くことにも疲れたようにあいまいな笑みで応じた。前田孫四郎など腹を抱えて笑いださんばかりだ。
宗詮入道の自己評価が正しいかどうかはともかく、どちらがより悲惨な経緯をたどったかといえば、御家再興を果たして播磨・美作・備前と3カ国の守護に返り咲いたはずの赤松だろう。なにせその初代である従三位の時代からお家騒動が表面化していたのだ。
「荒くれ者の播州人を統制するためには、円心入道のような強面の豪腕でなければ無理だったのでしょうな。異論があるのは承知ですが、高祖父たる宗全もアクの強さでは引けを取りません」
「だからこそ、赤松氏は各地の勢力を討伐して播磨を抑えるために庶流や分家を各地に置いたのでしょうが」
「力がなければ、分家が本家を喰おうとするのは当たり前。うちの守護代の垣屋など、山名の庶流でもないのに大きな顔をしている始末ですからな。宗家に力と能力がない当主が居座っているとなれば、分家が『俺にやらせろ』と言いたくなるのも仕方なきこと」
下剋上の荒波を乗り越え、一時は全てを失いながらも返り咲いた入道の発言には、先ほどまでの大言壮語にはない説得力があった。
赤松宗家は嘉吉の乱で断絶しており、赤松従三位もかろうじてその血を引く程度。むしろ彼よりも赤松宗家にふさわしいだけの実力と能力のある赤松一族は、他にいくらでもいた。
それにもかかわらず赤松再興の旗頭とされたのは赤松三位であった。
「子供であった彼のほうが、赤松家の相続権のない赤松旧臣-浦上美作(則宗)や別所、小寺などにはお飾りの守護としてふさわしかったのでしょうな。赤松一族に『あいつなら何時でも取って代われる』と思わせて協力させるのが、浦上美作の考えだったとすると辻褄は合いまする」
宗詮入道が指摘した通り、三位を擁立した勢力はすぐさま争い始めた。美作や備前では浦上一族が内紛を繰り返しながら権勢を振るい、東部では別所が事実上の独立を果たした。西部では宇野や龍野赤松氏が勃興。
三位の子孫である置塩赤松氏は親が子を追放し、子が孫と喧嘩を始める始末である。
「にもかかわらず置塩の先代は宗家意識が強く、分家である龍野赤松が将軍家に使者を送れば、これを実力で邪魔する始末……つまり自分の行動がいかなる影響をもたらすのか、その配慮にかけておるのです。龍野の宇野下野守(赤松政秀)とて、問題がなかったわけではござらぬが、あれでは将軍家の忠誠を形だけでも、いや形ですら守ろうとしない不届きものと批判されても仕方がないですな」
「……まぁ、いろいろあったのでしょう」
「自分の頭越しに決めるなという置塩の理屈は分からぬでもないですが、目の前の現状を認めようとしないのであれば、それはただの時代の遺物でしかありませぬ。そのようなことだからこそ、かつて置塩を後見した宇野下野守も愛想を尽かし、娘を上様に側仕えさせたりするのですよ」
自らの発言に対する斯波治部大輔と前田孫四郎の反応を確認してから、宗詮入道はわざとらしく禿げ頭をぴしゃりと叩きながら言った。
「さこの方の懐妊、龍野赤松の後継者たる弥三郎殿にとってはめでたい限りですな……もっともそれが幕府と織田家にとっては目出度いかどうかはわからないようですが」
*
「そもそも置塩がこないに没落したのは、尼子修理大夫(晴久)はんの山陽道への進出……いや、かの御仁は武士として当たり前のことをしただけやろな」
上京の呉服問屋である茶屋四郎次郎の屋敷は、かつて13代将軍がたびたび茶を喫するために立ち寄ったことから屋号を『茶屋』と変えた。武衛は今回その一室を面会の場所として借りうけていた。
「実際のところ問題の根本は、光源院(足利義輝)様やった」
斯波武衛が黙したまま茶をたてる間にも、男性は時折考えるように言い淀みながら、播州癖で話し続けている。
赤松出羽守(義祐)。
赤松宗家12代当主であり、従三位から始まる赤松置塩家としては4代目の35歳。正室は管領細川晴元の娘という典型的な東軍人脈を受け継ぐ彼は、2年前に播磨混乱の責任を取る形で家督と播磨守護の地位を嫡男に譲った。
播磨という荒波の中で費やした年月が、彼を年齢以上に老けさせたのだろうか。肌のつやはなく、髷にも眉にも白いものが目立っている。少なくとも出羽守が自分の嫡男と同じ年齢だとは、武衛には見えなかった。
「当代の大樹も独断専行を批判されまっけどな、あれは私に言わせるなら、兄上である13代様のやり方を真似とるだけやで」
「美作と備前の守護剥奪は、あまりに唐突でしたからな」
「私の父が力なき守護であったことは認めざるをえまへん。やからといって武家の棟梁たる大樹ともあろう人が、紛争の片方の当事者を後押ししてはどないもなりへんわ」
赤松出羽守は、ほとほとうんざりとした口調で自らの顔の前で手を振った。
三好筑前(長慶)や細川京兆家と争い近江や各地を放浪していた13代将軍の足利義輝は、天文21年(1552年)に三好と和解することで初めて帰洛した。これで曲がりなりにも幕府の体制が整うと思われていたが、義輝はさっそく自らの存在感を外交によって示そうとした。
つまりこれまでの歴代政権や三好政権の方針転換である。
その最初の標的となったのは、備前と美作の守護職(ともに現在の岡山県)であった。
山陰道から山陽道への進出を強めていた尼子修理大夫に、赤松氏を解任して美作と備前の守護職を与えたのだ。
政治は基本的に成功した先例に倣う前例主義である。尼子のそれは当然ながら前代未聞であり、なおかつ現職の守護をこれという落ち度もなく(かといって実績もないが)剥奪したのである。
三好筑前が驚愕したのは無論だが、剥奪された赤松晴政(赤松出羽守の父)からすれば、まさに青天の霹靂であった。
「力なき伝統的な守護家より、実際に力のあるものを任命する。能力……いや実力至上主義とでもいうべきでしょうかな。剣の達人であったという13代様らしい政策ではあります」
「強いものこそ、理屈抜きで正しい。考え方としては確かに一理あるわな。せやけど急に舵を切った船は転覆するもんや。誰が好き好んで、そんな船に乗り続けるかいな」
「少なくとも播州ではそうやった」と赤松出羽守は言葉を吐き捨てた。
当時の尼子は、大内を継承した毛利と中国地方を二分する勢いがあった。山陽道への進出を強めていた尼子の手によって備前・美作が実効支配されるよりも前に、相手に『恩を売る』形で事前に守護を与える。制度上の権威しか残されていない幕府の将軍が行うやり方としては、むしろ最善かつ効果的な手法だったのかもしれない。
当然ながら山陽道侵出の大義名分を得た尼子は喜んだ。尼子に対して与えた13代将軍の恩は、石見銀山からの政治献金という形で幕府に還元され、財政を潤した。
たまったものではないのが守護職を剥奪された置塩赤松氏である。
「備前と美作だけやない。あれで播磨国内でも赤松の権威は紙切れになってしもうた。私の姉婿である宇野下野守(赤松政秀)は、私の父を居城に迎えて私と争う始末で、もう何がなんやら……まぁ我ながら親不孝な息子やった」
往時の播磨国内の混乱を回顧しつつ、赤松出羽は自嘲する。
晴政の死と幕府の方針転換もあって赤松出羽守は播磨守護と共に家督を相続したが、もはや宗家としての権威の衰えは隠せなかった。13代将軍暗殺の時期と前後して中央政界が混迷を深めていた時期でもあり、播磨はますます箍が外れた。
その中でも晴政の時代には置塩の後見人的に宇野下野守(赤松政秀)の傍若無人な振る舞い目立っており、強者であれば何をしても許されるという価値観を体現したかのように、浦上氏と小寺氏配下の黒田氏との婚礼の場を奇襲して浦上親子を討ち取るなど、人もなげにに振舞った。
ついに宇野下野守は自らが播磨守護に就任する野心を明らかにする。自分の娘を新将軍の側仕えとして差し出し、縁戚関係を結ぼうとした。
この動きには流石の赤松出羽守も「道を守らず知らぬと振る舞う男を許せるかいな!」と激怒した。宗家と分家の序列をわきまえず、そのうえ自分の利益のためには人の婚礼に兵を乗り入れるような男が、将軍家の縁戚になればどのような振る舞いに出ることか。
播磨を宇野下野守の好き勝手にさせるかという義憤と警戒感に後押しされ、永禄12年(1569年)の正月から赤松出羽は浦上氏と結んで龍野赤松(宇野下野守)の挟撃を開始した。
よりにもよって三好三人衆を中心とした旧政権派閥が京を襲撃した本圀寺の変の直後である。
「いかにも間が悪い。悪すぎますな」
「なんとかこう、首の皮一枚で繋がりましたわ」
時期の悪さを指摘する斯波武衛に、赤松出羽は手のひらで首を斬るような仕草をした。
本圀寺の変の後、宇野下野守は各地で反幕府勢力の追討を続ける幕府と織田家に助けを求め、置塩は別所氏や伊丹筑後などの幕府軍数万に包囲された。
ここに赤松置塩家も絶えるかと思われたが、中央情勢の変化により包囲は解かれ置塩家もなし崩し的に許された。
つまり宇野下野守は中央から一方的に見捨てられたのである。最後は浦上の手の者に毒殺され、嫡男が前後して急死するという、何とも因果応報を絵にかいたような末路をたどった。
「私の家は助かったで」
赤松出羽の表情はどこか暗い。一歩間違えれば、宇野下野の末路は自分自身だったことを考えれば、彼が喜べるはずもなかった。
「やけど新政権のチグハグな対応は、確実に播磨の諸侯に不信感を植え付けたとしか思えません。私の言えた義理ではあれへんけど、これだけはどないしても申し上げておかんとあかん」
「幕府としてはやれることはやりました。三好を蹴散らしたとは言え各地に反幕府勢力は健在。北の大国である朝倉の動向が不明という状況では、大国播磨にいつまでも兵を張り付かせるわけにもいかなかったのです」
「そりゃ幕府には幕府の、中央には中央の理屈があるのやろ。同様に播州には播州の理屈がある。どちらが正しいか正しくないかではないんや。ただそれだけのことやけれども、その理屈が通せても、納得してもらえるかどうかとは別でっせ」
「ただそれだけのこと」に振り回され、御家の興隆も再興も、そして滅亡も経験した赤松置塩家の先代は「はぁ」とため息をついた。ようやく宇野下野守を排除し、播磨情勢が少しでも落ち着くかと思い安堵していたのだろう。
それがまさか今頃になってから宇野下野守の『置き土産』が出てくるとは、想像すらしていなかったに違いない。
「宇野下野も、まさか自分が死んでから思惑通りに運ぶとは思わなかったやろうけどな」
「まだ男子と決まったわけではないでしょう」
「男子であろうと、女子であろうと、足利大樹の子を最初に身篭ったのは事実でっしゃろ」
宇野下野の娘は一時は龍野落城と同時に身柄を確保されるも、解放されて京に移った。亡き父親の望み通りに義昭の側仕えとなり、そして父親の境遇を哀れと思ったのかどうかはわからないが手が付き、そして懐妊した。
いま彼女は「さこの方」と呼ばれている。
「思えば下野も運のない男やったなあ。少しでも違えば、あれが上様の外戚やったんやで。私に代わって播州の主になっとったかもしれんな」
「運も実力。出羽守殿どは異なり、かの御仁にはそれがなかったということでしょう」
「武衛殿にそう言っていただけるとはの」
顔をほころばせる赤松出羽守に、武衛は薄手の赤茶碗に湯を注いで渡した。
「置塩の影響力が小さくなれば、播州は東西に分かれるのは道理やろな」
出羽守は茶碗を両で手抱えるように持ちながら続ける。
「西は山陰や山陽の勢いのある勢力に尻尾を振り、東は中央の実力者に媚を売る。別所は先代(別所安治)から幕府派やし、宇野下総守(政頼)に至っては尼子と通じて、そのあとは毛利や。今や置塩に従うのは小寺ぐらいのもんやで。まったく節操もへったくれもない」
「浦上は今でも四国三好と通じていると思われますか」
「備前の浦上は同族で喧嘩ばかりやっとるからな。ようわからん。わからんけども、商売相手でもある四国の連中とは喧嘩しとうないやろな」
武衛は播磨情勢を頭の中で抑えていきながら、最も気になる話題を出羽に尋ねた。
「龍野に宇野下野の子息である赤松弥三郎殿が戻られたとお聞きしましたが」
「そこやがな。今日はそれを話しに来たんやがな」
赤松出羽守が自らの膝を叩いて大きく反応した。
「赤松弥三郎は宇野下野の次男や。親兄弟があないなことになってからは才村に逃れとったそうやけど、城に戻っとる。姓を才村だか斎村だかに変えるとか変えないとか、小寺の所からそういう話も上がってきとるで。やけど問題はそこやない」
「誰が龍野への復帰を後押ししたかですな」
龍野は西播磨に位置し、宇野氏の勢力圏にも近い。しかし当代の宇野下総守(政頼)は宇喜多や浦上を始めとした周辺諸侯に押され気味であり、四国三好と組んだ浦上と全面対決するだけの力もなく、なんとか中立を維持するので精一杯だ。
とてもではないが龍野に手を入れるだけの余力はない。
では誰が弥三郎の復帰を支援したのか。
「浦上遠江(宗景)と考えるのが、一番しっくりくるんやけどな。どうも聞いとる限りではそうやないんや。問題は弥三郎の嫁はんの実家や」
武衛は「はて」と首を傾げる。
「庶子まで含めて衆知をしているわけではないですが、浦上一族に年頃の娘などいましたか?」
「まぁ、いざとなればその辺の娘でもなんでも隠し子にすりゃええ訳やけど、そやない。そういうこっちゃないんや。まったく、ほんまに兄弟喧嘩ばっかりやっとる浦上やったらどんだけよかったかと思うで。そうやったら私もわざわざ京まで足を運ばんでもよかったんやけど……」
後半は自分自身に言い聞かせるような口調になった赤松出羽守は、心底忌々しそうな表情で続けた。
「浦上やない。宇喜多和泉守(直家)や。あの外道が己の娘をあてがいよったんや。自分で親を殺しておいて、その息子に己の娘を嫁がせたよった。あの山賊、今度は将軍の縁戚と手を結んで播州に手を突っ込む気らしいで」
さすがの武衛も本人を前にして「海賊の子孫が山賊を揶揄している」とは言わなかった。
(*):赤松氏は鎌倉末期にそれなりの地位を築いていたともされますが、円心入道の一代でのし上がったとしたほうが話が面白いのでここではそうします。
(*):さこの方は宇野氏だそうですが赤松村秀の娘かどうかはわかりません。ひょっとすると別の宇野政頼の一族かもしれませんが、この話ではこれでいきます。




