ルイス・フロイス「ゆりかごから墓場まで、冠婚葬祭のご用向きはぜひお近くのイエズス会までご相談ください」吉田兼和「やかましい!!!」
山城の淀は木津川と桂川、そして宇治川が合流することで文字通り淀川となる場所である。
近江へも摂津へも、日本の首府である京にも通じるこの土地は古くから商都として栄えた。
また川で囲まれている天然の要害であることから、室町幕府の山城守護所(現代で例えるなら東京都庁)が設置され、山城のみならず大和や河内・摂津などの近隣諸国にも睨みをきかせる鎮台のような役割も果たした。
そのためこの山城守護所である淀城(便宜上ここではそう呼ぶ)は、戦略的な重要性から管領畠山家、後に細川京兆家の有力家臣が配置され、幾多の戦乱や合戦の舞台となった。
その後の三好政権の混乱により行政府としての機能は事実上停止。永禄11年(1568年)には織田上総介(信長)を中心とした上洛軍の攻勢により焼き討ちにあい、その翌年に将軍の御所として二条城が建設されると、完全に守護所としての役割を終えたかに思われた。
「……というわけですな。ここでどうしても、勘違いしないで頂きたいのは、普請の意義そのものに疑問を呈しているわけではないのです。その点だけはなにとぞ、御理解頂きたいのです。我が吉田家も、幕府と織田弾正大弼(信長)殿の、天下静謐へのご尽力というものは十二分に、はい」
長々と口上並べ立てた割には中身の無いことだと、三淵大和守(藤英)は呆れていた。
正面から嫌味のひとつもぶつけてやりたい誘惑に駆られたが、相手は従五位下の神祇大副でしかないとはいえ、上京のみならず下京へも広い影響力を持つ人物である。いくら親戚とはいえ、そのような事はしたくでも出来ない相手だ。
弟の細川兵部大輔(藤孝)などは先ほどから続く長広舌に、やおら腕組みをして目を瞑り出す始末。聞いているのか、それとも寝ているのか、わかったものではない。
大和守は仕方なく自分自身で相手に確認した。
「つまり吉田卿は、淀城再建の夫役賦課の減免負担の陳情にいらっしゃた。そう理解しても?」
「ですから夫役が嫌であると申し上げているわけではありません」
二条御所を訪問した吉田兼和は、へりくだるような口調で何度も何度も念押しするように繰り返した。
三淵と細川からすれば従兄弟にあたるこの神道家は、京における藤原氏の氏神である吉田神社の神職を世襲する吉田家(卜部氏)の当主であり、当然ながら都周辺に多くの所領や権利関係を保有している。
今年-つまり元亀3年(1572年)の2月。将軍足利義昭は突如として淀城の再築城を宣言。周辺のみならず山城の各地に金銭的な負担や人夫の供給、または建築資材の供出を求めた。
これに兼和は驚愕し、慌てて従兄弟のもとに『相談』を名目にして陳情に駆け込んできたという次第である。
「確かに淀のお城の重要性というものは、われら京の住民も理解しております。あそこを抑えれば、都のみならず畿内全てに睨みが利きます。しかしですな、京の人間は二条御所の再建や改元に関する関連式典など、その他の諸費用を毎年のように負担しているのです。その点は幕府にも理解して頂きたいのです」
「だから負担の軽減についての陳情なのでは」
「いや我ら吉田の家が地位と責任に似つかわしい負担を負うのは当然ですからな。その点だけは勘違いしないで頂きたいのです」
たかが面子、されど面子である。ましてここは700年以上の歴史を持つ京なのだ。
その顔役であり、自身も地権者である吉田家当主としては、唯々諾々と幕府からの『命令』を受け入れていては、面子もなにもなくなる。
かといって自分から夫役の軽減を、それも金銭的な負担の重さを理由には陳情出来ない。その程度の金も出せないのかと思われてしまえば、地域の顔役としての面子を失う。
こちらの意図を理解して善処して欲しいと必死に陳情を続ける吉田家の当主に対して、やおら目を開いた細川兵部大輔は「無理ですな」と切って捨てた。
「摂津情勢は中川駿河(重政)と池田筑後(勝正)の尽力により立て直しに成功しましたが、危機的状況であることに変わりはありません。摂津を失陥した場合のことを考えれば、淀の再建は必要不可欠」
「いや、中川駿河守殿はよくやっている」
三淵大和守がそう評価すると、細川兵部と吉田兼和も同意であると頷いた。
中川駿河守(重政)は消去法で選ばれた摂津守護ではあったが、仮にも現在の幕府で大きな影響力を持つ織田一族である。中川も口さがない京雀に「芥川山しかない守護様」と揶揄されながらも、摂津国内のみならず各地を飛び回って足場固めに奔走した。
守護代として芥川山城に腰を吸える池田筑後の武名は、摂津国内において今だ健在であった。1月に三好三人衆の呼びかけにより芥川山城攻めが呼びかけられた際には、荒木弥助が「筑後がいるなら駄目だ」と反対したことで、この流れは頓挫した。
その結果、全面対決する決意を固めつつある本願寺や一部勢力を除けば、消極的日和見を続けている多くの摂津の国人衆は中立に軸足を移しつつあった。
こうしたいくつかの条件が合わさった結果、風前の灯火だった摂津戦線は奇妙な安定が生まれた。これを評価した朝廷は、摂津のさらなる安定化を図るために2月に中川駿河守を正式な従五位下の駿河守に任官させた。
これは織田家家臣としては最初の任官であったが、岐阜の織田弾正大弼や幕府の同意を得たものであった。
そしてこの基本的に人がいい織田一族は単純に喜んだので、朝議の自尊心を満足させた。
「荒木弥助は池田筑後殿を本気で恐れているわけではないでしょう。池田家を牛耳ることこそ先決であり、本心では幕府であろうと三好であろうと構わない。多くの摂津国人も同様の理由かと」
細川兵部の考察に「下剋上の極みですなぁ」と吉田が嘆く。その吉田家も唯一神道なるものを提唱して神道界を牛耳った、ある意味において下剋上を体現した存在だ。
三淵大和は喉まで出かかったものを飲み込んだ。
「幕府としては常に最悪の事態を考えておく必要はあります」
「…仮にですな。仮にですよ?」
改めでそう告げた細川兵部に、吉田が再び食い下がる。
「仮に万が一に芥川山城が落城すれば、13代様のように京を逃げ出されるおつもりはないのですか?」
「京の真ん中である二条城で籠城戦を始めたほうが良いというのなら、そういたしますが」
これには吉田兼和も「まさか」と顔の前で片手を振った。それこそ応仁合戦の二の舞であり、吉田家を含めた京の経済的な損失は計り知れないものとなる。
だからといって、新たな淀城建築の負担をそのまま受け入れるかどうかとは別の問題だ。
「この際ですから、正直に申し上げましょう。せめて材木ぐらいは何とかなりませぬか。現行のそれに従うなら、領内の神木も切って供出しなければ間に合いませぬ」
ようやく正直に腹を割って話し始める吉田兼和。三淵大和としては最初からそうしておけと言いたくもなるが、これでも自分で調整に乗り出すだけ、まだましな方なのだ。甚だしい輩になると、こちらの足元を見て平気で無視を決め込む始末である。
「岐阜や尾張は武田への備えで余裕がなく、近江も未だ政情不安定で供出どころではなく、大和は先の地震被害の復旧復興が優先。南伊勢はこれも大和復興の手当が優先。紀伊や河内方面は畠山が落ち着かねばとてもとても」
「そもそも淀に城を築こうにも、本願寺が幕府……いや織田家に反抗している状況では淀川水系を利用出来ませんからな。どうしても山城周辺に御願いしなければなりますまい」
「大和殿、兵部殿、なんとかなりませぬか」
三淵の説明に細川兵部が付け加えるように補足すると、吉田兼和は身内であることを匂わせつつ善処を希望した。
しかし返された言葉は、兼和がまるで予想だにしないものであった。
「実はですな、織田弾正大弼様の御座所を新たに作る計画がありまして」
「あぁ、そういえばそんな話がありましたな。政所代行となられるため、上京のどちらかに作られるとか。確か侍所執事の斯波義銀様が……まさか」
顔色を変える吉田兼和に、三淵大和守は気の毒そうな表情を浮かべながらも淡々と告げた。
「淀築城と同時並行で行いたいというのが上様の御意向であり、吉田卿にもぜひご協力を頂きたいという……」
「そんな金がどこにあるというのか!」
烏帽子がずり落ちるのも気にせず、兼和はついには面子をかなぐり捨てて叫んだ。
*
元亀3年(1572年)3月。予てから内外に宣言していた通り、織田弾正大弼は軍勢を率いて上洛を開始した。その数は織田家だけで3万とされていたが、実際には武田への備えのために2万ほどであったらしい。
ともかく途中で諸侯や各地に配置した家臣団を糾合しながら北近江に入ると、浅井を牽制するため赤坂や横山に布陣。そして毎年の恒例行事のように小谷城下を焼き払った。これにより浅井領は2年連続で満足な田植えは不可能となり、窮乏は更に深刻化した。
幾ら精強な兵士がいて、経験を積んだ高級士官や下士官が健在であったとしても、腹が減ってはまともに戦えるはずがないのだ。
さて、織田弾正大弼は横山から志賀郡へ進出。周囲の旧六角方や一向一揆の砦を攻略し、南近江安定化のための地盤固めに注力したのち、軍勢の多くを南近江に残したまま、3月12日に上洛を果たした。
妙覚寺(法華宗)に入った信長の手勢はわずか700あまりという少なさであったという。以前の上洛軍のきらびやかさを覚えている者たちは、やれ織田家もこれまでだ、やれ次の将軍は誰だと口さがなくこれを嘲笑した。
「随分と少ないですな」
侍所執事の斯波治部大輔(義銀)と共に妙覚寺を訪問した吉田兼和は、勿体ぶった迂遠な言い回しを嫌う織田弾正大弼に対して率直に切り出した。こうした振る舞いができるのは兼和と織田弾正大弼は年齢が近く個人的にも馬があうからである。
「その気になれば1万でも2万でも大規模な軍勢を上洛させることは可能だが、今の京においては歓迎されぬだろう」
飾り気のない床の間を背にして織田弾正大弼が言うと、吉田兼和は意味ありげに、そして満足げに頷いた。京の安定化に向けた弾正大弼の姿勢と考えを確認出来たからであり、その回答は吉田の期待に十分応えるものであった。
京の物流はお世辞にも改善したとは言い難い状況であり、西(摂津方面)からも北(北陸道方面)からも経済封鎖を強いられていた。おまけに大和の震災(閏1月)や、畠山の御家騒動も重なり、状況は更に悪化していた。
この状況下で万単位の軍勢を率いて上洛すれば、いくら物資を岐阜や尾張から輸送したとしても物価の更なる高騰は必至であったろう。実際に近江出兵の3月上旬にはその傾向が見られた。
京の村井長門守(貞勝)から報告を受けた織田弾正大弼は、すぐさま方針を転換。わずかな手勢だけを率いて上洛した。
京の面子と実利を同時に立てて見せた手腕に、斯波武衛は「上総守と名乗って粋がっていた頃とはモノが違う」と珍しく褒めていたのだが、さすがに義銀はそれを織田弾正大弼に向かって言うほど命知らずでもなかった。
親しき仲にも礼儀あり……あれ?これは違うか?
「……何を首を傾げておられるので?」
「いや、何でもありませんよ吉田卿。確かにあえて京雀の反感を買う必要はありますまい。避けられる軋轢は避けるべきです。何よりここは他国人(田舎者)というものを本能的に嫌いますから」
「おや、若武衛様はすっかりと京の住民だとばかり思っていましたが」
「在京をやめて私で4代目。私としては意識はすっかり尾張の人間のつもりです。吉田卿にそう評価していただけるのは光栄ですが」
黙って聞いていた織田弾正大弼が「尾張の人間」という言葉に複雑な表情を浮かべたが、義銀はそのまま続けた。
「既にお聞き及びでしょうが、上様は政所執事代行を認める代わりに、京に御座所を設けるようにと仰せです」
「上様の御気持ちはありがたいが、しかし場所はどうするのだ?」
「上京武者小路に空地があります。徳大寺殿の屋敷の邸宅跡で、すでに地権者や周囲との折衝は私が終えております」
「……手際が良いではないか」と、弾正大弼は皮肉を飛ばすが、若武衛は「この案件は淀城のそれよりも以前から着手していた案件ですから」と簡単に答えた。
吉田兼和は「少なくとも私に直接の事前の根回しはなかった」と内心で不満を漏らしたが、知らないとなればそれこそ顔役としての面子に関わるために沈黙を保っている。
政所執事の摂津掃部頭(晴門)の死後、足利義昭は周囲の予想に反して伊勢与三郎(貞興)の相続と、与三郎が成人するまでの間の代行としての織田弾正大弼の就任を認めた。
所領問題に関する訴訟を扱う政所は、武士の政権である幕府の中枢部。その代行ならば在京をせざるを得ないというのが常識的な見解であった。しかし東の武田への備えもあって、出来るだけ在京を避けたい織田弾正大弼は固辞を続けた。
長い神経戦の末に「御座所をつくり、将来的には在京することを明確にしつつ、代行就任を認める」ということで政治的な折衝がつけられた。
信長不在の京の政所において訴訟関連を取り扱うのは、元の越前大野郡司にして摂津掃部頭を補佐していた朝倉中務大輔(景恒)である。能力と人格、そして経験と三拍子揃った人物であり、外様であることから幕閣内部からも織田家からも都合のいい政治的な立ち位置にあった。これには人事に辛い京雀も珍しく手放しで評価したものである。
前管領である斯波武衛が喜んだのは言うまでもない。
「近く上様は『公儀』の命により、畿内諸侯や諸勢力に手伝い普請を命じられる予定です」
「使えるものは何でも使うというわけか。上様らしいな」
織田弾正大弼は脇息を左手の人差し指でトントンと叩きながら、考え込むように顎の下を右手で撫でた。
命令の内容そのものよりも、何を意図して命令を出したかが重要だ。南近江に織田家の主力が駐留している-つまりいつでも上洛可能な状況において、この命令を出すということに意味がある。
現在の幕府の最大の軍事的な後ろ盾である織田弾正大弼の、京における屋敷の建設。これに協力するか否か。中立を続ける諸侯らに対しても、政治的な選択を迫れるというわけだ。
「意図も目的も明確なのはいい」
「しかし時期としては」と織田弾正大弼は珍しく語尾を濁した。
織田家の京における御座所の建設も、淀城再建にしても、意図も目的も明確であり、また政治的にも軍事的にも必要であることはわかる。特に織田家の屋敷建設に関しては今の時期を逃す手はない。
問題は普請に必要な人手と物資の確保が山城周辺で可能な状況にあるかどうかである。上洛の人数を絞ってまで物価高騰に対処した織田弾正大弼のような気づかいを、はっきりとした政治的目的を抱える将軍に求めるのは困難だろう。
「金とは地面から生えてくるものでも、空から降ってくるものでもありません」
境内にある池で雨乞い神事を執り行う吉田神社の神職がそれを語ることには妙な可笑しさがあったが、織田弾正大弼も斯波義銀も笑うどころではなく、むしろ表情を険しくした。
吉田兼和は憤懣やるかたないといった調子で将軍に対する不満を続ける。
「一事が万事なのです。先の元亀への改元式典に関する諸費用に始まり、宮中行事にしても、幕府の慣例たる式典にも積極的ではない。なのに今回のように諸国に負担を求める。我らとて必要とあれば、淀であろうと織田弾正大弼殿の邸宅であろうと、喜んで供出します。人夫であろうと資材であろうともね。しかし当代の大樹のなさり方は……侍所執事を前に言うのもなんですが、あまりにも透明性に欠けるのです」
「経験のある人間がおらぬからな。実務を経験してこなせる能力のあるものが少ない。私を含めてのことだが」
自嘲するように治部大輔は口の端を歪めた。
政所執事の伊勢氏失脚に始まり、足利義輝の暗殺と将軍・管領の長期の不在。幕府を支えるべき奉行衆や奉公衆は親三好派と反三好派に分裂し、反三好派が中核を占めたのが現在の幕府である。
当然ながらそれを支えるべき人材は不足している。畿内の諸侯や織田家が人員を派遣する事でなんとか形を整えていた。斯波武衛一族も織田家からの派遣人材といってよいのかもしれない(厄介払いの面もぬぐえないが)。
それでも現状は、あらゆる課題に万全に対処可能な体制には程遠い。
織田弾正忠家の人間には、当然ながら中央において政治を取り仕切った実績も経験もない。村井長門守(貞勝)などはその能力もあるだろうが、あくまで織田弾正忠家の家臣である彼が正式な官位を有する幕臣と肩を並べて仕事をするわけにもいかない。そのため連絡役兼調整官としてしか力を発揮出来ていない。
「能力があるから地位につければいいというものではありません。ましてすでにその地位にふさわしいとされる家柄の人物がいる場合には。更迭された者からは恨まれますし、地位に着いた人物とて、そのような状況では前任者からの引継ぎも出来ずに、ただの案山子にしかならんでしょうな。それこそ摂津掃部頭がいい例です」
織田弾正大弼が何か言おうとするのを、吉田兼和は手で押しとどめて続けた。
「嚢中の錐という言葉もありますが、破れた皮袋には水を注げないのです。それでは意味がありません。錐は確かに役に立ちますが、場所と時期を得ないと、ただ所有者を傷つけるだけ」
「だからといって、現状をそのまま放置しておくわけにもいかんだろう」
「では新たな京屋敷に、本拠地を岐阜から京へと移されますか」
「出来るわけがなかろう」
織田弾正大弼は不機嫌そうに答えた。
武田入道の謀略の手は間違いなく東美濃以外にも広がっている。長島一向一揆は健在であり、無力化には程遠い。美濃か尾張が危機に陥り、北伊勢が長島一向一揆の手に落ちるような事態にでもなれば、京から織田家の本貫地である尾張までの道が断たれてしまう。
「引くことも進むこともできず、京で野垂れ死にするだけだ」
対武田戦で重要になる東の同盟相手の徳川三河守(家康)とて、完全に信用出来るかどうかは不透明だ。浅井の二の舞にしてはならぬとばかりに、信長は家康の嫡男である竹千代に娘を嫁がせることで、家中での家康の立場にてこ入れを図っている。
しかし親子仲良く押し込め隠居になる可能性があるのが岡崎松平という家だ。岡崎松平の御家騒動は恒例行事のようなものだったし、三河一向一揆を乗り越えたとはいえ、領内には火種は幾らでもくすぶっている。そもそも徳川三河守と織田家の当主が幼少期から顔見知りと言うのも、岡崎松平のお家騒動の余波に付け込む形で、先代の織田三郎(信秀)が銭1千貫で身柄を買い取ったからである。
「あれから20年近い月日は流れたとはいえ、家柄や家風というものはそう簡単に変わるものではない」
織田弾正大弼は目の前に座る斯波武衛の長男の顔を見据えながら、内心だけで呟いた。
「それではいつまで経過しても幕府内部の混乱はそのままではありませんか」
兼右が改めて信長の在京の必要性を訴えた。
「東の脅威も長島一向一揆の問題もわかりますが、ではいつになればその脅威が取り除かれるのですか。その前に幕府が空中分解してしまいますぞ」
「それに対処するための今回の上洛である。上様も私と問題意識は共有しておられるからこそ、私の屋敷の問題にもこうして積極的に取り組んでおられるのだろう」
幕府が畿内の諸勢力に命じる形で、京における織田家の屋敷を建設する。幕府と織田家は一心同体」であると内外に宣伝し、分断工作を図ろうとする本願寺などを牽制する。「ですからそれはわかりますが」と兼右は反駁した。
「問題はどこから物資と人手を集めるかです。政治的必要性を優先して物資不足が発生すれば、また土一揆が発生しかねませんぞ」
「実はそれに関してなのですが」
斯波治部大輔が言い出しづらそうに切り出した。
「徳大寺屋敷跡の普請に関してなのですが」
「どうかしたか」
「……上様は諸侯だけではなく都周辺に領地を持つ公家衆や寺社にも負担を求められるおつもりです。大覚寺に北野神社、久我権大納言(通堅)、高倉権大納言(永相)……」
「馬鹿な!」
吉田兼和は場所も相手もわきまえず思わずに怒鳴り返していた。
昨年の烏丸の一件により、ただでさえ朝幕関係は悪化したままなのに、この上更に公家衆や、それと関係の深い寺社に負担を求めれば、いったい朝幕関係はどうなると考えているのか。
「……なるほど。だからこの時期に淀城建設を言い出されたわけか」
兼和の予想に反して静かに話を聴いていた織田弾正大弼が言うと、義銀は不快さを隠しきれないといった表情で小さく首を縦に振った。
つまり淀にしても織田家の京における屋敷にしても、改元費用すら支払う能力のない幕府では財政負担に耐え切れないし、行政的な能力も人手も足りていない。何れはどこかで誰かに負担を求めざるをえない。
ならば外からの脅威を強調し、内からの脅威に対する警戒感を理由にして幕府単独での負担を可能な限り減らし、その恨みの矛先を自分だけに向けらることを避ける、おそらくそのような魂胆なのだろう。
外からの脅威は言うまでもない。
では内からの脅威とは?
「朝廷内部からは、再び改元するべきという声が高まりを見せております」
「元亀はケチがつきすぎたからな。無理もないが」
「費用負担さえなければ、私でも賛成する」
消極的に賛意を示した兼右に、織田弾正大弼は天井を仰ぐ。
確かに元亀という元号に改元した途端、浅井の裏切りと若狭(朝倉)征伐は失敗した。京の住民からすれば幕府の再興が間もなくという状況から、わずか数ヶ月の間に西と北にまで脅威が迫り、それが現在にいたるまで続いているのだ。当然生活への影響は計り知れない。
元亀への改元を主導したのは征夷大将軍であり、困難を打破できないのも征夷大将軍に手腕が欠けているからではないのか?
「改元の要求は将軍の政治手法に対する不信感の高まりの裏返しのようです。天変地異まで上様の責任というのは無理があると思われますが、そのような声が高まるのも致し方ありますまい」
「だからといって、我が織田家が一時的に人身御供になることを受け入れろというのか」
織田弾正大弼が怒気をはらんだ口調で言うと、斯波治部大輔と吉田兼和は揃って同じ回答をした。
「織田家の当主は京にいない。にもかかわらず最大の実力者であることは誰もが知っている」
「金を出させる対象にはうってつけというわけですな。私としても上様のやり方を個人として擁護するつもりはありません。ですが上様は自らの名前だけでは、最早物事が動かないと見切りをつけておられる模様。とはいえあまりにも政治的……いや、政局的な小細工が過ぎると感じられるかもしれませんが」
「他にやり方がなかったと申すか」
その場に居ても居なくても、成功しようが失敗しようが、結局は何かしらの責任を負わされる。こんな割に合わぬ仕事が他にあるのか?そもそも、あの逃げ足の速い斯波武衛が1年もたたぬうちに逃げ出した時点で気がつくべきだったか。
「乗りかかった船だ。川の中で乗り捨てるわけにもいかぬしな」
おそらくこの瞬間、織田弾正大弼は山積する諸懸案に対処するために受動的ではなく能動的に対処することを決めた。
村井長門守は有能であり、目の前にいる斯波治部大輔も細かい点まで指図せずとも自分の意を汲んで動くことが出来る人間ではあるが、結局のところは『織田信長』の代理人でしかない。自分が動かねばどうにもならぬという政局の問題点をようやく認識したといえる。
本来であらばそのような恨みを買う真似は避けたいところであるが、このまま問題を放置するほうがより危険であるという判断もあっただろう。
「……実は、もうひとつお伝えしなければいけないことが」
そう切り出した斯波治部大輔に、しぶしぶ決意を固めたのを弾正大弼は嫌な予感がして「待て」と言おうとした。
「さこの方、上様の側室なのですが」
「いや、少し待て」
「待ったとしても変わりませぬ。どうも御懐妊されたようです」
織田弾正大弼は思わず胃をおさえた。
*
結論から言えば結局、淀城普請も織田家の京屋敷普請も同時並行で開始された。
3月24日。京屋敷普請の「御鍬始」が行われた。
織田家側の「御普請奉行」は京における織田家の代理人である村井長門守(貞勝)と、織田家の奉行衆筆頭格である島田但馬守(秀満)。幕府からは三淵大和守(藤英)と細川兵部大輔(藤孝)の兄弟。
なお全くの余談ではあるが、あちこちを駆けずり回った吉田兼和(のちの吉田兼見)の夫役が軽減されたという話は特に伝えられていない。
「御鍬始」と同日の3月24日。織田弾正大弼は、先年に四国三好方から降伏した細川京兆家当主の細川六郎(昭元)、そして三好三人衆の1人でありながら、いつのまにかちゃっかりと降伏していた石成主税助(友通)と謁見した。
また信長は幕府により正式に畠山紀伊守(秋高)の後任として河内半国守護に就任した畠山次郎(尚誠)と面会するなど、山積する諸問題の解決に向けて、着実に行動を開始していた。
*
「……思ったのだが、三好日向守(長逸)だけになっても、三好三人衆と呼ぶのだろうか?」
- 斯波武衛、御発言あるも、誰も応じず - 『信長公記』 -




