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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀3年(1572年)
40/53

亀井基次郎「確かに艱難辛苦を与えよと願ったけどさ」尼子孫四郎「この被虐趣味者!私を巻き込むんじゃねぇ!」吉川駿河守「ドーモドーモ、アマゴサン。カンナンシンクデス」「「アイエエエ!!?」」


 今から振り返ると永禄11年(1568年)は、まさに激動の年であった。


 同年に就任したはずの14代将軍が上洛しないまま死去し、三好義重(のちの義継)政権は内紛で自壊して消え去った。前後して織田上総介(信長)を中心とする諸勢力に擁立された足利義昭が上洛を果たし、室町幕府15代将軍に就任。新政権が発足した。


 貴賎富貴を問わず旧政権に属していた者はなんとか新政権にとりなしを願い、あるいは復権を図った。またある者はお手並み拝見と日和見を決め込み、あるいは新政権に食い込むことで自らの栄達を図った。


 混迷を極める政治情勢の中、臨済宗東福寺派の総本山から1人の若い僧侶が失踪したことなど、多くの人間は気にも留めなかった。


 本山である東福寺に強い影響力を持つ安芸安国寺の住持。そしてこの僧を政治的にも資金的にも支援していた毛利陸奥守(元就もとなり)。この2人は事態の深刻さを理解していた。そして失踪した僧侶が先に滅亡した尼子あまごの一族であると聞けば、事態の深刻さは毛利の中枢部に近いものほど認識を強めたと思われる。


 室町幕府の守護は、乱暴に例えるなら「官選の都道府県知事」である。


 基本的に同一の家の世襲ではあるが、嫡子相続が原則だったわけでもない。中央政府が指名し、多くは任地に赴かずに京において中央の政治に参加。地元においては有力国人や守護家の庶流などから選んだ守護代に統治を委任していた。


 出雲(島根県東部)において、それは京極庶流の尼子氏であった。


 尼子民部小輔(経久つねひさ)は、一度は守護京極氏と対立して追放され。しかし彼は下剋上によって守護を追放。上洛していた大内氏の間隙を突く格好で勢力を拡大させた。結果、中国地方において尼子を大内と二分するまでの勢力に拡大させた。


 その大内と尼子の双方を喰らって西国の盟主にのし上がったのが、毛利陸奥守である。


 謀反により自壊したに近い大内とは違い、尼子は名城月山富田城に籠城してしぶとく抵抗を続け、ようやく降伏させたのが永禄9年(1566)。


 尼子の血を引く僧が失踪する、わずか2年前のことである。



「おわかりでしょうが、まだ旧尼子領は毛利に心服するには程遠い状況です」


 上京の武衛屋敷を訪問し、前管領の斯波武衛と侍所執事の若武衛こと斯波義銀に面会した僧侶は瑶甫ようほ恵瓊えけいと名乗った。東福寺派の次の指導者との世評が高い禅僧であるが、あまりにも肥え太っていた。


 団栗目に大きな鼻。口角はそろって下を向いた三日月のようであるが、全体的に肉つきのいい頬に埋もれて、いつも笑っているような表情に見える。その眼は茶室に入る前も後も油断なくあらゆる場所に視線を向けており、西の大国毛利の意向を代表する外交僧の風格に満ち足りていた。


 これでまだ30歳であり自分より年下だというのだから、義銀からすれば胸中複雑である。目の前の人物は、幕閣である自分よりも前管領である父との面会を希望していたと聞けば尚更だ。


「安芸で隠居しておられる尼子三郎四郎殿(義久)は、光源院(足利義輝)様が任命した出雲守護でしたな」


 その前管領の斯波武衛は『鼓腹撃壌』と自ら書いた扇子を広げ、口元を隠しながら問うた。


 恵瓊は赤焼の薄手の茶碗を手に、禅問答に望む学僧の如き表情でこれに応じた。


「毛利右馬頭(輝元)様は、光源院様より相判衆に任ぜられた先代の毛利陸奥守からの家督相続を認められております。恐れ多くも『輝』の一字を拝領致しました」

「だからといって出雲守護とその兄弟を安芸へと招待する理由にはなるまい」

「左様。出雲守護家が謀反人として成敗した新宮党の残党を旗頭とした謀反人共を、どこぞの守護家が支援してよい理由にはなりませぬ」

「その通りだ。傀儡とはいえ因幡守護を差し置いて、武田又五郎なる者が因幡の主のごとく振舞うのは幕府としても耐えられぬ」


 「如何にも仰るとおり。矛盾ですな」と恵瓊は茶碗を置くと、その大きな鉢開きの頭をぴしゃりと叩いた。


 現職の管領であれば、その言葉をどれほど慎重に選んで発言したところで政治的な影響を帯びざるを得ない。しかし今の武衛の立場であれば、あくまで現役ではないという言い逃れが可能である。


 例えばこのような、非公式の場における本音のぶつけ合いにはもってこいだ。


「毛利の幕府への忠勤が尼子や山名のそれより劣るとおっしゃるので?」

「入道殿は幕府に忠誠を尽くしている。少なくとも度重なる停戦命令を無視して、北九州において九州探題の大友と争いを続ける、どこかの『自称』大内の後継者よりもな」


 目の前で繰り広げられる激しい応酬に、目に見えない火花が散る。事前に想定された内容とはいえ、刺々しい空気は同席していて気持ちのよいものではない。


 前管領と外交僧はしばらく無言のまま視線を交差させていたが、先に下りたのは恵瓊であった。


「ふむ。いけませぬな。言葉がいささか荒くなりすぎました」


 「ご無礼をお詫びします」と恵瓊は大きな頭を下げた。毛利家ではなく仏に仕える身だからこそ可能なことだ。


 体躯だけならば達磨大師の様なのだが。義銀は恵瓊の所作を見ながら埒もないことを考えた。


「是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くのみ」

大鑑慧能だいかんえのう禅師ですか」


 義銀が横から口を挿むが、恵瓊は嫌な顔ひとつせずに大きな頭を揺らして頷いた。


 禅宗の公案に「非風ひふう非幡ひばん」と呼ばれるものがある。大鑑慧能曰く、動いているのは幡でも風でもなく、それを見ている者の心である。


 わかったような、わからないような話だ。


「山名も尼子も、そして大友ですら、所詮は風であり幡に過ぎません。問題があるとすればそれは外的要因ではありません。毛利は大きくなり過ぎました」


 先代の毛利陸奥守は安芸吉田郡山の国人から、1代で尼子・大内の両大国を喰い、中国・九州地方に11カ国にも及ぶ支配領域を築いた。27歳で家督を相続し、昨年75歳で亡くなるまでの『わずか』48年の間のことである。


 これほどまでに急速に領土を拡大する事が出来たのは、当主である毛利陸奥守の手腕の他に、支配領域に組み入れた地域の制度や体制をそのまま追認していたことも大きな理由を占めていた。


 だからこそ大内や尼子が衰えた時期において急速に領域を拡大することが可能だったのであり(毛利は尼子と大内の両方に服属していた時期があり、両家の支配体制というものを被支配者として経験していた)、またその逆に大内輝弘の乱や、1年以上の長期にわたった山陰における尼子再興軍を許す原因ともなっていた。


 元々は安芸の数ある国人領主でしかない毛利家は、国内においても絶対的な権威があったわけではない。駿河守が養子入りする前の吉川氏や、安芸守護の武田氏など、伝統的権威や血筋で勝るものはいくらでもいた。そうした障害を乗り越え、同族を家臣化しつつ自らの一族のみを信用し、なおかつ細心の注意を払って、かつての同輩たる国人衆を勢力下に組み込む。


 毛利陸奥守は何でもありの謀略家である前に希代の戦略家であり、希代の戦略家である前に、誰にも真似する事の出来ない忍耐の政治家でもあった。


「因幡で安易な妥協をすれば、それは筑前や豊前に跳ね返ります。そのまた逆も然り。だからこそ毛利の現体制を揺るがしかねない問題だと認識しております」

「家臣や国人を大事にするのが毛利の家風と聞き及んでいるが、切り捨てないのではなく、切り捨てられないと?」

「両の手足がなくて歩ける人間などおりませぬ」


 恵瓊はまたもやわかったようなわからないような答えを武衛、というよりも義銀にしてみせた。織田の傀儡の守護として管領にまでなった斯波武衛家のあり方を皮肉っているようにも聞こえたが、当代の武衛はこれという反応を示さなかった。


 恵瓊曰く、毛利は『守る』という建前を崩すわけにはいかない。何もせずに妥協をするなどもっての外だと熱心に主張した。これが龍野の宇野下野守(赤松政秀)を見捨てた幕府と織田家の判断を批判しているのだということは義銀にも理解出来た。


「陸奥守様は、毛利の長所と欠点を誰よりも承知しておられました」

「われ、天下を競望せず、確かこのような内容でしたな」


 武衛の言葉に恵瓊坊主の顔色が変わる。


「……何ゆえそれを」


 「いや失礼」と恵瓊は大きな頭を左右に揺らした。


「忘れてくだされ。出所を探るほど無粋なことはありませんからな」

「これでも幕府の管領を経験しておる。様々な所より情報が入るのだよ」


 そう嘯いた武衛が扇子をひっくり返すと、そこには『壁に耳あり障子に目あり』と書かれていた。夜な夜な扇子に張る紙に一々文字を書き連ねている様を見ている息子よしかねからすれば、呆れの感情が先に立った。


「尼子残党の亀井何某が隠岐を脱出しました。そこでお尋ねしますが山陰に尼子残党を支援する勢力が存在する場合、幕府はどう対処されるおつもりなのか?」

「……あくまで一般論としてお聞きしましょう」


 ここから先は役付きの出番である。そう判断した毛利の外交僧と示し合わせたかのように、侍所執事である斯波義銀が恵瓊と向き合った。


「山名宗詮(祐豊すけとよ)を、何とかして頂きたい」


 予想していた通りの人名に、義銀は赤ら顔の脂ぎった入道の顔を思い出して憂鬱になった。


 山名と尼子は山陰の支配権、特に因幡や但馬などをめぐって激しく争う宿敵であったが、山名宗詮はそれまでの外交方針を大きく転換。毛利に対抗するために尼子を支援し、西の盾にしようとした。


 これはある程度は奏功し、永禄年間に月山富田城で尼子が籠城している間、山名宗詮は但馬や因幡における影響力を強めた。しかしこれも尼子が永禄9年(1566年)に毛利に降伏したことで頓挫させられた。


 しかし宗家の3兄弟こそ降伏したとはいえ、尼子民族主義派とでも言うべき勢力はいまだ旧尼子領に健在であった。


 毛利が国人を大事にしているとはいえ、石見における支配権確立のため、旧尼子方の本城や小笠原などの障害となる勢力を抹殺している。また毛利は大内氏の正統な後継者を自任して中国や北九州に進出することを優先していたため、尼子側としてはどうしても素直に服属しがたい感情が充満していた。


 山名入道はこの憤懣に付け込むように尼子再興軍の支援を開始。永禄12年(1569年)に北九州で大友と毛利が死闘を繰り広げる背後を彼らにつかせた。無論、大友から経済支援を引き出した上でのことである。


「高祖父である赤入道殿も顔負けですな」


 恵瓊は皮肉とも賞賛ともつかぬ言葉を吐く。これには山名入道と親交のある義銀は苦笑するばかりであった。


 武衛はといえば主人として持て成す側であるはずなのに、客に勧めることもなく勝手に干菓子を食い散らかしていた。


 永禄12年(1569年)の尼子再興軍は一時は出雲全土を回復する勢いであったが、毛利が九州から引き上げ、また毛利の要請を受けた織田家が山名に圧力をかけたことにより破綻する。


 山名入道が木下藤吉郎なる織田家の武将率いる軍勢に但馬を追われて降伏したのは、この時の話だ。


「幕府と山名、山名と織田、織田と幕府。それぞれ連携が取れていないように思えますな」

「そのようなことはありません。いささかの混乱はありましたが、全体的には何の齟齬も……」

「あるに決まっている」


 義銀が優等生的な幕府公式見解で答えようとするのを、武衛が平然と否定した。唯でさえ大きな目をさらに丸くする恵瓊を尻目に、義銀は思わず怒鳴りつけなるのを堪えた。


「赤入道め。堺の今井宗久を脅して三郎(信長)と面会し、出石郡だけとはいえ領主に返り咲いた。それだけならともかく丹波で赤井にちょっかいをかけ、尼子の残党を支援しておる」

「織田弾正大弼(信長)様は山名入道の、尼子残党軍の支援について、どのようにお考えなのでしょうか」

「武田や長島一向一揆の対応でそれどころではなかろう」


 再び本音のやり取りを始める武衛と恵瓊。


「雪が解ければ朝倉が浅井支援のために南下してくるのは必至。はっきり言えば山陰や山陽の優先順位は低い」


 明け透けに内情を語る父親に、青くなって怒る織田弾正大弼のを想像出来た義銀は、頭の奥が痛くなった。何か考えがあるのだろうが……


 いや、ひょっとすると何も考えてないだけなのかもしれない。そう考えると自らの顔がさらに引き攣るのを感じる。


「ところで、恵瓊殿」


 武衛は手で弄んでいた扇子を閉じると、恵瓊の着る法衣についた「割菱」の家紋を指した。


「お主、安芸武田の縁戚か?」

「武田兵部大輔(信重)はわが父です」


 隠すような事実でもない。恵瓊はそれを認めた。


 安芸守護武田は甲斐武田から別れ、守護家を解任された後も安芸の分郡守護として存続した。その事実上最後の当主が武田兵部大輔であり、これを安芸の佐東銀山城で滅ぼしたのが毛利陸奥守である。


 恵瓊は幼少であり出家することで難を逃れたが、彼の才能を見出したのは父の仇であるはずの人物であったのは皮肉であった。


「たしか前の当主が主だった重臣も含めて逃亡するなか、唯一残られたのがお父上だったとか」

「僧侶とて俗世とは無関係ではいれませぬ。何か思いがないわけではないですが、父も陸奥守様も相手が憎くて敵対したわけではないことは承知しております。むしろ陸奥守様は事あるごとに父を称えてくださいましたからな」


 かつての安芸守護という虚名はともかく、逃げる場所すらない城兵に武田兵部大輔は殉じた。そのあり方は武士と僧侶という生き方こそ違うものの、息子にも確かに受け継がれているのかもしれない。義銀はそう感じた。


「して因幡の守護気取りの武田又五郎こと武田刑部少輔(高信たかのぶ)は縁戚か何かか?」

「……武衛様」


 恵瓊は途端に鼻白んだ。同じ武田でもあれと一緒にしてもらいたくはない。そうした感情が表情全体にあらわれている。


「武田刑部少輔は若狭武田の庶流、元は山名の客将だったとか。私とは何の関係もありません」

「なるほど。庇を貸して母屋を取られたわけか。つまり毛利は盗人とでも手を結ぶと?」

「あくまで因幡守護である岩井屋形(山名やまな豊弘とよひろ)殿を支援しているだけです」


 建前で応じる恵瓊に、武衛は重ねて追求する。


「尼子問題では山名入道を批判しておきながら、その言い分を信じろと?」

「信じていただかなくても結構、ただ現実を見るべきであると申しておるのです」


 山陰の因幡は東を但馬、西を伯耆に挟まれた小国だ。元々は山名一族が守護職であったが、尼子と山名、次いで山名と毛利により骨肉相食の主導権争いが今も続いている。


 天文17年(1548年)に山名宗栓が同じ山名の一族(尼子に支援されていた)を謀殺して自らの弟を守護とするも、永禄6年(1563年)には毛利が支援する武田刑部少輔が、山名一族の岩井屋形(山名豊弘)を擁立。旧尼子と同盟を結んだ宗栓側と、熾烈な争いを続けた。


 山名宗栓が幕府(織田家)に降ったことにより因幡は岩井屋形を擁立する武田刑部少輔(親毛利派)に傾いた。幕府の任命した正式な守護も岩井屋形である。


 つまり因幡をめぐる構図だけならば毛利が支援する山名豊弘(因幡守護)-武田刑部少輔、これに但馬守護の山名宗栓が支援する旧守護と尼子残党が挑む構図だが、尼子再興軍に関して言えば立場が逆転してしまう。


「まるで蛸が己の足を食い合うようですね」


 義銀は珍しく皮肉を漏らした。


 片方は相手の一族に手を突っ込んで傀儡守護とする。もう片方は一族同胞で喰い合ったあげく、昨日まで殺し合いを続けて来たはずの宿敵と手を結ぶ。少なくとも積極的に友人としたい相手ではない。


「友人は選べるが、隣人は選べぬからな」

「然り」


 武衛がそう嘯くと、恵瓊は大きく上半身全体を使ってうなずいた。


「ところで幕府と織田殿は、どちらを御友人として選ばれるおつもりで?」

「上様は山名入道の嫡子に一字を与えられたが、織田三郎(信長)としては先に述べたとおり優先順位の低い問題だ。確固たる方針が決まったわけではないだろうが、織田家として毛利家を軽視しているわけではないことは理解してやってほしい」


 そう語る斯波武衛の様子を恵瓊はじっと観察するように見つめていたが、ふとその頭を左右に振った。


「……なるほど。南伊勢の北畠の粛清を急いだ理由はそれですか」


 武衛は沈黙で答える。


 昨年末に発生した三瀬の変は、北畠中将(具房)が主導して行った反織田勢力の粛清とされているが、この一件について織田家や幕府からの事後承諾を得るように熱心に働きかけたのは斯波武衛であることは、京に滞在しているものなら誰もが知っていた。


 とはいえこれで毛利が得たい情報はあらかた引き出すことが出来たと、恵瓊は胸中安堵していた。


 想定していた通り、いや想像以上に織田家を取り巻く環境は厳しいようだ。北畠を固めたことで伊勢長島の包囲網を完成させやすくなったとはいえ、長島と武田、浅井と朝倉への抑えは残しておかねばならない。


 果たして噂される春先の上洛に、織田家はいったいどれほどの兵力を動員出来るものか……


「上洛は3月を予定している。兵力は最低で3万だが、増える可能性もある」


 斯波武衛の語った数字に、今度は恵瓊が沈黙した。


「……武衛様。御冗談が過ぎますな」

「今この場で冗談を言う意味があると思うのかね」


 この期に及んで見苦しい虚勢を張るつもりかと探りを入れた恵瓊の問いかけを、武衛はぴしゃりと撥ね付けた。


 毛利家が永禄12年(1569年)の多々良浜の戦いにおいて、毛利が北九州を含めた全域で動員出来たのは、後詰や水軍衆の兵力までかき集めても2万に届くかどうかである。国内や尼子残党への対処を考えれば、おそらくそれが毛利の動員可能な最大兵力であった。


 そしてその現状はおそらく現在でもあまり変化はしていない。


 ところが織田家はどうか。恵瓊の記憶が正しければ、永禄11年(1568年)の上洛以来、毎年どころか半年ごとに万単位の兵力の動員を続けている。


 確かに織田家と毛利家では統治形態も経済力も異なる。しかしここまで圧倒的な格差を見せ付けられると、恵瓊をして得体の知れない化け物を見たかのような感覚に陥らせた。


 外交僧に対して、今度は義銀が続けて答えた。


「詳しいことは村井長門守からお聞きくださればよろしいですが、摂津や河内……特に畠山紀伊守(秋高)の自害で混乱する畿内を立て直すというのが織田弾正大弼のお考えです」


 畿内における政局の混乱やお家騒動は、結局のところ中央政府の決定はあっても、それを執行出来るだけの兵力がいないからに他ならないと恵瓊は推察していた。


 それが突如3万の兵が現れればどうなるか。


「つまり山名の赤入道の火遊びもそれまでということだ。無論それは……」


 そこで言葉を区切ると、武衛はじっと恵瓊の目を覗き込んだ。目の前の親子は、得体の知れぬ妖怪の代理人ではないのか。まだ寒さが厳しい季節にもかかわらず、恵瓊は自らの僧衣の下を汗で濡らした。


「村井長門守(貞勝)には取り次ぐ故、帰って右馬頭(輝元)殿にもそう伝えられるがよかろう」


 両手を畳についた恵瓊は、全身を折り曲げるようにして一礼することで首肯した。


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