織田勘十郎「親戚の子供に何年ぶりかに再会して成長した姿にテンションがあがるけど、当の本人からは引かれる親戚のおじさんのノリ」
結論から言うと、織田三郎信秀の美濃遠征は失敗に終わった。
天文13年(1544年)、織田と土岐の連合軍は稲葉山城の城下まで攻め込むも、反撃を受けて大敗。
伊勢守や大和守の援軍は多大な被害を受けたようだが、織田弾正忠家の軍勢はいち早く撤退したおかげで被害を最小限にとどめられたらしい(それでも実弟である犬山城主の織田信康が戦死するなどの被害が出たが)。
時期が前後するが、織田三郎が美濃国内に築いた橋頭堡は、大垣城を含めて全て失うこととなった。
越前朝倉は織田と手を切り、守護代の斎藤と同盟を結んだ。朝倉の血を引く土岐次郎は、朝倉と斎藤の同盟の象徴として美濃川手城に迎えられ、室町幕府から悲願の美濃守護に任命される。
そして新守護は斎藤利政の娘を娶った1年後に「病死」した。
土岐次郎の政治的な後ろ盾であったはずの朝倉からは、これという反応は示されなかった。
利用価値のなくなった権威者の末路など、哀れなものである。
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加納口の戦い以降、織田三郎はさながら戦の神たる八幡に見放されたかのようであった。
それまでは豪快なまでに銭の力を使い、傍若無人なまでに勢力を拡大し続けてきただけに、その落差は酷く世情の目にとまった。あるいはそれまで勝利と銭の力で抑え込んできた憤懣が、一挙に爆発しただけだったのかもしれない。
確かに織田三郎が事前に算盤をはじいていたように、美濃遠征において弾正忠家の勢力だけが被害をこうむる事態だけは避けられた。本来であれば織田三郎に対する責任追及の声が沸きあがってもおかしくはないのだが、各勢力は美濃遠征で蒙った戦力の回復や戦後処理に忙殺されていたため、すぐさま反織田三郎の動きに直結することはなかった。
相対的に、津島を抱えて自力のある弾正忠家の戦力回復は最も早かったといえる。
だからこそ尾張国内において、織田三郎個人に対する反発は一層強まりを見せた。
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天文17年(1548年)は、織田三郎の凋落の年といってもよい。
尾張犬山城主であり、織田三郎の甥である織田信清、尾張楽田城主の織田掃部助寛貞が謀反する。
織田三郎はこれを直後鎮圧したが、地理的にあきらかに伊勢守家の後ろ盾があったと思われる。伊勢守家は美濃侵攻において弾正忠家を積極的に支援しており、これは伊勢守家が反織田三郎に回ったことを意味していた。
そして息つく暇もないまま美濃斎藤氏が大垣城(当時は織田方)を攻め、織田三郎は後援のために出陣するも、留守中に織田大和守信友が古渡城を襲撃する。
古渡城は落城こそしなかったものの、勢力下にある熱田は危機にさらされたことから、有力商人からは織田三郎の手腕を疑問視する声が出始める。
結局大和守家とはその翌年に和解することとなるが、和解せざるを得なかったのが実情であろう。
足元でも織田三郎の権威は大きく揺らぎ始めた。
西三河への進出は、これも天文17年(1548年)3月、第2次小豆坂の戦いで今川・松平連合軍に敗北したことにより歯止めがかかった。
「黒衣の宰相」こと、駿河今川氏の執権ともされる太原雪斎は、松平広忠暗殺という想定外の事態にも慌てず指揮を執り、翌年の安祥城攻めでは織田三郎の庶長子(家督相続権のない長男)であり、西三河侵攻の元締め的な立ち位置にいた織田五郎三郎信広を捕虜とした。
結果、五郎三郎は松平広忠の嫡男であり、岡崎松平氏宗家の唯一の後継者である竹千代と人質交換という形で、三河から追放され、織田弾正忠家は西三河での勢力を失った。
殺す価値すらないとされてた斯波義達よりはましというのは、まったく慰めにはならないだろう。
ところがこうした八方塞の状況下にあっても、状況打開を諦めるという発想とは無縁なのが織田三郎信秀である。彼はある意味において、斯波武衛が評したように「誠実」でもあった。もっともそれは弾正忠家の生き残りという点においてだが。
織田三郎は駿河の今川、美濃の斎藤、尾張国内の反織田弾正忠家勢力と争う状況から、美濃斎藤と組むという大きな外交的方針転換を図った。
それは朝倉を取り込んだ斎藤道三の手法を真似るかのようであったが、もはや尾張国内で新たな政治的同盟者を獲得することが難しくなったという政治的苦境の裏返しでもあった。
織田三郎はかつて自身主催の連歌会にも参加したことのある公卿の甘露寺氏を通じて、織田一族と斎藤氏が縁戚関係にあることに目を付け、水面下で交渉を開始。自らの嫡男に斎藤氏の女を迎えることで、電撃的な和解を果たしたのである。
婚姻の成立が内外に正式発表されたのは、天文17年(1548年)である。すでに前述したように尾張国内での相次ぐ謀反や、第2次小豆坂における敗北など、内憂外患の状況で行われたことからも、この婚姻同盟の背景がうかがえる。
これまた当然ながら守護代家にはなんの断りもなかったため(この状況で話せるはずもない)、織田大和守のみならず美濃との国境に近い伊勢守家も激怒した。自分達が織田三郎に対する謀反をそそのかしていることは棚上げして、尾張の一族を仮想敵とするかのような同盟を、国外の美濃と組むのは許容出来ないという理屈だ。
守護の斯波氏はそれをなだめるのに大いに苦労したというが、誰にも同情されなかった。
ともかく弾正忠家の嫡子である三郎信長と、斎藤利政の娘である濃姫との婚儀は、天文18年(1549年)におこなわれた。
なお斯波武衛はしれっと出席していた。
そして織田三郎は病に倒れた。
それも人前で卒倒したために、情報秘匿も困難になるという最悪の事態である。
卒中とも中風ともいわれるが、定かではない。
人事不詳となるほどではなかったというが、嫡子の三郎信長が代行として政務を執り行うこととなった。
形式はどうあれ、これで織田三郎は美濃遠征の責任を取って隠居することとなった。
織田弾正忠家の将来は、次の三郎信長に託された。
この時、三郎信長は15歳。
それも半ば自業自得だとはいいながらも『虚け』と評判であった嫡子である。
世評では若さは未熟と、評判は事実と受け取られた。
翌年には知多半島の同盟者であった水野氏が今川氏に降伏。正確な時期は不明であるが尾張鳴海城の山口親子が今川に寝返るなどして、弾正忠家には苦境が続いた。
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三郎信長が家政を代行するようになってから約3年後の天文21年(1552年)3月3日。
「尾張の虎」「器用の仁」と呼ばれた一大の英傑は末森城で死去した。
享年44。
戒名は萬松寺殿桃巌道見大禅定門。
萬松寺で行われた葬儀は、僧侶300人以上が参集したという壮大なものであった。
「やりたいだけやり、子供をつくりたいだけつくって死んだのだ。この世に男子として生まれたからには、本人にはそれは満足な一生だっただろうが、跡継ぎからすれば『ふざけるな』といいたくもなるだろうな」
焼香の灰を握るや否や、位牌にたたきつける様にブチ撒けて会場を出て行った喪主に、出席者が騒然となる中で、尾張守護の斯波左兵衛佐義統は、首を縦に何度か振りながら周囲の出席者に話していたという。
「勘十郎殿、許してやれとは言わないが、同腹の弟である君だけでも、今の弾正忠の総領となった兄の苦労を理解してやってほしい。許してやれとは言わないが」
「君が桃巌殿(織田信秀)の後片付けをまかされたらどうするのか、考えてみるといい。ちょうど今の君の年のころに、一族郎党の行く末を任されたならばとね。少なくとも君の兄上は3年は耐えたのだ。君ならば3年の我慢を出来るかね……何に対してとは言わないが」
「別に聞き流してもらっても結構だ。だが、今のあの醜態をさらした兄上よりも、君がその一点において劣ることを、君自身が認めることになるだろう。それだけは忘れないでもらいたい」
『信長公記』には、喪主の不行跡を詫びる同腹の実弟である織田勘十郎信勝(父親の隠居城であった末森城を相続した)に対して、斯波武衛がこのようなことを語りかけたという記録がある(後年の加筆の可能性あり)。
ただ織田勘十郎は-織田大和守の家臣である河尻与一に末森城内で刺殺されるまでの短い間ではあるが、兄に背くことは一度たりともなかったのは確かである。
「人は仏になると悪事は忘れられて、美化されるものだからね」
後に「こんな時に勘十郎殿さえいてくれれば」という声が織田弾正忠家中で高まった際、意見を求められた斯波武衛は皮肉っぽく語ったという。
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【天文21年(1552年)8月29日 清洲城内 武衛屋形】
「まあ、とりあえずは……って、もう食べてるか」
こちらが食べてよいという前に、轟然と茶碗にかぶりつくようにして飯を掻き込む織田三郎信長に、彼の父の在りし日の姿が重なる。斯波武衛は感慨深げに頷いた。
それにしても……
「先代の弾正忠殿も、蛮勇じみたところのあるお人であったが、三郎のはそれを上回るな」
その言葉に対してこちらをじろりと睨み返しながら、飯を搔き込み続ける三郎信長。
その器用さをほめるべきなのか、それとも食い意地の汚さに呆れるべきなのかわからない。
何せ今、この守護所の周囲は、完全武装した織田大和守の将兵がぐるりと取り囲んでいるのだ。太陽が天高くあるにも関わらず、ご丁寧に燃え盛る松明まで持参という念の入れようである。
その理由はいうまでもないが、目の前で飯をかっ食らう男にある。
家督相続を終えたばかりの弾正忠家が一枚岩でないのと同様に、織田大和守家も一枚岩などではなかった。
「小守護代」とも呼ばれる坂井大膳を中心に、坂井甚介、河尻与一、織田三位といった有力家臣が台頭し、重臣に家政の主導権が移りつつあった。
信秀の死去を勢力拡大の好機とした坂井大膳らは、主君である織田大和守を突き上げ、弾正忠側の尾張松葉城と深田城を襲撃。城主である織田伊賀守と織田孫十郎(信長の叔父)を捕虜とした。
ところが鳴海城の山口親子の反乱など家中の統制で身動きが取れないと思われていた信長は、これにすぐさま反応。
もう一人の叔父である織田孫三郎(守山城主)の支持を取り付けると、およそ2週間ほどで軍勢を整えて進撃。萱津で大和守の軍勢と衝突した(萱津合戦)。
結果、信長側の反応の速さに対応しきれなかった大和守側が敗北。坂井甚介は討死。松葉城と深田城の両城は捕虜となっていた城主2人と共に奪還された。
余勢を駆った弾正忠家の手勢は清洲にまで押し寄せ、城下の家屋や田畑を焼き払った。
そして現在に至るまで、正式な和睦も停戦合意もなされていない。
そんな中、片方の当事者である織田三郎信長が、殆ど近習も連れずにもう片方の当事者の敵地を訪問したというので、清洲城は上を下への大騒ぎである。
無粋な監視者か、それとも事前連絡もなしに訪問した若者への不満からか。とにかく斯波武衛は溜息をついて、脇息にもたれ掛りながら口を開いた。
「先の一件は大和守の手勢から手を出したことだ。とはいえ君もあまり強くも言えないのだろうが……」
自分より20以上も年下の弾正忠家の当主に対して、斯波武衛はどこか遠慮がちな口調で語りかける。
「清洲城下の焼き討ちはやり過ぎというのが、大方の意見である。私が言うのもなんだが、守護所のある場所でもあるし、伊勢守(信安)からもそのような書状が届いている」
「自分達だけが安全なところにいて、戦が出来ると思うのがそもそもの間違いなのです」
勢いとは裏腹に、米粒一つ残さず綺麗に食べ終えると、信長はこれまた慇懃に応じて見せた。むしろそれが行き過ぎて無礼にも思えるが、彼の若さと顔立ちの鋭さがそれを許容してみせる。
「それは、確かに君の言うとおりだな」
「そのような覚悟がないから、尾張はいつまでたっても周辺国から弱兵と侮られ、銭の勘定しか出来ないと馬鹿にされているのです」
「……何やら桃巌殿(織田信秀)の批判のようにも聞こえるが?」
「武衛屋形様の見解について、私が口を挟めるはずなどございません」
ここまで慇懃無礼だと、いっそ清々しさすら感じてしまう。
こんな時でも(こんな時だからこそか)侍女連中は「三郎様」の容貌が涼やかなのを噂しているらしいが、なるほど顔立ちさえよければ、何をしても許されるのかもしれない。
前置きを嫌うのも父親似のようだが、あえてそれを指摘するつもりは武衛屋形にはない。
「和睦の仲介かね」
これに無言でうなずく三郎信長。
これではどちらが偉いかわかったものではない。
膳を下げさせると、武衛屋形は上から振り下ろすようにして扇子を広げ、せわしなく自らを仰ぎ始めた。
三郎信長はといえば、残暑厳しい最中にもかかわらず、汗ひとつかいていない。
「床の間の飾りであることだけが、私の仕事ではないか。これからもうまい飯を食べるためにも、花押を記す以外の仕事もせねばならぬか」
「むしろそれ以外の仕事が大事でないかと愚考いたします」
「三郎殿、そう意地悪を言わないでおくれよ」
「織田大和守」の居城に守護所をおく「尾張守護」と、その大和守家と合戦をしたばかりの「弾正忠」当主の会話としては、いささか不穏当なものだったのかもしれない。どうやら若い弾正忠当主にも、こうした場面では直接的な表現は避けるだけの配慮は出来るようだ。
「三郎も苦労したのだな」
「苦労、ですか」
そのいかにものんびりとした守護の口調と、安全な立場から自分の振る舞いを一方的に見定めるかのような言葉の内容が癇に障ったのか、信長の額に筋が走る。
「苦労、苦労ですか。しかし苦労を苦労と思わねば、なんということもありません」
「うん、それは若い者の特権だな。若いころの苦労は将来役に立つというから」
「武衛屋形様は……」
さすがに言葉が過ぎると判断したのか、三郎信長は一旦言葉を飲み込む。
「守護として、いかなる苦労をなされましたか」
「苦労を人に語るうちは、それは本当の苦労ではない。まして人に自分の苦労自慢などするものではないよ。聞いているほうは何にも面白くないからな」
相変わらず忙しなく扇子で自らを扇ぎながら、武衛屋形は事も無げに続ける。
「何より私は、今のところは、尾張の国の為には何の役にもたってはいまい」
武衛屋形は狂言役者のように大げさに肩をすくめた。
「まあ、役に立たないという意味で、役に立っているかもしれない」
「私は老荘の言葉遊びを好みません。床の間に座って酒を飲み、飯を喰らうのが、一体何の役に立つというのです?」
三郎信長の殺気混じりの口調と視線が鋭さを増すが、それを直接ぶつけられたにも関わらず、当の武衛屋形は平然としている。
返答次第では守護であろうとも許さんという殺気を身に纏っているが、そのようなことで、この何十年かの武衛屋形の何かが揺らぐはずもなかった。
「そうだ。働かずに食う飯は美味い」
そう宣言した武衛屋形は、さも面白げに高笑いをした。
*
いや、貴重なものを見せてもらった。あとで絵師を呼んで肖像画でも描かせようか。
あの『織田信長』の唖然とした表情など、なかなか見られるものではないからな。