畠山修理大夫「次の大河ドラマはぜひ我が畠山匠作家で!上杉謙信も織田信長も、なんなら武田信玄も出せますよ!」上杉不識庵「思うのは自由だが……いや、やっぱりいいや」
元亀3年(1572年)は閏1月があるので、実際には13ヶ月である。
都の京には昨年の正月に比するまでもなく、重苦しい空気が立ち込めていた。
北嶺たる比叡山延暦寺の滅亡、摂津守護和田氏の敗死に始まる反幕府・反織田勢力の攻勢激化、武田と織田との同盟廃棄、但馬守護の山名と丹波の最大勢力たる赤井一族の紛争、尼子残党と毛利家の抗争、畠山尾州家の御家騒動、物流規制に伴う物価の上昇、朝幕関係の悪化、幕府内部の対立等々……
様々な情報が虚実入り混って伝えられ、またそれを噂する人々によって、あるいは一定の意思の下で多種多様に切り取られ、脚色され、そして増幅されて伝播するという悪循環である。
「情報における不要な要素……例えば主観、思惑、対象への好悪の情などを排除する必要があるわけですな。まぁ簡単にできるのなら、それこそ苦労はないわけで」
上京にある二条御所の控えの間において、山名宗詮(祐豊)は赤く焼けた禿頭を叩きながら、その体躯を揺らした。
高祖父である山名宗全と同じく『赤入道』の異名を持つこの老人は、何度も下剋上の荒波を乗り越え、一時は但馬と因幡2カ国の太守となりながら、今では名ばかりの但馬守護として織田家の従属大名という形の但馬出石郡の領主に甘んじている。
しかしこの名門当主は老いて没落してもなお、宗全と同じく野心に満ち溢れていた。
「虚報と真実を見分けるのはさほど困難ではありませんな。しかしこれが混ざると途端に見分けが難しい。間に入る人間の主観や思惑で捻じ曲げられる。特にたちが悪いのは、悪気がないのに事実が捻じ曲がって伝わる場合ですな。悪意はないだけに見分けるのが難しい」
そう持論を述べる山名入道は、火鉢を抱え込むようにして座っていた。「六十の老人には寒さが堪える」と嘯いてはいるが、それだけ肉つきがよければ関係ない気がすると、摂津守護の中川駿河守(重政)は皮肉っぽく考えた。
ともあれ老人に比べては家柄も年齢も戦歴も、自らのそれを掛けて増やした所で及ぶべくもないという事を理解している駿河守は時折体を震わせながら答えた。
「和田伊賀守亡き後の摂津は流言飛語の巣窟ですからな」
和田伊賀守の死により摂津は瞬く間に四国三好家に席巻され、多くの諸勢力が中立、もしくは反幕府か反織田に転向した。「織田家」への敵対視性を崩さない本願寺を中心に複雑怪奇な情報喧伝が行われており、摂津に残った唯一の幕府と織田家の拠点である芥川山城に在番する摂津守護代の池田筑後守(勝正)は、その対応に振り回されていた。
中川駿河守は情報戦では明らかに四国三好に遅れをとっている自覚はあったが、幕府と織田家が攝津において劣勢なのはいかんともしがたい事実である。この前提が覆らなければ、どうにもならない。
そのため村井長門守(貞勝)より、今年の春以降に織田家の大規模な出兵があるという知らせを受けた駿河守は欣喜雀躍した。結局のところ、頭数がなければどうにもならないのである。
そんな駿河守の内心を知ってか知らずか、赤入道はずずっと身を乗り出す。
「事実であったとしても、解釈や伝え方次第ではどうにでもなりますな」
言葉だけは慇懃だが、態度は相手を飲まんとする気迫に満ちている。下剋上の荒波を乗り越え何度も辛酸を舐め尽くした老人の振る舞いは、同じ名門ではありながら、中川駿河の知る斯波武衛のそれとは似ても似つかないものであるように駿河守には感じられた。
「例えば瓶の中に入った水を半分使ったとして『半分しか残っていない』と伝えるのか、『半分も残っている』と認識するのか」
「では入道殿は、現状をどのように認識しておられるので」
「瓶の中に水がどれくらい残っているのかはともかく、水が漏れているのは良くないでしょうな」
慇懃無礼な調子で山名宗詮が仄めかしたように、正月早々、幕閣の中で問題が生じた。
幕臣同士の対立自体は珍しいことではないが、それが将軍足利義昭の面前で公然と、それも幕府内部でそれなりの地位を占める幕臣の間で口論が行われたとあっては、ただ事ではない。
口論に及んだのは細川兵部大輔(藤孝)と上野中務小輔(清信)である。
細川兵部大輔は言うまでもなく将軍義昭の側近であり、同じく幕臣の三淵大和守(藤英)の実弟。兵部大輔は武勇に長けた武将であると同時に当代一流の文化人でもあることから、朝廷から京の町人にいたるまでその知名度は高い。和泉半国守護ではあるが既に実権はないので、もっぱら将軍個人に近侍している。
つまり都周辺が政治的な基盤である、
上野家は足利家の奉公衆であり、代々将軍の近臣。中務小輔の父信孝が11代将軍の時代に備中の鬼邑山城を与えられた。
備中に下向した信孝は一族を周辺に配置することで経営基盤を固めると、領土を一門に任せて息子と共に京に戻った。
すなわち幕臣でありながら備中、西国に政治的な基盤がある。
この二人が論争に及んだとすれば、その理由は1つしかない。
上野一族の所領のある備中(現在の岡山県西部)は、元々細川家が守護であったが、細川が衰えると周辺国の草刈り場と化した。
尼子・大内の二強時代を経て、上野一族は庄氏や石川氏等と鎬を削り、今では西の大国毛利の支援を受けた三村氏の圧迫を受けている。その他にも地元国人勢力との対立を抱え、おまけに東からは備前(岡山県東部)の浦上遠江守(宗景)とその先手たる宇喜多……
そんな状況で昨年の5月、浦上と同盟を組んだ篠原右京進(長房)率いる四国三好の軍勢が備前に上陸した。
瀬戸内海における三好に属する水軍衆の力を見せ付けたわけだが、これに慌てた上野中務小輔は、浦上と毛利が対立関係にあることに目をつけ、幕府内部の毛利派-浦上と対立する西国有数の太守である毛利家との関係を重視する幕臣や取次(外交官)を取りまとめると、将軍義昭に浦上と三好の追討令を出させるように働きかけた。
これに真っ向から猛反発したのが細川兵部大輔である。
「上野中務小輔殿の『御尽力』により、浦上と四国三好の追討令が出されたわけですが。篠原右京とすれば和田伊賀守の敗北を受けた摂津状況を好機と捉えたのでしょう」
「播磨には赤松の一族や庶流が跋扈するだけですからな。足止めなど出来るわけもありません。我が山名が播磨守護であれば、そのようなことはなかったと断言しておきます」
今や但馬の一群の領主でしかないはずの山名入道のどこまで本気かわからない売り込みに、中川駿河守は聞かなかったふりをして続けた。
「細川兵部殿にすれば、幕府が追討令を出したことで四国三好に幕府への敵対を決意させたのだというお考えなのでしょうが」
「篠原右京進(長房)のことだ。追討令が出ようと出まいと、隙あらば摂津に乗り出すぐらい考えていただろうな。私でもそうする…細川兵部もその程度のことは百も承知。幕府に敵対する大義名分のようなものにはなったのやもしれぬが、散々幕府というものを利用し尽くした細川京兆家を、その中と外から立場は違うとは言え共に見続けた男共だからな。篠原も細川兵部も」
「では何故?それもわざわざ上様の御前で。正月には三淵殿の家臣が喧嘩両成敗で謹慎処分を受けております。あえてその危険性を犯すだけの必要がありますか?」
「違いますな」と山名入道は「わかっていないな」とでも言いたげな表情で首を振る。
「喧嘩、口論と考えるから見誤る。あれは御前でやることに意味があったし、御前でやらねば意味がなかった」
「それは、つまり」
「幕府内部の権力闘争という建前で、内実は上様への諫言。悪意を持って解釈するなら、細川兵部の上様への当て付け。これまでの一貫性のない対外的な政策への批判と解釈することも出来るかの」
火鉢を抱きながら何でもないことのように嘯く老人に、中川駿河は絶句した。確かに2年前の若狭征伐の失敗以来、幕府と織田家はあらゆる局面で後手に回っている。朝倉と浅井、本願寺、四国三好、そして甲斐武田。昨年は摂津戦線が崩壊し、織田家の奮戦によりなんとか持ちこたえたものの、京の喉元まで三好家が迫った。将軍の義理の弟であるはずの三好左京(義継)こそ親幕府姿勢を示しているが、大和の松永霜台は距離をおき、各地の諸勢力も中立へと舵を切っている。
その不満は当然ながら織田弾正大弼(信長)と、将軍である足利義昭に向けられ始めている。山名入道の指摘が正しいとするならば、幕臣が公式の場において正面から将軍の権威を否定したというに等しい。山名入道は「そんなに驚くことでもあるまい」とニタリと笑いながら、火箸で手元の灰をかき混ぜた。
「今の幕府はいざとなれば上様の首をすげ替えて生き延びてきた。まぁ、先の四国三好と浦上への追討令を主導した上野中務小輔を論難するかたちで、一つ間をはさんでいるだけましというべきか。言葉を選ばずに言うなら、失政への幕府内部の不満を細川兵部が代弁したということ」
「上様はそれを受け入れられたと?」
「受け入れざるを得まいて。寝首をかかれるよりはましだろう」
一言一言に顔色を変える中川駿河の反応を楽しむように、山名入道は続けた。
「今回の一件で、最も得をしたのは細川兵部でしょうな」
「得ですか。上様を遠まわしに諫言するという、最も難しい役回りを押し付けられたように思えますが」
「最も難しい役回りだからこそ、得られるものもあるわけです…例えばこれで幕政から堂々と距離を置けるとか」
「まさか!」と中川駿河は声を一瞬荒げ、そして絶句した。その様を見て赤入道はかっかっかと笑って見せた。
*
【元亀3年(1572年)閏1月10日 越後春日山城】
「上方からだ。畠山紀伊守(秋高)が暗殺された」
「自害させられたというのが正確だけどね」と上杉不識庵が付け加えると、直江大和守(景綱)は顎髭を扱きながら「困りましたな」とさして困った様子も見せずに応じた。
北条三郎こと上杉景虎は、2人の対応に苦笑しながら酒を注いだ。
閏1月1日。紀伊と河内半国守護の畠山紀伊守(秋高)が、河内高屋城主において守護代の遊佐河内守(信教)に自害させられた。一度は追っ手を逃れたものの、逃げきれずに自害したという。
「四国三好家に呼応したということでしょうか」
直江大和守は今町湊(直江津)経由で独自に情報を得ていたが、主君がどこから情報を得たのかをあえて尋ねることはせず、常識的な反応で応じた。
「可能性だけならいくつでも考えられるよ。三好左京(義継)や松永霜台の調略、四国三好家、本願寺……しかしそれらは問題じゃない」
不識庵は右手の小指と親指を折り曲げ、3本を立てた。
「『幕府』か『織田家』か、もしくは四国三好を中心とする『反幕府・反織田』勢力か。この3つの勢力のどれに属するかで、畠山紀伊守と……おそらく四国三好方へと味方するべきと主張した遊佐河内の間で意見が衝突した。結果、尾州家中において最終的な解決が図られた」
「……3つですか?」
義父からは影虎ではなくもっぱら「三郎」と呼ばれる上杉三郎が疑問を呈した。
「幕府と織田は同じ陣営ではありませんか?」
「うん。今のところは三郎の見解が正しい。だけどそれが今後も継続されるとは限らないからね」
不識庵は幕府と織田家の間に亀裂が生じているとする見方を示した。
「もう少し正確を記するなら、幕府と足利将軍家、幕府と織田家、足利将軍家と織田家、考える必要があるんだろうけど」
「あまり細分化しても仕方がありませんからな」
こう続けた直江大和守は、自ら酒椿斎(*)と称するだけに、主君に負けず劣らず酒に強い。三郎の次いだ酒を一挙に飲み干して、膳に杯を逆さに置いた。
その主君はさりげなく三郎に杯を差し出したものの、抵抗むなしく同じように逆さにされた。「いいじゃないか酒の4杯や5杯ぐらい」という不満を口にしつつ、不識庵は尾州家の御家騒動について触れた。
「まあこの事件もどうなるか。まだ展開が読めないね」
「あくまで『錯乱しての自害』ですからな」
「そんな言い訳、一体誰が信用するんですか?」
呆れたように言う上杉三郎に、不識庵は首を横に振った。
「信用するかしないかが問題じゃないんだよ三郎。その主張を受け入れるか、受け入れないか。それが問題なんだ。幕府が遊佐河内の主張を受け入れるとすれば、どのような条件を付けるか。受け入れないとすれば次の尾州家当主をどうするか。そもそも織田家はどう対処するか」
指折り数え上げていく不識庵に、直江大和守が頷いて肯定の意を示した。
「冷たいようだけど、今更死んだ人間が蘇るわけじゃないしね」
納得しているわけでも遊佐河内の行動を是としたわけでもない。そうした考えを暗に示しながら、不識庵は続けた。
「実権が伴っているかどうかはともかく、紀伊と河内半国の守護となれば誰でもいいわけじゃない。尾州家なら前の守護である畠山播磨守(高政)、紀伊分郡守護であり紀伊守の兄である政尚の2人が候補者なんだろうけど」
「播磨守様は13代様落命の後、守護の座を擲って馳せ参じた側近中の側近。政尚殿は播磨守様を紀伊から支援しておられましたが、どうしても中央とは距離があります」
「地理的にも政治的にも、そして個人的な距離感でもね。兄でありながら弟に先を越されたんだから面白くないだろう。遊佐河内守はそこにつけ込むだろうし」
梅干を齧りながら不識庵が杯を突き出すと、三郎は義父の催促に根負けしたかのように渋々酒を注いだ。
「先ほど義父上は尾州家ならばと前提をつけられましたが」
「やっぱり何事も続けるということが大事だねぇ」
守護代からの下克上故に正統性に悩まされ続けてきた不識庵の言葉には、悲哀と実感が伴っていた。
「別に尾州家の当主でなければ、河内と紀伊の守護になれないわけじゃない。総州家の次郎殿(畠山尚誠)は二条御所で上様に近侍しているから」
畠山家は応仁の乱において東西に分かれたが、暗殺された尾州家は当時の東軍に、総州家は西軍に属したそれぞれの当主の子孫である。
総州家の畠山次郎は永享4年(1531年)生まれなので今年で41歳。働き盛りではあるが、両国において総州家の影響力はすでに無いに等しい。それを「だからこそ使い勝手がいいんじゃないか」と不識庵は評した。
「尾州家の傀儡にはちょうどいい。傀儡の傀儡というと妙な話になるけど、上様も紐をつけやすい。遊佐河内にしても自分の殺した当主の兄弟よりは受け入れやすいだろう」
これに直江大和守が疑問を挟んだ。
「応仁以降、何十年も争ってきた両家ですぞ?播磨守殿が総州家の守護など認めますか?」
「普通に考えたらそうだけどね。紀伊を政尚殿、河内には次郎殿を入れるという手もあるよ」
直江大和守は、その発想の悪辣さに思わず顔を顰めた。
思えばこの主君は昔からそういうところがあった。人畜無害な顔をして、平気で人の臓腑に手を突っ込んで引きずり出し、塩水で洗うようなことを平気で考えることが出来る。
そして実に質が悪いことに、自らの考えを実行に移せるだけの能力を兼ね備えているのである。
「仮にこのとおりに任命しなくても、それを匂わせるだけで遊佐河内の一党は動揺するだろうしね。背後の紀伊には豊富な傭兵集団を抱えている。傀儡だろうとなんだろうと、守護という肩書きは使い方を間違えなければ、それなりに役に立つものだよ」
「背後が混乱すれば、四国三好が再び畿内のどこかに上陸することが出来たとしても簡単には上洛出来なくなる……」
「そうだね」
義息の的を射た指摘に、不識庵はにこっと笑った。直江大和守はいつの間にか手酌で酒を注いで、杯を開ける作業を淡々と繰り返している。
「そうなれば松永霜台を始めとして高みの見物を決め込んでいる中立諸侯も、簡単には動けなくなるというわけですか」
「察しがいいねぇ。そしてなにより、上様と幕府からすれば実際に兵を派遣しなくてもいいんだよ。そして何より織田家に頭を下げなくてもいい。二条御所で人事案をおおっぴらに検討していくだけで相手が自壊していく。これほど楽で美味しい手はないよ」
「しかしながら、それは問題の先送りをしているだけではないでしょうか。問題の本質が解消されたわけではありません」
「…本当に察しが良くなったねぇ」
不識庵の目がすっと細められる。
「四国三好には単独で京と織田家を相手にする力はない。本来であれば武田入道殿と連携したい所だろうが、そんなことは私がさせないよ」
上杉三郎は思わず唾を飲み込んだ。この義父はやれないことは口にしないが、口にしたことは必ず実行するだけの力がある。
「越中一向一揆や椎名の残党に手を入れるのでは?」
直江大和守が、これも常識的な疑問を呈すると、不識庵は「そうだねぇ」と顎を撫でながら考えるような仕草をした。実際にはすでにいくつかの選択肢は用意されており、その中のどれが最も効果的な対処なのかを選んでいるのだろう。
「越中から反上杉勢力を一掃するいい機会じゃないか……といいたいところだけど、死にたがりの一向一揆相手じゃ少し難しいかな」
「では?」
「こういう問題は連携して動く勢力を考えることさ」
謎解きをするように不識庵は自らの思考と思索の結果を語る。
「朝倉が北国街道を南下可能になる時期は、一向一揆が活動を開始する時期、つまり私たちが動けるようになる時期と重なっている。武田が動き出そうとする時期ともね」
「3月、もしくは4月。その頃までに次の河内半国と紀伊の守護が決まると?」
直江大和守がそう言葉を重ねた瞬間である。
「能登長尾に『義』はあると思うかい?」
突如として表情と立ち居振る舞いを『軍神』のそれに改めた主君に、三郎と直江大和はすぐさま居住まいを正した。
「……畠山修理大夫(義慶)殿は、お若いながらもしっかりと能登守護として精力的に活動しておられるようです」
「それは認めるにやぶさかじゃないさ。だけど修理大夫が本家である尾州家の紀伊守の二の舞にならない保証はないだろう?」
不識庵は畠山修理大夫が暗殺される可能性を指摘したが、それを否定する材料を直江と三郎は持ち合わせていなかった。不識庵は肩をすくめつつ、自らの剣呑な考えを披露した。
「別に持論にこだわりがあるわけじゃないし、起きないに越したことがないさ。でも可能性がある限りは検討をしておかないとね。越中一向宗との戦いの最中に後ろから襲われても面白くないし……それにしても」
不識庵は杯を口に運びながら続けた。
「畠山修理大夫の御父上と祖父は、今頃どこで何をしているやら」
*
【元亀3年(1572年)閏1月14日 二条御所】
「今日の幕府を取り巻く苦境の原因は、若狭征伐という名目の朝倉征伐が失敗したことではありません。播磨の宇野下野守(赤松政秀)を見捨てたことが、そもそもの始まりなのです」
細川兵部大輔と上野中務小輔の御前口論、畠山尾州家の御家騒動の余波冷めやらぬ二条御所において、その控えの間の主と化したかのような赤入道こと山名宗栓に、つい先日伊勢から戻ったばかりの斯波武衛は「声が大きいですぞ」と、宥める様に発言した。
「なに、領土は小さくなりましたので、せめて声と態度だけは小さくまとまらぬ様に気をつけておるのですよ」
人もなげにがっはっはと高笑いをした後、宗詮入道は「ところで」と急に声を潜めた。
先ほどまで自分が何を言ってたのかを忘れているようだ。どうにも芝居がかっているが、これで本人は大真面目なのだから武衛も苦笑するしかない。
播磨においては各地で赤松の庶流や分家が跋扈しているが、その中でも龍野城主である宇野下野守(政秀)(龍野赤松氏)は、置塩の播磨守護職である赤松宗家の後見人として大いに権勢を奮った。
しかし赤松宗家と対立するようになったため、15代将軍に足利義昭が就任するといち早く政権を支持する姿勢に回った。
早い話が「子会社の社長が本社を差し置いて、持ち株会社の社長と手を組んで独立しようとした」ようなものである。
これに宇野下野守の後見を受けていた播磨守護の赤松出羽守(義祐)を初め、浦上や小寺ら宇野下野と対立していた周辺勢力は反発。宇野下野守包囲網を敷いた。
旧三好政権と連携を深めて宇野に対する圧力を強めていた播磨の諸侯であったが、永禄12年(1569年)正月の本圀寺の変における四国三好家と三好三人衆を中心とする軍事クーデターの失敗により、幕府と織田家によって追討の対象となった。
「わが山名も但馬より追放されましたからな」
山名入道が火箸でかき混ぜながら嘯いた通り、幕府と織田家は畿内の多くの勢力を屈服させ、滅ぼし、あるいは追放した。
その例外だったのが播磨である。
「表向き播磨の各勢力が降伏すると、北畠征伐を焦る織田家はさっさと岐阜へと引き上げてしまいましたからな。今から考えると、ここで赤松や小寺を徹底的にたたいておくべきでしたな」
山名入道の皮肉交じりの指摘に、斯波武衛は珍しく苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。
織田家や別所、摂津の池田などを中心とする幕府軍が撤退した後、宇野氏は再び孤立化を深めた。西播磨における盟主的な地位を失い、最後は浦上氏に降伏。囚われの身のまま、元亀元年(1570年)11月に失意のうちに変死している。
「浦上が下手人との話もありますが」
山名入道が水を向けたが、斯波武衛は「憶測で話すことは避けましょう」と見解を示すことを避けた。
「浦上と同盟を結んでいる小寺の元に、戦上手な家老がおるようでしてな。まったくうらやましい限りです。そのような男がいれば、私とて但馬をみすみす諦めることを……おっと、失言でしたな」
まったく失言とも思っていない表情で、山名入道は己の頭を叩く。
「確かに宇野氏を見捨てたことで、少なくとも播磨から西の諸侯には幕府と織田家は頼りがいが無いとの印象を与えたでしょうな。
山名入道の言い分をそのまま認めるわけにはいかない斯波武衛は、一定の理解を示しながらも反駁した。
「しかしながら、あの時の織田家にも幕府にも、播磨に長期陣を張るだけの力はありませんでした」
「それは言いわけにしか聞こえんでしょうな。少なくとも見捨てられた宇野氏、そして第2の宇野氏になりかねないと考えた諸侯からすれば」
表情をさらに苦々しいものとして、斯波武衛は胸の前で腕を組んだ。
確かに宇野の切捨ては、中央の政治からすれば小さなことかもしれない。しかし全国の諸侯、特に播磨や丹波などに点在する多くの中小諸侯はそう思わないだろう。
たとえ政権を支持しても切り捨てられるかもしれない。宇野の末路は明日のわが身かもしれないのだ。
「少なくともそれを根拠に煽ることも可能でしょう」
「……お心当たりがあるので?」
山名入道はニタリと笑う。見返り無しでは答える気がないということだ。
こうも露骨に催促されては、不快を通り越して痛快ですらある。
「……河内は総州家の次郎殿(尚誠)に、紀伊は尾州家の畠山政尚殿。発表は3月後半です」
「なるほど。それまでに織田弾正大弼殿が上洛されるというわけですな」
さすがに毛利や三好と鎬を削り、下剋上の荒波を乗り越えてきた老人である。言わんとするところを直ぐに察し「わかっております。他言は無用」と銅鑼声で返答した。
「では先ほどのお方は」
「……見ておられたので?」
「将軍御座所に通じる廊下は、ここからよく見えますのでな。畠山次郎殿ではなかったようですが」
如才のない老人である。見られていたのなら隠す必要もあるまいと、斯波武衛はあっさりと手札をさらした。
「能登の畠山左衛門佐(義続)です」
「元の能登守護ですか」
宗詮は意味ありげに頷いた。
能登守護の畠山家(匠作家)は能登畠山の最盛期を築いたとされる畠山義総の死後、嫡男である義続と孫である義綱は揃って家臣団に追放される憂き目を見ていた。爾来、この親子は本領回復を目指して畿内を中心に政治活動を続けている。
彼らに変わって有力国人らに擁立されたのが、現在の当主であり義綱の息子である次郎義慶。まだ18歳の青年守護だ。
義慶は7人衆と呼ばれる重臣の勢力均衡と衝突の上に立ち、何とか今日まで6年の長きに渡り政権を運営してきた。とはいえ隣国の加賀は一向宗に、越中は同族畠山が失墜して国人や一向宗、そして越後上杉の入り乱れた状態。御世辞にも安定した状況ではない。
そのため義慶は(個人的思惑とは別にして)本領回復を目指す父と祖父の復帰運動には否定的であった。
「畠山殿もそのようなところに帰りたいとは、酔狂なことですなぁ」
「生まれ故郷とはそのようなものでしょう。入道殿とてそれは同じことでは?」
今はそれ以上の深入りを避けた山名入道が、世間話のように感嘆すると、斯波武衛が懐から取り出した扇子を広げ『お前が言うな』と書かれた文字を見せた。
山名入道は「これはしたり!」と赤焼けた禿げ頭をピシャリと叩いた。
「念のために申し上げますが、丹波との国境紛争については赤井が先に手を出したのですからな」
「先に手を出したのがどちらかなど、私も幕府も興味はありません。釈迦に説法ならぬ、坊主にお経とでも言うべきでしょうが、程ほどになさるがよろしいかと」
「心得ておりますとも。この罪深い身を許していただいた織田弾正大弼(信長)殿の深い慈悲と、足利将軍家の恩顧を忘れたことなどございませんからな」
山名入道は意図的に織田弾正大弼の名前を先に出したが、斯波武衛はこれという反応を示さなかった。その反応に一瞬だけ面白くなさそうな色を目に浮かべた赤入道であったが、すぐさま口を開いて「がははっ」とまたもや笑い声を上げようとした。
「鹿之助殿はお元気かね?」
斯波武衛の反撃に、山名の赤入道が口をあけた奇妙な表情で一瞬固まる。しかしすぐさま、その脂ぎった顔を取り繕った。
「武衛殿もお人が悪いですな。ええ、西伯耆の尾高城を脱出したようです」
「脱出した?手引きしたの間違いでは?」
「さて、それはどうでしょうか」
山名宗詮は斯波武衛に見据えながら、口だけを奇妙にゆがませた。
「瑶甫恵瓊。臨済東福寺に連なる安芸安国寺の住持。毛利の外交僧です。近頃は山陽道を歩き回っているようで」
「自分で火をつけておいて、よく言う」
眉を顰めた斯波武衛に、赤入道は「それは見解の相違ですな」と平然と嘯いて見せた。
*
元亀3年(1572年)の閏1月。山名宗詮は嫡子を元服させ、将軍足利義昭から偏諱の「義」の字を賜り、義親と名乗らせた。烏帽子親は前管領の斯波武衛である。
少なくともこの行動が、赤井一族を刺激したことだけは確かだった。
*
閏1月5日 大和国奈良に於いて亥刻過ぎに乾西の方角より三方笠程の光物が東辰巳の方角へ飛び去り、大風と霰が降る。「大凶事」
閏1月20日 大和国奈良に於いて大地震発生。火神が動いたという噂が流れた
閏1月22日 大和奈良の猿沢池に天照太神が移るという風聞。池の水が赤く変化した
閏1月22日 夕刻に明り取りの障子程の光る物が南から北へ飛行。
閏1月23日 前日夕刻の飛行物体は奈良のみならず大和中の人々が目撃していた「希代ノ凶事」「心細キ者也」。同日、織田信長が数万の軍勢を率いて上洛することが伝わる。
- 『多門院日記』 元亀3年閏1月より抜粋 -
(*);実際には直江景綱は酒椿斎とは名乗らなかったようですが、この話ではそうしておきます。




