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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀2年(1571年)
36/53

越後英雄伝説 北条三郎の春日山日誌(壱の巻)


番外編です。


 日本海から越後平野に激しく吹き付ける海からの風に影響を受けるためか、越後の雪は水気が多いために重く湿っている(*1)。


 越後における冬とはすなわち雪との戦いの日々であり、一度か二度、大雪が降ろうものなら往来することすらままならない。しかしこうした雪の恩恵により越後においては水に困るということが殆どないのも事実だ。また雪壁自体が他国の侵略を遠ざける天然の要塞の役割を果たしてもいた。


「しかしこれは同時に、冬の間は越後に閉じ込められるということでもあるんだよ」


 上杉不識庵謙信は、これ以上は『軍神』としての体裁を取り繕うのに我慢が出来ないといった具合に、自室に入るやいなや白頭巾をそのあたりに投げ捨てるように打ち捨てると、瓶の中から柄杓で水を飲むように酒を飲んだ。


 上杉景虎こと北条三郎は早速に頭巾を拾い上げて畳みながら「義父上」と咎めるが、気にした素振りも見せず、いつものように火鉢の前にどかりと腰を下ろす。


「ところで三郎。日本海は何故『日本海』と呼ぶのか、わかるかい?」

「さて、考えたこともありませんが」

「ちょっと地図を出してご覧」


 三郎は部屋の隅に散らかって積み重なった巻物の束の中から、義父のいう地図を迷わずに取り出した。よくもあれだけ散らかした中からすぐに見つけ出せるものだと、不識庵は愉快そうに笑っている。


 三郎は蝦夷地を除いた義父手製の縦横4尺(約1・2m)ばかりの地図を、書損じの書状や紙くずを乱暴に退かせて広げた。


「どうして数日前に掃除したばかりなのに、こんなに散らっているんですか」

「不思議だねぇ。そうそう、これ」


 火鉢を横にずらし、地図をはさんで三郎と向かい合った不識庵は、南北を逆さにひっくり返した。すなわち三郎からすれば南が上に、北が下に、東が右に、西が左になる具合である。


 日本海をはさんで対岸には明と高麗。「あっ」と三郎は小さな声を上げた。


 出来の良い弟子の反応に満足げに頷きながら、不識庵は地図を指指す。


「なんでも南蛮では日本の東の海のことを太平洋というらしい。波の穏やかな泰平の海という意味だとか。そして日本がなければ、日本海は太平洋の一部でしかないというわけだ。妙なものだとは思わないか?」

「妙とは?」

「日本海にしろ、太平洋にしろ我らがそう名付けて呼ぶ前からそこにあるのだ。しかし名称がついたことで全く異なって見えてしまう。名付けることに意味が生まれるわけだな。本質は何も変わらないというのに」


 そこで言葉を区切ると、不識庵は顔を上げて視線を自らの義息子に合わせた。


「小田原より武田との同盟交渉に着手したとの通告があった」

「……っ、そうですか」


 驚愕・苦悩・激情・憤怒、様々な感情が一瞬のうちに三郎の表情に現れ、そしてその全てを自らの中に飲み込んだ。


 それを目の当たりにした不識庵は、自分が18の時にこの義息のように自らを制した振る舞いが出来たであろうかという考えに囚われた。


 関東の覇者の息子として生まれながら……いや生まれたからこそ、この義息は幸せな幼少期を送れなかった。物心ついた頃から10代までの多感な時期までを武田の人質(*2)として過ごし、その破綻後は一族の長老の婿養子となるも、対武田の越相同盟成立により急遽、上杉側への養子に送られることが決まった。


 その理由は実兄が「自らの息子を送るのを拒否した」ための代理としての人質であった。


 苦労の種類にも色々あるだろうが、武家の貴種として生まれて、これほどまでに家の都合で振り回された例というのも珍しいかもしれない。


 今から遡ること3年前の永禄11年(1568年)。武田信玄入道は、駿河今川侵攻に際して、これに反対する嫡男との権力闘争に勝ち、北条左京(氏康)の娘婿である今川氏を駿河より追放した。


 北条左京は武田の3国同盟廃棄は無論のこと、婿はともかく娘が裸足で逃げ出すような状況に激怒。後北条の3代目として関東の旧勢力を一掃した氏康は、面子を潰されて黙っているような男ではなかった。


 小田原は武田包囲網のため、宿敵であるはずの上杉と手を組んだ。


 不倶戴天の間柄の上杉と北条が手を組んだことは周辺国に驚きを持って受け止められたが、北条は関東における既成秩序の再編、上杉としても関東の損切りのためには武田という共通の敵があることは好都合であった。


 上杉は北条方の「関東から上杉の影響力を排除」せんとする北条の思惑は理解していたが、一向一揆や揚北の本庄、果ては会津の蘆名をそそのかして越後を脅かす信玄入道のやり口に頭に来ていた。


 不識庵は北条の擁立する古河公方であろうと、関東民族派とでもいうべき旧守派の支持する古河公方であろうと、関東が静まるならどちらでもよいという立場である。


 確かに関東の秩序を乱したのは北条だが、滅亡した扇谷上杉や、今は越後で逼塞する山内上杉にしても、いまは小田原の傀儡に甘んじる古河公方にしても、北条台頭までは主導権争いばかりで、関東に秩序どころか戦乱しかもたらさなかった。北条という自らの存在を脅かす外敵が出てこなければ、大同団結などありえなかっただろう。


「三郎の祖父が伊勢氏から北条氏へ改姓したのも、執権北条氏の再興を目指したものだろうね。古河公方の権威を私物化していると批判されても、実際に関東の諸問題を解決出来るのは、何も出来ない旧守護ではなく、自分達なのだという一種の挑戦状だね」

「伊勢の方が都合が良ければ、伊勢氏を名乗り続けたのではないですか」

「うん、それはそうだろう」


 三郎の疑問を不識庵はあっさりと肯定した。中央との関係が必要となれば伊勢を名乗り続けたであろう。北条との戦の中で、不識庵はかの家の家風というものを嫌というほど思い知らされ、北条三郎は長い人質生活によって生家を支えた。


「中央といえば」


 不識庵は日本のほぼ中央、三日月のような形をした山城を指した。


 15代将軍に就任した足利義昭は、兄の13代将軍足利義輝と同じく上杉不識庵を関東管領に任命した。13代将軍の対外政策を継承するという意見表明に他ならない。


 すなわち正統性はさて置き、力のある有力勢力には気前よく現状追認の形で守護職や幕府の地方総監職をバラまき、本来は在京であるべき相伴衆(無任所閣僚)に任ずるなどして、全国政権としての体裁を整えた。


 また武家の棟梁として各地の地域対立を仲裁して、将軍の威光を広めようとした。


 大友と毛利、毛利と尼子、徳川と今川、伊達親子、そして上杉と武田といった具合である。


「将軍親政を目指す上様としては、光源院様(足利義輝)と同じく振舞いたいのだろうが、上様は苦労が足りないからねぇ」

「三好にお命を狙われた上様に、覚悟が足りないと?」

「三郎、私の言う苦労とは政治的な苦労だよ」


 不識庵は三郎の考え違いをやんわりと指摘した。


「お父上の12代将軍と共に各地を放浪され、細川京兆、三好筑前(長慶)、六角に畠山と諸勢力の間で苦労されたのが光源院(義輝)様だ。最後は己が父親の死すら利用して京へと復帰された」

「生死にかかわる危機や戦場を経験はされていても、駄目なのですか?」

「長ければいいって者じゃないけど、10数年以上放浪された13代様と、3年ほど放浪しただけの上様との差といってもいいかな。御自身は気がついておられないかもしれないけど、当初より朝廷の意中の後任候補だったのが上様だった」


 「にも拘らず己が政治信条を優先したがために朝廷と無用な対立を起こしている」と語った不識庵の言葉は驚くほど冷ややかであった。


「自分の政治的な資産を食い潰しておられるだけだからね。そしてその尻拭いをさせているのは」


 不識庵は書状の束を地図の上に広げた。


「今町湊(直江津)経由で調べさせた上方の情勢だ。織田弾正大弼殿が朝廷に莫大な献金したとある。財源は織田領内の商人から集めた運上金、貸付の利息を徴収させたらしい」

「改元に関する諸費用の負担ですか」


 北条三郎の回答に不識庵は「正解だ」と頭を撫でた。


 昨年の元亀への改元は将軍主導で行われたのにも関わらず、義昭は資金集めに失敗した。越前朝倉からの軍事的脅威に対抗する必要があったとはいえ、支払いは一刻の猶予もない。儀式にかかった諸費用の請求書が押し寄せた朝廷は、瞬く間に財政危機に陥った。


 そのため将軍家と一定の距離を保つ山科卿が中心となり、織田家に資金援助を要請。信長は苦しい台所事情のなかからこれに応じた。


 山科卿が目当てをつけたように、織田家にそれだけの財政基盤があったのも確かだが、これを拒否する選択肢は当初からなかっただろうと不識庵は見ている。


「『もし仮に毛利の当主が献金に応じれば、織田家の実力を疑うものは多くなるだろう』。こう説く山科老人を、織田殿は睨み付けていたそうだ」

「体の良い脅迫ですね……織田様はこれを機に幕政の主導権を握りたいとうお考えなのでしょうか?」

「さて、どうだろうか。以前もらった書状からはせっかちな性格が伝わってくるけど、だからといって、これという政治信条があるようにも思えないしね」


 今年の初めに斯波武衛が使者として持参した織田弾状大弼の書状を左手でもてあそびながら、不識庵は自らの頭を撫で回した。


「ただ残念なことに、織田殿の真意は問題とはならない。朝廷と上様、そして幕閣の連中がどう解釈するかが問題なんだ」

「三好三人衆という明白な敵が、喉元の攝津にまで迫っているのにですか?」

「だからこそだよ。敗戦責任は誰にあるのかと押し付けあい、足を引っ張り合っているのが想像出来るよ」

「斯波武衛様は、そのようなお人に思えませんでしたが」


 北条三郎がそう首をかしげると、不識庵は愉快そうに笑った。


「あの老人も織田殿と同じく、これという政治信条など持ち合わせてはいないさ。だからこそあれだけ好き勝手に振舞っているし、それが許されている。前の管領という立場を意図的に悪用し、斯波武衛の一門の繁栄を、幕府と織田の下で図ろうとしているようにも見えるけど、実際にはどうだろうか」


 酒を飲んで国人らと愉快そうに肩を組んで騒いでいた老人のことを思い出し、北条三郎も思わず顔を緩めた。それを見て不識庵は肩をすくめる。


「やれやれ、人に偉そうに教えを垂れるのが嫌いだから坊主に戻るのを諦めたのにね。侭にならぬものだよ」

「義父上にその資格がないなら、この世に教えを説くことの出来る人間などいなくなります」

「私はそんなに大層なものではないよ。人より少しだけ戦が上手なだけの悪人だ。永徳院(上杉定実)の糞野郎……ではなく永徳院様のように、後方の安全なところで戦を煽るだけのことはしないようにはしてきたつもりだけどね。もっとも、武士というあり方自体が悪人でなければ、悪人になる覚悟がなければどうにもならないんだが」


「より効率的に略奪し、効率的に相手を殺す。そんな人間がまともなわけがない」


 不識庵はいつの間にか自分のそばに引き寄せた酒壺から柄杓で酒を組み、そのまま口をつけた。北条三郎はそんな義父をまんじりともせずに見つめている。


「弱い人間は悪人とは呼ばれません。悪とはすなわち強さの証明ではないですか」

「三郎、勝つことばかり考えていると卑しくなるよ」

「しかし負けては何も残りません」

「三郎の言うことにも一理あるよ。略奪も海賊行為も全ては生活の糧。上杉の関東遠征だって、元をたどればそういうことだ。越後の深い雪の中で飢えて死ぬののも、関東においてカビの生えた大義とやらのために死ぬのも、奴隷として人攫いに売り飛ばされて生きるのも、大して代わらないかもしれない」


 自らの言葉の醜悪さにうんざりしたのか、不識庵は顔をしかめると柄杓ですくった酒を呷った。


「だけど、ただ部下たちに希望もなく飢えて死ねとは命じられない。武田太郎(信玄)とて同じことだろう。私も彼も自らを神格化したが、彼は己自身がそれを信じている。大義に縋りながらも大義を信じきれない私と、どちらが性質が悪いかはわからないけどね」


 「勝つだけなら簡単なんだ」と不識庵は改めて語った。その簡単なことが普通の人間にはどれだけ困難なことか。この人はわかっているのだろうかと北条三郎は疑問に思った。


「勝つことばかりを優先すれば、その後の統治が難しくなる。人を力でもって倒すのはたやすいが、心を支配することは難しい」

「心ですか」


 やはり義父は天才であると北条三郎は感じていた。勝つことが容易いと行ってのけたのは、徒の事実の確認に過ぎない。それよりも三郎が気になったのは「心」という義父らしくない、如何にも曖昧模糊とした観念のようなことを口にしたからだ。


 不識庵は続ける。


「私は結局、人の欲というものが理解出来ないんだろうね」

「生臭坊主を自認される義父上らしくて、よいではないですか」

「あんまり嬉しくはないけどね……ところで三郎」


「帰りたいかい?」


 戦場と同じくいきなり急所に切り込んでくるかのような義父の問いかけに、北条三郎はとっさに答えることが出来なかった。


 自らを見捨てた北条は、自らが生まれ育った甲斐武田と争い、再び和睦しようとしている。おそらく今の自分が小田原に帰ったところで居場所はないかもしれない、しかしそれでも小田原は自分にとっての故郷なのは間違いない。


 その葛藤を見透かしたかのように、軍神は優しい声で続けた。


「三郎。君が北条左京の子供かどうかは問題ではない。『上杉景虎』でも『北条三郎』でも、そんなことは関係ないんだよ。君は君なんだから。だから君が帰りたいのなら、家族を連れて小田原に帰ってもいいんだ」

「……父上、いや不識庵様。ご配慮感謝いたします」


 しばらく考え込んでいた北条三郎であったが、腰を少し浮かして服装を整えると、両のこぶしを斜め前についてから不識庵に向かって頭を下げた。


「ですがどうか、願わくばこの越後春日山を、私の帰る場所としたいと思います」


 不識庵は頭から義息の考えを否定するつもりはなかった。しかし上杉家の当主として、自らの名前を受け継がせた息子に確認しなければならない事がある。


「……それで、君の家族と戦うことになってもいいのかい?」

「戦うのは北条ではありません」


 うん?と首を捻った不識庵に、北条三郎はきっぱりと告げた。


「己自身と戦いたいのです。己自身の才覚と努力で何処まで羽ばたいていく事が出来るのか。それをこの越後で試してみたいのです」


「それに」


 北条三郎は顔を上げると、いたずらっぽい視線を義父へと向けた。


「私がいなくては、誰が義父上の散らかした部屋を片付けるというのです」


 目の前に座るどこからどうみてもただの冴えない中年の男性は、帰る場所を探していた青年の目には何処までも大きく見えた。


 そして泰平とは程遠い戦乱の時代を生き抜いてきた『軍神』と呼ばれる男性は、しごくあっさりと青年の大きな野心と、そして小さな希望を受け入れた。


「あぁ、それもそうだねぇ。じゃあ、またよろしく頼むよ三郎」

「……喜んで」



 元亀2年(1571年)12月。


 甲斐武田家と小田原北条氏は、再び対上杉を前提とした同盟を締結。甲相同盟を復活させた。


 この際の条件は北条氏当主の弟2人が武田の人質になるなど、どちらかといえば武田が主導的な同盟であった。


 同盟を廃棄された上杉謙信であったが、北条からの人質である北条三郎こと上杉景虎の養子縁組はそのままとした。


 北条氏とのパイプ役を期待されていたともされるが、実際に廃嫡されなかった理由は不明である。



(*1):越後(新潟県)の雪質は実際にはよくわかりません。現在のそれと当時のそれが同じとは限りませんしね。つまり捏造です。


(*2):実際には北条三郎は武田の人質にはならなかった説が強いようですが、この方が話の展開としては面白いのでそうしました。御館の乱との因縁とか想像できて面白いですしね。



宇佐美定勝「人間の数だけ誤解の種があるものだ」


長尾晴景「越後長尾家は、私の代で終わる。私の病気からではなく、その愚かさによってだ。私のことは忘れ去られるだろうが、愚かさは誰かが記憶していてくれるだろう」

長尾政景夫人「兄さん……」


上杉定実「封建体制の大義名分などたいしたものではない。私を見ろ。越後守護上杉の血を引くからと、私のような人間が権力を握って、他人の生殺与奪権を欲しいままにする。これが封建体制の欠陥でなくて何だというのだ」

上杉政虎「……自らに流れる上杉の血を憎んでいるように聞こえますが」

上杉定実「私は自らの血に仕えた事などない。すべては自らの福祉のために働いてきたに過ぎない。下克上が私に力を与えるのなら、それが私の恩人になる。幕府への忠誠以上の真摯さを持って、下克上という狂気に奉仕するだろう…私は何でも利用してきたのだ!朝廷も、幕府も、一向宗でさえも!」


 正直調子に乗りすぎたと反省している。


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