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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀2年(1571年)
35/53

山名宗詮「やってしまったねぇ、赤井さーん」赤井市郎兵衛「うぅ……お、叔父さーん」萩野悪右衛門「氷上郡は赤井さんの縄張りなの!負けないんだから!」


 織田弾正忠家の一族に刑部大輔ぎょうぶたいふという人物がいた。


 いたことは確かなようだが、どのような実績を上げたのかはわからない。信長の叔父である織田信次の息子ともいうが、これも実際にはよくわからない。


 とにかく子沢山な(というより滅亡した他家よりも織田家は系図や史料が豊富に残っているので、他家のそれに比べて明らかなだけなのかもしれない)弾正忠家の一門であったことは確かなようだ。


 彼には息子が4人、娘は2人いた。


 その長男が中川治郎左衛門の養子となり中川に姓を改めた中川駿河守(重政)。そして此度、目出度く摂津守護に任命された御仁である。おそらく弾正忠家としては嫡流とそれ以外の一門を区別化する狙いがあったために中川姓を名乗らせたのだろう。


 この刑部大輔の4兄弟はそれぞれ武勇に優れていた。


 中川駿河守自身も信長の親衛隊たる黒母衣衆として尾張統一に貢献。永禄11年(1568年)の上洛後は都における奉行衆として政務をとる一方、直轄兵力として各地を転戦。永禄13年(1570年)(もしくはその翌年)には、旧六角領である安土を与えられ、叡山焼き討ち後はその旧荘園を、佐久間・柴田・丹羽・明智と並ぶ形で与えられていた。


 正確な生まれ年は不明であるが、おそらく元亀2年(1571年)の当時は30代後半から40代前半というところであろうか。柴田や丹羽の後塵を拝してはいたが、それなりに順調な出世コースであり、まさに中堅幹部である。


 ただ彼にとっての懸念材料が、同じく武勇に優れた兄弟であったというのが皮肉といえば皮肉である。彼らの姉妹の1人は名古屋因幡守に嫁ぎ、後の『伊達者』として知られる名古屋山三郎を産んでいる。バサラというか、かぶき者というか……とにかくそういう気質がこの一族にはどうにもあったらしい。


 三弟の織田薩摩守(嘉俊よしとし)、末弟の津田刑部(正勝まさかつ)、この信長の親衛隊である赤母衣衆に属する2人の弟は特に問題ない。


 問題は次弟の織田左馬允(信勝のぶかつ)である。


 この駿河守の次弟は天文21年(1552年I萱津の戦いでは小守護代の坂井一族の五郎を討ち、兄と同じく黒母衣衆の一員となったほどの武勇の持ち主である。前述の通り兄が中川家を相続していたので、弟である彼が織田刑部大輔を相続していたのかもしれない。


 しかしこの男は刑部大輔の『かぶき者』の気質を最も強く引き継いだらしく、きわめて「血の気の多い」人物であった。


 兄である中川駿河も度々手を焼き、不測の事態を危惧して弟を足利将軍の護衛から外したほどである。その後は安土における所領運営を任せていたのだが、領土が隣接する柴田権六(勝家)の代官とたびたび諍いを起こすありさま。


 そのため中川駿河は摂津守護となったのを幸い、この弟を芥川山城まで呼び寄せた。


 当然、織田左馬允としては失格の烙印を押されたようで面白くない。


 着任早々、彼はさっそくその憤懣を晴らすかのように、自らより5歳年少の摂津守護代に喧嘩を吹っ掛けた。



「あれにはよい薬になりました」


 どこか清々したというか、いい気味だといわんばかりの表情で中川駿河は茶を服した。


 中川駿河は「政治はわからんので任せた」と言い放つ守護代の池田筑後(勝正)に押し付けられる形で、京と摂津を往復する毎日を送っている。


 今日も今日とて朝廷と幕府と織田家の京における責任者たる村井長門のもとを何度も往復し、日が暮れるころになってようやく京における宿泊所としている武衛屋敷へと帰り着いた次第だ。


 「鎧袖一触とはこの事です」とはそれを見ていた末弟の津田刑部の言だが、織田左馬允は池田筑後に完膚なきまでに伸された。とにかくこてんこてんにやられたらしい。ついには刀を抜いて切りかかった挙句、素手の池田筑後に首を絞められて落とされる始末だったとか。


「守護の弟と守護代が争うとは、それだけを聞けば下剋上の極みですね」


 こちらもいつものように毒を吐く明智十兵衛(光秀)であったが、中川駿河は一向に気にした様子も無い(気が付いていないだけかも知れない)。


「確かに守護の一族と守護代が取っ組み合いをするというのはいかにも風聞が悪いが、風前の灯である幕府方の摂津守護としては、そのようなことを気にしてはおれんのでな。あの暴れ馬の愚弟の手綱をしっかりと握ってくれている事のほうが何倍も有難いというのが正直なところだ」

「優雅さにはかけますが、致し方ないでしょう」


 細川兵部大輔(藤孝)が、己が言葉で発した優雅さとは程遠い土臭い地蔵のような顔で頷く。


 直垂の上からでも筋骨粒々たるその体躯がわかるのに、その所作は驚くほど洗練されている。宮中にはこれほど似つかわしくなく、それでいてこれほど座りの良い男もそうはいないだろうと駿河守は認識している。


 細川兵部大輔、中川駿河守、そして明智十兵衛。


 特にこれという共通性のない顔合わせにも思えるが、それぞれが幕府、織田家、そしてその両者に属していたこともあり、摂津中心した西国情勢の情勢を検討する為に集まっていた。


 「政治はそこそこ」と評される摂津守護ではあったが、この程度の手間を厭うのが池田筑後であり、特別苦にしない中川駿河とは雲泥の差がある。


「雁首そろえて悪巧みか?」


 突如として襖が開く。3人の視線の先には、右手に徳利を、左手にはイエズス会のルイス・フロイスより送られたという銀製の燭台を掲げた斯波武衛が立っていた。


 この人もある意味、優雅さとは程遠いとと中川駿河は内心思ったが、さすがに口に出さないだけの分別はあった。


「さて、本願寺と朝倉の婚約か、山名と赤井の紛争か、三好左京(義継)か、摂津池田のお家問題か、それとも紀伊畠山のお家騒動か。それとも甲斐武田の南下政策か。どれからやるかね」


 十兵衛に燭台を渡し、勝手知ったるとばかりに床の間を背にどかりと腰を下ろすと、斯波武衛は開口一番こう発言した。



 元亀2年(1571年)も早や10月である。織田弾正大弼(信長)は9月に叡山を焼き、浅井と六角を追い詰めたとはいえ、それ以外の局面ではまったく状況は好転してはいなかった。


 先の足利・織田包囲網を主導した朝倉左衛門佐(義景)は、この6月に娘を本願寺顕如の嫡男である教如きょうにょと婚約させた。明らかに連携を深めようという動きである。


 そしてこの顕如と義兄弟の関係にある武田徳栄軒信玄は、2月から5月にかけて2万の軍勢を率いて遠江・三河に侵攻。織田家の仲介を無視し、小山や足助など5つの城を落としたのちに撤兵した。徳川三河守(家康)は当然ながら織田家に援軍を要請したが、弾正大弼としてはそれ以上に周囲に敵を抱えている以上、要請を拒絶した。


「単に領土拡大の好機と見たので兵を出しただけでは?」

「駿河守殿のおっしゃることも一理ありますが、それなら当主自ら出陣する必要はないでしょう。2月であればまだ雪深い越後は動けないとはいえ、小田原(北条氏)への抑えも必要。当初より、織田と徳川の間に楔を打ち込むことが狙いだったのではないでしょうか」


 自分よりも年齢が10以上も年長の十兵衛の見解に、中川駿河も頷かざるを得ない。何よりその言には説得力があり、細川は無論、斯波武衛も「人の神経を逆なでする事と、人の嫌がる事をさせれば右に出るものがない入道であるからな」と独特の見解を付け加えながら賛意を示した。


 武衛は瓢箪に直接口をつけて中身を呷っている。どうにもその中身を客人に勧める気はないらしい。


「織田弾正大弼が北条や上杉と接触しているのは公然の秘密。ならば遠慮することはないということでしょうね。撤退した理由としては上杉の南下に備えるためでしょうか。上杉と北条と徳川、3方向に……いや、織田を入れれば4方向ですか。東西南北に敵を抱える武田としては軍事行動の限界が3ヶ月と」


 手馴れた商人が算盤を弾くが如くに、敵方の思惑を推察する明智十兵衛。自らの考えが実際の武田家の意思決定と違えているとは寸分たりとも考えてはいないらしい。「だからこそ好きにはなれない」と中川駿河はひとりごちた。


「越後の雪解けを考えれば自ずと武田家の行動が予測可能というわけですか」


 細川兵部大輔が口を挟む。


「それとは別に徳川三河守殿への手当ては必要と考えますが」

「すでに御屋形様(信長)は徳川家への財政支援に着手しておられます。問題は織田が同盟相手たる徳川に兵を出せない状況そのもの。昨年、越前と近江へ二度も援軍を要請し、三河守様はこれを受け入れられました」

「武田が徳川家中に手を突っ込んでくると?」

「然り」


 明智十兵衛がにこやかに頷いたのにも関わらず、細川兵部大輔はニコリともしない。ひとつ間違えれば斬り合いを始めてもおかしくないような組み合わせにも関わらず、両者は妙に馬が合うらしい。人の関係とは誠に不思議なものである。


「仮定のことばかり話していても仕方があるまい」


 西国情勢の検討にも拘らず武田問題に集中していたのを本題に戻そうと、武衛が口を挟んだ。


「さしあたって焦眉の急なのは、畠山と、丹波の氷上郡のどちらだろうか」

「丹波でしょう」


 斯波武衛の問いかけに、明智十兵衛が間髪いれずに答え、細川が続けた。


「但馬の山名、丹波の赤井、揃って幕府の仲介を拒否しました。山名は織田弾正大弼殿に援軍を要請したらしく、赤井からは抗議の山です」

「息子(侍所執事の斯波義銀)より聞いてる。だいぶ激しいようだな」

「かつての六分の一殿も、丹波の山奥の狭い土地を地元の国人と争うようになるとは。諸行無常とはまさにこのことですな」

「分家とはいえ和泉半国守護が細川の名跡を受け継いだ私としても、いささか愉悦に感じる気持ちがないとは言いませぬ」


 明智と細川の物言いに「随分と回りくどい言い方をするものだ」と中川駿河はうんざりとさせられる。


 永禄12年(1569年)の7月。つまり3年前に木下藤吉郎が降して以降、但馬守護の山名氏は幕府が正式に任命した守護でありながら、織田家の従属的な同盟者としての顔を持ち合わせていた。


 かつて日本の6分の1を領有し、応仁の乱においては西軍の盟主を務めた名門が織田の配下に甘んじるなど、いかにも悲哀を感じさせる。しかし当代の山名やまな宗詮そうせん祐豊すけとよ)は、毛利や尼子と熾烈な争いを続けてきた古狸だ。表面上はおくびにもそのような意識は出さない。


 どこの生まれとも分からぬ木下なる男に敗れて、その身一つで堺に逃げ出したあと、生野銀山をめぐり関係が深かった今井宗久の仲介により織田弾正大弼に直接面会。但馬出石郡の領有を交渉の末に勝ち取るという、ある意味において木下藤吉郎よりも波乱万丈の経緯を辿った末に、但馬有子山城主に復帰した。


 その宗詮入道は、織田家の従属大名という立場と幕府の但馬守護という看板を使い分けている。出石郡と城下の開発に着手する一方、目をつけたのが隣国の丹波だ。


 応仁の乱で山名と覇を競った細川京兆家が守護を務めた丹波は、三好政権のもとで守護代を務めた松永霜台の実弟が戦死して後、再び国人同士の争いが発生していた。


 そんな状況を勢力拡大の好機とみた宗詮入道。還暦を迎えてもなお衰えない赤入道(山名やまな宗全そうぜん)譲りのぎらついた野心が目標としたのは隣接する丹波氷上郡である。


「よりにもよって赤鬼が相手とは」


 明智十兵衛が珍しく呆れを含んだ声で指摘する。


 丹波で有力な国人といえば細川京兆家の守護代である内藤家や多紀郡の波多野氏であったのだが、ここ十年ばかりの間に急速に勢力を拡大したのが、但馬に接する丹波氷上郡の赤井氏。今では波多野を抑えて丹波の最大の実力者になったといってもよい。


 この赤井氏躍進の立役者は、現在の当主である赤井市郎兵衛(忠家ただいえ)ではない。今年22歳になったばかりの青年当主は9歳のときに父を、松永霜台の実弟である長頼ながよりに父を討たれていた。


 幼少の当主を守り立てていたのが叔父であり『丹波の赤鬼』とも呼ばれた萩野悪右衛門(直正なおまさ)である。悪右衛門は兄の仇であり、内藤氏を相続した長頼を討ち、天田郡の荒木氏を滅ぼすなど赤井一族の勢力を広げた。


 足利義昭政権発足後は、波多野氏とともに幕府に帰順。幕府と織田弾正大弼より丹波のうち実効支配する3郡の領有を認められたのだ。


「ともに幕府に帰順するもの同士が争うのは、伝統といえば伝統なのだが如何にも時期が悪い。毛利陸奥守が死去したというのに」


 中川駿河は眉間を左手の人差し指と中指で揉んだ。


 毛利家と山名は因幡をめぐって係争中であり、それぞれが傀儡を立てて代理戦争の真っ最中。そして山名宗詮入道が後押しをする旧出雲守護の尼子氏の残党が毛利と争うという複雑怪奇な状況にある。


「毛利家から安国寺なる外交僧がたびたび上洛し、あちこちで山名と尼子の討伐を訴えている。しばらくは大々的には動けないとはいえ、大内の後継者を自認するかの家が反幕府に転ずる可能性を考えるなら」

「毛利は朝廷のよき理解者ですからね」


 中川駿河の言葉に、明智が皮肉っぽく応じた。


 弘治3年(1557年)に今上の帝の即位の式典や諸々の諸費用を合わせて約2千5百貫ばかりの膨大な献金をしたのが毛利家だ。以来、朝廷と毛利は太い地下水脈で結ばれている。水脈の中を「上洛」するのは石見の銀だ。


「今の幕府の制度的な限界ですな」

「明智殿!」


 斯波武衛から渡された銀製の燭台をしげしげと見ながら、幕府の制度的な矛盾を指摘する明智十兵衛に、中川駿河守は顔色を変えた。


 斯波武衛は相変わらず瓢箪を呷ぐばかりで、細川は石地蔵のように黙り込んでいる。


「いくら貴殿が御屋形様の禄を食むとはいえ、幕臣でもあるのですぞ。その立場を忘れたがごときの物言いは控えられよ」

「四角い豆腐を如何に切ろうとも、豆腐である事実は変わりませぬ。豆腐を豆腐であると指摘してこそ、公儀への忠誠というものでしょう」

「物にもいい方があるといっておるのだ!」


 気色ばんで詰め寄る年下の中川駿河にも、十兵衛はいつものように顔色を変えずに応じた。


「駿河守様と私との間では、忠誠のあり方には見解の相違があるようですが、問題はそこではありません。動揺しつつある現在の政権をいかに立て直し、幕府と朝廷、幕府と織田家、そして織田家と幕府との間にあると思われている不信感を如何にして払拭するか」

「……曲がりなりにも織田家一門である私が言うのも何だが、織田家と幕府か?幕府と織田家ではなく?」

「どちらを先に呼ぶかどうかなど、大した意味などありません」


 才気が滲み出ているかのような十兵衛の冷たい顔を見つめながら、イエズス会の畿内における責任者の宣教師が「あの方のお言葉を信頼してはなりませぬ」と評していたことを、中川駿河守は思い出していた。


 言葉というものを扱うことにかけては、京の人間以上に緻密にして狡猾とされるのがこの男である。駿河守でなくとも額面通り受け取る人間はいないだろう。もっとも、ただ瓢箪の中身を呷るばかりの斯波武衛は「信用出来ないことが信用あたうのなら、それも一つの信用である」などと解ったような解らぬような事を言ってはいたが……


 そのようなことを中川駿河守が考えていると、当人の斯波武衛が口を開いた。


「確かに守護の在京を前提とした今の制度に無理が生じてきたのも事実ではある。幕府は各地の問題に対処し切れていないからな。征夷大将軍……つまり武家の棟梁たるものは、諸侯の中でも抜きん出た所領と軍事力を持って然るべきだという考えには一理あるが、これまでそのような将軍はいなかった」


 「鎌倉においても、室町においてもだ」と武衛は語る。


 平相国(清盛)の温情により助命された源頼朝が関東へと下向した際、彼は数人のお伴と幾ばくかの書籍、そして源氏の御曹司の肩書き以外の何も持ち合わせてはいなかった。


 そんな彼が武家の棟梁と認められるようになったのは戦の能力(むしろ戦下手であったという)でも所領の広さでもなく、彼の卓越した政治手腕-つまりは関東の御家人に対して、公正な調停役兼証人役として振舞うことが出来たからである。


 頼朝の長男である2代将軍はそれに飽き足らず独自に権力を強めようとしたが、縁戚関係にあった比企ひき氏とともに表舞台から粛清される。


 3代将軍で嫡流が絶えた後は摂家、もしくは皇族出身の将軍をお飾りとし、執権北条氏を中心とした関東御家人の連合政権と化した。しかし「公平な調停役兼証人」としての役割は、執権と執行機関に引き継がれた。


 その連合政権の一角だった足利が離反して新たに室町幕府を開いたが、足利の直轄領を増やす方向性にはならなかった。


 諸勢力が入り乱れる状況を憂慮した足利幕府の2代将軍が日本と朝廷の再統一を重視し、地盤をそのまま追認するような形で敵対勢力を幕府に形式的にでも帰参させたからである。


「恥ずかしながらというべきか、それとも誇るべきか。わが祖たる斯波道朝(高経たかつね)もその一人であった」


 斯波武衛はそう付け加えることを忘れなかった。


 とにかく3代将軍のもとで日本は統一がなされたが、有力守護の勢力はそのままであった。山名氏などは「六分の一殿」と呼ばれるように最盛期には11カ国にも及ぶ守護を確保していたほどである。これに対抗するため、代々の室町幕府将軍は家督相続を狙いすましたかのように有力守護の勢力を削ぎ、独自の軍事的基盤を作ろうとしていたが、基本的には「公平な調停役兼証人役」としての役割を逸脱することはなかった。


 あまりにもそれを逸脱していた(もしくは逸脱したと見なされた)が故に6代将軍と13代将軍は暗殺され、8代将軍は自らその役割を放棄したがために応仁の大乱を招いたのだ。



「問題は山名も、赤井も共に幕府に服属しているという点です」


 細川兵部大輔が唐突に話題を元に戻す。


 『幕府の任命した正式な但馬守護』の山名宗詮は『織田家の従属的な同盟者』である。


 そして赤井氏は『幕府と織田家が正式に認めた』丹波氷上郡の支配者。前者が後者に侵攻し、後者がこれを返り討ちにして逆に但馬まで攻め入り、前者が『幕府と織田家へ』援軍を要請した。


「整理しないと何がなんだかわからんが、山名を支援するわけにもいかんだろう」喧嘩両成敗とはいえ、この件に限れば明らかに先に手を出したのは山名。赤井がやりすぎたとはいえ、あくまで正当防衛だ。これで山名支援をおおっぴらに打ち出せば、幕府政所の裁判に従うものがいなくなる」

「しかし駿河守様。幕臣『でも』ある私が言うのもなんですが、徳川三河守殿はそれを見てどう思われるでしょうか?」


 明智十兵衛の切り返しに、織田一門である中川駿河守は言葉を詰まらせた。


 政治的な問題をなまじっか理解できるからこそ、そこにある問題の根の深さに答えを躊躇せざるを得ない。事実上の政権の指導者として振舞うか、それとも織田家の当主として振舞うかという選択。あくまで織田家の一門でしかない駿河守が答えるには、あまりにも問題が大きすぎた。


「判決内容を強制執行する能力のない幕府にとって、裁判の公平性は生命線です……上様は山名の支援に積極的ですが」

「兵部大輔殿、それは真ですか?」

「萩野悪右衛門の継室は、近衛太閤の妹です」


 細川兵部大輔の言葉に、部屋の中に重苦しい空気が立ち込める。先の関白である近衛前久は、石山本願寺から、この頼もしき義弟の元へと居を移していた。


 将軍義昭が近衛太閤を敵視していることは有名である、表向きは政権に敵対する本願寺から距離を置いたというのが言い分だが、これでは本当か嘘かわかったものではない。


「まさか赤井を煽ったと?」

「……駿河よ。それこそ『まさか』だ。確証もないのに断言が出来るか」


 珍しく斯波武衛が言い澱んだことが、すべてを物語っていた。


 畠山の内紛とて表面上は三好三人衆につくか幕府に付くかの主導権争いにも思えるが、ひとつ間違えば「幕府」か「織田」かを問う争いになりかねない。この場にいる全員はそれがわかっているからこそ、それ以上の言及は避けた。


「……圧倒的な所領と軍事力を背景に、他の勢力を押さえ込む。確か武衛様は先ほど、そう申されましたね」

「それがどうかしたか?」


 胡乱げな眼差しを向ける武衛に、明智十兵衛は臆することなく尋ねた。


「織田弾正大弼様の公式印たる『天下布武』とは、つまりそういうことなのですか?織田家が圧倒的な領土と軍事力を背景に、天下を統治する。他の諸侯に武力衝突を許さないほどの圧倒的な地位と立場に上り詰めんとする」


 中川駿河が息を呑み、細川兵部大輔はその身を強張らせた。


 織田信長は『今の幕府の元で第二の鎌倉執権の北条』を目指すのか、それとも『今の足利に取って代わる』のか、それとも『第三の道』を目指すのか。それを問うている。


 3者の視線をすべて見返してからしばらく黙り込んだ後、斯波武衛は懐から扇子を取り出して広げた。


「『知らぬ』、ですか」

「当たり前だ。そんなもの本人に聞けとしか言いようがあるまい。私は織田三郎ではないのだからな。あれの代弁など出来るわけなかろう……といっても、そこまで考えてあの印を使っているとも思えんが」

「それでは、織田弾正大弼と上様の道が違えたその時は如何なされるおつもりで?」

「おい!」


 再び声を荒げた中川駿河であったが、それよりも先に斯波武衛は扇子の面を反対に向ける。


 そこには『なるようになる』とだけ書かれてあった。


「先のことばかりを考えても仕方があるまい。とりあえずは三郎……織田弾正大弼流に、目先の懸案を順番に片付けるだけよ。毛利は動けぬし、本願寺は単独で政権打倒は出来ぬ。三好左京(義継)は中立を崩さぬだろうし、松永霜台とて左京の立場を危うくするような行動はとれない……まずは浅井と六角を片付けて近江を平定してからよ。次に三好三人衆か、朝倉討伐かはその時の状況次第」


「最大の懸案となりうる武田入道とて、北条左京(氏康)が背後にいては早々動けるはずもないしの」


 『なるようになる』と書かれた扇子でせわしなく自らを扇ぎながら、斯波武衛はこう嘯いて見せた。



 10月3日。かねてより体調不良がささやかれていた後北条の先代当主である北条左京大夫(氏康)は相模小田原城で死去した。


 享年57歳。


 元亀2年(1571年)も残すところ2ヶ月弱となり、斯波武衛が断言した通りに全てが『なるように』なろうとしていた。



織田信長「貴方は蹴鞠が上手なフレンズなんだね!」

今川氏真「貴方は焼き討ちが得意なフレンズなんだね!」

織田&今川「「あははははははは」」

徳川家康「アワワワワワワワワ」


なんだこれ


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