荒木弥助「ハイクを詠め。カイシャクしてやる」和田伊賀守「アイエエエ!?ニンジャ!?ニンジャオレジャナイ!?」
律令体制下の旧国名と現在の都道府県は、行政区分が似ていることが多いのでわかりやすい。山梨県(甲斐)、長野県(信濃)はほとんどそのままであるし、新潟県(越後+佐渡)、静岡県(遠江+駿河+伊豆)など、いくつかの旧国をそのまま行政単位として存続させるには小さすぎるため合併させたパターンである。
摂津は現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあった国で、摂津の『津』は港を意味している。その名の通り難波宮があった時代から、ここは畿内における海上交通の重要拠点であった。
水軍があったとしても上陸拠点がなければ兵力の揚陸は困難を極める。四国と畿内に勢力を持った細川京兆家-そしてこれを乗取った三好長慶は、堺のある和泉(現在の大阪府南部)と共に摂津をしっかりと確保していたからこそ、畿内の政変に際して地元四国からの迅速な展開が可能であった。
14代将軍とそれを支えた三好政権が崩壊したのち、摂津には3人の守護が置かれた。1国に複数の守護が任命される分国守護そのものは、決して珍しいことではない。とはいえ「重要な国を単独で任せず、相互に牽制させるため」といえば聞こえはいいが、摂津を単独で任せられるだけの人材が幕府は無論、織田家にも存在しなかったからである。
各勢力の駆け引きの末、池田筑後守(勝正)、伊丹次郎(親興)、そして和田伊賀守(惟政)の3人が摂津の分国守護として選ばれた。
池田と伊丹はそれぞれ細川や三好に属したこともある摂津の有力国人である。この中で摂津の出身ではないのは幕臣の和田伊賀守だけだ。彼は摂津ではなく甲賀出身である。
そもそも和田家は山南七家とも称される甲賀の有力国人であり、将軍直属の親衛隊とでもいうべき奉公衆の家柄であったらしい。何らかの理由で13代将軍の勘気を被り蟄居していたが、それが故に永禄の変(1565年)を逃れることが出来た。
早くから義昭擁立派として活動し、主に外交面に従事。地縁と人脈を活かして六角氏との折衝に当たるも失敗している。織田家との折衝における過程において弾正大弼(信長)の知遇を得たこともあり、畿内制圧後はかつての三好の居城である摂津の芥川山城、のちに高槻城を織田弾正大弼から任され、義昭によって摂津分国守護に抜擢された。
つまり和田伊賀守は、明智十兵衛(光秀)と同じく足利家と織田家の両方の禄を食んでいたことになる。
その政治的立場の複雑さゆえに一時的に失脚を経験するも、すぐに復活。元亀元年(1570年)の朝倉征伐から始まる「第一次足利・織田包囲網」では、摂津戦線で三好三人衆や本願寺の猛攻を凌ぎ切り、その後も粘り強く離反した池田の一族に帰参を呼びかけるなど、軍事面でも政治面でも卓越した手腕を発揮した。
同じく守護に任命されたうち、池田筑後は失脚。伊丹次郎は良くも悪くも国人の域を越えない。職務権限が限られる中、外には三好、内には本願寺と向背定かならぬ国人衆という環境にあって、和田伊賀守には地縁・血縁関係が高槻の高山一族との縁戚関係を除けばほとんど無かった。
にも拘らず曲者ぞろいの摂津国人衆をまとめて摂津戦線を支え続けていた和田伊賀守の力量は、政治家としても軍事指導者としても並外れたものが『あった』。
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「まさかそれを過去形で語らねばならぬ日が来るとはねぇ」
二条城に呼び出された池田筑後がそうため息をつくと、車座になって向かい合うルイス・フロイスと斯波武衛が沈痛な表情で頷いた。
叡山焼き討ちの約半月前である8月28日。摂津の白井河原において、和田伊賀守指揮する幕府軍と、三好三人衆に通じて池田筑後を追放した池田氏の重臣である荒木弥助(村重)、中川清兵衛率いる軍勢が激突した。
ほとんど無名の池田家家臣の荒木なる武将が相手とあって、和田伊賀守の勝利を疑うものは誰もいなかった。
結果は和田伊賀守の討死。茨木氏と共に率いていた兵力はほぼ全滅という悲惨なものであった。残った後続の兵力は高山親子の高槻城に籠城し、幕府への救援を要請している。
「和田様は軍を二手に分けて勇敢に戦われましたが、相手の数が上回っていました。最後は体中に多くの銃創と刀傷を受け、御自身の首を取ろうとした相手にも傷を負わせてなくなられたそうです」
ルイス・フロイスはいたましげな表情のまま胸の前で十字を描く。
和田伊賀守はキリシタンではなかったが、熱心なキリシタンで知られる高山親子の上司でもあることから彼らに好意的であり、イエズス会にとっては幕府側の信頼出来る支援者であった。しかしフロイスはそれ以上に和田の人柄に惚れ込んでいたこともあり、この異教徒の老人の死を真摯に惜しんでもいた。
高槻城における和田伊賀守の息子と高山親子の籠城戦が始まると、フロイスはロレンソ了斎を使者として織田弾正大弼のもとに遣わした。これは和田への義理立てと同時に、畿内のキリシタンの保護を念頭に置いた動きでもあった。
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「聞いておらんぞ!誰か理由を、どうしてこうなったかを説明しろ!!!」
イエズス会のロレンソと、京の村井長門守(貞勝)から報告を受けた信長は、寝耳に水とばかりに驚き、かつ激昂した。それまで和田伊賀守のもとで摂津戦線は磐石であるとおもわれていたのが、たったの1日で崩壊したのだ。
このままでは昨年の叡山と摂津の両面作戦を強いられた二の舞である。その危機感が信長に叡山攻めの最終的な決断にもたらした影響は無視出来ない。
背後の憂いを断つことには成功したのはいいものの、幕府の公式な知らせよりもイエズス会のほうが連絡が早かったという事実も彼を苛立たせた。
いったい京の幕府は何をしているのか!!
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「こっちはそれどころではないわ!」
幕府は幕府でそれどころではなかった。
半ば自業自得ではあったが烏丸の一件以来、朝幕関係は冷え込んでいる。そんな中での摂津戦線の崩壊である。奉行衆は必死に京の人心を収攬するために駆けずり回り(村井長門守もこれに協力した)、奉公衆はいざという時のための独自の動員準備を始め、義昭も一時的に関係の悪化した二条関白と直接折衝するなどてんてこ舞いであった。
ところがそんな状況での叡山焼き討ち強硬である。座主である覚恕法親王は二条城で自主的に謹慎を始めていたが、受け取り方によっては朝廷に対する挑戦とも受け取られかねない。
斯波武衛や前田孫十郎の楽観的な予測とは裏腹に、朝廷内部における織田家、そして将軍に対する感情は急速に悪化した。
(なるほど、近衛太閤はこれを見越していたわけか)
手紙ひとつで都合の良いように利用されたにもかかわらず、斯波武衛は近衛太閤に対しては感情を害してはいなかった。本来ならば怒るところなのだろうが、ここまで鮮やかだと逆に感心してしまう。
「自分ではなく相手を居のままに動かす。さすがは太閤殿下である」
「そうですか」
負け惜しみと賞賛とも付かぬことを滔々と語る武衛を、フロイスは珍妙なものを見る顔つきで見ている。池田筑後は咳払いをして、高槻籠城に話題を戻した・
「荒木の糞餓鬼は摂津高槻の城下を、御丁寧にも2日かけて焼き払った後、ぐるりと取り囲んでいるらしい。四国の三好が援軍に出たという話もある。それ自体は別に問題ではない。戦での手合わせなら、俺だって負けるつもりはないからな」
「単なる戦だけならな」と池田筑後は付け加えた。その言葉には自嘲の響きがある。
白井河原の合戦は、和田伊賀守がいつの間にか摂津国内で孤立化していたことの証明である。本来であればもっと多くの軍勢を動員出来たはずなのだが、同じ守護の伊丹氏は度重なる合戦での疲労を理由に出兵を渋り、多くの国人もそれに従った。
その為、和田伊賀守はほどんど同数か、それ以下の軍勢で荒木勢と戦わざるを得なかった。
摂津国人の多くは和田伊賀が圧倒的な有利とされていた状況ですら日和見した。今の状況で積極的な支援を受けられると考えるほど、池田筑後も甘い見通しは立てられない。
乱れ飛ぶ流言飛語と情報の中、斯波武衛と池田筑後には、どうしても確かめなければならない事があった。
「松永霜台親子の手勢が、高槻包囲網に加わっているというのは事実なのか?」
「わかりませぬ。そのような情報はありますが確実なものではありません。我らも今の高槻には簡単には近づけないので」
池田筑後が険しい表情で尋ねると、ルイス・フロイスが首を横に振る。
松永霜台(久秀)は幕府より大和一円の支配を任された人物であり、いわずと知れた旧三好政権の実力者。その崩壊後は壮年の三好宗家当主と共に幕府に降った。
つまり摂津の反幕府勢力を公然と支援する三好三人衆と四国三好家とのパイプは今も残されている可能性がある。そうでなければ昨年の四国三好家との和議を松永が斡旋出来なかっただろう。
「筒井の一件もある。仮に松永が寝返ったとすれば、河内の三好左京大夫(義継)も」
「さて、それは……」
斯波武衛は扇子を持ったまま腕を組み、天井を睨んだ。
大和から摂津へと進出しようとすれば、河内を経由するのが自然である。そして河内半国守護なのが三好左京。
少なくとも彼の黙認がない限り、大和の松永が摂津に出られるはずがない。
「左京殿の代わりに、松永霜台殿が泥をかぶったということか」
「武衛様、泥遊びですか?」
「風呂椅子、泥をかぶるとは物のたとえだ」
ポルトガル人のフロイスに、武衛は泥をかぶるとは日本の慣用句であると伝えた。
「この場合は上司に変わって部下が政治的な危険性を負うということだな。三好左京は上様の義理の弟。そんな人物が寝返ったとあってはいかにも側聞が悪い。政治的な妥協も交渉も難しくなる。しかし松永であれば三好との顔繋ぎや政治的な駆け引きも出来るし、筒井の待遇を不満にした決起という理由もつく」
「そして上様が勝てば三好左京の仲介で降伏しようというわけですか」
「なんともせこい限りだ」と切り捨てる池田筑後に、斯波武衛は苦笑しつつも続ける。
「誰もが君のように割り切って生きられるわけではない。魑魅魍魎渦巻く中央政界においては、むしろ君臣が互いに助け合う微笑ましい関係とも受け取れよう」
「和田伊賀守は良い面の皮ですな」
「そう、その伊賀守の後任のことだが」
斯波武衛は言葉を区切ると、手にしていた扇子をバサリと広げる。
そこには見事な筆遣いで『摂津守護!』と書かれていた。
「お断りします」
間髪居れずに断る池田筑後に「まだ何も言ってはおらんぞ」と斯波武衛は肩をすくめる。
「お忘れですか。私は池田の家を追放された男です。戦場での合戦ならともかく、政治のことはとんとわかりません」
胸を張る池田筑後に、ルイス・フロイスはどうしてこのサムライはそんな情けないことを自信たっぷりに断言できるのか不思議で仕方がなかった。
「私も摂津の人間。あの土地の難しさというのはよーくわかっているつもりです。自分の家すらまとめ切れなかった人間に、和田伊賀守ですら出来なかった事が務まると思いますか?」
「思うわけがなかろう。一度聞いておく必要があったので聞いただけだ」
当て馬であることを隠そうともしない武衛の物言いに、池田筑後は怒ることもなく高笑いした。
こうも直截に言われると、怒りを通り越して可笑しくなってくるから不思議である。亡くなった伊賀守がよく言っていた「奇妙な大器の持ち主である」という評価に、池田筑後は改めて納得した。
同時に伊賀守は「底のない桶かもしれない」とも語っていたのだが、この猛将は都合よくその事実を忘れていた。
「戦ならまかせて頂きたい。荒木如きに遅れをとるほど腕は鈍っていないつもりです。しかし政治はわからないし、わかりたくもありません。私が戦場で好き勝手するためには、政治のわかる男を誰か欲しいですな。少なくとも荒木の糞餓鬼と対抗できるくらいの」
「戦う前から勝ったあとの算段とは余裕ではないか。まぁ、それぐらいの方が頼もしい」
「失礼ながら、和田伊賀守様のご子息では、駄目なのですか」
「「駄目だな」」
斯波武衛と池田筑後の双方から揃って否定され、フロイスは肩を落とした。
キリスト教に好意的だった和田の息子が引き続いて守護となれば、摂津における布教活動への協力も得易いであろうという思惑からの提案だったのは明白だった。
斯波武衛はとりなす様に言う。
「勘違いして欲しくはないが、キリスト教の問題ではない。あくまで純粋な政治的な問題なのだ」
「では和田伊賀守のご子息が力量に欠けると?」
「風呂椅子、貴様も随分と露骨な物言いをするようになったな」
「ブエーを見習った結果です」
「言うではないか……では風呂椅子よ。逆に訪ねるが」
武衛はフロイスに皮肉交じりの疑問をぶつけた。
「おぬし。高山親子がそこまで信頼にあたう人物だと認識しておるのか?」
武衛の切り返しにフロイスは微笑みを浮かべて沈黙する。
和田伊賀守の息子からすれば、高槻の高山親子は義理の親であり従兄弟である。本来ならば縁戚関係にあるものとして信頼して然るべきなのだろうが、権力者がめまぐるしく移り変わってきた摂津の国人として生き残ってきた高山親子は、いざとなればお家の存続を優先するであろう。
そんな状況で20になったかならないかという経験不足の青年が、和田伊賀守を討ち取って名声がいやおうなく高まりつつある36歳という男盛りの荒木を相手とするのは、どう考えても厳しかった。
「彼らは信仰のある者です。神のご意思には背きません」
「信仰だけに生きるのならともかく、彼らは高槻の領主なのだ。そういうわけにもいくまいよ」
「私には政治の話はわかりません。それ以上は」
やりとりを聞いていた池田筑後がフンッと鼻を鳴らした。こうしたやり取りですら小賢しいと感じる性質なのである。確かにこれでは分国守護や守護代ならともかく守護など務まらないだろう。
「佐久間右衛門尉(信盛)殿の仲介も上手くいかなかったようだしの」
「私の出番ですか」
「筑後殿。まだ早い。松永の動向もわからないのに。とにかく織田の仲介をまたないことには、幕府としても動きのとりようがない」
斯波武衛はそこで言葉を区切り、ルイス・フロイスに向かって言った。
「だから風呂椅子も京の幕府ではなく、岐阜の織田を頼ったのだろう?幕府にはこの混乱を、軍事的にも政治的にも単独で鎮められるだけの力がないことを見越して」
「さてどうでしょうか」
フロイスは一言だけそう付け加えると、再び微笑んだ。
*
荒木弥助率いる反幕府勢力は茨木城と郡山城を落城させ、高槻城を包囲。この中に四国三好家の家宰的な立場にある篠原右京進(長房)率いる援軍と、松永霜台親子の手勢が確認されると、幕府は恐慌状態に陥った。
篠原右京進は5月から備前において浦上氏を支援して赤松や毛利との合戦を繰り広げており、すでに幕府から討伐命令が出されていた。その篠原右京進本人が摂津にまで進出したということは、大和から河内、摂津、四国と巨大な反幕府勢力が形成されたことを意味していた。
もっとも同じ政権を支持していたとしても、身内で勢力争いや主導権闘争を繰り広げるのは室町幕府の「伝統」のようなものである。そして「そんなふざけた伝統があってたまるか」という1点で将軍義昭と織田弾正大弼は一致しているはずだった。
閑話休題
こうした摂津戦線の状況悪化を受けて、叡山焼き討ちの直前の9月9日。織田弾正大弼は重臣である佐久間右衛門尉(信盛)を使者として、高槻城からの撤兵を反幕府勢力に勧告した。佐久間は松永霜台との取次(交渉窓口)であり、その関係性を活かそうとしたと思われる。
しかしこれは失敗に終わったようだ。叡山攻めの直前にもかかわらず前線を指揮する重臣をわざわざ引き抜いたことからも、織田弾正大弼がいかに事態を深刻に捉えていたかが伺える。
叡山攻めで都の後顧の憂いを絶った織田弾正大弼は、旧叡山領を5人に分け与えた。
すなわち佐久間右衛門尉、柴田権六(勝家)、中川駿河守(重政)、丹羽五郎左衛門尉(長秀)、明智十兵衛(光秀)である。この5人が当時の織田家における中堅以上の幹部であることが伺える。
そして一連の戦後処理を終えた9月24日。今度は近江坂本の地を与えられた明智十兵衛が攝津の調停に乗り出した。
明智は和田伊賀同様、幕府と織田家双方の禄があり、また幕府と織田家における筒井の取次であった。このことから叡山という背後の敵がいなくなった信長が「いざとなれば筒井がいる」と大和における松永霜台を牽制、圧力をかける姿勢に方針転換したことが伺える。
幕府側から交渉に参加した斯波武衛は、和田伊賀守の遺児とその一族が京へと引き上げることを提案した。
この提案に関しては幕府と織田家の双方から、荒木の政治的・軍事的な勝利を必要以上に内外に与えかねないという慎重論も寄せられたものの、幕府軍が圧倒的な劣勢にある中、摂津には最悪でも中立を維持してもらわねば困るという幕府の苦境を反映して、提案は受け入れられた。
気勢を上げる反幕府勢力に、当然ながら和田一族は反発した。
しかし「高山親子が信用できるのか」と武衛自らが耳元でささやき、その背後でルイス・フロイスが無言で微笑んでいたこともあって、説得は比較的容易であった。また同時に斯波武衛の口利きで、和田一族には幕府の役職を用意することで面子を保たせた。
摂津における反幕府勢力を事実上主導した荒木弥助は、この停戦案を受け入れた。白井河原合戦の第1の功労者である荒木が同意したことで、四国三好の篠原右京進らも矛を収めざるを得なくなった。
これ以降、荒木弥助は名目上の君主である池田久左衛門(知正)を擁立して池田城に、荒木派の中川清兵衛は茨木城に入り、どちらかといえば幕府寄りではあるが、中立姿勢である高槻城主に昇格した高山親子と合わせて、幕府にも四国三好にも属さない独自勢力を形成した。
かつての3守護の最後のひとりとなった伊丹親興は、我関せずと無視を決め込んでいる。
つまり摂津が独自勢力のもとに置かれ、三好三人衆と四国三好家は最後の砦であった高槻を越え、いつでも京へと迫れるようになった。
幕府と織田家は摂津戦線の建て直しのため、摂津高槻城にほど近い芥川山城に、高山親子の圧力を押し切って兵を入れた。
細川道永(高国)が城を築き、天下人たる三好長慶が居城とした芥川山城は、都の西を守る最前線にして最後の要所としてにわかに注目を集めることとなった。この城主兼摂津守護代になったのが池田筑後であり、彼の望みどおりに合戦に専念出来る体制が幕府と織田家の中で話し合われた。
この摂津守護の人事に関しては、幕府だけではなく朝廷からも織田家に対して一角の人物を派遣することが求められた。叡山攻めに対する嫌悪感は依然として根強かったものの、織田家の軍事力がなければ三好三人衆や四国三好家の京への軍事的圧力に対抗出来ないという認識は急速に広まりつつあった。
この難題に織田弾正大弼は頭を悩ませた。
丹波における但馬守護の山名と赤井一族の合戦、尼子残党を巡る毛利との折衝、備前における浦上氏の活発な動きという様々な懸念材料もあるなかで、石山本願寺を抱える攝津に織田の一門衆を置くのは挑発的に過ぎた。
ならば重臣からではどうか。幕府との折衝の過程で何人かの名前を上げていったのだが、柴田は近江の対六角最前線であり、複数の懸案を抱える重臣の佐久間は動かせない。丹羽は若狭や北近江の浅井対策に追われているし、明智は幕府との折衝役もあり兼任が難しい。木下は対浅井の最前線……
とまぁ、だんだんと候補が絞られていった。
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「この危機的状況を打破出来るのは君しかいない。ぜひ頑張って欲しい」
「し、身命を賭しても都を守り抜き、不逞の輩を入れさせは致しませぬ!!」
感激に打ち震える「空気は読めないが、それなりに政治も戦もわかるし、前線から引き抜いてもそれほど影響はない。あと一応は織田家の一門でもあるが織田姓ではない」中川駿河守(重政)の肩を、斯波武衛は優しく叩いて激励した。
その手には『言わぬが花』と書かれた扇子を持っていたが、あえて目の前で広げたりはしなかった。
・神山の独断と偏見による戦国人物列伝(その2)
和田惟政(1532-1571)
小説においては滝川一益と並んでよく忍者にもされる甲賀の国人。経歴は大体上記の作中にあるとおりなので省略。
この人のIFはなかなか考えると面白い。摂津において池田氏の反乱(荒木)を鎮圧出来ていれば、強固な地盤を得ていただろう。キリシタンにも好意的だったのでイエズス会陰謀論も使える。そして明智光秀と同じく幕府と織田家の両方から禄を食んでいる。幕府側についても、織田家についてもおかしくはない。織田家についても史実の荒木ルートとか、明智光秀ルートとかいろいろ考えられるし、幕府側につけば摂津において強固な地盤を持つ和田の支援を受けた義昭は意外と持ちこたえたのではなかろうか。それこそ『芥川山城幕府』のような亡命政権もあり得たかも。配下には摂津の楽しいやつらが山ほどいる。
可能性を考えるといろいろ楽しい人ではあるが、実際には40代の若さで戦死したためそのようなことにはならなかった。20歳でこの偉大なオヤジのあとをいきなり継げと言われた惟長には同情する。
しかしそう考えると15歳で当主代行になり18歳で家督を相続した信長ってハンパねえなあ。




