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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
元亀2年(1571年)
32/53

二条関白「関白です」近衛太閤「お前に関白を譲る前に言っておきたいことが「あ、結構です」聞けよ!!」


 室町幕府が公武合体政権であるとは何度か述べた。しかし最初からそうだったわけではない。


 足利尊氏は鎌倉幕府を打ち倒して再び天皇親政体制を目指した建武新政に反旗を翻すと、持明院統の皇族を担いで征夷大将軍に任命された。そのまま足利尊氏が政権を確固たるものとしていれば、おそらく鎌倉にでも本拠地を移し、2度目の鎌倉幕府を始めたであろう。


 しかし後醍醐天皇が軟禁先からの脱出に成功したことで、各地の後醍醐天皇支持派も決起。これに加えて幕府内部でも主導権争いが軍事衝突に至るなど、一向に幕府単独での安定政権は確立出来なかった。


 この二統並立状態を解決したのが、尊氏の孫で3代将軍の足利義満である。


 父である2代将軍の路線を基本的には踏襲しつつ、有力守護を巧みに牽制しながら幕府内部での将軍の主導権を確立。南朝(後醍醐天皇の子孫)への軍事的な優位性を築いた上で南北朝統一を果たした。


 この時、朝廷側からこれを補佐したのが二条にじょう良基よしもと。北朝系(持明院統)の有力者であり、他の摂関家が北朝と南朝に二股をかける中で、一貫して北朝系を支持した人物である。


 それだけだとただの忠臣にも聞こえるが、鎌倉末期から南北朝統一まで何度も失脚を挟みながら政界に居座り続けたというだけでも、ただの忠義の人であるはずがない。この二条家当主はあるべき朝廷を模索し、そのために自らが政権の座にあり続けることを重視した。よくもわるくも義満と共に朝廷と幕府のあり方を決定づけたともいえる。


 この政治的な傾向は代々の二条家当主に受け継がれた。


 近衛前久に言わせれば「目的と手段が逆転している」とでも批判するであろうが、当の本人は全く気にもしていなかった。


「そのような狭い了見だからこそ、あの青年は京を追われたのです。その場にいない摂家の一当主が洛外からいくら吠えたところで、朝議には何の影響もありませぬ」


 病気療養中の関白の二条にじょう晴良はるよしは、いかにも公卿らしい細面の顔を歪めて「ほほほっ」と笑い声を上げた。


 立派な鷲鼻と垂れ下がった頬の肉。細くつり上がった目だけが笑っておらず、斯波武衛は「能面の翁が笑っているかのようだ」という感想を抱いた。


「追われたではなく、追ったのではありませんかな?」

「ほほほ、武衛殿は面白いことをおっしゃる」


 口元をしゃくで器用に隠し、二条関白は目だけで笑ってみせた。


 大永6年(1526年)の生まれの二条関白は今年で46歳。肌色は血色がよく、とてもではないが「体調不良により屋敷で療養」しているようには見えなかった。


 そもそも関白は病気らしい病気をしたことがないので有名であり、心臓に毛が生えてこそ一人前とされる公家の中でも、自らその毛を植木鋏片手に剪定するぐらいに厚かましいと評判なのだ。額面通りに受け取る馬鹿は、少なくとも京の政界にはいない。


「村井長門守(貞勝)より体調が悪いとお聞きしました。越後からの土産も色々と持ってきましたので、どうぞお納めください」

「武衛殿のお心遣い、痛み入ります」


 あえて「額面通りに受け取った」体で斯波武衛が労わりの言葉をかけると、相変わらず二条関白は能面を貼り付けたような笑みで応じる。


 見舞いを名目にした数々の面会要請を、体調を理由に体よく断り続けている関白である。それが仮病であることは誰もが理解しているが、日本医学の権威たる曲直瀬まなせ道三どうさんが、その老骨に鞭打ち二条邸に診察のため日参しているとあっては、表だって批判も出来ない。


「曲直瀬殿をああいう形で使われるのは、正直関心はしません」

「ほほほ、曲直瀬も私を利用し、私も曲直瀬を利用している。それこそお互い様ですな」


 医聖と呼ばれる曲直瀬道三が、なんの後ろ盾もなく都において医療活動に従事出来たわけではない。めまぐるしく変わる都の権力者を見極め、彼らの健康を管理し、そして守秘義務を誰に対しても守る。この老人は医師であると同時に、歩く国家機密なのだ。


 それゆえ自らの健康に不安を覚える権力者は、誰であろうともこの経験も実績もあり、守秘義務を順守する医者を頼った。老人はそれを利用することで莫大な治療費を元手に、自らが理想とする医師のための学校を開いている。


 権力におもねっていると批判もされるが、医者としての実力と政治的なバランス感覚を兼ね備えた人物であることは間違いない。


「あの老人は確かに政治家であり、教育者、そして経営者としての顔を持ち合わせている。しかし自分が医師であることを忘れてはいないのですよ」


 当然ながら二条関白にとっても、この老医師は欠かすことのできない存在といえる。


「己が何者かということを常に忘れていない。だからこそ尊敬されるわけですな。自分が摂関家の当主であることも忘れ、主上を輔弼すべき重職にありながらフラフラと関東を渡り歩いた、どこかの太閤殿下とは大違い。女を知らぬ子供でもあるまいに自分探しの旅に出るとは」


 よくもまあ顔の表情筋のほとんどを動かさずにこれだけ罵倒できるものだと武衛は妙なところに感心していた。


 名医の名前と看板を利用してまで面会謝絶を決め込んでいた関白が、この時期に幕府の前管領の見舞いを受け入れる。これだけでも京の政界に与える影響は大きい。


 そして面会に応じたということは、自分と交渉する余地はあるのだろう。


「で、どうされるので?」

「では失礼ながら長島について」


 相手は現役の関白であり、こちらはあくまで前職の管領。頭を下げやすいのは明らかに後者である。これが現役と前職という立場が逆であれば、例え官位で差があったとしても武衛は頭を下げられなかったし、二条「太閤」も自ずと頭を下げていたはずだ。


 ともかく二条関白の投げたボールを、武衛はあえて正面から受け取った。


「伊勢長島攻めは織田弾正大弼の敗北です。これは認めなけばならぬ事実です。情報は錯綜しておりますが、織田家の村井長門守の報告や、さまざまな情報を加味した結果です」

「ほうほう」


 二条関白の目がきゅっと細められた。



 長島は「七島」が訛ったという語源があるとされるように、木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川)の輪中地帯だ。


 中州といっても陸地から近いそれではなく、泡海(琵琶湖)の竹生島のような文字通りの島がいくつもあり、それらを掘削し繋いで形成された人工の土地に願証寺はあった。開祖は本願寺中興の祖たる蓮如の六男である蓮淳れんじゅん。寺院を中心に砦を築き、外敵に脅かされない寺内町を形成することで勢力を拡大してきた。


 つまり川の中の城を攻めるようなものである。


 ここを攻略するために織田家が動員した兵は約5万。織田弾正大弼はこれを三つに分け、尾張衆を率いる佐久間右衛門尉(信盛)は北の中筋口から、美濃衆を率いる柴田権六(勝家)は西河岸の太田口から、そして自らは本隊を率いた。


 これを見てもわかるように織田家は地縁や血縁からなる寄子・寄親体制を完全に解体したわけではなかったのだが、ともあれ信長が率いる本隊が尾張津島に布陣したのが5月12日。


 そしてすぐに進軍をやめた。


「水軍衆がなくては駄目です」

「川の中の中洲ではなく、海の中の城を攻めるようなものです。いくら兵力が多くても舟がなければどうにもなりませぬ」


 佐久間は短く、柴田は長々と津島の本営に情勢の不利を主君に報告した。


 そもそも織田弾正大弼は長島を城攻めするつもりはなく、先の野村合戦(姉川の戦い)のような決戦を想定して大軍を動員したと思われる。軍事的圧力を加えれば、門徒衆もこれに対抗するために出陣せざるを得ないと考えたのだ。


 こうした戦略の下、織田家は対岸の村を焼き、畑をつぶして回った。姉川において浅井も領地を荒らされるのを看過出来ずに出陣した先例に従ったのだ。


 ところが門徒は長島の輪中に立てこもり、1人たりとも打って出ては来なかった。これを指揮する現場指揮官の一色氏旧臣は、野戦をするつもりなどさらさらなかった。織田家との合戦経験豊富な彼らは、逆に織田家に城攻めをさせることを狙っていた。そして願証寺4世の証意しょういは若いながらも門徒をよく統率し、彼らのアドバイスによく従った。


 これでは当初予想された野戦による決戦など起こる筈がない。


「しかたがあるまい。権六を殿にして引き上げだ」


 織田弾正大弼は彼らしくすっぱりと当初の構想を失敗と判断。早くも16日には撤退を開始した。


 これは恐るべき決断力(それとも諦め)の速さであったが、それ以上に願証寺のほうが早かった。


 織田家が撤退を始めるや否や、それまで亀のように閉じ篭もっていたのが嘘のように激しい追撃作戦を開始。地元の地の利を生かして山間の道や河川沿いの狭い道に伏兵を置くなどして、油断していた織田家を散々に打ち負かした。


 当初伝えられた柴田権六の討ち死には誤報であった。馬から落馬して負傷した柴田に代わり、殿を引受けた西美濃三人衆の一人である氏家うじいえ卜全ぼくぜんが戦死したのが誤って伝えられたらしい。


 そして何より織田家を驚かせたのは一向一揆の数である。周辺の村々から集まったものや浪人衆をあわせると、なんとその総数は10万以上。


 せいぜいが2から3万という織田家の事前見積もりとはまるで規模が違った。これでは5万そこそこの軍勢では圧力とすら感じないであろう。


 第1次長島攻略は、こうして織田家の惨敗に終わった。



「10万の兵が篭る城を5万で攻めようとしていたのです。これでは勝てるはずもありませんな。長島が織田をよく分析していたことが敗因でしょう」


 斯波武衛はそこでひとつ息をつき、さらに続けた。


「しかし尾張津島まで追撃をかけなかった、かけられなかったのが長島の限界です。10万という数をそのまま動員するだけの組織力も兵站もあそこにはないようです。まして津島と熱田という2大商都を織田が抑える状況では。だからこそ織田弾正大弼は津島に本営をおいたのでしょう」

「織田弾正大弼が戦に勝とうと負けようと興味はない」


 長々とした詳細の説明にもかかわらず、二条関白の返答はそっけないものであった。


「神宮(伊勢神宮)はどうなのか?」

「問題ありません。南伊勢の北畠は北畠中将(具房)のもとで織田融和路線に傾きつつあります。それにかの家柄では神宮の危機を見過ごしてまで織田との対立を優先出来る状況ではありません」

「確かに北畠とはそういう家だ。南朝の残党らしく、そうしたことにかけてはしぶとく、そしてぶれない」


 織田家ではなく北畠家の家風を信用する。嫌味な物言いに、武衛は内心辟易とさせられた。


「現在、志摩においては九鬼氏を後押しした攻略作戦が続いております。これは時間の問題でしょう。さすれば尾張の佐治水軍と志摩の九鬼水軍、そして伊勢水軍を動員して海上から長島を締め上げられます。そしてこの3つを相手にするだけの水上兵力を長島は持ち合わせておりませぬ」


 関白はしばらく目をつぶっていたが「よかろう」と短く声を発した。


 幕府が宮中から求められていた伊勢長島の大敗に関する事情説明とは、つまるところ今の朝議を取り仕切る実力者の二条関白に説明しろということにつきた。


 本来であればこれを行うべきは二条関白の政治的な盟友の征夷大将軍であるべきだ。しかし長島攻めより前の4月に発生した事件により朝廷と幕府の関係は完全に冷え込んでいた。


 かりに義昭が事情を説明しようとしてもこの状況下では二条関白もそれを受け入れなかったであろう。下手をすれば「二条政権」が崩壊する恐れがあったからだ。


 それだけ義昭の行動は朝廷のみならず、公家社会全体に不信感を持たれていた。


烏丸からすまる殿は、今どちらに?」

「答えるわけがなかろう。答えるわけにも行かないし、答えた時点で私の首が飛ぶ」


 二条関白はそれまでの能面のような無表情の笑顔をかなぐり捨てて、厳しい顔で首を切るしぐさをした。


 次の蔵人頭くろうどのとう(天皇の公式秘書官)との呼び声も高い右弁官うべんかん(現代で言う内閣官房の局長クラス)の烏丸からすまる光宣みつのぶは、朝廷への出仕以来、順調に職歴を重ねてきたいわば朝廷の次期幹部候補である。また烏丸氏は歴代足利将軍の正室を多く輩出した家柄であり、光宣も妻を足利将軍家から迎えていた。


 つまり伝統的な親足利派であると同時に、義昭にとっては義理の兄である。


 この烏丸光宣はどうにも女性関係に奔放であったらしく(*)、たびたび妻との間でトラブルになっていた。そして妻は弟であり征夷大将軍の足利義昭にこれを相談していたという。


 そうした中、4月14日に烏丸光宣の正室が急死。死因は不明だが、止せばいいのに妻との不仲から自分が殺したと疑われることを恐れた光宣が出奔してしまった。


 足利義昭は家族に恵まれない人生を送ってきた。兄と弟を無残に殺害され、若狭守護武田氏に嫁いだ姉も不遇のうちになくなり、彼女の血を引く甥は朝倉の高貴な虜囚となって久しい。そのため将軍に就任してからの義昭は数少なくなった家族、とりわけ兄弟姉妹を非常に大事にしていた。


 烏丸の行動は、義昭を激昂させるのには十分であった。


 すぐさま烏丸邸の報復攻撃を命じる将軍を、侍所執事の斯波義銀や、織田家の京における代理人たる村井長門守が必死に諌言して押しとどめた。しかし決意は揺るがず、将軍は側近の一色式部少輔(藤長)に銘じて、烏丸邸を破却させてしまった。


 厄介なのは一色式部少輔の官位が自称ではなく、正式な官位であることだ。式部省は官僚を養成する役所。その幹部が同僚の、それも朝廷の幹部候補生たる人物の屋敷を襲撃。ただでさえ朝廷と幕府は、昨年に政治問題化した浅井備前の官位剥奪の一件も含めて軋轢を抱えていた中、この問題は朝幕関係の亀裂を決定的なものにしかねなかった。


 斯波武衛が事態収拾に駆けずり回るを得ないほどの事態といえば、深刻さが伝わるだろうか。


「式部少輔も馬鹿なことをしたものだ」

「引受けざるを得なかったのでしょう。もともと上様は、その、申し上げにくいのですが歴代大樹と親しかった公家衆を快く思っておられないようでして」


 烏丸光宣の4代前の当主は8代将軍足利義政の初期に政権を牛耳り「三悪」に数えられた人物。いくら義兄とはいえ、征夷大将軍の復権を目指して公武の分離を図ろうとしている義昭としては面白くない存在だったのだろう。


 それにもかかわらず姉はあれに殺されたようなものではないか!というのが義昭の言い分である。


 斯波武衛としてはその言い分は理解するが、それとは別に物的証拠はおろか状況証拠もないのにも関わらず「烏丸光宣が姉を殺した」と将軍が言い立てる状況は、少なくとも政局によい影響をもたらすはずがなかった。


 同義的に朝廷の上に立ちたいという意図があったとしても、それゆえに取ったやり方は稚拙そのものだ。そうした政治的な思惑を別にすれば烏丸の正室については同情の余地があり、そうであるからこそ幕臣も義昭には強く諌言出来なかった。


「歴代大樹と親しい公家とは、二条も入るのかね?」

「さて、私は上様ではありませんので何とも」


 ほほほっと、二条関白はまたも翁の面のような笑みを浮かべた。鼠をいたぶる猫のような二条関白の細い目はどうにも好きにはなれないと斯波武衛は心の中だけでつぶやく。


 二条関白はその細い目をさらに細めて、武衛の前に文箱から取り出した紙の束を差し出した。


「これは?」

「烏丸の妻が急死した直後、医師が遺体を診察したものだ。体に不自然な傷や痣がないか、過去の病歴に打撲の跡などが調べてある。遺体の診察、いや検案書とでもいうべきか」

「……なるほど。曲直瀬道三の名前はこう使うべきなのですな」


 淡々とした調子で語る二条関白に、斯波武衛は唾を飲み込んだ。


 関白は当初からこういう事態になるのを見越し、烏丸の正室が急死した段階で手を打っていたのだろう。そして遺体を調べたのが曲直瀬道三となれば俄然、信用性は増す。政治的に権力者に頭を下げることはあったとしても、医師としての仕事や研究では己を曲げたことがない老人なのは、京童ですら知っている。


 二条関白が病気と称して閉じこもっていたのも、曲直瀬道三を呼び出す理由付けに過ぎなかったのかもしれないと、武衛はようやく気が付いた。仮病は政争から逃れるための消極的なものではなく、むしろ自らが政局の主導権を一気に握るための準備作りだったのだ。


 武衛は知らず身を震わせていた。


 数百年以上の長きにわたり閨閥と言葉の力で政治を動かしてきた一族とはこういうものであるかということを、見せ付けられた思いがした。


「医師と武士は使いようよ。これを武衛殿に預けた私の『思いやり』を忘れてくれるなよ?」


 なるほど。確かにこの土俵に引き込まれては近衛前久や足利義昭では勝てないだろう。だからこそ両者は違う土俵で勝負しようとしているのか。


 二条関白の張り付いた笑みを見ながら、武衛は独語した。



 京の政局は斯波武衛の帰京を前後に大きく動き出す。


 烏丸光宣の正室の死に不審な点がなかったことが医師の曲直瀬道三の調査報告書で明らかとなり、将軍義昭としても振り上げた拳を下ろさざるを得なくなった。


 この1カ月あまりに及んだ混乱により将軍の政治的権威は傷つき、そして対照的に名前を上げたのは事態収拾に奔走した斯波武衛と、「烏丸の無実を信じて」自宅に匿い続けていた二条関白であった。


 京雀は泥臭く根回しに奔走した斯波武衛よりも、二条関白の先見の明を大いに讃えた。


 そして京における政局の混乱にまるで関心がないかのように、織田弾正大弼は伊勢長島の敗退の後も積極的な軍事行動を続けた。3ヶ月ほどで敗戦処理を終わらせると、8月には3万の軍を率いて美濃岐阜城を出陣。浅井の本拠地である小谷を攻め、続く9月1日には旧南近江守護の六角親子と一向一揆衆の拠点となっていた志村城・小川城・金ヶ森城を落城させた。


 さすがにこの頃になると浅井新九郎(長政)と六角親子は、自らが敵とした織田家の本質を学ばざるを得なくなった。


 自らが相手にしているのは目の前の弱兵の織田ではなく、いくら殺しても何度敗戦しても平気で万単位の兵力をすぐさま編成可能な織田家の経済力であったのだ。


 あの大国越前の朝倉ですら昨年の動員における民政への影響は大きく、今年に入ってからは戦力回復に専念し、若狭以外の大規模な軍事行動を控えている。それに引き換え自分達はどうだ?


 両者は衰退した自らの領土と領民、そして弱体化した軍を目の当たりにして、改めてその冷酷な現実を突きつけられた。



 さてそんな両家の悲哀など知ったことではない織田弾正大弼はそのまま軍を進めた。9月11日、信長は近江の坂本に到着。三井寺境内にある山岡備前守(景猶かげなお)の屋敷に本陣を置いた。


 そして叡山はそこで始めて自らが軍事行動の標的となっていることに気がついた。


 織田弾正大弼信長は、三井寺の本陣に集めた織田家の諸将を前に、静かに名前を読み上げ始めた。森三左、織田九郎(信治)、坂井親子……彼らは清洲時代からの家臣であり、もしくはそれ以前からの譜代であり、または新しく織田家に仕えた忠臣であった。


 共通点はただひとつ。昨年の一連の戦いにおいて散っていった者達ということだ。


「叡山を攻める」


 最後に織田弾正大弼がそう締めくくると、誰も異論を唱えるものはいなかった


 京における斯波武衛の行動を知るものが、この場にいるはずもなかった。



*:烏丸光宣が女性関係に奔放であった事実は管見の及ぶ限りありません。妻の急死で突然逃げ出したことの理由付け、つまり脚色です。まあ息子さんも性には奔放でしたので、その辺はご容赦いただけると助かります。


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