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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
天文11年(1542年) - 永禄3年(1560年)
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???「汝幸いなるかな武衛よ。戦は織田に任せて汝は君臨せよ」織田大和守「誰だお前」


タイトルの織田が小田になると、えらいことになります



【天文12年(1543年)尾張清洲城内 武衛屋敷】


 越前は尾張と並び、斯波氏創業の地とも言える国である。


 延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日、越前藤島の戦いにおいて新田義貞を打ち果たしたことで、4代の斯波高経は大きく飛翔した。


 それゆえ応仁の乱(1467-77)を経て朝倉氏が名実ともに越前守護になった後も、斯波氏の歴代当主は朝倉を「簒奪者」と罵倒し、幕府がうんざりするほどに何度となく征伐を嘆願した。実際に斯波家単独でも何度も越前入部を試みていたのだが、ことごとく敗北している。


 とはいえ簒奪した朝倉家の方もすんなりと統治に移行できたというわけではない。


 たとえば西軍に属した斯波家の斯波しば義廉よしかどとその一族を、将軍家連枝である鞍谷御所くらたにごしょ(*)を相続させることで、越前統治の大義名分とするなど、守護職の世襲に成功した後も権威の確立には苦労していた。


 このように下克上によって政権を握ったものが統治の正当性を獲得するのは、決して容易いことではない。


 そうした意味においては、斯波家の嫌がらせは一定の効果があったとも言える。


 とはいえ斯波氏の実力(そのようなものが存在するかどうかはともかく)、かつての守護家であるという大義名分だけで越前を奪還するには到底至らない。すでに先代がなけなしの政治的資産を使って遠江において同様の奪還作戦を試みたが、無残に失敗したのはすでに述べた通りだ。


 当代の斯波武衛も、その点は十二分に理解していた。


「越前に介入して火遊びですむわけがない。私はそんなところに、好き好んで手を出すつもりはないよ」


 自身が主催した連歌会に招いた平手五郎左衛門(政秀)が、その主君である織田三郎信秀の密使であることは、斯波武衛も薄々感づいていた。


 しかしさすがに「加賀の本願寺勢力との共同における越前奪還作戦」なるものを提案されては、当代の斯波武衛としては、それを一笑に付すしかない。


「私も武衛の男だ。越前守護という響きに興味がないといえば嘘になるがな。加賀の一向宗が本山の言うことを素直に聞くと思うのか?」

「思いませんな。あれに比べるならば、まだ叡山の僧兵のほうが素直でしょう」

「まして朝倉征伐となれば、相手の総大将は生きる伝説の朝倉あさくら宗滴(そうてき)だろ?私はまだ命が惜しい」


 自虐的な笑みを浮かべて自らの首元をなでる守護に、平手はニコリともせずに小さく頷いて同意を示した。


 朝倉あさくら教景のりかげ-法名の宗滴のほうが有名であろうこの人物は、朝倉氏の当主ではなく一族の一人に過ぎないが、その存在感は一乗谷に留まらず全国的な知名度を誇る。


 軍事指導者にして政治家にして人格者、文化人であり技術者としての側面もあるという、おおよそ完璧という言葉がこれ以上に合う人物はない。


 若狭国人一揆の鎮圧、浅井と六角との調停、朝倉勢を率いて上洛し当時の管領である細川(ほそかわ)高国(たかくに)を失脚に追い込むなど、この老将の生涯は常に戦とともにあった。


 なんといっても白眉なのは、永正3年(1506)の九頭竜川の戦いである。


 越前朝倉氏と加賀一向一揆とは不倶戴天の間柄であり、宗滴もその生涯にわたり何度も対戦したが、この時に宗滴が率いた朝倉勢は1万。


 その1万の軍勢で30万の一向宗を殲滅したのだ。


 いささか-というかかなり数字を盛っている面はなきにしもあらずだが、一度でも一向一揆との戦いを経験したものであれば、それを相手に「殲滅戦」を成し遂げた手腕に畏敬の念を抱かざるを得ない。


 そんな伝説の男は当年66歳。「人生50年」を通り過ぎてもなお、かくしゃくとして健在であり、いまだ越前のみならず周辺諸国に睨みを聞かせている。


 仮に斯波氏が越前を奪還しようとすれば、この朝倉宗滴を打倒し、かつ一向宗の介入を追い払わなければならない。


 万が一、それに成功したとしよう。


 場合によってはその後で、加賀のみならず本願寺本山との全面戦争だ。


 斯波武衛は平手の顔を覗き込むように顔を寄せてから、辺りをはばかるように告げた。


「……大和守もいまさら反対はせんだろうし、私としても美濃侵攻そのものに反対するつもりはない。しかしだ、いくらなんでも早くないかね?」

「この機を逃せば、土岐氏の美濃守護としての影響力はますます弱まります。何れは政治的な手札として使えなくなっては意味がないと、主君三郎は考えております」

「正直なのは美徳であると思うがね、少しは言葉を飾る努力をしたらどうかね」


 「今更ではあるがな」と斯波武衛は言葉を付け加えた。


 意図を読み当てられて多少なりとも慌てるかと思いきや、居直り強盗のごとく手札の説明を始める平手老には、斯波武衛も笑うしかない。


 昨年、尾張の隣国である美濃において政変が発生。守護家の土岐とき頼芸よりあき頼次よりつぐ親子が追放された。


 首謀者はここ数年、美濃の政局の中心に存在し続けている守護代の斎藤利政さいとうとしまさである。


 尾張国へ落ち延びてきた土岐親子を、織田三郎信秀は丁重に保護。すぐさま美濃奪還の兵を挙げた。


 織田三郎は越前の朝倉弾正左衛門尉(孝景)と組み、朝倉氏が保護していた守護一族の土岐とき頼純よりずみと連携。一時は大垣城を奪う戦果を挙げた。


 ちなみにこれほどまでの大規模な軍事行動を起こしておきながら、一連の軍事行動は尾張守護や二つの守護代家には事後承諾である。


 さすがに大和守信友はこの独断専行に怒り狂ったが、領土を美濃と接する伊勢守が賛成(元々知らぬ仲でもないらしく、こちらは事前に根回しをしていたらしい)したこと、また斯波武衛が珍しく自ら事態収拾に乗り出して大和守を説得したことから、何とか矛を収めた。


 次の美濃攻めには、織田三郎が両家に一言断りを入れることで、両家も美濃攻めを承諾。援軍の派遣を約束したのである。


 こうして近々行われるであろう美濃遠征の根回しのために、尾張国内では連日、連歌会や宴会という名目の事前交渉があちらこちらでおこなわれている。


 今回、斯波武衛が清洲において主催した連歌会も、その一環である。


 これには美濃における土岐派(というよりも反斎藤派)と尾張国内の諸勢力という雑多な連合軍の連携をスムーズにするという狙いもあった。


 ところが美濃のマムシともあだ名される斎藤利政もさるもの。二正面作戦は分が悪いと考えたのか、朝倉と接触し始めた。


 ここまでならまだわからなくもないのだが、ここからがマムシの本領発揮である。厚顔無恥もいいところなのだが、自らが追放した先々代の守護(追放した土岐親子の前に追放した土岐氏)の一族であり、朝倉氏の血を引く土岐頼純を守護とすることで手打ちにしないかという誘いをかけたのである。


 何ゆえ水面下の動きが、こうも大っぴらに言われているのかというと、利政自身がそれを公言しているからだ。


「流言ひとつで、織田と朝倉の間に楔を打てるなら安いものか」

「その逆もまた真なりですな」


 平手老人の言葉に、年若い斯波武衛家の当主が首をかしげる。


「つまり、あれかね?斯波の朝倉征伐や、加賀一向宗の南下の可能性を臭わせることで、共同戦線からの朝倉の離脱を牽制すると?」

「土岐次郎(頼純)が越前に滞在を続けるのであれば、こちらにも考えがあるということです」

「その結果として美濃遠征軍が遅れ、三郎殿の『保護』する土岐親子の価値が多少目減りしてもかまわぬと?」

「土岐家からの守護擁立さえ阻止できれば、後はどうとでもなります。謀反人にあえて味方する物好きは、それほど多くありますまい」


 平手老人は、これという感情が含まれているとは思えない口調で語った。


 織田三郎(信秀)としては、朝倉との共同戦線が可能なら、それが最善なのは言うまでもない。


 では最悪の事態が何かといえば、朝倉と斎藤利政が手を結び、美濃守護に土岐次郎を擁立して尾張への共同戦線を組むことだ。


 土岐親子を旗頭にした美濃介入が織田三郎の独断専行で始まったのは、今や誰も知らないものはない。


 仮にこれが失敗に終われば、かつての先代武衛屋形の遠江遠征の如く、織田弾正忠家が尾張国内で積み上げてきた政治的な資産や信頼を、一挙に失う可能性もある。


 織田弾正忠家には斯波武衛家ほどの正統性は存在しない。下手をすれば尾張各地に(守護代の了承なしに既成事実を積み重ねることで)配置した弾正忠家の親族が、今度は次々と謀反することもありえる……これがおそらく織田三郎にとって最悪の事態だろうか。


 では朝倉にとって最悪の事態とは何か?


 越前国内の不満分子が斯波氏に呼応し、加賀一向一揆が九頭竜川を再び越えて越前に流れ込む。南進の可能性だ。九頭竜川の戦いも実際には紙一重の奇跡的な勝利であった。


 斎藤利政が朝倉との同盟を公言しているように、その噂が流れるだけでも朝倉氏に対する牽制にはなるだろう。


 最善がだめなら次善、次善がだめなら最悪を避け、最悪が避けれないのなら敗北を認めずに盤上をひっくり返す用意をする。


 そして尾張単独で斎藤利政と戦うことになっても、勝ちはなくても負けることはないと算盤を弾いている。


 そして最悪の事態となり敗北したとしても、尾張の中で織田弾正忠家の勢力だけが傷を負わなければどうとでもなる。最終的には「織田弾正忠家」が生き残ればいいのだ。


 斯波武衛には、そう嘯く織田三郎の不敵な顔が眼に浮かぶようであった。


 まさに煮ても焼いても食えない「器用の仁」の本領発揮だ。



「しかしまあ、守護である私を平気で手札として数えるだけならまだしも、まさかそれを本人に堂々と宣言するとはねえ」


 平手が居室を辞した後、武衛屋形はどこか感心したような表情でつぶやいた。


 蝋燭の芯の焦げる臭いが立ち込める中、扇子を左手でもてあそびながら、珍しく1人で考えにふけっている。


「……あれでも、私に礼を尽くしたつもりなのだろうな」


 織田三郎(信秀)とて、まさか守護である自分が本気で越前遠征に同意するとは思ってもいないだろう。


 越前朝倉の牽制に武衛屋形の名前を利用する。


 そこには名前だけがあればいいのであって、本来であれば、傀儡守護である自分に断りを入れる必要などない。


 にもかかわらず、大和守家に情報が流れる危険性を犯してまで、側近である平手を通じて断りを入れて来た。


 「器用の仁」なりの政治的な算盤に基づいた考えだったのかもしれないが、少なくとも織田三郎は守護である自分に配慮を示したのは確かだ。


 そしてそれは織田大和守や織田伊勢守の両名には、ついぞ見ることの出来ない「配慮」ではある。最も親の仇といってもよい息子を守護として仰ぐ大和守にすれを期待するのは無理というものかもしれないが。


 いささか自分に都合のいい見解だと思うが「誠意」と言い換えてもいいのかもしれない。


「随分と不器用なことだ」


 世評に名高い「器用の仁」とは似ても似つかぬ評価に、表情に知らず笑みが浮かぶ。


 ふと、あれでは織田三郎は長生きはできないのではないかという思いが頭をよぎる。


 最短距離を全速力で突き進むかのような豪快な生き方が、いつまでも続くわけがあるまい。


 しかし織田三郎は死去する際に、自らの生涯を振り返って後悔することは、おそらくないであろう。


「……うらやましいことだ」


 そう零した尾張の最高権威者の表情を見たものは、誰もいなかった。



*:鞍谷御所-奥州斯波氏一族でないかとか、諸説ありますが、この小説ではこの説でいきます。

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