茶筅丸「も~いつも~いつでも~怒ってる~」雪「お正月にはタコ殴り~茶筅をしばいてあそびましょ~」北畠中将「やめなさい!」
今から2年前に発足した足利義昭政権、そしてこれを軍事力で支える織田弾正大弼(信長)にとっては栄光に満ちた年になるはずだった元亀元年(1570年)が暮れようとしている。
前年の正月には京に迫った前政権の幹部たる三好三人衆を撃退。そのまま畿内各地に出兵し、諸勢力はこぞって新政権に臣従した。織田家は南伊勢を制圧して、同盟国たる徳川は遠江を確保。北近江の浅井備前と合わせて東海から畿内にかけて一大勢力圏を築き上げた。
あとは越前朝倉を降伏させれば、新政権は盤石になるはずであった。
ところが実際にはどうなったか。
4月の北国街道の雪解けを待ち、朝倉が実効支配する若狭征伐を名目にして行われた幕府の遠征軍は、北近江の浅井備前守の離反を促した。足利義昭の上洛軍を形成した主要3家のうち、ひとつが欠けた。
5月には淡海(琵琶湖)東岸を南下してきた朝倉と浅井の連合軍と、織田・徳川の連合軍は姉川で合戦に及び、織田・徳川連合が勝利を収めるものの、その間隙を突く格好で6月には三好三人衆と四国三好家が摂津にまで進出する。
この摂津の混乱を見て、幕府と織田家は総力を挙げてこれを打倒しようとするも、今度は石山本願寺が決起したことで膠着状態に陥った。
そして9月には朝倉と浅井は3万の軍勢を率いて淡海西岸を南下。北嶺たる比叡山延暦寺がこれに通じたことで、都の寸前まで迫った。
織田の反撃はなんとか間に合ったものの、朝倉と浅井は叡山への籠城を開始。3ヶ月近くにらみ合いを続ける中、各地で反織田を掲げる勢力が決起。織田弾正大弼は死に物狂いでこれを各個撃破し、なんとか勅命による講和によって一息をついた。
……というのが元亀元年の始末である。
10月には山城で土一揆が発生している。その原因は反幕府勢力による荷留め-つまり経済封鎖。3ヶ月に及んだ一連の荷留めの影響は大きく、講和がなったとはいえ物資不足は依然として深刻なままだ。
京は昨年とは異なる意味で不穏な空気に包まれたまま、年の瀬を迎えようとしている。
*
主君である織田弾正大弼より直々の労いを受けた後、若武衛(尾張・美濃守護、侍所頭人)の招きに応じた丹羽五郎左衛門尉(長秀)は、中川駿河守(重政)、木下藤吉郎らと武衛屋敷を訪れていた。
「ろくな年ではなかったな」
若武衛こと斯波治部大輔(義銀)は彼らの杯に自ら酒を注いでやりながら言うと、丹羽は苦笑いし、中川は苦り切った表情を浮かべ、木下はアハハと笑ってみせた。
「若武衛様はそうおっしゃいますが、家中一同やれるだけのことはやったと自負しております」
「五郎左衛門尉殿、駿河も藤吉郎も勘違いしないで欲しいのだが、その点について私がなにか言うつもりもないし、その資格もないことぐらいわきまえておる」
「とはいえ正直なところを言わせてもらえればだ」と若武衛は続けた。
「日々飛び込んでくる戦況悪化の知らせに、幕閣内の空気が悪くなるのが耐えられないのだ……こんなことになるなら、親父を謹慎などさせずに荒縄で縛り付けてでも管領に留めておけばよかった」
そもそも謹慎のはずが出歩いているではないかという至極当然の疑問は、誰も口にしなかった。
「場の空気を和ませるのは、御父上の得意技ですからの」
「藤吉郎が言うと嫌みにも聞こえるな」
中川駿河がそう茶化すと、藤吉郎はあまり多くない頭の毛を大袈裟な身振りで掻いて見せる。
場の空気を読み、なおかつ自らの利益になるように会話を自然と落とし込む能力にかけては、この小男より優れた男などそうそういるものではない。駿河だけでなく五郎左衛門尉もそう認識していた。
「私の親父は」
若武衛の不満とも愚痴ともつかぬ話は続く。
「あれは空気を読んでいるようで読んでいない男だからな。こちらへの配慮なのかと思いきや、ただ揶揄っているだけだったり、茶化しているのかと思ったら内心激怒していたり。自分だけが訳知り顔でいるのは無性に腹が立つこともあるが、私はもう諦めた」
若武衛の物言いに、丹羽五郎左衛門尉と中川駿河はそろって苦笑いするしかなかった。藤吉郎は空になった杯に酒を注いで回っている。
立場にとらわれず、その場において最もふさわしいであろうと思われる役割を率先して果たす。例えそれが宴会であろうと戦場であろうともだ。自然とこうした振る舞いが出来るのが藤吉郎の強みであろう。
そのようなことをつらつらと考えながら、見た目からは想像出来ないが酒豪である五郎左衛門尉は一口で杯を空けた。
「さて和議はなった。しかしこれからどうしたものか」
「若武衛様。それは大樹様という意味でしょうか。それとも織田の御屋形様という意味でしょうか。もしくは朝倉の次の一手という意味で?」
「藤吉郎殿よ。なんなら斯波武衛家として、これからどうするかをお主達に議論してもらってもいいのだぞ」
「……若武衛様も、お父上に物言いが似てこられましたな」
まじまじと見つめながら中川駿河が言い放った内容に、義銀は引きつったような笑みを浮かべた。
性根は悪い男ではないのだが、同じ言動であっても藤吉郎のそれは笑って許せるのに、駿河のそれは気に障るというのは、中川駿河の個人的な性格によるものとしかいいようがない。
「例えばだ。朝倉が南下政策を放棄することはありえると思うか?浅井を切り捨て、朝倉氏を若狭の守護に正式任命することと引き換えに、現状の幕府の体制下に組み込む。これはどうだろうか?」
「かりに朝倉にその気があるのなら、昨年4月よりも早い段階で何らかの対応を取ったでしょう。この状況で織田の風下に立つとも思えませぬ」
駿河守が否定すると、藤吉郎も同意するとばかりに続ける。
「駿河守殿の仰る通りですな。御屋形様(織田信長)にとっては妹婿でありながら背後から刺した浅井備前守……あぁいや。浅井新九郎は(長政)は許しがたいでしょうが」
酒の席であっても幕府の公式見解に合わせて浅井を呼び捨てにする藤吉郎は、再び五郎左衛門尉の酌をする。
杯をあおりながら、五郎左衛門尉が言葉を継いだ。
「それは大樹様とて同じこと。梯子を上りきろうとしたところで蹴り飛ばされたわけですからな。朝倉を討伐して政権の安定性を確固たるものとするつもりが、各地の『反幕府勢力』を決起させただけ。面子も何もない」
あえて「反織田」ではなく「反幕府勢力」とするところに、丹羽五郎左衛門尉の政治的なカンの良さが伺える。先の若狭征伐の際、旧斯波家家臣出身という出自でありながら若狭の支配を一時的に委任されたのは、その政治的な安定感が評価されたのだろう。
義銀はそのような評価を下しながら干した烏賊の足を噛み、自分も藤吉郎の酌を受けた。
「担ぐ神輿は上様だけではないということですか」
「藤吉郎よ、言葉にもう少し気をつけたほうがよい。どこで誰がどのような解釈をするかわからんでな」
「これは失礼しました。若武衛様のおっしゃる通りに致しましょう」
藤吉郎が錫製の銚子を手に、上目づかいで若武衛に尋ねる。
「駿河守殿と同じ意見になりますが、朝倉としては今の段階で大樹様と和解するつもりはないでのでは?少なくとも武田彦五郎(信方)を傀儡とする若狭支配を確実なものとするまでは、交渉に応じるつもりもないでしょう」
「浅井はどうか」
「横山城において監視を続けて締め上げておりますが、まだまだ……」
昨年、坂田郡の堀家を寝返らせた立役者の藤吉郎も、はかばかしくないのか口をつぐむ。最も内応の約束を取り付けていたとしても、このような席で話すことはないであろうが。
現在、堀家と共に藤吉郎は浅井の本拠地小谷を包囲し続けている。これに関して言えば、農閑期などの季節にかかわらず兵力の確保をしやすいという意味で、姉川の戦いで仇となった職業兵が中心の織田家の利点が十分に生かされていた。
それに引き換え精強な浅井勢を支える兵士はそうはいかない。彼らを帰郷させずにそのまま兵役につかせることも理屈上は可能であったが、それはそのまま翌年の年貢=徴税に跳ね返ることを意味している。
「何も相手の得意とする土俵に、こちらから乗る必要はありますまい」
戦術的な劣勢を戦略ドクトリンで補う……といえば聞こえはいいが、織田家としてはそうするしかなかったとも言える。それを藤吉郎は前向きに評価した。
「いざとなれば雪の壁が守ってくれる越前朝倉とは違い、浅井はこのままではジリ貧ですからな」
「左様。藤吉郎の言うとおりじゃ。だからこそ両者の分断は可能だと思ったのだが、備前は腹をくくっておる。官位を剥奪されてもの」
浅井備前の官位剥奪問題は、将軍義昭の熱心な働きかけもあって12月の勅命講和の直後に義昭の言い分が認められた。講和直後というタイミングには朝廷のみならず幕府内部にも慎重論も根強かったのだが義昭がこれを押し切った形である。
浅井新九郎の面目は丸つぶれとなったが、さすがに朝倉が帰国する状況で単独で叡山籠城を続けるわけにも行かず、そのまま小谷へと引き上げざるを得なかった。
自ら先例を破り推薦した官位を、自らへの反逆を理由に剥奪する。将軍権威を天下に見せ付けるという点では効果があった。朝廷の将軍に対する冷ややかな視線という朝幕関係の悪化に目をつぶればの話だが。
この理屈で言えば、次は朝倉の番である。
だがそうはならなかった。
「大樹様は何を考えている?」
中川駿河と藤吉郎の会話を、手酌で注いだ酒を啜りながら黙って聞いていた丹羽五郎左衛門尉は呟いた。将軍の中途半端な対応に対する懸念と疑念が目に宿っている。
「てっきり朝倉も続けてやると思っておりましたがなあ。少なくとも年明け直前、朝倉勢が越前に撤退したあとには間違いなく。ところがまるで動きがござらぬ」
藤吉郎は両の手のひらを上に向けて肩をすくめる。
中川駿河は「こうは考えられぬか?」と自らの考えを披露してみせた。
「越前への下向中に、当時はまだ将軍に就任される前の上様が朝廷に自ら働きかけたのが今の朝倉当主の官位だ。主だった一族にもそれぞれ官位が与えられておる。あの大野郡司(朝倉景鏡)などもそうだ……13代様(足利義輝)落命の後、朝廷の本命候補は上様であったので、朝廷もこれを受け入れた。いわば朝倉のそれは大樹様にとって最初の政治的な実績というわけだ」
「駿河守様、しかし上洛を最後まで拒み、今の政権を正面から否定したのも朝倉ではありませんか」
「それは……まあそうなのだが」
中川駿河が腕を組んだ。相変わらず丹羽は手酌で杯を重ねていく。
「幕臣連中は新年を迎える準備が忙しいなどと、理由にもならぬ理由を挙げておりましたが」
藤吉郎の言葉に、織田家中の3人の視線が若武衛に集まる。
当事者たるはずの侍所頭人は「忙しいと言えば確かに忙しいが」と、わかったようなわからぬような答えを返し、指折りしながら名前を列挙する。
「丹後守護の一色式部大輔(義道)、但馬守護の山名右衛門督(祐豊)……尾州家の前当主である播磨守(畠山高政)は在京しておるが、弟の紀伊守(畠山昭高)も上洛する予定だ。播磨からは守護たる赤松の本家から諸流まで、主だったところだけでも別所に三木に小寺、そしてその家臣。備前では……赤松氏守護代だった浦上一族に、丹波から旧細川京兆・三好に属していた国人連中、これらの多くが本人自ら上洛すると申し出ている」
「叡山籠城などなかったかのようですな」
「都における情報収集を兼ねているのだろう。これとは別に地方に下向していた公卿も戻ってくるし、遠方からだと-さすがに名代のようだが毛利陸奥守(元就)に、武田に上杉、小田原の北条……」
「名前だけ聞けば錚々たる面子ですな」
「実が伴っているかは解らぬがな」
感嘆したような声を上げる藤吉郎を茶化す中川駿河守。誰が上だの誰が先だのというつまらない、つまらないがゆえに合戦の原因ともなりかねない大事な準備に追われてる義銀にはそれが癇に障った。
そもそも今年も京に『あの男』がいないという状況が、問題をややこしくしてるのだ。
「実があろうとなかろうと、形式というものは大事だ。実の最たるお人は今年も岐阜で年を越されるようだが」
「若武衛様」
「五郎左衛門尉、わかっている」
義銀は面倒くさそうに手を振った。
「わかっているが愚痴のひとつも言いたくなる。どいつもこいつも二条城の後は岐阜に行く連中ばかりときている。それを快く思わぬ幕閣の連中を説得するのも、不満をぶつけられるのも武衛家の私なのだぞ」
憤懣やるかたないといった調子で義銀は杯を煽った。
今はまだ二条城から岐阜へという年賀の挨拶の順番に、一定の流れが形成されているからいい。これが将来的に岐阜から二条城に流れが変わらない保証はどこにもないのだ。
まだ京の中なら何とでも誤魔化せる。しかし岐阜と京では取り繕うことすら出来ないのだ。
「まったく、正月ぐらいは何も考えずに静かに過ごしたいものだが……」
「無理でしょうなぁ」
中川駿河の癇に障る物言いを流し込むかのように、義銀は再度、杯を傾けた。
*
波乱の年が暮れて、元亀2年(1571年)が始まった。
正月早速、中川駿河の嫌な予感が現実のものとなった。
「神戸下総守夫妻の幽閉、主だった一門衆や家老の山路弾正らの殺害は確かなようです……織田は所詮、このような汚いやり方でしか物事を解決出来ぬのですな」
「石見守。お主の見解は聞いておらん。事実だけを伝えてくれ」
大河内城の自室で報告を受けていた北畠具房が遮ると鳥屋尾石見守は、一瞬だけ不満そうな表情を浮かべたものの、すぐにそれを押し殺して続けた。
「年賀の挨拶のために夫妻が岐阜を訪問したところ『言動好ましからず』ということで取り押さえられ、これに抗議した神戸家臣はすぐに成敗されました。夫妻の身柄は義兄たる日野の蒲生に預けられた模様。国元の神戸城においても時をほぼ同じくして織田に批判的だった神戸一門衆の粛清が行われたようです」
「最初から神戸家中の反織田派を潰すつもりで、当主夫妻を人質としたわけか」
「そうとしか考えられませぬ。あの戦上手である下総守殿を幽閉して、まだ12歳になるかならないかという織田の息子に家督を無理やり譲らせる。ただのお家乗っ取りですな」
事実だけを報告しろと命じたのにも関わらず、直ぐに織田の批判を口にする石見守を、具房は重ねて注意することはなかった。
人の性格というものは例え主君から批判されようとも、そう簡単に変わらないし変えられないということを、彼はここ数カ月で斯波武衛から嫌というほど学ばされたからだ。
北伊勢に犇めく国人衆の中でも関氏の庶流である神戸氏は、他の勢力と同じく親北畠と反北畠の間を行ったり来たりしていたに過ぎない。
そうした中で当代の神戸下総守(具盛)は仏門から家督を相続したにも関わらず戦上手で知られ、本家を上回るほどの勢力を築いた。
織田弾正大弼に敗れて降伏すると、信長の子である三七を養子として迎え入れた。その後も下総守は手腕を遺憾なく発揮。義兄たる六角旧臣の蒲生を降伏させるなど大いに活躍し、織田家に貢献していた。
未だに南伊勢全体の統治に手間取る北畠のそれと比べても、神戸は明らかに織田家の中で確固たる地位を占めていたはずであった。
「長島攻め、どうやら本気のようだな」
鳥屋尾石見守は厳しい表情で頷いた。
織田家としては小木江城で自害した弟の仇討ちと、尾張西部国境を固める狙いなのだろう。そして先の小木江城攻め以降、織田弾正大弼の立場でなくとも、長島はそのまま放置しておくことは出来ないというのが、尾張と伊勢、近江などの近隣諸侯の共通認識となっていた。
木曽三川の河口に位置する輪中(中洲を堤防で囲ったもの)をいくつか連結させるかのように形成されている長島願証寺は、攻めるに難しく守るに容易い地形である。お世辞にも人が住むには適した環境とは言い難い土地ではあるが、それが故にこの地の周辺に住まう、または集まった門徒の信仰は文字通り強固である。
願証寺自身ですら把握不可能という門徒の数は今や2万とも3万ともされている。これは老人に女子供を入れた数ではあるが、彼らもいざ籠城となればそれなりの働きをするだろう。それに現在では本願寺が反織田派に傾いたため、反織田勢力の浪人衆が加わっている。
「美濃一色の家臣団が入ったとも聞く」
「戦上手の美濃侍に指揮された、死を恐れぬ勇猛果敢な大量の兵ですか。浅井に追い回された織田が勝てる道理などありませぬな」
そう嘯く石見守であったが、その顔は依然として険しいままだ。
長島という土地は門徒衆の食い扶持を自分達だけで生産出来るだけの豊かな場所ではない。なにせ川の中洲なのだ。
そして先の一戦で彼らは、いざとなれば権力者は強く出れば要求を飲まざるを得ないという、誤ってもいないが正しくもない教訓を得た。このまま彼らを放置すれば、いずれ味をしめて自らの腹を満たすためになんでもするようになるだろう。ちょうど今の叡山の如くに。
石山本願寺は加賀の二の舞にせぬために坊官を派遣するということだが、統制が効くとは誰も信じていない。
このまま彼らを放置すれば、何れは尾張と伊勢の陸路は長島の機嫌を伺わねば往来すら出来なくなってしまうだろう。奴らが神宮(伊勢神宮)に手を出すほど愚かであると思いたくはないが、一向宗「如き」に皇統とは切っても切れない関係にある神宮の生命線を握らせることは、旧南朝勢力最後の生き残りで、なおかつ独自の歴史観をもつ北畠としては見過ごすわけには行かない事態であった。
ただ鳥屋尾石見守-つまり先代の具教を中心とする北畠家中の不満は、それを織田弾正大弼主導で行わねばならないという一点につきた。
「下総守の軟禁と粛清という強引な神戸家の引き締めも、背後で余計な動きをされたくなかったからか」
「下総守殿は戦上手ではありましたが、自らの功績を盾に織田の息子をないがしろにするような振る舞いもあったと聞いています。10を越したばかりの息子を養子に送り込んだのに、ろくな対応もせずに放置したとあっては、親が織田でなくとも怒るでしょう」
この場合、神戸下総守が一向一揆と投じていたかどうか、実際にそのような動きをしたかどうかは問題ではない。長島攻めの前段階として、少しでも不安要素を取り除く下準備としての神戸粛清である。そのためには神戸家の戦力が一時的に低下してもやむを得ないという織田家の判断は、具房のみならず石見守にも理解出来るものであった。
しかし理解出来たからといって、それを許容出来るかどうかはまた別の話なのも事実である。
なにより北畠は「第2の神戸」となりかねない要素をいくつも抱えている。
仮に長島に目処が付けば、次はどこか。
「心配してもどうにもならぬことを、くよくよ考えていても仕方があるまい」
北畠の「現当主」は嘯くと、冬であるというのに汗を掻いて扇子で自らを仰いだ。
「とりあえずは長島攻めで我らも出来ることをするのみだ。織田憎しで神宮を危機にさらしては北畠の歴代当主に会わせる顔がないしな」
その様子を鳥屋尾石見守は複雑な思いで見つめた。
先代とは違い武芸の心得などなく、ただ肥太るばかりで馬にも満足に乗れない。「太り御所」とあだ名され、家臣からも領民からも軽く扱われていた当主が、先の宇佐山籠城に参加したことで主上から直々に「お言葉」を頂いたのだ。先代の具教もこれには大いに喜び、それを大いに褒め称えた。今や家中からは「太り御所」を侮る風潮などどこかに消えてしまっている。
それ自体は石見守は不満はない。むしろ喜ばしいとすら考えている。
問題は具房が明らかに親織田へと軸足を移しているかのような言動が見られるようになったことだ。本人が意識してそう振舞っているかどうかはともかく、織田嫌いを公言する石見守にはそう感じてならない。
主君への忠義と自らの信念、そのどちらを優先するべ……『茶筅ー!どこだぁ!出てこーい!!!』きか『あ、津川じゃん!頼むから匿ってくれ!あいつの寝顔が面白くて額に『肉』と書いたら、とんでもなく怒ってるんだ、っておい、こら津川!声出すなって……さては裏切ったな貴様ぁ!!』『ここにいたか、このオンボロ茶道具!今日こそ潰して竈の火にくべてや……
「石見」
「私には何も聞こえません」
鳥屋尾石見守は清清しいまでの笑顔で、驚くほど力強く言い切った。
*
元亀2年(1571年)1月15日。
主だった宮中儀式や式典が終わり、年賀の使者が捌けるのを待ちかねていたかのように、征夷大将軍足利義昭は二条城に前管領の斯波武衛と、前紀伊守護の畠山播磨守(高政)を呼び出した。この他にも出席者がいたともされるが、資料が残っていないために何れも推測の域を出ない。
世に言う『二条城会談』である。
・浅井長政の任官と官位問題については完全なオリジナルです。




