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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
永禄13年(1570年) - 元亀元年(1570年)12月
27/53

菅屋九右衛門「やーい、お前の母ちゃんで~べ~そ~。お前の父ちゃん無位無官~」朝倉左衛門佐「ちょっと山降りてあいつ殺してくる」浅井備前守「駄目に決まってるでしょ!!!」


 比叡山延暦寺の経営が「国営」か「私営」かと問われれば、答えは「私営」である。


 伝教大師(最澄)が、既存の南都と呼ばれる東大寺などの国営寺院のあり方を批判して始めたのが叡山延暦寺であり、乱暴に例えるならば現在の一万円札の顔の人が創設者である名門大学に共通点が多い。


 反官僚の気質、独立自尊の精神が強く、私立の名門として長い歴史があり、様々な学問や研究において数多くの実績を残してきた。卒業生による学閥を政界のみならず官界や経済界にも張り巡らせ、その影響力は絶大だ。


 しかしそれらを取りまとめる首領のような存在がいるわけではない。


 国に頼らずともやっていけるが、国がなければ存在感が示せないのも事実。そしていつしか名門子弟が集まり○○ボーイとしてブランド化された。財力に裏付けされた声と存在感はある。しかし私学は私学、私営は私営だ。国営ではない。それでも国への影響力はある。


 名門私学大学の名誉校長-つまりそれが天台座主である。


 先の大学は創設から200年も経過していない。叡山はすでに創設以来8百年にもならんとする歴史を積み重ねてきた。それは名誉校長に皇族を迎えてもおかしくないほどの時間だ。


 数百年にも及ぶ歴史は反中央と、明確な指導者がいない故の自由な体質を更に確固たるものとした。


 それこそ女を抱こうが男を抱こうが、お釈迦様もびっくりの苦行をしようが、書庫にうずたかく積まれた書物で深淵にせまろうが、何をしてもいいという自由さである。


 鎌倉仏教とも呼ばれる浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗などは、まさに叡山だからこそ生まれでた新たな潮流であり、だからこそ叡山と決別する道を選んだのだ。また叡山のそのあり方をどうにかしたいという体制内改革を目指す流れも起きた。


 そのような国家の統制をうけない巨大な寺が都の近くにあること自体、中央政府としては目の上のたん瘤である。


 確かに南都への対抗勢力を育成するために戒壇を認めたとは言え、いくらなんでもここまで巨大になれとはいってない。「川の流れとサイコロの目と、叡山の僧兵だけが意のままにならぬ」と嘯いた法王がいたというが、意のままにならないからこその名門私営の叡山なのだ。


 唯々諾々と権力や時の政権に従うような性根の連中は、そもそも叡山に入らない。なにせ叡山に反対するものを受け入れる自由があれば、それを追い出す自由もまた同時にあり、それらに抗って居座る自由もあるという具合だ。



 京の二条城において前田孫十郎-法名を玄以と名乗る壮年の僧侶は、何がおかしいのかガハハと高笑いし、その剃り上げた頭をピシャリと叩いた。


「叡山においては空気など読んではいられないというわけですな」


 村井長門守(貞勝)は「空気を読まないのと空気を読めないのとは似て非なるものであろう」と思いながらも言葉にはしなかった。三淵大和守などは言葉もなく、この珍妙なる男を眺めていた。


 斯波武衛(謹慎中であるはずなのに何故か二条城に出入りしている)に至っては「新しい玩具を見つけた」とでも言わんばかりの表情を隠そうともしていない。


 尾張小牧山城近くの寺の住職であった空気を読まない(読めない)僧侶は、どういう伝かはわからないのだが織田弾正大弼の知遇を得て、嫡男の奇妙丸付きとなったという経歴の持ち主である。叡山で修行した経験があるらしく、今回の叡山籠城をうけて奇妙丸の住居である岐阜より急遽呼び出されたのだ。


「しかし拙僧がお役に立てることなどございますまい。あれだけ広大な敷地なだけに水の手も物資を運び込む手段も、それこそ山のようにあります。地元の者ですら知らぬ道を僧兵が下り、鹿や猪ですら避けて通る崖をよじ登る修行者もいますでな」

「……今更だが、寺院の話だな?」

「大和守様の疑問はもっとも。ですが寺は寺でも、叡山とはそのような寺ですからな。空の僧房など、これも山のようにございます。維持費だけでもそれはもう、目の玉の飛び出るような経費が毎年かかりますのでな」


「派閥闘争するにも、派閥を維持するのにもまた経費がかかりますのでな」と玄以は右手の人差し指と親指を丸めて銭の格好にして、イヒヒと笑ってみせた。長門守にはそれが僧侶というより、土倉か質屋のやり手の番頭に見えた。


「朝倉と浅井というあらたなお客を、そう簡単には逃がさないでしょうな。3人よれば4つの派閥と5つの新宗派、そして6人の僧兵が生まれる気質の叡山とはいえ、金銭という切実な問題を前にすればいかなる派閥でも黙らざるをえません。お前が払えと言われてしまえば、反論が出来ませんからな」

「金銭での絞め上げは無理というわけですか」


 三淵大和守がうんざりした口調で溜息をつく。


 越前・若狭や北近江からの物資に頼るというのなら、幕府として上京や下京の商人や座に命じて経済制裁により叡山を締め上げればよいではないかという経済封鎖案は、長門守も当初乗り気であった。


 玄以はそれを「交渉ができる相手」という前提も含めて完全に否定して見せた。


「そもそも交渉する相手を何方であると認識されているのですかな?就任なされたばかりの尊きお方に連なる座主様が、あの複雑怪奇な叡山を取りまとめて交渉が出来るとでも?今の主要派閥はどれもこれも団栗の背比べ、だからこそ朝倉左衛門佐が主として振舞っていられるのですよ」

「まずはそこからか……」


 村井長門守は頭を抱えた。


 叡山籠城が始まった当初、織田弾正大弼は叡山に3つの条件で誘いをかけた。


 すなわち


①織田方につくならば織田領内の元の延暦寺の荘園をすべて返還する。

②できないなら彼らを追い出して中立を保ってほしい。彼らが山を降りれば我らも手出ししない。

③朝倉・浅井ににつくならば焼き討ちにする。


 どうも思いつきで条件を列挙したものではなく、念入りに準備を重ねた上に提案したのがうかがえる。この3条件は、後に織田弾正大弼独自の宗教政策の基本方針となったが、それはさておき。


 焼き討ち条件については敵も味方も脅しと受け取ったのだが、延暦寺の回答はその斜め上を行くものであった。


- 回答なし -


「回答しないでなく、回答出来なかったのでしょう」

「交渉する、しない以前の問題か。組織としての意思決定すら満足に出来ぬとは本願寺より酷いではないか!」

「それが叡山の気風なのです。今までそれで問題はなかったし、これからも問題がないと思っているのでしょうなぁ」


 長門守が思わず声を荒げるが、玄以は何故か胸を張って答えた。


 どう見ても空気を読んでいないのではなく、読めていないとしか思えない。


「そもそも大和守様、叡山の関係する金融業と関係を断てば、潰れるのは麓にある坂本の商家ばかりとは限りませぬぞ。上京の業者が金融制裁の直撃を受ければ、下京にも波及するのは必至です。叡山発の信用不安は御免こうむりたいですな」

「経済制裁をするつもりが、されていたとなっては本末転倒か」

「左様。相手は畏れ多くも主上と大樹のおわす都を、軍事的にも経済的にも『人質』としているのです。この点だけは見誤ってはならんでしょう」

「……これではどちらが籠城しているのかわからぬな」


 大和守は渋い顔で腕を組む。


「そこですな。なにゆえ叡山に両家の軍勢が立てこもったのかというのを忘れてはいけません。彼らが攻めてきたのです。ならば攻守を変えたところで先手を打ったのはあちら。こちらが後手になるのは当たり前田の孫十郎は私でございます」


 ガハハと一人で高笑いする玄以を、斯波武衛だけが面白そうに見物している。大和守などは額に浮き上がった青筋が今にも切れそうだ。


 ひとしきり笑い飛ばした後、玄以は真面目くさった顔を作って続けた。


「講和するしかないでしょうな」


 大和守が反論しようとするのを、斯波武衛が両の掌を相手に向けるように前に出して黙らせる。玄以はその配慮に頭を下げてから持論を述べ始めた。


「武家の戦については専門外ですので、どちらが正しいのどちらに非があるのだのは私には関係ございませぬ。ただ経済的な締め付けが不可能とあっては、危機感を持てと叡山を恐喝するのも困難。それでは相手が交渉に乗ることはございますまい。つまり今のままでは膠着状態が続くことになります」

「幕府が命令したところで、あのへそ曲がりどもは聞かぬだろうしな」


 大和守が苦々しげにいうと、玄以はえへへと笑って頭を掻く。


「攻められたのはこちらだからな。ならば後手に回るのも仕方がない」


 それまで面白そうにこの男を見物していた斯波武衛が咳払いをしてから口を挟んだ。


「幕府と織田家の主力を叡山にひきつければ、それだけで朝倉と浅井にとっては勝利といえる。叡山でも摂津戦線でも幕府軍は力押しするだけの戦力にかけているからな」

「このまま戦況の膠着が続けば南近江の六角、長島や近江の門徒、小谷の浅井は一時的に息を吹き返すでしょう」

「長門守よ。本願寺の上人殿と、甲斐の入道は義理の兄弟だというのを忘れては困るぞ」


 誰もが意図的に無視していた事実を突きつける武衛を、大和守は実に嫌そうな表情で見やる。


「えへへ、それは困りますな」


 どんよりとした重い空気が立ち込める中でも平然と笑ってみせる玄以に、長門守は「こやつ、心の臓に毛でも生えているのか」と妙な感心をした。



 村井長門守が前田孫十郎に娘を嫁がせた正確な時期は不明である。ただこの数年の間に娘を嫁がせてもよいと判断する出来事があったのは確かだとおもわれる - 史学雑誌より抜粋 -



 叡山において織田家主体の幕府軍と朝倉・浅井がにらみ合いを続けるなか、幕府と織田家を取り巻く情勢はますます厳しさを増した。


 この数年で一挙に支配領域を拡大した織田家の領内で反織田の嵐が吹き荒れたのだ。


 困ったことがあれば甲賀の山奥に逃走するのが御家芸という、守護大名というより山賊に近い六角ろっかく承禎じょうてい・六角右衛門督(義治よしはる)親子は、近江の門徒と共に挙兵。美濃岐阜と京への街道を封鎖した。


 これをうけて横山城で浅井家の小谷城を監視していた木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門尉(長秀)は、11月中旬までには徳川家の援軍と共にこれを掃討。京と岐阜の街道を再開させた。


 若狭においては朝倉勢が着々と基盤を固めている。守護である武田親子を一乗谷で『保護』していた朝倉家は10月に軍を若狭に入れ、先の若狭征伐で幕府に降伏した山県一族を初め、粟屋右京亮、武藤上野介(友益ともます)らを寝返らせた。


 また幕府が任命した正式な守護がいるにもかかわらず、旧守護家の中でも親朝倉派で知られた武田彦五郎(信方のぶかた)を小浜に入らせ、守護を代行させている。将軍の権威を正面から否定したに等しい。4月の若狭出兵にも協力した親幕府派(織田派・反朝倉派)の粟屋氏が抵抗を続けているものの、劣勢を強いられていた。


 そして北伊勢の長島一向一揆である。


 顕如の檄に呼応した願証寺の門徒は国境を越え尾張に侵入。その数は1万とも2万ともいわれた。正確な数が残っていないのは願証寺ですら把握出来ていなかったからであろう。


 ともかく尾張西部国境を守る小木江城主の織田彦七郎(信興のぶおき)はこれをなんとか食い止めようとするも、数に勝る一向宗に攻められて敗北。さらに籠城して抵抗しようとするも、11月21日にはついに陥落。織田彦七郎を始め、多くが討ち死にした。


 5年前に服部党を追い出し、尾張西の国境を守り続けてきた織田家有数の猛将ですら一向一揆の数の力には敵わなかったという事実は、北伊勢と西尾張を繋ぐ戦略的要所が反織田に転じた事と合わせて、織田家に衝撃を与えた。



「和睦するしかないでしょうな」


 日々深刻さをます事態に、善後策を打ち合わせるために自ら岐阜へと入った小牧山城代の織田三郎五郎(信広のぶひろ)に対して、筆頭家老の林佐渡守(秀貞)は感情のこもっていない声で告げた。


 これに一瞬だけ殺気の混じった視線を向けた三郎五郎であったが、しばらくしてから苦々しげな表情ではあったが「そうですな」と応じた。



 三郎五郎は信長の諸兄(家督相続権のない兄)であり、かつては一色氏と組んで信長に謀反したこともあったが、今は一族の中の重鎮として重きをなしている。先の上洛から1年ほどは在京して『織田信長』の名代として公家衆との交渉を担当した。


 4月の若狭征伐(朝倉攻め)を前に、現在の本拠地たる美濃と本貫地の尾張清洲の中間点である小牧山城代を拝命。尾張から美濃にかけて不穏な動きを見せる本願寺系や山門(叡山)系寺院の監視、街道の安全確保に追われていたのだが、先の小木江城では救援が間に合わなかった。


 三郎五郎はそれを痛恨の極みとしていたが、その原因も本人自身が嫌というほど理解していた。


「敵が多すぎる。中にも外にもな」

「内にはいないのは幸いでしたな」

「佐渡殿、今は冗談を言う気分ではないのだ」


 かつての謀反の経緯を当てこする林佐渡守に、信広は顔をしかめる。


 今の織田家は内部闘争をしている場合ではない。東に敵ではないとはいえ信用出来ない武田、北には越前朝倉と浅井、西には三好三人衆と四国三好家。織田の領内のあちこちにまとまった勢力を持つ本願寺と、南近江で蠢く六角親子……そして幕府に服したとはいえ向背定かならぬ畿内の多くの中立諸侯は、戦況が幕府と織田に悪くなれば直ぐにでも手のひらを返すだろう。


「小谷を監視していた丹羽と木下が、京までの道を確保した。優秀な婿殿(丹羽長秀は信広の娘婿)がいてよかったですのう、三郎五郎殿」

「佐渡殿、お点前こそ……」


 自分も嫌味を言い返そうとした三郎五郎であったが、森三左衛門のことを思い出して口をつぐむ。その態度に林佐渡はフンと鼻を鳴らした。


「あの馬鹿の事なら気にしないでいただきたい」


 三郎五郎の目には林佐渡守がどこか、一回りほど小さくなったように思えた。


「それよりも津島や熱田から矢の催促だ。一向一揆を何とかしろとな」


 佐渡守は何事もなかったかのように、手にしていた書状を三郎五郎に見せた。


 尾張のみならず日本有数の経済都市でもある津島と熱田は、同時に宗教都市の顔を併せ持つ。


 津島は全国天王信仰の中心地である津島神社の鳥居前町、熱田は神宮(伊勢)に匹敵する長い歴史がり、また三種の神器の1つである草薙剣くさなぎのつるぎを祀る熱田神宮のお膝元だ。


 直接的な敵対関係にないとはいえ、宗教的な狂乱に一揆のそれが加わった集団が熱狂したときに何をするかはわからない。まして勝ち戦に便乗するだけの浪人集団が加わっているのなら猶更だ。一向一揆の動向には敏感にならざるを得ない。


「その盗賊の仲間が出てくるとあってはおちおち商売もできぬと泣付いてきおった」

「加賀では一向宗以外の寺は、真言であろうと天台であろうと全て打ち壊されたといいますからな。貴重な仏像や経典もことごとく薪にくべたという始末」

「長島に兵糧を流しておきながら、どの口で!」


 林佐渡守が吐き捨てる。


「織田家がそれに気がつかぬほど阿呆だと、奴らは思っておるのか」

「銭にも米にも名前が書いているわけではないですからな。ばれることはないと考えているのでしょう。それに長島が明確に敵対したのはつい最近のこと」

「津島も熱田も、米と銭の流れで何かあると読み取れぬ間抜けぞろいだとは知らなんだの」


 普段から皮肉屋の佐渡守だが、今のそれはいつも以上に激しい。その理由を察した三郎五郎はそれ以上は何も言わずに、佐渡の部屋を辞した。


 遠ざかる足音を聞きながら、部屋に1人残された林佐渡守は零した。


「あの馬鹿め。だから油断をするなとあれほど言っておったのに。三左の馬鹿が……子供もこれからだというのに、本当に、本当に馬鹿な男よ……」



 戦局の悪化に、幕府も織田弾正大弼もただ手をこまねいていたわけではない。しかし叡山に3万の浅井・朝倉の軍勢があり、これに軍を張りつけざるをえない状況をどうにか打開せぬ限り、戦況が好転する兆しはなかった。


 10月20日。信長は側近の菅谷九右衛門(長頼ながより)を叡山に派遣し「いつまでも山に閉じこもっていないで堂々と決戦したらどうだ!」と挑発したが、これは冷笑を浮かべた朝倉と浅井の両当主に拒絶された。


 数少ない明るい話題といえば、摂津三守護の1人にして将軍家の信頼厚い和田伊賀守(惟政これまさ)が、寡兵にも関わらず本願寺や三好三人衆相手に奮闘し続けていることだろう。


 今や伊賀守は都の西の守護者となっていた。


 その一方で、攻勢の主導権を握って優勢にあるはずの朝倉左衛門佐(義景よしかげ)も、この頃から焦りを隠さなくなってきた。


 攝津における和田伊賀守の奮闘によって西からの侵攻が予想以上に難航していることも原因ではあったが、それ以上に予想外だったのは織田家に全く分裂の兆しが見えないことであった。


 かつての三好一族がそうであったように、織田弾正忠家はこれまで尾張1国の中で延々と一族同士で御家騒動を繰り返してきた。その上ここ数年で一挙に領域が尾張・美濃・近江・伊勢へと拡大している。勢力が拡大すれば内部での意見対立や軋轢も高まるのは避けられない。


 六角を使い、岐阜と京の間の街道を断てば「金の切れ目が縁の切れ目」となる職業兵が織田家の軍勢は瓦解する。そして織田一族の中の適当なものを引き込み、弱体化した織田家の軍勢を粉砕し、一挙に美濃と尾張まで攻め込む。少なくとも朝倉側はそのような計画を立てていた。


 ところが実際には織田家に分裂の兆しはなく、各地の『反織田』勢力にしても長島の門徒は当主の腹違いの弟1人を打ち取っただけで満足して引き上げてしまった。近江の六角はたちまち蹴散らされて和睦してしまい、各地の山門系寺院はどうかといえば、まるであてにならない。


「「このままでは駄目だ」」


 織田と朝倉の両当主は、おそらく同時期にその考えに至ったのだろう。菅谷の挑発にのったわけではないが、山を駆け下りての決戦を朝倉側が視野に入れ始めた頃、淡海(琵琶湖)の堅田水軍が織田家に寝返ったことで、膠着状態が打破された。


 海に水軍がいるように湖にも水軍がいる。堅田水軍は淡海の中にいくつかある水軍の中でも比較的勢力が大きく、また交通の要所たる堅田に本拠地を構えていた。


 彼らは六角から浅井に主人を変えたのだが、この状況下で彼らは浅井から織田へと主人を変えた。


「あいつらが叡山におったんでは、おまんまの食い上げでっさ!」


 堅田水軍の頭領である猪飼甚介(昇貞のぶさだ)は、交渉を担当した明智十兵衛にこう嘯いたという。


 水軍とは自分のショバたる海域を警備し、ならず者から航海を守るのと引き換えに「交通料」を要請することを主要な生計としている。それが朝倉と浅井が北陸道と北近江から京への物流を封鎖したために、淡海を往来する船舶の数は激減。当然ながらシノギである「交通料」も減少する一方である。


 ところが浅井・朝倉からの補償はなされない。


「やってられませんわ。その点、織田様は金のことがわかってる」


 この猪飼なる名前の通りにイノシシのごとくに鼻の利く男がお為ごかしを行ったかどうかは定かではないが、主に北陸経由の街道と物流を封鎖しているのは朝倉主導の連合軍であり、京への物流経路を死に物狂いで確保しようとしているのは織田家である。


 どちらが物流業者に「儲けさせてくれるか」といえば、答えは決まっていた。


 織田弾正大弼は堅田水軍の寝返りを好機とみて、11月25日に重臣の坂井右近将監(政尚まさひさ)に1千の兵を率いさせ、叡山近くの堅田に軍を進駐させた。今度は逆に西近江‐つまり叡山の物流を締め上げようとしたのだ。


 ところがこの動きは山頂からは丸見えだった。


 翌26日には朝倉右近将監(景鏡かげあきら)、前波左衛門五郎らが山を下って堅田で陣地を構築中だった坂井勢に攻めよせた。


 半年ほど前の野村合戦(姉川の戦い)で息子を失っていた坂井は、包囲されながらも奮戦。前波を討ち死にさせるなど奮闘したが、援軍が間に合わずに部隊は壊滅。堅田水軍は湖を渡って対岸へと逃走した。


 織田家の最後の賭けは、結果的に惨めな敗北で終わった。



 「勅命講和」なる発想が、果たして将軍足利義昭にあったであろうか?


 おそらくあったかもしれないが、自分からは言い出せなかったに違いない。


 しつこいようではあるが室町幕府は公武合体の政権。なのに朝廷ともめ事ばかり起こしている(と朝廷は受け取っている)征夷大将軍と、自らの足を引っ張り、かつて兄を見殺しにした連中(と義昭は思っている)の朝廷は、浅井備前官位剥奪の一件も含めて、とてもではないがそのようなことを言い出せる政治環境ではなかった。


 すると俄然として存在感を増すのは「在京していない」「政権の実力者」-すなわち織田弾正大弼(信長)である。


 まあ本人はそのようなことを考えて在京を避けていたわけではないのだろうが、とにかく今回に限ればそれは良い方向に働いたといってもいい。信長は朝廷と将軍の両者を仲介することになる。


 朝廷としてもいつまでも都の喉元に反幕府勢力の大軍がいる状況は望ましくなく、まして物流を封鎖された都の品不足は、年末年始にかけて物価の高騰と合わせた暴動にすら発展しかねなかった。


 また大樹(将軍)の説得には斯波武衛も関わったという。


 一方で叡山にこもる主力の朝倉勢においても、12月を越えた対陣は不可能であるという意見が強まり始めた。


 北陸道へ通じる北国街道は文字通りの豪雪地帯であり、冬期になれば物資や人の往来が可能な状況ではなくなる。冬の日本海では海上輸送も難しく、越前からの物資輸送は著しく困難になることが予想さえた。


 だからこそ反幕府・反織田勢力の盟主たる朝倉左衛門佐は早期決着を図っていたわけだが、結局は近江宇佐山の命を顧みない奮戦と、斯波武衛の舌先三寸で出兵してきた筒井、そして摂津の和田伊賀守の奮闘が彼の計画を水泡に帰する原因となった。


 朝倉家はそれを公言することはなかったが、その事情は連合軍内部においても共有され始める。


 鈍いのか鋭いのかわからない逃げ足の速い六角親子は、11月21日には早々に織田家と和睦。包囲網の一角が崩れた。


 また同日には四国三好家も松永霜台の仲介で重鎮の篠原しのはら長房ながふさ自らが上洛し、幕府や織田家と和睦した。


 元々彼らは四国に帰りたい、もしくは領国支配の重点を移したいがゆえに、主たる三好義継ですら切ったのに、このままだらだら摂津の対陣を続けたところで何も得るものがないという判断からであった。


 こうなると戦闘指揮官を四国三好勢に頼る本願寺としても、「信長の弟」という金星を挙げた以上は無理に戦いを続ける必要もなかった。なにより『いつも通り』に本願寺の力を権力者に見せ付けることが出来たのだ。


 本願寺にとっては『いつものこと』であった。


 こうして朝倉左衛門佐の『最初』の上洛作戦は惨めな失敗に終わることとなった。



 12月13日。朝倉と浅井は朝廷と将軍の仲介を受け入れ(つまり事実上、現在の将軍率いる幕府を承認し、その権威を認めたことになる)、織田弾正大弼との講和に同意した。


 これはあくまで「朝倉・浅井」と「織田」の私闘であり、幕府の打倒を目指したものではないという形を作る必要があったためだ。


 この時までは、あくまで「形の上」だったのである。


 この点について誰が最初に気がついたのか、それは定かではない。


 とにかく12月14日には織田は勢田まで撤退し、朝倉・浅井の連合軍は約3ヶ月ぶりに近江高島を通って帰国の途に就いた。


 ここに後世『志賀の陣』と呼ばれる一連の戦いは終わった。



「よろしいのですか弾正大弼殿、あのようなことをなされて」


 権大納言の山科やましな言継ときつぐは、30ほど年齢が下の織田弾正大弼に、いかにも心配そうに話しかけた。


 この老人は彼の父とも親しく付き合い朝廷の中では「親織田派」とみなされている人物である。あくまで「みなされている」だけで実際にどうするかはまた別の話だ。


 政治的立場や信条の1つや2つ、舌の2枚や3枚を使い分け出来ずに、この困難な時代に2代の天皇に内蔵頭(朝廷の財政の責任者)として仕え、そして実績を上げることなど出来なかっただろう。


 しかしそれはとして、個人的に親しかった男の息子のことが、純粋に心配であったのも事実であった。


 そんな老人に、織田弾正大弼は顔色一つ変えずに答えて見せた。


「山科卿。私は実行不可能な約束は致しませぬ。そして守れぬ契約であれば最初から結びません。朝倉殿が天下を欲しいというのならばくれてやると、そういったまでのこと」

「天下を譲るとか、私は二度と望みを持たぬとか、そのようなことを言ったとも聞きましたぞ?」


 仮に彼の本意でないにしても、そのような言葉を使ったというだけで政治的には大きな失点になりうる。後々、必ず織田弾正大弼にとっての政治的な足かせとなりかねない。


 だとするならば朝廷としても、また老人個人としても付き合いを考えなければならない。そう匂わせた山科に、織田弾正大弼は自分より背の低い老人に合わせるかのように顔を寄せて囁いた。


「あくまで噂は噂にすぎませぬ。文字として残る起請文を交わしたわけでもありませんしな。それに」


 こちらを見つめる弾正大弼の顔は青白く、さながら能面のようであった。


 なまじ整っているがゆえに感情の見えない顔に、言継は背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。




「私は朝倉を、浅井を滅ぼさぬとは一言も約束してはおりませぬ……その事だけは忘れないで頂きたい」




 山科の日記である『言継卿記』に、この言葉は記されていない。



前田利家「前田ときいて」

佐々成政「犬千代、ハウス!」



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