金蓮院准后「ひえー!天台座主になった途端に朝倉と浅井が篭城始めた!うーん覚恕ショック」
大和五条に唐招提寺という寺がある。
招提とは寺院や道場の意味であるので、直訳するなら「道場寺」とでも呼ぶべきか。では唐は何かといえば、言うまでもなく当時の大陸を支配し、平安時代まで続いた唐のことかと思ってしまう。ならば「唐の道場寺」という意味かといえばそれも正確ではない。
ここでいう唐とは、来日していた鑑真のことであり「鑑真のためのお寺」というのが正しいらしい。
当時の日本がなぜ鑑真に三顧の礼を尽くして招聘したか。これも律令体制と仏教を抜きにして語ることは出来ない。
僧侶になるには「明日から私は坊主になります!」といってなれるものではない。
当時の僧侶とは宗教者としての側面以外に国家公務員として研究職・技術職・教育者などのさまざまな側面を有していた。そして僧侶になるためには戒律を授ける導師が必要であるとされた。
戒律は僧侶としての決まりごとであり、それを戒壇という公式な場所で、戒律を授ける3人と、見届け役が7人必要とかなんとか……とにかく制度としてはそうあるべきというのは日本にも伝わっていた。
しかし悲しいかな、日本は仏教を認めたといっても体系的に取得したものではなく、さまざまなルートから私的に、あるいは公的に伝わったものを独自に体系化しただけで、物部滅亡以来2百年近く経過したというのに「正式な僧侶の認定のための制度」「認定するための場所」「認定するのに必要な人材」の3つの条件が欠けていたのだ。
どうなったか?
「おら明日から坊さんになるだ!坊さんになったら税金も払わなくてもいいし、お役人でいい生活できるだ!」
これが律令制度が制度として整備されつつあった奈良時代、日本が一貫して悩まされた私度僧問題である。
ずぶの素人が坊主になったからといって、脱税の根拠となったとしても、表向きは誰も相手にしない。脱税も問題であるが、さらに深刻だったのは貴族の子弟など一定の教養のあるものがコネを使い「僧侶」と称して国家のエリートコースに乗る事態が横行した。
これでは貴族による権力の私物化であり、律令体制で目指した天皇を中心とする中央集権国家を目指すとした国家の根幹に関わる事態である。
これを解消するため、日本が公式使節である遣唐使を通じて日本に招いたのが鑑真である。
つまり彼は日本に戒律を伝えるため「正式な僧侶の育成方法と雇い方」を教えた。来日し、鑑真が最初に受戒(仏教者として認めた)のは当時の聖武天皇であることからも、これを期に律令体制を再構築しようとした天皇の熱意と国家としての決意が伝わってくる。
「僧侶を僧侶として認定する」という国家資格がどれほど重大な「利権」につながるかというのは、これでわかっていただけたと思う。乱暴にたとえるなら「国家公務員採用試験の許認可権限」というわけだ。
鑑真来日により制度が急速に整備され、戒壇(国家公認の僧侶認定機関)は全国に3つ設置された。
東大寺、大宰府の観世音寺、下野の薬師寺である。
下野は意外に思えるが、聖武天皇の治世下において下野は急速に中央への帰属を深めており、ヤマト政権以来続く関東進出の当時における最前線拠点であった。そう考えると不思議ではない。
ところが時代が下るにつれ僧侶の需要は増える一方なのに供給は追いつかない「坊主のインフレ」が発生した。人口が増えればお役所の仕事は増えるものだし冠婚葬祭の需要も増える。中央集権国家である以上、そのすべてを戸籍で把握せねばならないのだ。
こうした需要と社会情勢を背景に、平安初期に唐へと留学し、当時の最先端の仏教を学んだ上で「これでは駄目だ!戒壇を増やして需要に対応しろ」と桓武天皇に主張した僧侶がいる。彼は既得権益層たる南都(大和に残った東大寺を頂点とする寺院勢力)のあり方を批判し激しく対立した。
伝教大師(最澄)(766-802)である。
*
「その改革者が開創したのが比叡山延暦寺。当初、伝教大師の立てた草庵は慎ましやかな庵だったそうですが、いまや3千近くの寺院からなる日本最大の『寺』です」
三井寺山内の幕府軍本陣において、三淵大和守は険しい視線を叡山に向けながら、織田家の佐久間右衛門尉(信盛)に語っていた
。
「朝倉・浅井3万の軍勢を収容可能な、立派な『寺』ですか」
弾正忠家譜代の重臣は、はき捨てるように応じる。
「それだけ経営が苦しいのでしょう。でなければ間接的とはいえ、不俱戴天の間柄である本願寺と同盟を結ぶことに了承するはずもありません。普段から叡山に人が満ちていれば、3万もの軍勢が入れるはずもないですし」
官位のない佐久間に対して、大和守は慇懃無礼にも思えるほどに丁寧に接している。本来であればふんぞり返っていてもよさそうなものだが、幕府と織田の連携を重視する大和守は、公式な行事の場ならともかく、戦場においてそのようなことをして無用な対立を起こすつもりはなかった。
「贅沢な宿屋もあったものですな」
普段の佐久間右衛門尉であれば、ここまで露骨に自らの感情をあらわにはしないだろうが、今の彼は違った。織田家家中の人間であれば誰でもそうだ。
9月23日に朝倉と浅井の連合軍が叡山に篭城を始めてから、早くも10月になろうとしている。
都の鬼門たる比叡山延暦寺は、都全体を山上から監視可能な戦略的要衝である。また朝倉は越前・若狭からの、浅井は北近江から淡海(琵琶湖)を通じる物流を封鎖し、都と幕府軍を一種の兵糧攻めにしていた。「これではどちらが攻めているかわかったものではない」と佐久間が苛立たしげに罵るのも当然といえた。
「摂津では和田伊賀守殿が何とか持ちこたえてはいますが」
「淀川の物流が完全に絶たれている状況には変わりませぬ。摂津の状況が続くようであれば、丹波や播磨からの商品が京に入ってこなくなるのも時間の問題。南近江も不安定な状況が続くようであれば、都が干上がってしまう」
佐久間がこう指摘するように、四国三好家と本願寺の連合はいまだ摂津において幕府軍を攻め立てていた。戦巧者たる和田伊賀守の奮戦により戦線の拡大は押しとどめられていたが、押し返す状況には程遠い。
南近江には六角残党や本願寺派の寺院が存在し、彼らもいつどう動くかわからない。直撃を受けたのは周辺諸国と都を結ぶ物流網と運送業者である。戦線の拡大と治安悪化が続く中、年末に向けた需要の高まりと重なったことで、物価はじりじりと上昇を続けていた。
「大和が筒井の『降伏』で安定したのが幸いでした。これも大和守殿のお手柄ですな」
「いや、私は何も……」
「いえ、これは私の本心です」
佐久間右衛門尉は真剣な表情で応じた。
『武衛の奇術』とも『武衛の幻術』とも揶揄された俄か連合軍は、宇佐山城の織田兵と共に朝倉と浅井の連合軍の京への侵入を食い止めることに成功。織田弾正大弼は宇佐山の功労を激賞した。
将軍も彼と同じように連合軍の貢献を称賛し、これに論功行賞を与えようとした。
ところがこれに「待った」をかけたのが、激賞したはずの織田弾正大弼本人である。
幕閣や幕府方の畿内の領主、特に大和にあり筒井と敵対していた松永霜台を中心に「正式な要請も命令もないのに、幕府の地位についていない斯波武衛が勝手に兵を動かしたことは問題」という批判が噴出したためである。
連合軍の功績を妬んだ讒言も含まれていたとはいえ、主上のお膝元たる都の近くに無断で兵を近づけたことで宸襟を悩ませたのも事実である。結果が良かったからといって、このような独断専行を認めては悪しき先例になりかねないという批判には、将軍や織田弾正大弼も配慮せざるを得なかった。
この状況にまたも先手を打ったのは斯波武衛である。
『筒井の赦免と、戦死者の名誉を認め、遺族や負傷者への対応さえ責任をもってしてくれるのなら、それでよい。責任を取れというのなら、息子も一族も幕府の役職を辞めさせよう』
こう宣言して、本来であれば最も反論してしかるべき斯波武衛自身が早々に独断で軍を動かした責任を認めて京の武衛屋敷に自主的に謹慎してしまった。また本来であれば結果重視の織田弾正大弼が沈黙を保っていることも状況を複雑にした。
論争を決着させる圧力になったのは、最終的には「外圧」であった。
京と目と鼻の先の比叡山には浅井・朝倉3万の軍勢が籠城を続けており、摂津には1万以上の四国三好家と三人衆という「前門の虎、後門の狼が続いていた。
この状況でいつまでも所属不明の4千近い筒井の兵を遊ばせるわけにも行かず、将軍自らが松永霜台を説得することで、筒井の赦免と福住城一帯の所領を安堵。これにより筒井は中央政府公認のもとで念願のお家再興を果たした。
そして織田弾正大弼は黄金10枚を「勤皇の志と幕府の恩顧に報いるため『自主的』に朝倉と浅井の上洛を防いだ」筒井に、黄金20枚を「三好三人衆に対する迅速な働きに報いる」ためとして松永に与え、最も声高に連合軍を批判した松永を黙らせた。
またぎくしゃくした朝廷との関係については連合軍を代表する形で北畠中将が参内し、畏れ多くも主上から直々にお言葉を頂くことで決着が図られた。水面下では村井長門守が折衝に尽力した結果である。
そしてしぶといと言うべきか、案の定というべきか、本当に「ひょっこり」帰ってきた池田筑後と、形式的に連合軍を指揮した三淵大和守については、将軍自らが褒美を与えた。朝倉伊冊の息子である前敦賀郡司の朝倉中務大輔(景恒)は、幕臣として出仕することが決まっている。これは「対朝倉の最前線は避けるべきである」とする本人の意向を、将軍と織田弾正大弼が受け入れたものだ。
「斯波武衛様が自主的に謹慎なさらなければ、これほどうまくはまとまらなかったでしょう」
宇佐山の戦後処理に関して、織田家中で折衝にあたったのが佐久間である。当然ながらこの間の経緯については詳しかった。
「長門守によれば、松永は自分と筒井のどちらを取るのかと大変な剣幕だったそうです。確かに野田・福島における松永親子の功績と、宇佐山での筒井のそれは甲乙つけ難い。無論それは貴殿も同じことですが」
「事実上の『盟主』であり『傀儡』であった前管領様が政治的な責任を引き受けてくれたからこそ、両者を共に評価することが出来たのです。私の功績などあってないようなもの」
「『戦死した勇者こそ、真に称えられるべき存在』ですか」
佐久間の言葉に三淵大和守は頷く、それは斯波武衛が事情聴取に訪れた明智十兵衛に語ったとされる言葉と同じものだ。
結局、いまでも武衛は謹慎を自主的に続けているが、侍所執事の斯波義銀も、和泉守護である弟の統雅も相変わらず職にとどまり続けている。
「やれやれ。死んでいようと生きていようと、責任からは逃れられぬ。武士とはまこと、因果な職業ですな」
「そう思えるのも生きているからだと、武衛屋形であれば言うのでしょうね」
大和守の言葉に佐久間は肩をすくめて見せるが、すぐさま表情を険しくして叡山を見やる。
「かつての改革者が、たかが600年ほどで既得権益層となるとは、因果というか因縁というか」
「組織の維持運営には人も物も金も必要ですから」
宇佐山の陣で織田家は多大な被害を被っている。幕臣である大和守は慎重に言葉を選びながら続けた。
「伝教大師が意図していたかはともかく、あの地は都の鬼門にあり、麓には北陸道から続く街道と東山道から都への街道の交差点たる場所。まさしく東における都の生命線です。侵略者と叡山が結べば、淡海西岸から南下して都へいたるまで障害など存在しません。それゆえに人も物も金もあつまったのでしょう」
伝教大師の死後になるが、桓武天皇は潜在的な反政府勢力たる南都の政治力をそぐ狙いもあり、延暦寺に戒壇の勅許を与えた。国営の寺ではない私的な寺に「国家公務員試験の許認可」を与えたのである。
そして伝教大師の真意はともかく、戒壇は律令体制が崩壊し、国家公務員としての僧侶の役割が低下してもなお、政争の要因となり続けた。
「東大寺に対抗した西大寺は言うまでもありませぬが、鎌倉の御世に多々生まれた宗派もそれぞれ勝手な授戒を行い、今でも続けています」
「そういえば後鳥羽の帝が、女官の出家を理由に法然上人(浄土宗開祖)を流罪にしたことがありましたな。ひょっとしてそれも関係していたのですかな?」
「ええ、問題となった女官を出家させたのは上人の弟子です。勝手に出家したということもそうですが、よりにもよってどこで僧侶となったかもわからぬ得体も知れぬ者から授戒をうけるとは何事かという怒りが大きかったそうです。この三井寺とて、元は叡山の分派。いつの世も寺院は勢力争いを……」
大和守はそこまで言うと、思わずといった具合に噴出した。いぶかしげな表情を浮かべた佐久間に、大和守はこう釈明して見せた。
「延々と土地をめぐって争いを続けている武家たるわれ等が、寺院を笑えるはずがないと思いましてな。われらは土地の正統性を、彼らは宗派としての正統性を争うだけの違いなのですから」
「身内の間だけで争っているなら問題はないのですがね」
佐久間は再度首を傾げた。
「叡山も本願寺も、何故この時期に幕府や織田に歯向かったのか……」
*
「土地だよ土地。土地以外ありえない」
二条城に隣接する武衛屋敷の茶室で、『謹慎中』の斯波武衛は織田家の村井長門守(貞勝)と、幕臣の細川兵部大輔(藤孝)に茶を振舞っていた。
思い当たる節のある村井長門守は、すぐさまそれに反応した。
「昨年の和泉と河内への出兵では近隣の寺社、播磨では本願寺系や日蓮宗系の寺院の問題がありました」
「長門守の言うとおりだ。出兵の際、横領された土地を本来であれば元の持ち主に返すべきではあったのだろう。だが織田弾正大弼の立場としては近隣の諸侯に出兵の協力を要請する立場。仮に討伐した諸侯の横領されたものだけ返還するにしても、ならばうちもと訴訟になるのは必須」
昨年の本圀寺の変の後、織田家は畿内各地に出兵し、三好三人衆を中心とした反幕府勢力を掃討した。その際に問題となったのは横領された寺社領の取り扱いである。
かつての天下人たる大内氏や三好氏は、知識階級たる寺社への世論対策もあり、横領された所領を元の持主たる寺や神社へと返還するように務めていた。また彼らはそれぞれ幕府の公式な役職についており、それを(武力を背景にした実行力を背景に)地元の国人に命令することが可能な立場でもあった。
ところが政治的にも個人的な理由からも在京を避けたい一心の織田弾正大弼は幕府の役職についていない。そのため地元の国人にあくまで協力を要請する立場であった。これでは強権的な対応は取りにくい。
「寺社勢力からすれば、そのまま横領を認めるのではないかという疑惑につながりますな」
いかにも武人らしい不敵な面構えの細川兵部大輔は、両手で手にした赤焼き茶碗を撫でた。ごつごつとした指にもかかわらず、当代一流の文化人たる彼の所作は洗練されており、村井長門守も思わず見入ってしまう。
武衛が畳にこぼれた水滴を手ぬぐいで拭いながら続ける。
「その上で本願寺には治安維持の名目で5千貫の金を供出させた。それなのに播磨でも河内でも横領された土地は戻ってこない。このままでは金どころか石山を明け渡せといわれるぞ。そうなる前に……大方、そのような事を朝倉にでもささやかれたのだろう」
「上様は朝倉征伐の後、キリシタン政策や寺社政策を総合的に見直されるおつもりでした。今となっては、それどころではありませんが」
兵部大輔は首を横に振る。生真面目だがそれゆえに直情的な傾向がある兄の大和守とは対照的に、愛想もなにもないのに地蔵の首だけが横に動いているような妙な愛嬌がある。
「弾正大弼とはそういう男だ。出来ない約束はしないし、守らない契約なら最初から結ばない。そして裏切りは許さない。やると決めたらやる。何があろうとも鉄の意志を持ってやりぬく。そういう男だ」
「あまり良い成果が出ているとは思いませんが」
「上様とてそれは同じであろう。上様もしつこさでは弾正大弼とよい勝負じゃ。ただ手法に違いはあるが」
大樹(将軍)批判とも受け取られかねない内容にもかかわらず、兵部大輔も長門守も顔色ひとつ換えようとしない。
それを気にもせず武衛は続ける。
「そうだの……織田のは商人のしつこさ。上様のは僧侶のしつこさとたとえてもよいかも知れんな」
「商人と、僧侶ですか?」
「その通りだ兵部大輔。商人は損切りも早いが、一度商いの目標を明確にしたら損失が出ようとも利益が出るまでやり続ける。商いは『あきない』とも言うぐらいにの。しかし固執はしない。駄目だと判断すればどれほど時間と金と人を投入していようとも撤退する。そうでなければ家が続かぬ」
会話の途中に釜がひとつ高い音を立てた。話に夢中になりすぎて沸かしすぎたのであろうか。
武衛はいかにも気恥ずかしげに頭をかき、鉄箸で炉の中の炭を掻き分けた。
「僧侶は正当性と合理性が大事だ。自らの正しさを理路整然と主張する。たとえ自分が誤っていると思ってもそれを認めることはない。相手に付け入られるからな。その点では武士よりもよほど厳しいやもしれぬ」
「それが現実と乖離していようとも関係がないと?」
「兵部大輔よ。霞を食う仙人ならともかく、僧侶とて飯も食うし、寝なければ働けない。頭脳労働というのは意外と体力を使うものだからな」
兵部大輔の『挑発』を知らぬとばかりに受け流し、武衛は炉の中の炭を再度並べ始めた。
「叡山にこもる朝倉・浅井とて人の子だ。飯も食う、寝る、そして女を抱く。山の中でどれほどそれが……いや、それは問題ないか。叡山だしの」
「問題ないと思えることこそが、問題なのでは」
長門守の疑問に、武衛は苦笑するだけで続けた。
「僧侶とて女は抱きたいし飯も食いたい。人間だからの。本能をただ戒律で縛り、押さえつけるだけでは却って人の本質がゆがんでしまう。だからこそ宗教団体の内部抗争というものは余計に陰湿に見えるのだろうな。少しは取り繕う努力をしろとは思うが」
「僧侶たるもの、世俗の者とは違う存在であってほしいと思うのも人情というものです」
「長門守。それもまた理想の押し付けやもしれぬぞ。世俗であろうと僧侶であろうと結局は人なのだ。人は仏にはなれるが神にはなれぬ。それゆえ人の身でありながら英雄的な行動をとる武士は尊敬され、わが身を律することの出来る僧侶は尊敬されるのだ」
それは遠まわしな叡山と本願寺への批判なのかと兵部大輔は首をかしげる。
「織田弾正大弼はどうしておるか?」
干菓子を客たる二人に進めながら、主人の斯波武衛は長門守に問うた。
「……特にこれというものは。三井寺を何度か訪問しましたが、常と同様に仕事をされているとしか」
長門守の言葉に、武衛は「不味いの」と表情を急に険しくした。
「三郎がそうなる時は大抵は感情を爆発させる寸前。いつ噴火するかわからぬ火山のようなものだぞ」
「まさか細川雪関(政元)の例にならうとでも?」
「いくら何でもそこまで直情的ではないとおもうが……」
約70年ほど前に比叡山を焼き討ちした半将軍の顰に倣うのかと尋ねる長門守に、斯波武衛は腕を組みながら考えをめぐらせるように視線を上へと向けた。
「叡山は所詮は宿主に過ぎない。叡山の朝倉と浅井、摂津の三好、南近江の六角、そして各地の本願寺系の寺院。あちらこちらに火がついておる。ならば出火元をどうにかせねば、沈静化などしまい。問題は火元がどこかなのだが……当面は叡山にこもる朝倉と浅井の連合軍対策が急務だろう」
そこでいったん言葉を区切った武衛は、兵部大輔に視線を合わせた。
「浅井備前の官位剥奪、うまくいかぬか」
細川兵部大輔は地蔵のような顔をさらに硬くして頷いた。
先の足利義昭上洛の際、正式な官位を持っていたのは徳川三河守だけであり、織田と浅井の両当主は自称にしか過ぎなかった。
将軍足利義昭は近江守護の人事への見返りに、浅井長政の自称である「備前守」を正式なものとして朝廷に奏請し、これを認めさせた。これは浅井家歴代当主のなかでは『初めて』のことであり、長政は大いに面目を施した。
「前例主義とは何も消極的というわけではない。家柄というものは今日や明日で形成されるものではないし、まして官位なるものは嫉妬と怨嗟の象徴。それゆえ新たな人事案を上奏する際には細心の注意が必要なのだが……」
「上様は朝倉征伐に向けて、備前守殿の協力を得たがっておられました」
「もらうものだけをもらって、肘鉄をくらわされたと」
斯波武衛は肩をすくめた。
繰り返しになるが室町幕府とは公武合体の政権である。公卿は室町の政治に参加し、将軍や大名は官位で序列がつけられ、公卿となったものは朝議に参加する。こうすることで双方向に交流が保たれていた。
ところが当代の足利義昭は武家の棟梁としての意識が強く、朝廷とは摩擦が絶えない。
近衛太閤の追放では二条関白の一派の協力を得られたものの、旧近衛派は新将軍への反発を強めた。元々、近衛と13代将軍との関係が深いこともあって親足利派が多い彼らを敵に回すことは得策ではなかっただろうが、義昭は一切顧みなかった。
この件に代表されるように、義昭は朝廷においても武家の論理を優先することが多かった。今回の浅井備前の謀反を受けて「官位剥奪」を訴えたこともその一例であり、これには盟友であるはずの二条関白ですら冷ややかなものであるという。
「何故大樹が越前滞在中に要請した朝倉の官位剥奪は要求しないのか」と朝廷が問えば「朝倉と浅井の関係を裂くための武略もわからぬのか」と幕府側が罵倒する始末。自ら先例を破る人事を強行しておきながら、1年もせずに撤回するとは。官位を何だと思っているのかという当然の不満と、公儀に弓引いた男の官位をそのままにしておくとは何を考えているのかという将軍の不満が正面からぶつかり続けている。
これにキリスト教をめぐる綸旨の扱い、先の改元費用の負担などの課題もあり、政治的盟友であるはずの二条関白が主導する朝廷の将軍に対する風当たりは強くなりつつある。
「坊主であるだけに弁は立つしな、そして正しいと思ったことの筋は曲げぬだろう」
武衛は細川兵部大輔に尋ね返した。
細川は彼の実兄である三淵大和守と、官位剥奪の一件に関する朝廷工作の責任者であった。大和守が様々な理由で在京が不可能な今、兵部大輔は一人で奮闘を強いられている。
「まぁ、私に出来ることがあれば手伝う。そのうち兵部大輔の今の苦労が報われる時期が来るだろうし」
「上手くいけばよいのですが」
「長門守よ、一方的に利用するばかりが朝廷の使い道ではないぞ?」
ある意味、誰よりも不敬なことを平然と口にしつつ、斯波武衛は干菓子を齧った。




