Luís Fróis発、Gaspar Vilela宛の書簡(1569年2月から1570年9月までの中から一部抜粋)
番外編です。本編より少し時間が遡ります。
「ルイス・フロイスといえば、日本の戦国時代を語る上で欠かせない人物ですね。このポルトガル人が日本と関係を持った理由は、彼がカトリックのイエズス会宣教師だったからです。つまり教えを宣べるものとして、アジア地域におけるキリスト教徒を新たに獲得するために来日しました。なぜ日本にまで布教に来たのかというのは、また次の回にお話しましょう。今回は日本におけるキリスト教黎明期と戦国時代の終わりというのがテーマですからね」
「ルイス・フロイスは16世紀後半、長きに渡った戦国時代が終わりを迎えかけていた時代に日本に滞在し、数多くの政府要人や実力者と直接面会しました。その印象を記録として残しています」
「意外かもしれませんが、イエズス会はもともと九州や中国の山口に活動の拠点を持ち、日本の首都たる京で本格的な布教を始めたのは比較的後からでした。これは治安の問題もありますが、応仁の乱以降の荒廃した京よりも、守護在京の制度が崩壊したことで領国に多くの大名や武士が戻ったことで、地方の都市が中央の統制から離れて「小京都」として繁栄したからです。また京は皇室のお膝元として既存勢力、すなわち仏教や神道勢力が根強く、新興勢力たるキリシタンが受け入れられることは難しいという判断もありました」
「しかし、いくら衰えたとはいえ日本の首都で当時の権力者に布教を認められるか否かは、キリシタン布教の正統性にも関わる問題です。いくら地方で勢力を拡大したところで、中央がノーといえばそれまでとなる危険性は十分にありました」
「そのため宣教師達は地元の大名との協調姿勢を維持しつつ、その後援を受けて京へと進出することを目指しました。代表的なのは山口県の大内義隆、その死後は大分県の大友義鎮-宗麟としての方が有名ですね。こうした諸大名はキリスト教を南蛮貿易のルーツとしつつ、京とのパイプとして使おうとしていた形跡があります」
「彼らの思惑に沿ったのかもしれませんが、室町の13代将軍足利義輝は、政治的な緊張関係にあった政所執事の伊勢氏と、奇妙なことですがキリスト教の『公認』では一致しました」
「公認といても『ほかの宗教と同じように扱うことを役所が事務的に宣言した』というのと『積極的に支援した』のとではかなりニュアンスは異なるのです。ですが事実上は前者でしかないのにも関わらず既存の勢力は猛反発しました。商売敵が増えるのですから当然といえば当然ですね」
「イエズス会といえばカトリックの中でもストイックな体質で知られ『軍隊のような規律を持つ』ともいわれた組織です。そうしたストイックさが剣豪たる将軍には何か感じるものがあったのかもしれません」
「伊勢氏については意外と言えば意外ですが、このあとも中央政府の高官の中では、既存の伝統宗教界に飽き足らない知識層の中ではキリスト教の洗礼が相次ぎました。欧州以外の新興国で新たな信者を獲得することにもっぱら従事してきた彼らの論理は、日本の大陸文化のみに親しんできた伝統的な知識層には新鮮に感じられたことでしょう。また独自の発展を遂げていた日本の知識層との出会いは、イエズス会にとっても重要なものでした」
「さて1565年に13代将軍が暗殺されたあと、キリスト教の宣教師は京都を追放されます。この時、ガスパル・ヴィレラの後任として京や畿内の責任者となったのが、ルイス・フロイスでした」
「この時、まだ20代の若さだった彼に与えられた任務は禁教の撤回です。当然、政府の要人と会わざるを得ません。おそらく公式記録に残っている限りにおいて、織田信長と最初に出会った西洋人はフロイスだと思われます」
「さて、次に取り上げるのは織田信長でも、彼が担いだ将軍足利義昭でもありません。モニターに出してください」
「これは九州へと下ったガスパル・ヴィレラにフロイスが送った書簡です。とはいうものの、公式なものではありません。本来こうした書簡は布教の過程を記録しイエズス会本国の上層部に報告するために保存されるものですが、彼らも人間です。私信、つまりプライベートの間では言いたい放題ですね。だからこそ面白いと私なんかは思うのですが、残念ながら資料的価値には乏しいとされます」
「わかりますか、ここ。Buey Shivaとあります。インドの破壊神ではありませんよ(笑)……」
東都文化協会主催「戦国時代を語る」第3回-日本におけるキリスト教黎明期と戦国時代の終わり-講義内容より一部抜粋
*
かの人物との出会いは、建築中の二条城の普請現場で、将軍の家臣たる和田伊賀守様に紹介されたのが最初だったと思います。ええ、和田伊賀守。高山親子の上司であり、不正を憎み、なおかつそれを正すことができる誠の勇気を持った政治家です。
私は期待していました。和田のような政治家が「幕府に欠かすことのできない人物」として、将軍に次ぐ管領という、副将軍の地位を他の2家と持ち回りで世襲していた名門武家貴族の当主を紹介してくれたのです。どれほど期待していたことか……そしてあの時に感じた私の感情をなんと呼べばいいのでしょう。未だに答えは出ていません。
「お主が類洲・風呂椅子か」
「いえ、るいす・ふろいすでございます」
「類酢、風呂井須?」
「いえ、類洲・風呂……フロイスとお呼びください。武衛屋形様」
ガスパル。正直に言いましょう。頭の良くない老人というのが、私の武衛斯波への第一印象でした。
本圀寺という仏教の寺の中に臨時に設けられた幕府の役所に、その老人の部屋はありました。私にとっては決して居心地のよい場所ではありませんでしたが、この貴族には似つかわしい場所に思われたものです。
人柄の良さが滲み出たかのような笑みをいつも浮かべた柔和な顔は、東洋の仏教という宗教とも哲学ともつかぬ教義の中で崇められる地蔵菩薩のようでありました。その日に焼けていない手は、いかにも世間慣れしていない貴族のものでしかなく、彼が尾張の国王たる織田の傀儡であることは万人が承知していましたが、私ですらそうであろうと感じたものです。
「斯波武衛である。管領様とも武衛様とでも好きに呼ぶがいい」
自分を様付けして呼ばせることに慣れきった傲慢さよりも、それを聞いた私が何も反感を持たなかったのが不思議でした。人の上に生まれ、人の上で育ち、人の上でしか生活できない貴族というものは、こういうものなのかと思いました。
豊後の大友様のような名も実もある大名とも、幕臣の和田伊賀守のような、どちらかというと貴族というよりも軍人政治家という方々とも、まるで異なる人種のようでした。そしてそれは室町の将軍-天皇より政権を任されているはずの有名無実な存在たる足利氏とも、どこか違うような気がしました。
「では武衛様と」
「うむ、結構。足を崩して構わんぞ」
そう言い終えるよりも前に自ら足を崩された武衛は、年の頃は60近いと聞いていました。白髪の多さや肌の艶のなさは確かに年相応に見えました。
そしてこの名門武家貴族の当主は唐突に私に「君は鑑真という坊主を知っているか」と切り出しました。
「いえ、高名な方なのですか?」
「およそ8百年ほど前の歴史上の人物だ。大陸の生まれで、当時の王朝のもとで仏教の最高権威となるも、その地位を捨て、当時の国禁たる祖国の法を破って来日した」
「なんの為です?」
「正しき仏教を伝えるためだ」
当時の日本の仏教は、大陸よりそれぞれのルートで伝わった書物や知識を得手勝手に統合したもので、およそ国家の中枢を担う宗教組織としては不十分であったそうです。この老人の解説によれば、当時の天皇は仏教先進国であった大陸より鑑真なる高僧を招き、混乱した仏教界に秩序をもたらそうとしたそうです。
「日本人も仏教を学ぶために大陸に渡航していたが、知り合いもいない海の向こうの島国のために自らの地位を捨てられたのだ。何度も渡航に失敗し、最後は失明された。それでも来日を諦められることはなかった」
「それは、すごいですね」
「遥か海の向こうからやってきた説教師ときけば、日本人には先例がいくつか思い浮かぶものだ」
彼の話を聞いたことで、私はかえって不安になりました。この老人は頭の古い老人に良くあるように、ひょっとして主の教えを、仏教の一派と勘違いしているのではないかと。
「仏教の生まれた印度から来た風呂椅子には奇異に聞こえるだろうの。ましてかの国では仏教は殆ど残っておらんというし。しかしそんなことは珍しくもないだろう。キリスト教の聖地も今や異教徒の勢力圏とも聞くし」
……前触れもなく、いきなり背筋に刀を突き立てられたような恐怖。とりあえず今はこう記しますが、あの時私の感じた感情の全てを言い表すには十分だとは思えません。
何故この人は私がインドから来たことを知っているのか、それ以前に何をどこまで知っているのか。聖地の現状を、どうして極東の政治的指導者が知っているのか。どこでそれを知り得たのか。様々な疑念と不安が私の頭の中をよぎりました。
「そう警戒するな。形ばかりの都にある幕府とて、それはそれなりに情報は集まってくるものなのだ」
老人はそう言うと、扇子なる小道具を口に当てて笑いました。
その後のことはよく覚えておりません。ただ、禁教撤回にお力添えをいただきたいとお願いしたところ「今の私の立場では、それは出来ないのだ」と、優しい言葉とは裏腹の冷たい内容を返されたことだけは覚えています。
面会後、和田伊賀守様にそれを伝えたところ「武衛様らしい」と笑っておられました。
結局この時は伊賀守様の執り成しもあり、我らは京への復帰を許されました。
*
次の機会は、あの忌まわしい朝山日乗(*)というホッケーシュウ、いやニッチレーン宗の僧侶との宗論です。
日本人修道士のロレンソと共に、妙覚寺に尾張の国王である織田信長を訪問したところ、この僧侶が論争を仕掛けてきました。
日本のアンチキリストの中でもとりわけ頑固で偏屈な彼は、霊魂の存在をめぐってロレンソと論争。挙句、自らに勝ち目がないとみるや「その男の首を切り、霊魂の存在を確かめん」と、長刀に手をかけロレンソに切りかかろうとしましたのです!信じられない暴挙です。信長の家臣に取り押さえられたものの、罵倒だけは続けていました。
織田信長という人物は、どこか人をからかう癖のある人物です。日乗を我々にけしかけ、その反応を確かめたかったのでしょう。さすがに日乗の激高振りは予想外だったのか、口をポカンとあけていたのが印象的でした。
しかしそれ以上に衝撃的だったのは、その光景を見て腹を抱えて笑っていた副将軍の姿でした。この老人はいつの間にか論争を聞きつけ、それを部屋の外で見物していたのです。
その笑い声にようやく正気に戻られた信長は、実に険しい表情で「何用か」と副将軍に詰問するように尋ねられましたが「用もなにも三郎が来いといったから来たんだが」という武衛の返答に、言葉を詰まらせていました。
聞けば武衛は信長が生まれた時から知っており、彼の父とも交流があったそうです。これでは信長もやりづらいでしょう。何せ自分が乳母の乳を吸うところを相手は知っているのですから。
「おぉ、風呂椅子か。元気にしてたか?まあ、今殺されそうになっておったがな」
「お陰様をもちまして」
武衛は織田信長が嫌な顔をするのをお構いなしに、私の前に座りました(それも信長に背を向けて!)。ロレンソは突如として登場した身分の高い人物に、私の目で見てわかるほどに緊張していました。日本人である彼には斯波武衛という貴族がどれほど身分が高いのか、私よりもよくわかっていたのでしょう。
「ロレンソーとやら。気の毒だったが、まあ説教師としてと箔がついたと思えばいい」
「ロレンソでございます」
「おお、ローレンソーだな。ローレンソーよ。先ほどの宗論、後ろで見物しておったのだが、見事であった!」
そういうと武衛は懐から扇子を取り出して広げました。
『アッパレ!』なる日本語が仮名で書かれてあり、その妙な文字の上手さに、なぜか私は腹が立ったのを覚えています。
「魂だの霊魂だのと難しいことは分からぬ」
日乗とは異なり、武衛は率直に自らの知識が及ばないということを認めました。その振る舞いだけでも、私にとっては驚きでした。
「正直申して、日乗上人の霊魂など存在せぬという言説にも説得力がなかったわけではないし、むしろ日ノ本ではそちらのほうが受け入れやすいやもしれぬ。しかしだ、ローレンローレンローレンソー「ロレンソです」、おお、済まぬ。○ーソンが先ほどの宗論の際に見せた態度こそ聖職者としてふさわしい。決して感情的にならず理論で相手を説得する姿勢、そこが素晴らしい!」
何度間違えられても(ここまでくると意図的ではないかと疑ってしまいます)、律儀に呼び間違いを訂正しようとするロレンソに、私は日本人の真面目な気質を見た思いがしました。
武衛は決して議論の内容には触れず、論争に臨んだ際のロレンソの態度のみを褒め称えていました。伝統的な仏教勢力を刺激したくない政治的な配慮が透けて見えましたが、それ以上にこちらの冷静な態度がいたく気に入られたようでした。ロレンソもこれにはどうして良いのかわからず、困ったような顔をしていたのが印象的でした。
「人は身振り手振りでも感情のやりとりはできるが、言葉ほどの力はない。言葉は偉大であるぞ。異なる文化の者とも、風呂椅子ともこうして同じ言葉を使えば意思疎通が可能だ」
「しかし先ほどの上人は」と武衛は急に険しい表情になりました。
「言葉という共通の土台に、相手の方から歩み寄ってきたのにも関わらず、言葉を使わず槍刀で決着をつけようなどと、あれでは野伏とかわらんではないか」
誰を批判しているかは言うまでもありません。武衛の背後では、織田信長がバツの悪そうな顔をしておられました。
それを見て私はいささか気分がすっきりするのと同時に、こういう遠まわしな諫言のしかたもあるのかと関心する思いでした。その頃には幕府における緩衝役としての武衛の役割は広く知られるようになっていました。私は和田伊賀守様の見識に目を見張る思いでした。
「武衛様、一つお聞きしてもよろしゅうございますか?」
「なんだね風呂椅子」
「武衛様は霊魂が存在すると思われますか?」
私は気になったのです。この掴みどころのない老人が、神の信仰に耐えうる精神の持ち主なのかどうか。
扇子を閉じて二度、三度と左の掌に打ち付けるようなしぐさをしてから、武衛は言いました。
「霊魂ならここにある」
そういうと、日本有数の名門武家貴族の当主は、扇子で自らの左胸-心臓を指してから「ここやもしれぬが」と頭を扇子で叩きました。
「砕けてあとは元の土くれとは、相模守護であった三浦の辞世の句だ」
「三浦道寸か」と織田信長が後ろでつぶやきました。
三浦は相模の大名で、今の関東において大きな勢力を持つ北条氏の先祖に滅ぼされたそうです。
「しかし彼の名は死して100年ほどにもなろうかというのに今でも語り継がれている。人々の記憶から忘れ去られたときに、人の霊魂というものは真の意味で消えてなくなるのやもしれぬの」
「いえ、私が問いたいのは……」
「そんなことは叡山の坊主でも聞いてくれ。それよりもだ」
武衛老人は私の胸元を扇子で突きながら言い放ちました。
「いつ死ぬかわからぬご時世とはいえ、死んだあとのことを考えていても仕方がなかろう。人は過去がなければ今がなく、未来に希望を持たねば今を生きてはいけないが、今をおろそかにするものはその両方とも失う原因となりかねない。それをよくわきまえておいたほうがいいぞ」
*
なぜ当時の私はこの時の彼の言葉について深く考えなかったのか、後悔とともに思い返したものです。
ガスパルには今更説明するまでも無いでしょうが、13代様が非業の死を遂げられたあと、天皇に仕える女官の出した文書により、我等イエズス会は京より追放されました(1565)。
私達は堺に潜伏しながら、河内の池田などの紹介で、四国三好の家宰たる篠原殿などの御好意にすがりながら、復帰の機会を伺っていました。そして4年の潜伏を経て、三好の政権は崩壊。尾張の国王である織田信長が擁立した新しい将軍が就任したことで、ようやく京への復帰が許可されました。
こうした禁教令の背景に仏教勢力の意向があるのは明らかでした。元々、仏教界はわれらの動きを好ましく思っていませんでした。
いまわしい朝山日乗は自分で名乗り出たのか、押し上げられたのかわかりませぬが、その代表者のごとくふるまっていました。またロレンソとの論争に負けたのがよほど気に入らなかったのでしょう。宣教師の京の追放を将軍と織田信長に訴えましたが、これは拒絶されました。
するとこの怪僧はあきらめるどころか、なんと御所に押しかけ綸旨(簡略化された公式文書)を出させたのです!
まさかそこまでするとは!!
織田信長が岐阜へと戻っていた時期でした。おそらくその権力の空白を突いたのでしょう。将軍足利義昭(われらに良くしていただいた13代様の実弟です)は「宗教政策は幕府の権限」と激怒するばかりで、有効な対策をとってはくださいませんでした。これでは将軍に期待されている公武合体の政権の棟梁としての器量が問われます。
最早、京において頼るのはこの人物しかありませんでした。
「これから岐阜まで行くそうだの」
「は、はい。是非にも、にょーぼーホーショーなる禁教の撤回を願いたく」
「女房奉書である。女房奉書。なにかその言い方だと女房を質に入れるように聞こえるから、語尾を伸ばすでない。それに今度出たのは綸旨だ」
名門武家貴族の当主でありながら、まったくそれらしさのない老人は、翌年の将軍仮御所襲撃事件(本圀寺の変)において、その豪胆さを示すことになりました。
自軍に倍する敵軍に包囲されても、悠然とコメを握っていたというのです。この風変わりな貴族の老人は自ら炊かせたコメなる食材を握って人に食べさせるのを趣味としており、襲撃事件の最中にも将軍にそれを食べさせていたとか。
「難しいだろうの。上様はともかく岐阜(織田信長)は、何事にも前例主義だからの。とくに宗教政策などでは」
「前例主義ですか?」
「あれは新しい食べ物や武器は好きだが、平時に乱を望むような男ではない……今は乱世だが」
老人はそういうと人で笑いましたが、私らイエズス会にとっては笑い事ではありません。
「気を悪くするな。神の子も言っておるではないか。『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』とな」
いまさらこの老人が教会にも来ないのにマルコによる福音書の一説を暗唱できることなど、驚くに値しません。
「しかし銭金の問題ではないのが難しい。たしかに宗教政策は朝廷にもその権限がないわけではないし、幕府に宗教政策は一任されるべきだという上様の意見も最もだ。どちらにも正当性がある際、そしてどちらにも味方出来ない。こうした先例のない場合、あれがどうするか……」
「私の岐阜行きは、良い結果をもたらさない可能性が高いと?」
「いや、そんなことはなかろう」
武衛は続けて岐阜行きに関する助言をしました。
「ただ日乗上人のように言葉を飾るな。まして自分の正当性のためにそれをするなどもってのほか。自分の思いの丈を正直にぶつけてやれば、あれは悪いようにはしない。悪人ではないしな」
暗闇の中、か細い道を月明かりだけで歩くような不安感にとらわれていた私にとっては、大変励みになりました。
そのお礼というわけではありませんが、教会で提供するパンを差し上げたところ「欧州のコメか!」と言って大変お喜びになられました。
13個という個数には意味はありません。
ただ『たまたま』教会にあったのが13個というだけです。
「それにしても政権が変わるたびにこうですと、正直疲れます」
「何を言うか」
そう言いながら、武衛は瞬く間に3つ目のパンを胃袋に収めました。年の割に健啖家です。
「石山を見ろ。弾圧されるたびに本拠地を変え、勢力を拡大してきておる。日本では1千年以上の歴史を持つ仏教、その分派ですら、あの扱いだ。全く新しき教えであるというキリスト教が、たかが30年ほどでそう簡単に認められると思うのが間違いなのだ……不服そうな顔をしておるな」
「いえ、そのようなことは!」
「誤魔化さなくてもよいわ。正しい教えを正しい人間が正しく教えているのに、どうして正しく広まらないのとでも考えているのだろう」
腹の底からぞっと冷えたような気がしました。それはまさに今、自分が思っていた思いと一字一句同じであったからです。
武衛老人はパンを齧りながら言いました。
「この世には正しい人間も正しくない人間もいる。正しい人間というだけで反発するへそ曲がりもいれば、教えと聞くだけで耳を塞ぐ不信心な連中もいる。その逆に己が正義を貫ければ、今死んでもよいという人間もおる。明日の飯が食べれるかどうかわからぬ連中に教えを説いても無駄かもしれぬし、無駄でないかもしれぬ。だが……」
武衛は私の目を覗き込むようにして、わかりきった答えを聞くかのように尋ねました。
「それでも教えを説くのだろう?」
「いかにも」
16歳でイエズス会に入会して以来、私の信仰に基づく信念は変わったことはありません。私は老人の目を見て、胸を張って答えることが出来ました。
例えこの世の大部分が悪魔の手におち、迫害者として私を責め立てようとも、そこに1人でも信者がいるのであれば、彼らのために働く。明日この命が止まろうとも、止まるまで歩み続けることをやめはしない。神の子がそうしたように。
「ならばそれでよいではないか。明日がどうなるか、これからどうなるかと思いを巡らせるのも大事だ。過去を忘れたものはまた同じ過ちを繰り返す。そして今を大事にせぬものに明日は来ない。千里の道も一歩からというしの」
「一歩を踏み出さぬものに千里はたどり着けませんか」
「左様、わかっておるではないか」
私は武衛老人の忠告通り、岐阜において言葉を飾らず、ただ率直に信仰に対する思いを述べました。また幕府と織田の法にもしたがうとも。
織田信長は当初こそ「綸旨を優先すべきで、私が口を挟める問題ではない」と消極的でしたが、次第に我らの思いをくみ取っていただけたようで、最終的には在京の許可を得ることが出来ました。
*
この会見における印象深い出来事がもう1つあります。
私の差し出したパンのうち12個を食べ終え(手のひらより薄いぐらいのものとはいえ、食べきってしまわれるとは思いもしませんでした)、最後の1つ、つまり『13個目』に手を伸ばした武衛は、誰に言うとでもなしに仰られたのです。
「13か。私は誰にとっての裏切者になるのかの。神か、上様か、それとも織田三郎信長か」
はたしてこの言葉の真意とはなんだったのでしょう。
何故その時、私は何も尋ねなかったのか。今でも悔やまれてなりません……
*朝山日乗:松永の爺さんや、美濃を乗っ取った斎藤親子が可愛く思えるほど胡散臭い経歴。毛利領放浪中の銭の稼ぎ方は、どう考えても詐欺師のやり方。いつのまにか信長の側近に上り詰め、いつのまにか失脚していた。楠木正虎と同じ匂いがすると言ったら、流石に楠木に失礼か。全盛期の三好政権に正面から喧嘩売る度胸とか、論争に負けそうになったら力づくでという脳筋思考、私は嫌いじゃない。だけど胡散臭すぎる。反三好で名声が実像以上に膨れ上がり、その名声だけを聞いて信長が法的な顧問にして、使ってみて「アクが強すぎてだめだ」となったパターンかもしれない。無能ではないが、性格ゆえに損をして有能とも言い切れない中途半端な感じ。「肉体に宿りたるルシフェル」と罵倒したフロイスの気持ちは分からないでもない。子孫は九条家に仕えたというある意味勝ち組。




