足利将軍「かーいかいかい、改元するのは将軍様のお仕事だい」山科卿「は?お前それ主上の御前でも言えんの?」
勝てば官軍という言葉ほど、権力闘争の本質を言い表した表現もないだろう。
承久の乱(1221年)は、明らかに朝廷や院が「今の幕府を信頼せず」と不信任を突きつけたのにも関わらず、全国の多くの御家人はそれには従わなかった。大義名分でいえば明らかに京に分があったのにも関わらずだ。
要するに勝てばすべてが正当化され、欠点ですら愛嬌として許容される。理屈はあとから貨車でついてくると豪語した政治家もかつてはいた。
では負ければどうなるのか?
それこそ人格から能力から家族に至るまで、敗者に関わるすべてが否定される。
味方は敗戦の責任を押し付け合い、支援者は責任をとれと責め立て、権威が揺らいだ指導者の下、次を見据えた醜い主導権争いが始まる。美点はすべからく欠点とされ、擁護しようとするものはそれこそ背教者扱いだ。
*
幕府の「若狭」遠征軍は敗北した。
結果論ではあるが、遠征軍には軍事的被害はほとんど発生しなかった。
織田弾正大弼を含めた総大将や首脳陣は、先陣であった摂津分国守護の1人である伊丹氏を中心に、朝倉旧臣で越前内の先導役を務めていた幕臣の明智十兵衛、そして織田家の坂井親子や木下藤吉郎らをそのまま殿として脱出。
4万ほどいた幕府軍は、殿を務めた諸侯の兵にこそ、それなりの被害が発生したが、ほとんどそのまま京へと帰還を果たした。
軍勢を置き去りにする形となった織田弾正大弼は、松永霜台の先導で近江高島郡の朽木氏らの協力もあり、なんとか無事に帰還した。
そして帰郷した織田弾正大弼は、改元の知らせに「聞いていない!」と激怒した。
大体「俺は聞いていない」というのは「俺に事前に調整(挨拶)に来なかった」「俺を軽視するのか」という不満を言い換えたものである。組織の意思決定の際、何か文句をいう輩は、必ずと言っていいほどこの言葉を口にするものだ。
実際に組織の意思決定の過程で当該人物の承認が必要であるかと調べてみれば、大抵そんなものは存在しない。反主流派が声と存在感のデカさだけで喧伝していることも多い。
しかし織田弾正大弼のそれは、確かに幕閣でもないので法的には承認を得る必要はなかったかもしれないが、ある意味正当な怒りであった。
幕府を軍事力と財政面で事実上単独で支えているに等しい自分に、なんの断りもなく改元という大事をおこなうとは何事かというわけだ。
確かに事前に将軍からは「改元したい」という話はあった。
しかし信長としてはここ数年の上洛戦に始まり二条城建設や畿内平定戦による戦費などの臨時出費に苦しんでいた。未だ美濃の経営は軌道に乗っておらず、南近江では六角残党、伊勢攻めは終わったばかり。おまけにそのすべてに何らかの人材や資源を振り分けなければならない。少なくとも1年以上は臨時徴税など見込めるはずもなかった。
堺や本願寺に臨時の献金を強要し、半ば強奪するかのようにせしめた金はあったが、これとて右から左へと流れるばかり。これでは何か手元に残るはずもない。
それでも幕府再建のための「最後」の締めとなるはずの若狭征伐-事実上の朝倉攻めに大軍を派遣した(敗北したが)。そのうえ改元に関する諸費用まで負担しろというのか-無理とは言わなくても、少しは待っていただきたいというのが本音であったろう。
ところがほとんど単騎で京へと帰還した織田弾正大弼を待っていたのは、『永禄』から『元亀』へ改元されたという既成事実と、それにまつわる諸費用の朝廷からの請求書であった。
おまけに改元がなされたのは、自分たちが若狭・越前国内に出兵して戦塵にまみれている間である。
これではふざけるなと激怒するのも当然であろう。
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「まさか負けるとは思わんではないか!」
あまりにも甘い考えにも思えるが、たしかに将軍義昭のそれにも言い分はあった。
勝っていれば改元は幕府再興と将軍権威確立の象徴となっていたはずだ。それは遠征が終わる前でなくてはならない。
確かに金はないが、勝てば金はどこからでも引っ張ってくることはできる。上洛して以来、勝ち戦の毎に献金が舞い込むのを、義昭も幕臣達も見慣れていた。見慣れてしまっていたのだ。
それゆえ「今度も勝つだろう」「勝てば金が入ってくるので、改元の費用もなんとかなる」という安易な考えに流れていた点は否めない。
それを差し引いても、次のような思惑があったのも事実だ。
「確かに織田弾正大弼の幕府への貢献は認める。しかしそれとこれとは別の話だ」
「弾正大弼は怒るかもしれないが、そもそもこういう事態をさけるために在京しろとあれほど忠告していたのだ。何を今更」
「幕府は幕府で勝手にしろと言うから勝手にしたのだ。文句があるなら在京して話し合いの場に出席してからいえ」
「まあ、それでも勝てば機嫌もいいだろうし、適当なところで落としどころがつくだろう」
こうした意見が主導的となる中では、織田家との取次(交渉役)たる明智や、親織田派の実力者たる細川兵部大輔が若狭征伐に従軍している以上、斯波義銀がいくら慎重論を唱えても意味がなかった。
ところが幕府軍は敗北した。
当然金は入ってこない。
そして請求書はくる。
「困ったことになった」
義銀は頭を抱えたが、それ以上に将軍義昭は頭を抱えた。
調子の良い時はすべて良い方向に転がっていたのが、一度の敗北でこうも状況が変化するものか。
自分が政治の流れというものを、見誤っていたことは否めない。それは認めよう。
「だが、これからだ」
元来、楽観論者なところのある義昭は、前向きに考え直すことにした。
信長には悪いが「次」に勝てばいいのだ。
負けたのでこうなったのなら、次は勝てばよい。勝てばまた再び状況は好転する。では、その相手となるのはどこかといえば……少なくともかの家しかありえない。
室町幕府の正規軍と織田弾正大弼に弓を引き、4万もの大軍を全滅に追いやろうとした謀反人。
あれだけの好機でありながら、ろくな軍事的戦果もあげれなかった間抜けな浅井備前守が相手なら、軍事的勝利を得ることは「織田弾正大弼」では容易いことだろう。まして幕府の顔に泥を塗ったあの男を許しておけば、将軍の権威も何もあったものではない。
どちらにしても懲罰を加える必要はあるのだ。
「浅井備前守を討伐せよ!!」
またこの時、将軍義昭の再度の『独断』により朝廷に浅井備前守の官位停止が要請されたが、これがまた波紋を呼ぶことになるとは、この時の義昭は想像すらしていなかった。
そして一度の軍事的敗北は、一度の軍事的勝利では取り戻せないことにも気がつくことはなかった。
*
「おそらく出てくるでしょうなぁ。朝倉は」
「小谷に籠る可能性については如何ですかな」
「ないでしょう。今回ばかりは。どこかで大規模な合戦となるやもしれませぬ。腕が鳴りますな」
颯爽とした若武者でありながら、どこか土の臭いがする徳川三河守(家康)は、あくまで希望的観測ではなく予想されるであろう事柄だけを列挙した。
若いのに老成したような雰囲気もあるのは、幼少期に父を失い、織田に金で売られ今川駿府に引き取られてと苦労したからであろうかと斯波武衛はひとりごちる。土臭さを漂わせながら、一般的な三河武士のような粗野な雰囲気は感じられないのは、今川氏のもとで当時においては日本有数の学識と見識を兼ね備えた太原雪斎らから受けたからだろうか。
人付き合いがあまり得意とは言えない彼にとって、当時の駿府に滞在していた他家の有力子弟との交流は、政治的な財産ともなった。
閑話休題
徳川三河守が、世良田だか得川だか何だかよくわからない、新田源氏の子孫を自称して徳川にその姓を改めたのが数年前のこと(この時に知恵をつけたのが近衛太閤である)。宗家当主のみ徳川とし、あとの14だか15だかの庶流は松平姓のまま。これほどわかりやすい神格化の事例というのも、そうそうお目にかかれるものではない。
とはいえ確かに目の前の三河守の所作を見ていると、これならば三河武士が命をかけて当主のために戦おうというのも当然であろうと斯波武衛は感じていた。
「いかがですかな」
斯波武衛はそういうと、本来の用途である茶を注いだ茶碗を三河守に勧めた。
名のある名器というわけではない。茶色に焦げた、どこにでもありそうな飯茶碗にしかみえない代物であり、実際にそうである。
主人として客人を招いた斯波武衛は、あえてこれがどのような由来の茶碗であるかということは事前に説明はしなかった。
ただ、それで茶を立てたのが斯波武衛であるというだけのものである。
さてそれをどう受け取り、どう感じ、どう出るか。
武衛の視線に徳川三河守は少しだけ困ったように目を見開いたものの、特にためらった素振りも見せずに茶碗を両手で持ち上げると、そのまま口に運ぶ。
くいっと顎を開けて実にうまそうに飲み干すと、「うまいですな」といい笑顔を浮かべた。
「茶の湯の所作は得意ではありませぬ。なにか失礼がございましたら」
「いえ、私もさして茶には詳しいわけではありませぬのでな」
「そもそも茶は苦いので得意ではありませぬ」と女子供のようなことを老人の武衛が言うと、三河守はかんらかんらと笑い声を上げた。
「湯だけはたんと沸かしてありますが、いかがです」
「いただきましょう。口の中のそれを流し込みたいので」
これには武衛も笑って応じる。
茶巾で茶碗をぬぐい、沸き立つ鉄釜から道具を使って湯を再び茶碗に注ぐ。ただそれだけの所作ではあるが、流れるようなそれに家康は思わず見いっていた。
「朝倉征伐では、これといって得るものはございませんでしたな」
「戦で何か利益を得ようというのが、そもそも心得違いなのやもしれませぬ。生きて帰り、所領を守れたならそれだけでも十分と言えます」
「なるほど、さすがは三河守殿」
感じ入ったように何度も頷く斯波武衛。
清洲城に昨年管領を辞した老人が設けさせたという茶室は、精々が6畳ほどの狭いものである。そこに炉を設置してあるので、亭主を含めれば入れるのは精々が3、4人であろう。
近頃の都の流行りだというこの形式は、いかにも密談するためのものに感じられて家康の好みに合わなかった。外には警護の者が控えているのであろうが、今もこの部屋には自分と亭主たる斯波武衛の者はいない。かといって部屋が広く感じられることもない。
そうした家康の考えを知ってか知らずか、斯波武衛が口を開いた。
「三河守殿には金を使った道楽と馬鹿らしく感じられるやもしれませぬが、これも仕事なのです」
「仕事、ですか」
左様と、武衛は再び茶碗をこちらに滑らすように渡してから言った。
「身分や格式をあえて誇るつもりなどないが、お飾りでも管領なる職種を経験すると、人と会うことが仕事だ。都の流行りたるが茶の湯なら、それを学ぶ必要もある」
「そのようなものですか」
「あえて流行りに飛びつく軽薄と笑ってくれるなよ。確かにそうした面があるのも否定しないが、世間で何が評判となっているかということに無頓着では、情報収集に関心のないもの。つまり政治的な弱者と受け取られかねない」
「なるほど、そう言う意味ならわかります」と家康は頷いて湯を啜った。
熱い。だが、どこか安心する味だ。沸かしただけの水など、どこで飲んでも同じだと思っていたが……
「確かに。戦で相手の情報を知らぬものが、相手に勝つ道理などない」
「そこで戦に例えられるのが、三河守殿らしいですな」
揶揄しているわけではありませぬと、武衛が胸の前で片手を振る。
「戦の形態も様々だ。戦場での戦、畳の上での戦、銭の戦、百姓の戦、坊主の戦、公家の戦……万人の万人による戦いとも言えるほど、多くの戦いがある」
「誰かと競わずに何かを得られることなどありません」
三河守自身、織田家への援軍として上洛して以来、各地を転戦しながら、東においては旧主たる駿河今川氏を甲斐武田氏と共同で攻めたて、昨年には三河と遠江2カ国を領有するようになった。妻の実家たる相模小田原へと政治亡命した今川氏は、大名としては滅亡したことになる。
そして越前朝倉攻めで撤退したのち、再度浅井攻めのための軍勢を自ら率いて向かう途上、清洲に立ち寄った。あえて立ち寄ったのには、当然ながら理由がある。
「先日の話。考えていただけましたかな」
斯波武衛がそう唐突に切り出すと、三河守は一瞬だけ手を止め、そして困惑の色を浮かべた。
「義虎殿ですか。確かに徳川にはおらぬ人材ではありますな。かつてその御父上が先代斯波武衛様の遠江遠征に出陣されたこともあるようですし……」
斯波義虎は武衛一族であり、先代義達の従兄弟である。その父は遠江守護代として二俣城主であり、彼個人も些かなりとも遠江の国人とは関係が続いている。
今年59歳となる老人で、どう控えめに考えても戦場での働きは難しい。ただ旧守護家の一族として有職故実については一通り身についている。上洛に同行してからは武衛の指示で伊勢氏のそれを学んで一通り習得し、伊勢宗家からお墨付きを得ていた。
徳川家はこれから格式の高い今川氏旧臣を心服させ、東西にわけた三河武士を統制していかなければならない。まさに徳川三河守が求めている存在だ。
同時に彼が躊躇うのは、義虎が斯波武衛という同盟者の織田弾正大弼の主家筋につながる人物だという一点につきた。
「織田弾正大弼殿の許可は得ておりますよ。ぞろぞろ斯波一族が尾張国内にいては、かの人も落ち着かんだろうし」
「しかし、何故武衛様は」
「お家存続のためです」
武衛ははっきりとその目的を告げた。
「本来、我が武衛家は遠江遠征の失敗で滅亡していてもおかしくはなかった。それを尾張国内の政局に便乗かたちで、命脈を繋いできたに過ぎないことは、この私自身が誰よりも理解している。実際、その後も何度か用無しのお役御免となりかけたものの、どうにかこうにか生き延びる事が出来た」
「領土もなく、家臣も数える程となり、それでもまだ長らえている」と武衛はいう。
「このように零落したからといって、命を粗末にするつもりもない。先祖から伝えられたこの血を、次へとつなぐ使命がある故にな」
「御子息を『家臣』として織田氏のもとへ仕えさせたのも?」
「左様。そして三河守殿に一族を預けることをお願いしているのもその一つ。誰か一人でも後世に血を繋いでくれれば、それが私の、武衛家としての勝利といえる」
「……なるほど、よくわかりました」
しばらく黙り込んだ後、徳川三河守は膝を叩き「お引き受けいたしましょう」と受諾の意を伝えた。
長く苦しい今川支配の中、三河武士の犠牲と献身、そして歴代松平当主が文字通り血を繋いでくれたからこそ2カ国の太守として上り詰めた彼には何か感じるところがあったらしい。
その返答に安堵したのか、ほうっとため息を漏らした斯波武衛は、両手を二度打ち鳴らす。
静かに障子が動き、入室してきた近習毛利十郎の持つ黒塗りの盆には、湯気の立つ米の結びが2つずつ、皿に乗せられていた。
「いや、うわさ通りに美味いですな」と家康が早々にひとつ目を食べ終え2つ目にかぶりついていると、それよりも早く食べ終えていた斯波武衛が「どうせろくな噂ではなかろう」と苦笑した。
「いやいや、そんなことはありません」
「噂の真偽はともかく、私とて遠慮というものはある。さすがにこれ以上は織田弾正大弼に悪いからな」
「といいますと?」
首をかしげる徳川三河守に、斯波武衛は笑いながら言った。
「無駄飯ぐらいは、私だけで十分だ」
*
翌日、徳川三河守は清洲を出立。付き従う家臣団の中には、斯波義虎の姿もあった。
後に彼の紹介により旧幕臣の伊勢空斎(貞為)が徳川家に仕え、七転八倒の苦しみを味わいながら伊勢流の有職故実を三河武士に叩き込むこととなるのだが、それはまた別の話である。
斯波義虎「小さい時にいじめられたからといって、降伏した相手を正当な理由もなく腹いせに切腹させてはいけません!そのあとずっと言われ続けますよ!」
伊勢貞為「人質の家の前に、薪を縛って並べてはいけません!偉い人に怒られて、将来大名になり損ねますよ!」




