足利将軍「馬鹿もん!幕府を吹っ飛ばす気か!!(カチン)…あ?もしもしもしもし!?おい!どしたっ!?!?」
ほう・れん・そう-報告・連絡・相談の略語である。
報告は部下が上司の指示の途中経過を報告すること。
連絡は上司や同僚、部下に交渉相手などこの仕事に関わる関係者へ、自分の意見や憶測を含めない現状の報告をすること。
相談は自らに与えられた権限以上の判断が必要な際に、上司に判断を仰ぐこと。
組織として何か事業に取り組むならどれもこれも当たり前のことであるが、その当たり前のことすら出来ていない組織や人間の如何に多いかということは、表現の違いこそあれど、人類が文明と呼ばれるものを形成しだしてから飽きることなく警告され続けていることからもわかる。
通信に劇的な改善をもたらしたサミュエル・モースやアレクサンダー・グラハム・ベルの発明以前、遠方との通信(意思の伝達)手段は限られていた。
嘘か真か、ワーテルローの戦い(1815)の結果を伝書鳩で知った欧州の富豪がインサイダー取引で大もうけしたという逸話が伝えられているように、その方法は犬や馬、または鳥といった動物を使うか、船を使うか、もしくは人の足しかなかったのだ。狼煙もこれに加えていいかもしれない。
当たり前ではあるが、情報の伝達とは送り手から受け手への一方的なものばかりではない。受け手がその内容に疑問を持てば、もしくは自らの権限以上の判断が必要と判断した場合には、送り手にそれを訪ねる必要がある。
すなわちその瞬間に送り手と受け手が今度は逆転する。
人か馬か船か、これで都合4回のやり取りとなる。距離や仕事の内容如何では、すでに大きく状況が変化している可能性すらある。それからまた判断を仰ぎ直せば……
何とも気の遠くなるような話であるが、中世における合戦が、どこか現代の感覚からは長閑に思えるのは、こうした情報伝達手段の違いによることが大きいのかもしれない。
古代から中世、そして近代という歴史学の3段階区分に、つまり中世と近代の間に「近世」という時代区分を最初に提唱したのは日本人だという話もあるが、今はそれは問題ではない。
近世とはすなわち武家による統一政権が特徴であるという。
そして室町幕府は、当事者たちの認識はともかくとして、どこまでも「中世」的な統一政権であった。
中世が終わり、近世が始まろうとしているまさに今。古い組織が新しい組織を取り込み、なんとか生き延びようともがき続けている。
その努力、あるいは悪あがきを笑うのは簡単だが、組織も結局は人の集まりだ。13代将軍のように座して死ぬことを受け入れる潔いものばかりが人間ではない。まして彼ですら最後まで生きることを諦めなかったのだ。
その政治的な後継者たるを自任している足利義昭が、自ら何かを諦める選択をするということは、侍所頭人の斯波義銀にはどうしても考えられなかった。それが意味するところまでは理解してはいなかったが。
*
「伊勢までは遠いですね」
法体姿の伊勢空斎が湯冷ましを啜りながら言うと、斯波義銀と三淵大和守(藤英)も頷いた。
空斎は僧のなりをしているとはいえ、まだ10歳である。正直なところ小間使いの小坊主にしかみえない。子供に遠慮して湯冷ましを含む二人とは対照的に、村井長門守(貞勝)だけは、酒を手酌で飲んでいる。
幕府側と織田家の実務者による情報交換の場であるとすれば聞こえはいいが、実際にはそのような大したものではない。上京の二条城に隣接するように建設された武衛屋敷において、この4人は何をするとでもなしに時間をつぶしていた。
「京から美濃岐阜まではおよそ4、5日。そこから伊勢大河内まで4、5日。都合10日ほどでしたか。多少急いでも2、3日しか短縮しませんね」
「空斎殿の仰る通り。近江甲賀は六角残党のために使えない今、どう急いでもそれくらいは必要となる」
「だからと言って戦場は待ってはくれない」
そう義銀が発言すると、先の2人も頷いた。相変わらず長門守は酒を啜って黙して語らない。
織田と北畠の和睦の仲裁を依頼された将軍義昭は、自らの意見が届く前に和睦がなったという状況に酷く気分を害した。しかし実際の和睦の内容そのものには、それほど興味を示さなかったという。そもそも旧南朝勢力がどうなろうと、足利大樹にとってはどうでもよかったのだ。
では何を問題にしていたかといえば、自らの意見を両者が聞く前に、もしくはそのように見える形で和睦がなったという点が不快なのだと義銀は語る。
「諸侯や守護の仲裁をしてこそ、上様の権威は認められる。それはわかるのだが」
「だから織田弾正大弼殿が在京さえしておれば、このような事態は避けられたのだ」
「いや、大和守殿。それでは南伊勢攻略に最低でも、もうあと1月以上は間違いなく掛かったことになりますぞ?上様が伊勢の攻略を早く終わらせよという内意に反することにもなりかねません。それを考えれば今回の和睦は、最も上意に適うものであったと私は考えます」
「若武衛(義銀)殿。ならば最初から在京しておけばよいというのが上様のお考えなのだ」
議論の土台から否定する大和守に、義銀も顔を顰める。
「領国はそれこそ守護代か家老にまかせて、当主は京におれば上様との連絡もすぐに出来る。何より
織田弾正殿が在京していただければ、都の守りも万全となる」
「しかしそれで政権が崩壊した大内や三好の二の舞になっては意味がないでしょう」
「だからと言って、このままでは幕府の中に2つの頭が存在することにもなりかねぬ。それに先の畿内平定では在京しながら各地の軍勢を指揮出来たではないか」
三淵大和守の指摘に、義銀は低く唸って腕を組んだ。
結局のところ何が問題なのかといえば、将軍(京)と織田弾正大弼(美濃)の意思疎通に一定の時間が必要となる地理的な距離そのものが問題なのだ。こればかりは翼の生えた馬でもない限り、解消される問題ではない。
「上様とて、本圀寺襲撃を受けた再度の上洛で、今度こそ織田弾正大弼は在京してくれるものだと思っておられたのだ。だからこそ殿中御掟9か条も受け入れられた」
「そんなことをいまさらおっしゃられても」
「少し私の話を聞いて頂きたい。しかしあれとて織田弾正大弼が在京でないと、ほとんど意味のないことばかりなのだ」
殿中御掟は織田弾正大弼が将軍義昭に「要請」し、将軍がこれを受け入れた。早い話が「幕府はこれからこうやって運営していきましょうね」「うん、それでいこう」という、内外に対する所信表明のようなものである。
「最初の9条のうち『各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事』とある。幕臣は勝手に織田弾正大弼の許可なく朝廷に行くな。その目的もわかるし、必要だと私も考える」
「ではその肝心の織田弾正大弼はどこにおる」と大和守が、村井長門守に視線を向ける。
「……幕臣と朝廷とのやり取りで、そのように一刻を争う問題は多くはございますまい」
「確かにそうだ。しかし家督相続など緊急を要する場合もある。何より追加の5条はどうなのだ?」
当初の9条で書ききれなかった部分、あるいは必要な補足であると判断して追加したのが追加5条である。当然ながら将軍と在京していた信長の間で緊密な連絡を交わし、合意の上に出されたものだ。
「御内書(将軍の書状)に弾正大弼の書状が必要であること、上様が恩賞を与える際には、弾正大弼がその所領から出すので相談しろ、上様は「御父上」たる織田弾正大弼を信用しているので、ある程度の独自での政策判断を認める。別に問題はないだろう」
「弾正大弼が在京しておればなの話だがな」と再び繰り返す大和守。
将軍権力が頂点であったとされる鹿苑院(足利義満)時代の、細川頼之、斯波勘解由小路(義将)ですら、管領として将軍に諮ることなく独自の裁量である程度の判断をおこなっていた。先の「半将軍」こと細川政元などは管領ですらないのに、将軍の首を挿げ替え、幕府を牛耳っていたほどだ。
そうした前例もあり、織田信長に独自の判断をある程度認めるという義昭の方針は、室町歴代と比較してもそれほど突飛な判断ではない。
では何が異例かといえば
「在京しない実力者など、前代未聞だ」
顔を顰める大和守に、空斎少年が「半将軍ですら在京していたそうです」と付け加えた。子供が背伸びしているかのような話しぶりにも思えるが、その目には確かな知性が宿っている。人の言葉ではない自分の言葉で話している証左だ。
「仮にだ。これから幕府で何か重要な決定をしたとして、それを美濃岐阜まで使者を飛ばし、2週間ほどして返答を待ち、その上で拒絶されたらどうなる?その回答を待つ間、幕政は止まる。どこに将軍の権威がある?」
三淵大和守が今度は正面から村井長門守を見据えた。
「宮中儀式に将軍家が取り組むべきだというのはわかる。実際にその通りであるしな。しかしこれでは、それ以外するなとしか受け取れぬ」
「そのようなことはありえません」
「ではもっと実務的な話をしよう。美濃岐阜にあり、どうして都の政務を取り仕切れる?織田弾正大弼が政務を取り仕切ること自体はそれでいい。しかし織田は自らの不在が領国を不安定化させるというが、都の実務とて日々様々な問題を抱えておる」
それを言われると「織田雑掌」の村井長門守としては反論の術がない。
「そもそも長門守殿の権限は何じゃ?弾正大弼の代理として、どこまで判断する権限を委譲されておる。都の政治的な問題は代理人任せでよいと考えているのかと、幕臣の間でも不満の種となっておる。意図的に対立や亀裂を煽るつもりはないが、そのような不満が出ていることは岐阜にも正確に伝えて頂きたいのだ」
無言で黙り込む長門守に、今度は伊勢空斎が言葉を重ねて言う。
「幕府の伝統として守護の在京を義務付けていたのは、何も国許の軍事力と切り離すためばかりではありません。守護あっての大樹、大樹あっての守護。そして幕府あっての朝廷。独断で物事を決めず、幕政は何事も相談しながら落とし処を決めていくという政治上の知恵でもありました」
「南北に分かたれた朝廷の権威を高めるためにもそれしかなかっともいえます」と空斎は剃り上げた頭をなでた。
3代将軍の時代まで皇統が大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)にわかれていたこともあり、公武の無用な政治的争いを避けるために京に幕府を置き、朝廷との連絡を密にした。そして公卿にも幕政への一定の発言を許し、有力守護や将軍を公卿とすることで朝議への参加も可能とする。
こうして様々な政治勢力が苦慮しながら政治的安定性を確保しようとしていた。
「幕府は上意下達の組織ではない。弾正大弼殿もそれはわかっている」
「わかっているからこそ、もどかしいのだろう」
事実上、織田弾正大弼の代弁者のように義銀は答えた。永禄2年(1559)の上洛に同行して以来、義銀はそれなりに信長個人と親しくしている。少なくとも義銀はそう考えている。
「弾正大弼殿は、自分の考えを人に軽々に話されたりはしない。考えがないわけではないが、それを自分の中で深く推敲して練られる気質でもある。頭の回転が早いだけに、その速度は常人の及ぶところではない。ただ人にも自分にも、親しくあろうとなかろうと相手に求める仕事の質が極めて高いという難点はあるが」
これに深く何度も頷く村井長門守に、「上様とは真逆じゃの」と大和守が付け加えた。
「上様は好意を示してくれた人にはきわめて甘いところがある。そしてとにかく話したがりだ。聞くのも見るのも話すのも好きと来ている。秘密が保てるかというと、それは危うい」
「それゆえ妙な人間を入れるなと、殿中御掟にもあったのですね」
「空斎殿」
伊勢空斎が頷くと、13代の時代を知る大和守は首を振った。
「おぬしは知らぬだろうが、永禄の変のあとの幕府の組織というものがガタガタだったのも事実なのだ。三好派と反三好派に分裂し、三好派がさらに分裂。欠員があるのも当たり前という状況では、怪しげな人間であろうとも仕事を任せざるを得なかった。だからある程度はやむを得ぬことであったのだ」
永禄の変という単語が出た途端、空斎少年は年相応にわかりやすく顔を顰めた。
彼は出家する前は貞為と名乗り、政所執事を世襲した伊勢氏の当主であった。13代に祖父と父がそろって討伐され、4歳で家臣に背負われ各地を放浪。これを打倒した三好三人衆に、幕臣取り込みのために伊勢再興をもって誘われ、これに参加した。
この場合、貞為自身の年齢は問題ではない。伊勢の家臣団の取り込みが重要課題だったのだ。
貞為が政所執事となった14代政権がどうなったのかは、今更語るまでもない。再び伊勢氏は追われる身となり、当代の大樹は13代に任命された摂津晴門を政所執事に、周辺の猛反対を押し切って任命した。
「摂津掃部頭(晴門)は、体調が優れぬようですな」
村井長門守が何気なしに語ると、2人の顔が強張り、空斎だけは神妙な顔つきとなった。
「上様は摂津掃部頭の忠義に報いたいのでしょう。13代様と共に戦死された糸千代丸殿のこともあります。さほど長くはないのなら、最後の摂津家当主として花道を飾ってやろうとお考えなのでは?」
「気持ちはわかる。私とて同僚だったからな。十分にわかるのだが」
三淵大和守は溜息を漏らした。
伊勢氏の世襲である政所執事は幕府財政と所領に関わる裁判を取り扱う。現在でたとえるならば国税庁と主計局、そして民事裁判所を兼任しているといえばいいだろうか。
所領の裁判は、まさに武家の棟梁たる征夷大将軍にとって一丁目一番地の重要な役職である。それを忠義に報いるためとはいえ、経験の浅い病身の老人に、それも新政権発足直後と言う最も重要な時期に任せるのはどうなのか。
「経験のない人間に政所執事は務まりますまい」
そう言うと村井長門守は「今の伊勢氏当主に経験ある人材がいますかな」と伊勢空斎に水を向ける。少年僧は「私の弟はともかく、その下には優秀な家臣が揃っております」とだけ答えた。
14代の政権に参加した貞為は政治的責任を取るために退き、弟の貞興が家督を相続した。
しかしまだ7歳である。
「身内贔屓ではありますが、勉強熱心です。あと10年もすれば使える男になるでしょう」
10歳になったばかりの彼が10年後のことを口にする。剃りあげた頭がまだ青い少年の言葉を嗤う人間は、少なくともこの場には誰もいなかった。
「不謹慎ではありますが、それまで摂津掃部頭の……」
さすがに義銀もそれ以上は言葉にすることは憚られた。今日も摂津掃部頭とは二条城で顔を合わせたばかりである。将軍の評価に報いんとして老人は病の身の上で必死に職務に取り組んでいた。
それを思えば、軽々に酒の入るような場所で語る話ではない。
「しかし想定しておく必要はある」と、村井長門守だけが心の中で続けた。
*
永禄13年(1970)正月。
ついに朝倉氏からの使者が上洛することはなかった。
「もう堪忍せぬ!朝倉攻めじゃ!!!」
二条城に集まった諸侯を前に、顔を真っ赤にした将軍足利義昭の怒声が響いた。




