斯波武衛「あんたが太閤!(あんたが太閤)あんたが太閤!(あんたが太閤)」近衛太閤「イヤミか貴様ッッッ」
大阪はかつて大坂といった。
文字通りの意味で、大きな坂であり、この坂はあえて誤解を恐れずに断言するなら、上町台地のことである。
何故、難波宮の跡地と、大坂城-今は浄土真宗本願寺派の本山である石山御坊が摂津東成郡の上町台地の北端あたりに位置していたかといえば、理由は簡単である。
太古、大坂平野は上町台地を除いて海の底であったからだ。
河内湾ともよばれるそれは、上町台地がちょうど突き出た堤防のようになっており、その北端には古代から港がおかれていた。それゆえこの地に難波宮が設置されたわけである。
時代が下り、河内湾が堆積物や海面水位の低下により平野になった後も、東成郡は近隣を流れる河川、とくに淡海(琵琶湖)から京-そして大坂湾へとつながる淀川水系の下流における拠点として大いに栄えた。
古代から(あるいは現代においても)水上交通が最も簡単に、かつ大量に物資を安定的に輸送出来る手段であることは論を待たない。当然といえば当然であるのだが今のようなコンテナも港湾設備もないため、積み替えは人力頼みなのだが、港町は常に人にあふれ、喧騒と活気に満ちていた。またそうした人夫を相手とした宿泊施設から娯楽まで大いに栄えた。
人の集まるところに秩序が必要なのはいうまでもない。
そして地縁や血縁に寄らない集団においては、宗教団体の影響力というものを抜きにして何かを語ることは不可能と言ってもよい。彼らは「平等」と「秩序」という相反するものを同時に保障することが可能な組織であった。
その集団に所属すれば神、あるいは仏の前では平等という建前なので、よほどの身分差でもない限り目くじらを立てられることもない。
やむをえない理由、もしくは自ら進んで出身を捨てた無宿人や経済的困窮者にとっては、まさに極楽のような環境といえよう。
*
前の関白・藤氏長者である近衛前久は、石山御坊に設けられた自らの屋敷において呟いた。
「人が集まるから信仰が求められるのか、信仰があるから人が集まるのか。どちらが先かのう」
対面して座る前管領の斯波武衛に話しかけているようだが、近衛太閤の視線は武衛の背後で開け放たれ障子のほうへと向けられている。そのため独り言を言っているかのようにも思える。
「信仰と秩序が結びつくのが厄介という考え方も、出来るのではございませんかな?」
「秩序なき信仰など、ただの狂信でしかないわ。物狂いと何も変わらん」
永禄12年(1569年)9月のこの時。前管領たる斯波武衛は56歳、太閤たる近衛前久は33歳。
近衛のそれは2周りほども年齢の上の人物に対する言葉遣いではないが、身分の差というものは、それ以外のすべてを超越する絶対の秩序だ。
斯波武衛自身、それだけを政治的な武器として織田弾正大弼と渡り合っているのだから、不満を言えた義理でもない。
「意気消沈しておられるかと案じておりましたが、お元気そうで何よりです」
「武衛殿にも心配をかけたようじゃが、お生憎様での。晴良めをこの手で引き摺り下ろしてやるまでは、おちおち病気にもなれぬでな」
「健康でなければ藤氏長者に返り咲くことが難しくなるからの」と前久は傲然と胸を張って述べた。
現関白である二条晴良は前久より10ほども年長ではあるが、政敵にわざわざ敬称をつけるほど前久という人物は回りくどい性格をしてはいない。好悪の感情を素直に表現するあたり、たしかに公卿らしからぬ人物ではある。
なるほど、これでは敵が多いわけだと斯波武衛は得心した。
近衛太閤は渋々といった具合に視線を武衛とあわせると、見た目どおりのぶっきらぼうな口調で尋ねた。
「上人殿(浄土真宗本願寺派第11世宗主の顕如)とは会ってきたのか?」
「先ほどお会いしてきました。私的な訪問にもかかわらず、大変良くして頂きました」
「私などより、よほど公卿らしい立ち居振る舞いだろう?」
「上人様の見識の高さに感服した次第でして」
否定も肯定もしない武衛の返答に、太閤は不満げに鼻を鳴らす。
「坊官である下間なんぞは、どいつもこいつも堺の大店の主人よりも、よほどそれらしい顔つきをしておるからの。商才とて劣らぬだろうて」
「これだけの大きな組織です。維持運営していくためには多種多様な人材が求められているのでしょう。無論、それらすべてを受け入れられる上人様の度量と人望あってのことでしょうが」
「末端までの統制が出来ておればの話だがな」
「信徒の数で本願寺を上回る組織はいくつかございますが、本願寺ほど組織化され、統制されたものはないと愚考しますが」
「そのために摂関家や細川京兆(管領家)、三好の歴代当主がいったいどれだけ苦労したと思っておるのだ」
太閤は忌々しげな口調で恨み言を述べるように語る。
急速に拡大した宗教団体が組織防衛のために政治勢力化する、もしくはせざるを得ないというのは、どの時代でもどの国でもよく見られた話だ。
本願寺もその例に漏れない。
一代の傑物たる蓮如(1415-99)の時に急速に勢力を拡大した本願寺は、それ故に既存の宗教団体や世俗の権力者に警戒され、弾圧と流浪を繰り返した。今の石山に移ったのも、京を追放された結果である。
本願寺も政治を利用して自分達を守ろうとしたが、その試みは成功したとは言いがたい。
幕府管領たる細川京兆家を中心とした幕府内部の対立に借り出され、功績を立てる。すると今度は恐れられ、一転弾圧の対称に。戦場で戦った信徒は過激化し、それが再度の弾圧を生むという悪循環が幾度となく繰り返された。
そのため本願寺はきわめて政治に神経質となり、政治に関わる事を避けるようになった。
そして末端の信仰を履き違えた暴徒を統制するためにも既存の権威に結びつくことで、それも宗教的権威だけではなく世俗的権威を獲得しようとした。
「信徒と一口にいっても、農民から商人、町でうろつく無宿人から武士に坊主と様々だ。集団ともなれば尚の事。故にわかりやすい権威というものは、いつの時代も重宝される」
近衛太閤が指摘する通り、本願寺は婚姻による閨閥作りによって既得権益層と融和しようとした。信仰の世界に特化すればよいという意見もあるだろうが、それでは多くの俗世に属する信徒の集団を、俗世の権威から守ることは不可能だ。
当代の顕如上人の母は、九条禅閤(九条稙通)の猶子(家督相続権のない養子)。六角氏の猶子である妻の実父は三条公頼。そして妻の姉が正室として嫁いだのが甲斐武田家の信玄入道である。
甲斐武田を除けば、ここ数年の本願寺の政治的立ち居地がわかろうというものだ。
すなわち摂関家では二条-九条連合、幕府においては細川京兆(≒三好)に属していた。
細川京兆家との関係は味方かと思えば敵となり、また味方……とめまぐるしく関係が変わっているので一概にこの陣営所属であると断言出来ないが、基本的には京の法華一揆が所属した勢力の敵対者につくことでは一貫していた。
永禄の変までは【二条-九条連合+三好と六角の同盟】+石山本願寺、これに対抗する【近衛と足利将軍家】+『本圀寺』を中心とした法華一揆というのが基本的な対立構造であった。
これが13代将軍暗殺の後には【二条-九条と足利義昭】、これに対する【近衛と足利義栄+三好三人衆】+本願寺という構造に変化した。上洛した将軍義昭の臨時の御所に本圀寺が選ばれ、追放された近衛太閤を本願寺が受けいれた背景でもある。
政治亡命を受け入れてもらった立場にもかかわらず、近衛太閤はこれ見よがしに嘆いて見せた。
「相手を論難することでしか、自らの宗教的正しさを証明出来ないとはの」
よりにもよって石山本願寺の中という危険極まりない場所における発言なのだが、聞き方ひとつでどうとでも受け取れる。キリシタン批判にも聞こえるし、法華宗批判にも、叡山批判にも、三井寺批判にも、また本願寺批判にも受け取れなくはない。
「相手とここが違う、こちらにはこのような利点があるが相手はあそこが駄目だ。このような具合に差異を強調するのは、商品を売るにしても布教するにしても、一番簡単なやり方ではありますな」
「言の葉を武器にすべき宗教家として、そういう時期があっても悪いとはいわぬが、いつまでも現状を改めようとしないのであれば、それは堕落であろう」
どうにもこうにも太閤殿下は大した理想家らしいと、武衛は内心で漏らした。それも現状を認識せずに語る夢想家ではなく、確かな現状分析の上に自らの理想に向けて現実を近づける努力を惜しまないという、きわめて厄介な部類の手合いだ。
越後と関東に自らの「義」を問い続けている上杉弾正少弼と馬が合うというのも、何か両者の間で共鳴するものがあったからだろう。
「大樹はご健勝かの?」
「ええ。何事もなく」と武衛が言い終わるよりも前に、近衛太閤は、よくもまあそんな音が出るものだと逆に感心してしまうほどの大きな舌打ちをした。
*
管領を辞した斯波武衛が摂津石山まで赴いて近衛太閤に面会した理由は、直接的に近衛太閤の帰洛を要請するためだ。
これは斯波武衛の判断によるものではなく、山科卿ら朝廷の一部公卿から要請されたためである。
現在の朝廷において、将軍義昭と盟約を組んだ関白二条晴良の権威は揺らぐ前兆すら見つけられない。しかし二条-九条の連合に加わらない派閥からすれば、いつまでも二条一強時代が続くのは面白くない。
そこで対抗馬として期待されたのが近衛である。
太閤自身の復権は難しくとも、その嫡子はまだ4歳。二条関白の実子で、その後継と目される九条兼孝は16歳。次は無理でも、次の次ならば可能性は十分にある年齢といえる。
そこで山科卿らは「太閤が出家し、謹慎することで近衛家の次期当主を将来的に朝廷の要職につける」案を練り上げたものの、肝心の近衛太閤が首を縦に振らない。そこで依頼を受けた斯波武衛が内密に説得役を引き受けた。
この計画は当然ながら将軍には内密で進められた。近衛太閤に負けず劣らず好悪の情が激しい大樹に相談すれば、どうなるかは火を見るより明らか。なにより二条関白が将来的な脅威を見過ごすわけがない。
それゆえ斯波武衛は管領を辞して自由の身となってから、わざわざ「石山見物」と言う名目で訪れている。
しばらくぷいっと横を向いていた太閤であったが、急に立ち上がると「ちょっと来てくれ」と武衛を誘った。
*
「これは、これは……」
斯波武衛は目の前に広がる光景に、思わず息を呑んだ。
案内された部屋は屋敷の3階であり、城壁の物見櫓と同じ高さであった。その窓からは、石山御坊の隅々まで-とはいかなくても、かなり遠くまで見渡すことが出来た。
それも半里ほども先となると、人の頭が黒米のごとく小さくなって見えた。活気にあふれた罵声交じりの声が飛び交い、あちらこちらから飯炊きと思われる煙が何十本も上っているのを数えられる。
「よい景色じゃろう?」
「誠に」
言葉を取り繕う必要などなかった。
人が生きて生活している。ただそれだけの光景が、なんと尊く美しいことか。
「私は、これを息子に見せてやりたい」
関白の視線は、そのまま表の景色へと向けられていた。
「ここだけではない。可能であれば日本全国のあらゆる土地の、こうした景色を見せてやりたい」
「京においてもこのような光景は珍しくはないでしょう。これから京は安定し、煙の数も増えていくはずです。その意義を御子息に伝えるのでは駄目なのですか?」
しばらく黙り込んだ後、太閤は「……私は4つの年に元服してな」と、自らのことを話し始めた。
「5歳で公卿に列した。11歳で内大臣、17歳で右大臣、18歳で関白左大臣、藤氏長者に上り詰めた。近衛の家名と足利将軍の力でな。それが嫌で名前を変えたりもした」
「所詮は井の中の蛙であったのだが」と自重する太閤の横顔が、斯波武衛には年齢以上に老けて見えた。
「面白くない気持ちを抱えているうちに、越後から妙な男がやってきてな。三好筑前(長慶)の全盛期に、たかだか5千の兵で上洛してきて、希望とあれば筑前を討ちますと大樹に大言した。追従かと思えば、これが本気でな。出来るから出来ると言ったのだと、そう言わんばかりの顔をしておった」
いかにも楽しそうに思い出を語る近衛太閤。実際に愉快な経験であり、記憶であったのだろう。
太閤の独白はなおも続く。
「一緒に越後に来ませんかと誘われた。嬉しかったの。近衛の家名でなく私を評価してくれたのだからな」
越後から三国を越えて、武家政権発祥の地である関東。鎌倉に小田原、そして関宿。
武家の真似事もしたと太閤は言う。
「自分の矮小さを思い知らされた旅であった。坂東太郎(利根川)がどこまでも続いて流れる様、小田原の町を含めた巨大な城郭、京以上に寂れた鎌倉の有様……知っておるかの?越後では毎年5尺(約180センチ)どころではない雪が積もるのだぞ?」
そして、そのすべてに人の営みがあった。
「それ故に主上の尊さを、改めて痛感した。多くの人は主上の存在など、認識してはいても意識せずに日々の生活に追われていた。しかし主上は違う。つねに全ての民のことを憂慮され、日々の神事に臨んでおられる。何一つとして疎かにされたことなどない」
「人として……あぁいや、そういう意味ではないのだがとにかく、これほどまでに尊くすばらしいあり方があるのかと!私はお側に仕えていながら、何もわかってはいなかった!何もだ!何も!!」
太閤の張り上げた声に本願寺の者が驚いて駆け寄ってくるが、斯波武衛が手を振って下がらせる。
それでも尚声を震わせ、両の手を握り締めて、理想主義者である太閤は力説し続けた。
「もうすぐ乱世は終わるだろう」
突然、太閤はそう静かに宣言した。
「わかるのだ、なんとなくだがな……いや、本当は皆が理解しているのだ。日ノ本の誰もが戦に飽きておることをな。それを終わらせるのが誰かは-私の口からは言わぬ」
摂家筆頭の当主でありながら既存の秩序や現状の体制を否定し、それを肯定するかのようなことを近衛太閤は口にした。
「だからこそ私は息子に、朝廷の-都の中だけの感覚で政を語って欲しくはないのだ」
「おそらく息子は私を恨むだろう」と太閤は4歳にも満たない自らの息子について語った。
「因果な商売は数あれど、摂関家というのも狭い世界だけに、能や雅楽よりも、ある意味厳しい世界だ。長じてから入れば、おそらく価値観の違いで孤立することもあるだろう。近衛のお家自体が危うくなるやもしれぬ……それでもだ!これからの朝議の場には必要なのだ!自らの目で見て、自らの耳で聞き、自らの足で歩き、自らの手で触れ、そしてその経験から民草のことを、自らの言葉で語れる人間が!!」
「乱世の終わりだからこそ必要とされる日が、必ず来る!」
そこまで言い切ってから、近衛太閤はふとわれに返ったのか「いや、すまん」と気恥ずかしげに烏帽子を脱いでから汗を拭いた。
それは先ほどまでのとりすました雰囲気と異なり、いかにも好感が持てる表情に斯波武衛には感じられた。
「恨まれますでしょうな」
「わしも亡き父をずいぶんと泣かせてきたものだ。乗り越えてこその親だろう。覚悟の上である」
息子との感情的な対立も辞さないとする太閤の、朝廷の将来まで見据えた上での判断だと吼えた決意の大きさを前にすれば、言葉は悪いが山科卿らの「保身」のための策謀を語ることすら失礼であろう。そう結論付けた斯波武衛は、これ以上の説得をあきらめた。
*
これ以上は何をいっても意味がなかろうと武衛が見切りをつけたのを察したのか、太閤自らが別の話題を振ってきた。
「織田弾正大弼の伊勢攻めは、上手くいかんようだの」
「むしろ上落の際の六角攻めが上手く行き過ぎたのです」
斯波武衛の擁護する物言いに、近衛太閤の視線と態度に皮肉な色が浮かぶ。
「今度は追い払うのではなく、北畠を屈服させることが目的の戦ですので、まだ許容範囲でしょう」
「木造の弟が内応したのが5月であろう?今はもう9月じゃぞ?」
「織田弾正大弼の率いる本隊が伊勢に入ったのは8月中ごろ。まだ半月しか経過しておりません」
「随分と、かつての配下には甘いの」という太閤の直接的な言葉に、武衛は笑うだけで応じた。
滝川彦右衛門(一益)なる織田家の武将は、出身は近江甲賀とも伊勢か、または志摩ではないかと諸説あるが定かではない。
とにかくこの忍者ではないかという話まで飛び出すほどに出身不明の得体の知れぬ人物が、伊勢・志摩攻めにおいて大いに功績を立てたのは事実である。
毛利が吉川と小早川に、織田が神戸と長野にそうしたように、北畠も長野工藤氏や、一門の木造家に息子たちを養子縁組することで勢力を拡大した。成功すれば養子先の領地や家臣団をそのまま一門として取り込むことが出来るが、失敗すればお家騒動の種を相手にも自分の家にも持ち込む事になりかねない鬼手でもある。
そして長野で失敗した北畠は、木造でも失敗した。
現当主の叔父で先代当主の弟たる重臣の木造具政が、織田家に寝返ったのである。
この工作に尽力したとされるのが先述の滝川とその一族だ。
木造氏は「木造御所」を称する北畠家の名門で、具政自身も従四位下・左近衛中将の官位を持つ公卿。「その木造ですら寝返った」という知らせは、南伊勢に大きな衝撃を与えた。
5月に木造氏の寝返りが明らかとなると、北畠家はすぐさま木造御所を包囲したが、織田家から養子を迎えた神戸・長野の両家と滝川彦右衛門の軍勢が援軍に入ったこともあり、8月まで持ちこたえた。
そこに但馬山名氏の正式降伏(8月)を待ってから岐阜まで帰還した織田弾正大弼は、待ちかねていたように自ら出陣。その軍勢は5万とも6万ともいわれる。
8月20日に岐阜を出陣し、23日に木造城に着陣。そのまま本拠地の要害たる大河内城とその支城に籠城した約8千の北畠軍を包囲した。
ところがここからである。
一族の重臣が寝返って動揺が広がっているかと思いきや、200年にも及ばんとする北畠一族の南伊勢支配の強固さを、織田家は見誤っていた。
支城を落とそうが、城下を焼き討ちして住民を追い込もうが、夜討ちを繰り返そうが、何をしても音を上げようとしない。
「従軍している息子によれば、町人も武家も北畠一族も意地だけで戦い続けているそうです」
「……意地かね」
「ええ、意地だそうです。織田に対して一矢報いたい。その一心で上から下まで統一した指揮と戦意を保ち続けているとか」
息子である津川義冬から送られた手紙の内容をそのまま何気なしに語る武衛。
その意地という単語には自分に対する皮肉もこめられているのかとその顔を見返した近衛太閤であったが、斯波武衛の暢気な顔からは何も読み取ることが出来なかった。
「意地だけで腹はふくれぬだろう」
「ええ、北畠の上層部もそれは理解している模様。水面下では和睦の交渉に着手しているようです。ちょうど5月から8月という稲作にとって大事な時期に合戦となりましたゆえ」
「そこが織田の強みじゃの」
そもそもが乱世である今。「尊いお方」を除いて、すべての社会階層に属するありとあらゆる職種の人間が武装している。
しかし武装しているからと言って、それを徴兵すればすぐに戦力になるわけではない。現状、最も兵農分離が進んでいるとされる織田家であっても、農村単位の徴兵は必要である。仲間意識が生まれやすいし、領土防衛とならば、これほど頼りになる存在はない。
兵農分離を乱暴に定義するなら、農作業の専門従事者と、戦場に従事する人間の分業が図られていることを意味している。農村から徴兵した兵力に頼らなくてもよい織田家は、年間を通していつでも動員が可能であるとされている。
現段階でも美濃や尾張において統一的な徴兵なり運用がなされているわけではない。それでも現在の当主が「軍事ドクトリン」かつ「戦術ドクトリン」として兵農分離を明確に志向しているのが、他家と異なる点ともいえる。
これは現在の織田家当主独自の考えというわけではない。古くは応仁の乱において京の都で跳梁跋扈した足軽も、そもそもは各地から京に流れてきた流人などを臨時雇いで組織したものであった。日本有数の経済都市をいくつも抱え、都市部における慢性的な人手余りを目にしていた織田弾正忠家にとっては、彼らを金銭で雇用することはごく自然な考えでもあった。
「要するに金があるからじゃな」
身も蓋もない言い方をする太閤に、再び武衛は笑うだけで応じた。
都市部における非農業従事者の総数というものは、農村の生産性に直結している。農業に従事している人間と、従事していない人間。それを合算した食料以上の人間は物理的に扶養することが出来ない。
そして合戦を専門とする職業集団なるものは、明らかに非農業従事者である。
領主が給金として支払うものは「金銭」か、それに代わりうる食料や絹などの「現物」。
「金は金でも、死に金では意味がないからの」と太閤が言うと、斯波武衛は相槌を打つように頷く。
金山を抱える甲斐武田・越後上杉にあり、ろくな鉱山すらなかった尾張の織田にあったのがこの考え方かもしれない。領内において貨幣経済が大々的に行われ、領主がそれを保障し、契約を担保する軍事力があればこそ成立する。ある意味において非常に贅沢な施策だ。
「金、つまり銭は国の血と同じよ。体の中を回り循環してこそ意味がある。血と一緒に米や物資が流れるなら、さらに体調はよくなるという理屈だな」
「永楽通宝を旗印とする織田弾正大弼らしい発想だと?」
「貨幣の価値を保障する軍事力、貨幣取引を保障する法体系と秩序、問題が発生した際に、公平な裁きが行われるか否か……上から押さえつけるだけでは、こうした考えは身につかない。少なくとも武田や上杉には、その中のどれかが欠けている」
越後上杉に従軍した近衛太閤だからこそ見えた相違である。頷く斯波武衛に、近衛太閤はさらに続けた。
「領内で米が足りぬなら、他所から買えばよい。そして銭と一緒に飢餓を輸出する。周囲が仮想敵国ばかりで、さらに地理的制約のある武田や上杉に、この発想を求めるのは酷というものかもしれんが、相手の所領で略奪するのと、どちらが悪辣かの?」
言葉に詰まる斯波武衛の表情を見た太閤は、初めて愉快そうに笑った。
「公卿とで馬鹿ではない。金だけの動きを見ていくつも蔵を立てる商人との付き合いもあれば、土倉兼業の因業な坊主との付き合いもあるのでな。世の中の動きに目を見晴らせていたからこそ、今まで生き残れたのだ」
「御見逸れ致しました」と、斯波武衛は深々と頭を下げる。
「鎌倉末期の悪党しかり、応仁・文明の乱の足軽しかり。すでに先例のあることだからな。乱世の時代には必ずそういう集団が現れたものよ」
歴史を常に俯瞰して現状に当てはめるという考え方では、公卿連中にかなうものではないということは、斯波武衛は自らの経験で学んでいた。そのため近衛太閤の話に黙って耳を傾ける。
「思えば源平の合戦も、そうして出てきた『武士』なる者同士の争いであったものが、帝から政治の権能を奪い、そして武士なるものは悪党や足軽に戦の実権を奪われる」
「なんと愉快なことではないか」と再び笑う近衛太閤。
帝から先に政治の権能を奪ったのは、笑っている御仁のご先祖であったはずなのだが。こうなると斯波武衛としてはどう答えていいのかわからない。
「しかしだ。その悪党だか足軽だかわからぬ『無法者』を組織化し、上洛してくる『大馬鹿者』がいるとは、想像も出来なかったのう」
誰のことかは言わずもがなである。
尾張でうつけと呼ばれた男は、若い頃は食い詰めた浪人や武家の末子と一緒に暴れ周り、家督を相続すると彼らを黒母衣衆・赤母衣衆と名づけた親衛隊に抜擢した。
「大馬鹿者」に率いられた「無法者」がこれまで挙げてきた功績の数々は、まさに織田家の躍進と一致する。
近衛太閤が「条件だけでは駄目だ。発想だけでも駄目だ」と言うと、今度は斯波武衛は小さくひとつだけ頷く。
「条件を整え、発想を実行に移す『大馬鹿』-これがいなければの」
「『馬鹿』だけならこれまでもいました。かの男は成功したからこそ偉大なのです」
「……武衛はよい家臣を持ったの」
そう笑って見せた近衛太閤に、斯波武衛も胸を張った。
「ええ、私には過ぎたるものですな」
*
織田家の南伊勢侵攻は、10月3日、織田家と北畠家の和睦を持って終わった。
いくつか条件が出たが、大きく分けると以下の2点に要約される。
・信長の次男である茶筅丸を北畠当主の具房の一女と娶わせ、養嗣子とすること。
・北畠一族の大河内城退去
この和睦にいたるまでの間、すなわち大河内城を織田家が包囲してから約1ヵ月ほどの間に、足利義昭が和睦交渉の仲裁に入ろうとした。
それを持ちかけたのは織田か、北畠か、それとも大樹自身なのか。それはこの際、問題ではない。
この9月から10月までの「1月」が、足利将軍にとっての一つの転機となったのは、ほかならぬ「石山見物」へと出かけていた斯波武衛には知る由もなかった。




