毛利十郎「ひかえ!ひかえ!ひかえ!こちらにおわすお方をどなたと心得る!恐れ多くも先の尾張守護、室町幕府第36代管領の斯波左兵衛督義統様であらせられるぞ! 」
【永禄12年(1569年)1月25日 武衛陣跡 二条城普請現場】
かつて斯波武衛家の京における屋敷があり、その尾張への退去後は13代将軍が自らの邸宅とし、そしていま新たな将軍のための城が築かれつつある普請現場には、杭を打つ音、木を切り、岩を削る音、職人の怒鳴り声などが飛び交っていたが、不思議とこの老人の声は喧騒の中を通った。
「公家にも、ピンからキリまでございましてな」と、権大納言の山科言継卿は、南蛮語由来の新しい言葉をさらりと使いこなす。
正規の軍事力を持つ武士ですら、明日には戦場で一族郎党と共に骸を晒しているのかもしれないご時世である。いかに尊皇の志があったとしても、都まで志たるモノを運ぶことは難しい。
そんな困難な情勢下にあってこの老人は朝廷の金庫番ともいえる蔵人頭を長年務め、やれ改元だの大喪の礼だの、壁が壊れた修繕費だのと予算が必要となるたびに全国各地を飛び回り、見事その期待に応えてきた辣腕の持ち主である。
ただ優秀であるだけに困難な役回りを-有り体に言えば貧乏くじを押し付けられることも多い。
例えば先の14代将軍宣下では、勅使を押し付けられた。この老人が朝廷にとって優良な得意先……もとい、稀に見る尊皇の志の強かった先代織田家当主(三郎信秀)と親しく、仮に義昭が復権しても、それほど追求されることはないことまで考えられた人選であったと思われる。
実際に義昭上洛後も、この老人は平然と以前と同じ地位を保ち続けている。その点で言えば摂家筆頭格である近衛家が朝廷から追放されたのとは対照的であった。
「ピンたる最上は摂関家ですな。御堂関白(藤原道長)の直系子孫たる5家-順不同で申し上げますと、一条、二条、九条、鷹司、そして先ほど追放が決定した近衛」
「ところがこのピンたるなかの摂関家にも、ピンからキリまでございましてな」と、山科老人はさながら近隣の家庭内事情を嬉々として噂する下々の奥方のごとく、いかにも楽しげに言葉を続けた。
それが下世話な品のなさなどではなく、むしろ愛嬌であると感じられるのが、この老人の人徳とでも言うべきものであろうか。老人の右横を、ちょうど護衛するかのように歩く斯波武衛はそう感じていた。
「このうち鷹司は天文15年(1546年)に当主の死去により断絶しております」
「誰が名跡を継ぐという動きはなかったのですか?」
2人の背後からこう訪ねたのは、村井長門守貞勝。
近江出身で織田家に仕えた経歴の持ち主で「織田弾正忠家に長門守あり」と知られた能吏であり、「織田雑掌」として一族とともに京に滞在している。いわば京における織田家の特命全権大使といえよう。
これとは別に何人かの同僚とともに京奉行を命じられた木下藤吉郎秀吉は、また別の命令指揮系統に属していたと思われる。これは信長の中央政策、つまりは在京を避けて領国にとどまりながら、幕府や朝廷に対するための政策が定まっていないがゆえの混乱であったのかもしれない。
かつて自らが盛大に「上総守」の一件でやらかした経験により、信長の朝廷と幕府に関する事柄については、どこまでも「前例主義」であった。
ところでこの信長の前例主義の理解は「以前に誰かが『やらかした』前例があるなら、程度の差こそあれ同じことをしても許される」という、いささかねじ曲がったものであったのだが、今はそれは関係ない。
そして奉行が京における実際の行政職なら、長門守は外交官として「織田が何をすべきか、そしてどこまでなら『やらかしても』問題ないのか」を探る任務であったともいえる。
「何をするにも先立つものがございませんとな。格式を維持するには、それなりのモノが必要なのは当時も今も変わりませぬ。これを身も蓋もない言い方をしますと、それにつけても金のほしさよにつきるというわけです」
山科卿が大仰に肩をすくめると、斯波武衛が苦笑して頷く。
「まさしく。追えば逃げるは、川の魚と金子に女心ですな」
「ほう、誰の言葉です?」
「私ですよ」
斯波武衛のつまらない冗談に、山科卿だけでなく村井長門守も笑い声を上げた。
本来であれば3人とも護衛なしに出歩ける身分ではないが、視察を名目にそれぞれの家臣や護衛から離れて歩いているため遠慮は無用であった。
山科卿が続ける。
「鷹司が欠け、一条は土佐の分家……いや、あちらのほうが本家でしたか。とにかくお家騒動を抱え、朝議に参加して政治的な見識を述べるどころではありません。あとのうち二条と九条が盟約を組み、近衛と対峙していました」
二条家と九条家は元々の政治的立ち位置が近かったこともあり、婚儀や養子縁組を重ねることで、今や政治的には同一のものとみなされている。
「そして独立自尊、天上天下唯我独尊の近衛は、徒党を組まずとも己の力でのみで朝議の荒野を邁進することを恐れぬ家柄でもあります」
「なるほど。越後の龍と馬が合うわけだ」
こう斯波武衛がうなずけば、「金銭的に余裕があるからでしょう。関白職を職務放棄しながら、越後からはるばる関東遠征まで同行できる程度には」と村井長門守が返す。
どこか言葉に刺があるような気がするが、武衛は聞こえなかったふりをした。
「そのような家風であるからこそ、斜陽の……ああ、失礼。将軍家の権威を再び取り戻そうという貴公子と共鳴したのでしょうなぁ。元々は足利の大樹(将軍)の正室には日野氏が慣例となっていたものを、近衛が萬松院様(足利義晴)と光源院様(足利義輝)と二代にわたって娘を嫁がせ、これに二条-九条連合が三好と組むという形になりました」
自らが13代将軍と山科の所領横領問題をめぐり、犬猿の仲(日記の中で口を極めて罵倒している)であったことなどお首にも出さず、山科卿は解説を続ける。
「ところが永禄の変で、この政治的な立ち位置がそっくりそのまま入れ替わったのですな」
従兄弟である義輝が討死した以上、政治的な盟友であった関白の近衛前久は、何らかの対応を取るべきであった。にも関わらず彼は関白として新政権を追認するかのような姿勢を見せた。
将軍襲撃の際、近衛家出身の正室を三好家が保護したことが原因とも言うが、これを「これまでの近衛-足利体制への裏切り」と捉えた義昭が激怒。その将軍就任により、近衛は政治亡命を余儀なくされている。
「今は本願寺の石山か、それとも丹波の赤鬼のところか。いったいどこで何をされているやら」
「私としては今の二条関白が、流浪時代の大樹様と急激に接近された理由が気になりますが」
「長門守の疑問も最もだな。なにせ二条殿はわざわざ越前まで下向され、上様の元服式に立ち会われたというし」
武衛と長門守の疑問に対して、山科卿は「何、簡単ですよ」となんでもないかのように答えた。
「勝ち馬に乗ったのですよ」
「勝ち馬、ですか」と長門守は釈然としない表情で首をかしげる。
「しかし当時の左馬頭(義昭)様は」
「勝ち馬にもそれこそピンからキリまでありましてな」
山科卿はよほどこの言い回しを気に入っているらしい。意外と新しいものと賭け事が好きな性格なのかもしれないと斯波武衛は思ったが、そういうところも先代の織田三郎(信秀)と気があった理由なのか。
「確かに当時の状況では、三好家の主流派が都を抑えておりましたし、六角ですらその武力を恐れて日和見したほど。もとより本願寺と三好は親しく、若狭武田と越前朝倉はそろって動けず、反三好勢力が比較的強かった播磨にしても、単独で上洛出来るだけの勢力はありませんでした」
「……都においては、見えるものが違いますか」
「左兵衛督(義統)殿のおっしゃるとおり。都におれば世情の虚ろな繁栄だけではない、物事の本質が見えるのです……と言いたいところですが」
山科卿はどこかおどけた様に額を掻いた。
「なんのことはありません。三好のお家騒動の実像が、諸国よりも地理的に近いだけによく見えていただけのこと。まして二条は、元は三人衆などの政治的な支援者でしたからの」
山科卿はごくあっさりと解説を付け加えた。
京の政界における近衛-足利ラインと対抗する形で、二条=九条-三好氏ラインが存在していた。
ところが二条晴良は、本来の同盟者が将来立ち行かないとみるや、いち早くこれを切り捨てて、本来の仇敵の懐に飛び込んだ。そうして得た新将軍の信頼を背景に、関白と藤氏長者(藤原氏のトップ)に返り咲いたわけである。
この胆力と決断力、そして面の皮の厚さ。「なるほど御堂関白以来、生き残ってきた公卿という生き物はこういうものであるか」と長門守は感じ入るように頷いた。
「近衛太閤はまた判官贔屓の悪い癖が出たのでしょうなあ。もともと似た者同士といいますか、近親憎悪で13代様とは必ずしも完全に歩調が揃っていたとは言い難かったですし」
呆れを通り越して、どのような気持ちになって良いのかすらわからない面持で「両雄並び立たずですか」と長門守が語ると、山科卿が「しかり」と頷き返そうとすると、斯波武衛がぼそりとつぶやいた。
「どんぐりの背比べだろうて」
ぐえっふっは!と、長門守は妙な咳き込んだ笑いをし、山科卿は人もなげな馬鹿笑いをするのを、離れた位置からそれぞれの家臣や護衛たちが訝しげに眺めていた。
*
二条城普請現場の一角に設けられた臨時の作業所の中で、木下藤吉郎は、同僚の奉行である中川駿河守重政にこぼしていた。
「当代の大樹(将軍)様は、あまりにも人の好き嫌いが激しすぎます」
そうはいいながらこの小男はちゃっかりしたもので、いつの間にかその本人に気に入られ、何かにつけ「藤吉郎、藤吉郎」と親しくお声がけをいただいている。
それを思えば「嫌みか貴様」と怒鳴ってやりたい重政であったが、藤吉郎の言う通り、将軍の性格に問題があるという点には同意した。
「太閤の追放にしてもそうです。本来であれば弁明の場があってしかるべきなのに、関白殿下の言をそのまま受け入れられてしまいました。近衛太閤に問題がないとは言いませぬが、いくら元が坊主であり世間知らずだからといって、二条と近衛が政敵関係であることは、少し調べればわかることでしょう」
「確かに貴様の言うことも一理ある。あれでは自らの元服の介添人であった二条関白の傀儡と思われても仕方があるまい」
「政所執事の人事にしてもそうです。摂津掃部頭(摂津晴門。義輝時代の政所執事)の復帰にこだわり、伊勢の出仕を拒否し続けています。掃部頭の能力の是非の問題ではないというのに、諫言する幕臣には『貴様は摂津以上の忠誠を一度でも尽くしたのか』などと」
「御恩と奉公、たしかに武士の基本ではある。しかし征夷大将軍たるものは武士の棟梁以前に、もう少し幕府全体のことを考えていただかないと……」
「随分と身分と釣り合わぬ話をしておるの」
「あん?なんだこの坊主だか公家だかわからん、なよっとした侍は。どこから入って……」
来やがったと続け、そのまま一喝しようとした重政であったが、藤吉郎の「ぶ、武衛様!なにゆえこのようなところへ!?」という驚愕の声に、織田一族でもある猛将は目玉をひん剥いてひっくり返った。
「ぶ、ぶぶぶ、武衛様、いや、これはその……」
冷や汗を流す重政に、斯波武衛はあいも変わらず「かまわん、かまわん」と鷹揚に手を振った。
「普段は顔を伏せて私の顔を見ることなどないだろう。むしろ私の顔を知っておる藤吉郎のほうが異例なのだからな」
「はっ!光栄であります!」
「別に褒めてはおらんのだが」と苦笑しながら、斯波武衛部屋の中へ遠慮もなしに入ると、どかりと胡坐をかく。火鉢を挟んで座っていた重政と藤吉郎は、慌てて場所を譲った。
「何、先ほどまで普請現場の視察をしながら、山科卿と悪巧みをな」
「わ、悪巧みですか?」
「木を隠すなら森の中、密談するなら雑踏の中というわけだ。それよりも先の大樹様の話だが」
重政と藤吉郎は狭い部屋で、そろって身を固くした。
目の前で胡坐をかく老人は、幕府管領としては完全にお飾りでしかなかろうと思われていたが、就任以来4ヶ月ほど経過した現在では、何かと揉め事の絶えない幕閣や奉行衆の調停役として重きをなすようになっている。
何か仕事をするわけでもなく、優れた発想をするでも、冴えた才覚を見せるわけでもないのだが、多くの人間は斯波武衛以上に年齢も官位も役職も下であるので「仲良くな」といわれると従わざるを得ない。
それでも諍いが続くようなら、自らむすんだ米を片手に「これを食え」と言って回る。これでは気勢をそがれて、何かどうにかするとかいう話でも空気でもなくなる。
こうしてなし崩しのまま、解決するようなしないような形で落ち着くのだ。
そんな幕府の重鎮に、将軍に対する不平不満を聞かれたのだ。斯波武衛が告げ口するような人間ではないことは分かってはいるが、いかにも心持が落ち着かなかった。
「まあ、お主らの言うことも尤もだ」
重政は座っているのにも関わらず、腰が砕けるような感覚に陥った。
「武家の棟梁に求められている素質は、所領を安堵して子々孫々まで承認すること、そして武功を上げれば客観的に評価し、これに褒美をあたえることの二つに尽きるとも言える。つまり将軍たるもの、公正中立。調停者としての役割に疑問を持たれるようなことがあってはならないというお主らの意見はもっともだ」
「あ、あの左兵衛督様。あまり御身の立場での大樹様の批判は……」
「おや?お主らはそういう話をしていたのではなかったかの?」
揃って顔を青くする奉行達に「すまんすまん」と斯波武衛が笑う。
「どこで誰が聞き耳を立てているのかわからんのが、京という町じゃ。私もこの数ヶ月で大変な目にあったからの。その点だけは注意しておくように……それはそれとしてだ。立場が変われば見方も変わると申してな。お主たちの立場からすれば、将軍自らが調停者たる立場を棄損し、権威を破壊しているように見えるだろうが、大樹様からすれば今の自分の立場を守るため、やむを得ない行為なのかもしれぬ」
最近では評議の場においても、言葉足らずな当主の発言を引き出すための役割を果たすことの多い藤吉郎が「と、おっしゃいますと?」と言葉を挟んだ。
「いまさら無いに等しい将軍の権威だ。それを守るより、むしろ積極的に横紙破りをしているのやもしれぬということだ……新たに即位した当主が、それまでの家臣たちに自分のわかりやすい力を見せつけるために、最も簡単なやり方がわかるかね?」
首を振る2人に「既定路線をひっくり返すことだよ」と、斯波武衛は何かを両手でひっくり返すような所作をしてみせた。
「誰もが『この人はこう判断するだろう』と思うのが公正公平な判断の基準なら、まさかそうするとは思わなかったと思わせ、注目を集めるのがこのやり方だな。最低でも議論を起こせればそれよしとするもので、問題はあるが、確かに議論の活性化には繋がるだろう。確か田楽狭間で、今川治部の本陣の場所を報告した簗田出羽守を功一等としたおぬしらの主君がそうであろう?」
「なるほど」と頷く重政に、首をかしげる秀吉。斯波武衛に許可を得てから、藤吉郎がそれを口にした。
「……確かに御屋形様(信長)は、我らの仕事に対して、賛辞でもお叱りでも思いもがけない意外な評価をなさる時はございます。しかしそれは御屋形様の中に、余人には計り知れぬ一貫した基準があってのことだと。この私などには到底そのお考え全てはわかりかねますが、それでも一貫した基準があるのは感じられます。それゆえに我らは御屋形様に命を預けられるのです。ですが、その、お言葉を返すようですが……」
「大樹にはそれがないか?」
言葉にはせず、首を小さく縦に振るだけで肯定の意を伝える藤吉郎に、斯波武衛は「たしかにないのかもしれない」とあっけらかんと答えた。
「摂津の執事就任にこだわるのも、二条関白の進言により近衛太閤を追放されたのも、第三者からすれば身びいきにしか受け取れぬ。しかし自らの冷遇時代に情けをかけ、将軍職就任に尽力してくれたものへの恩義を返すというのも、これまた武士の主君としては当然であろう?」
「それは理解出来ます。摂津掃部頭様のお子である糸千代丸様は永禄の変で亡くなられています。養子もいらっしゃらないので摂津のお家断絶は必至。ですが、それとこれとは……」
「わかっておる。わかっておる。皆まで言うな」
体の正面で斯波武衛は手を振った。
「たしかにこれらは足利宗家の当主としての判断が大きいだろう。征夷大将軍として、幕府を主催する武家の棟梁の判断としてふさわしいものかどうかとは、また話は別だろうて。混乱する現場を取り仕切るお主らが不満を持つのも最もだ」
そして「迷惑をかけると思うが、どうか耐えてくれ」と言うやいなや、なんと斯波武衛は深々と頭を下げ、2人の度肝を冷やした。
こんなところを誰かに見られては、自分たちの政治生命は即日その場を持って終わりかねない。重政と藤吉郎は慌てて将軍家に対する不遜な物言いと軽率な発言の数々を、それこそ畳に額を擦り付けんばかりに謝罪する。
一通りの言葉のやりとりが終わると、斯波武衛はようやくその顔を上げた。
「どうじゃ?こういうやりかたもあるぞ?」
そのいたずらっぽい視線に、2人はそろって息を漏らし、肩から崩れ落ちるように座り込んだ。
「ふんぞり返って高圧的に相手を罵倒するばかりが、相手を脅迫する手段ではないということだ。よく覚えておけ」と斯波武衛は続けた。
重政は勘弁してくれとでも言いたげな視線を返し、藤吉郎は引きつった笑いだけで応じた。
「織田弾正少忠(信長)は成功したから、今は過去の失敗ですらも好意的に受け取ってもらえている。大樹様も、これから実績を積み重ねていかれれば、そうした不満はいずれ解消されるだろうて」
「……それがいつまでも解消されぬ場合は、如何なさいますか?」
「おいっ!」と同僚の袖を引く重政を、再び「よいよい、藤吉郎はこうでなくてはの」と抑えると、斯波武衛は二人を扇で呼び寄せ、顔を寄せてから言った。
「どうしたらいいと思う?」
重政が思わず「知るか」と返してしまい、青ざめた顔で何度も何度も謝罪する様に、斯波武衛は人の悪い笑みを浮かべた。




