三好山城入道「織田上総守さんは9年ぶり2回目の上洛となります。前回の思い出は?」若武衛「おい馬鹿やめろ」
永禄8年(1565)5月19日。
美濃においてはいまだ一色家と織田家との食うか食われるかの熾烈な戦いが続いていた最中、京において政変が発生した。
とはいうものの室町幕府にとって政変は隔年ごとの恒例行事のようなものであり、嘉吉の乱では将軍暗殺、応仁の乱では京全体が戦場となり、特に明応の政変では、遠征に出かけた将軍と管領が揃って追放されるという珍事ですら経験していた京雀には、いまさら政変など聞き飽きた単語ですらあった。
しかし今回ばかりは大いに京雀もたまげた。
主上のお膝元である京で、将軍家が守護でも管領でもない一守護の家臣に襲われ、実母と身篭った側室までふくめて惨殺されたのである。
主犯は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と、松永霜台の嫡子右衛門佐(松永久通)。
松永霜台と、三人衆も含めた松永の主君である三好左京大夫(義継)-三好長慶の後継者で当時在京していた)がどこまで関与していたかは定かではないが、さすがに都で軍勢を動かしての将軍暗殺という事実は、乱世に麻痺した京雀のみならず、全国諸侯にも衝撃を与えた。
だが、それだけである。
制度上はともかく、実際には山城を中心とした一地方政権にまで落ちぶれていた将軍家がどのような死に方をしようとも、直接的には全国各地の情勢にはほとんど影響しなかったといってもよい(間接的には多大なる影響を与えたともいえる)。
足利は将軍職を13代重ねてそこまで凋落した。それを立て直そうとしていた若き公方の無念は察するに余りあるが、そんなことは残されたものにとってはどうでもよかった。
次期将軍選びは混迷を深めた。
事変前年の細川氏綱死去後、管領は政権内の混乱から指名されておらず、幕臣や奉行衆は事変への対応をめぐり分裂していた。
便宜上、ここでは三好派と反三好派とするが、三好家は伊勢氏の再興をちらつかせて幕臣の取り込みを図った。
反三好派が担ぎ上げたのが、南都興福寺の一乗院門跡にして、義輝の実弟であった覚慶-のちの足利義昭である。
もう1人の弟が三好家に暗殺されるという状況の中、幕臣の援護をうけて一乗院を命からがら脱出した覚慶は近江に逃れると、先々代が幕府管領代(管領代理)であった六角氏を頼った。
覚慶一行は近江野洲郡矢島に滞在し(矢島御所)、翌年2月には幕府再興を宣言。還俗すると、足利義秋と名乗った。
そして4月には三好家内部の混乱に嫌気がさした朝廷により従五位下、左馬頭に叙位、任官された。ここまでくればもう次期将軍として認められたといっても過言ではない。
ここに14代将軍争いは六角氏の擁立する義秋方が勝利したかに思われた。
あとは六角主導で上洛し、三好を四国にまで追い払えば一件落着である。義秋は織田と一色の和解工作(実際に成功しかけた)を斡旋し、上洛の環境づくりに邁進した。
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ところがここで易々と引き下がらないのが三好のしぶとさである。
京を実際に占領して差配する強みを生かして、自らの擁立する足利義栄にも左馬頭の官位を朝廷に要求。これを半ば強引に認めさせた。
また矢島御所を武力攻撃して家中の統制に難のある六角に圧力をかけ、近江から義秋を追放させた。
近江を追われた義秋一行は若狭武田、次いで越前朝倉を頼ったが、前者はお家騒動で、後者は加賀一向一揆への対応もあり動けず、とりあえず歓迎はしたものの上洛するどころではなかった。
こうなると困り果ててしまうのは、六角氏主導による幕府再興を当て込んでいた朝廷である。
将軍や管領がいなくとも幕府の奉行衆さえいれば最低限の政権運営(京の行政維持)は可能とはいえ、これ以上混乱すれば、それですら不可能となる恐れがある。この状況を憂慮し、あるいは三好からの圧力と工作を受けた朝廷内部では、親三好派と消極的な義栄支持派が俄かに台頭した。
さはさりながら、前任者を何の大義名分もなしに討伐しただけの新政権を承認することへの拒否反応と危機感も根強く、ついには「これだけ金積んだほうに先に将軍」という、非常に京らしい婉曲的でありながら直球の「ぶぶ漬け作戦」に出た。
「まさか、本当に指定した金額をかき集めて献金するとは思わなかったな……」
「その程度の現状認識だから将軍を殺したのだろう。何をいまさら……いくら剣術の腕が立つとはいえ、あのような男は放置しておけば政治的な死人となり、如何様な傀儡とも出来たものを。下手に殺してしもうたので、13代は人から仏となってしもうた」
「度し難い馬鹿共じゃな」
「馬鹿にも限度というものがある。あれは大馬鹿じゃ。金で将軍位を買ったといわれるのが落ちじゃというのに、堺大樹の家にはその程度のことにすら頭が回らんのか」
「恵林院(足利義稙)の、つまりはその実父たる今出川(足利義視)の政治的な後継者だからのう。なろうとしてなれなかった将軍職への執着が、堺大樹の家全体に染み付いておる。ここまでくると怨念とも言えるの」
「今出川め!腰の定まらぬ六角といい、西軍の連中は、こうも都を祟るか!」
といった会話が公卿の間で交わされたどうかは定かではないが、献金した以上は任命せざるを得ない。
吐いた唾は、たとえお上であろうとも-いや、お上であるからこそ飲み込めないし撤回出来ない。
そのあまりにも単純な事実を、彼らは忘れていたのだろう。
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永年11年(1568年)2月8日。
足利義栄は「摂津富田」の地において、正式に第14代将軍に就任した。
この時、義栄のもとに宣旨を持参した山科言継が如何なる態度であったのかは、その日記である『言継卿記』にも記されていないが、好い面の皮であったことは間違いない。
何せこれとほぼ時を同じくして、もう一人の有資格者(それも朝廷の本命候補であった!)-足利義昭(義秋から改名)が美濃に入国し、織田上総介信長がこれを擁して上洛する動きがすでに明らかとなっていたからである。
足利義昭は無論のこと、それを支える反三好派の幕臣としても必死である。六角、朝倉との交渉失敗などで3年の月日を無為に費やし、対立候補に先手を取られ続けているのだ。彼らは一世一代の勝負に出た織田上総介の尻をむしろ叩くかのように、上洛の環境整備に駆けずり回った。
東美濃をめぐる紛争を抱えていた甲斐武田家と織田家との間で婚儀による同盟を結ばせることで背後の憂いを立ち、元々の支援者である越前朝倉や越後上杉には協力要請を出し、織田の同盟者である近江浅井氏、三河徳川氏にも上洛軍への参加を要請。
まさに八面六臂の活躍である。
六角氏の取り込みこそ三好の圧力により失敗したものの、むしろ敵と味方が鮮明となってやり易くなったともいえる。
こうして万全の上洛環境を整えた永禄11年(1568年)9月。足利左馬頭義昭「率いる」織田氏、徳川氏、浅井氏の連合軍は、六角氏を蹴散らし、途中で参陣した諸侯を含めるとおよそ6万にも及ぶ大軍で上洛を果たした。
ちなみに斯波武衛と若武衛親子も、一族とわずかな手勢を引き連れて上洛戦に供奉している。
また武衛の息子であり、それぞれ別家を相続した津川義冬と、毛利長秀は、斯波家の旧家臣筋にあたる丹羽五郎左衛門尉の手勢に加わり、六角攻めで戦功を上げ「さすがは斯波武衛の一族よ」と義昭に激賞されたが、そのときの斯波武衛の反応を物語る記録は残っていない。
対する14代将軍は一度も上洛を果たさないまま、9月30日に死去。
重い病の身でありながら将軍位への執念だけで命を永らえてきた足利の男は、あっけなくこの世を去った。
かくして担ぐ神輿が亡くなったのを幸い、三好三人衆の勢力は戦わずして京から撤退する。
三人衆と敵対していた大和の松永霜台親子は、さっさと新政権に降伏。三好左京大夫も三人衆を見捨てて新政権を支持したことから、畿内の趨勢は俄然新政権に有利となった。
畿内の諸侯は競って上洛し、その所領を安堵された。
全国各地の有力大名からも新政権樹立を祝う使者がひっきりなしに上洛。これもひとえに将軍の指導力と、織田家を中心とした軍事力の背景があってのことと、口さがない京雀も新政権を大いに賞賛した。
ここに足利幕府の再興はなされ、天下は太平となった。
めでたしめでたし。
*
「となるわけがないんだな、これが」
「何を暢気にしておるのか!」
武家の棟梁たる征夷大将軍が醜態じみた動揺を見せる横で、室町幕府管領に就任した斯波左兵衛督(義統)は、はてと首を傾げた。
「まあまあ上様。慌てなさるな。ここは上役としては部下を信じる度量を見せるところですぞ?」
「相手が数千の手勢で、動員しているのを含めると約1万、こちらは手勢が精々のところ数百で、何をどう信用しろというのじゃ!!」
「はっはっは、至極もっともですな」
「笑えぬわぁ!!!」
永禄12年(1569年)1月5日。
将軍家の仮御所が置かれていた日蓮宗の本圀寺は、正月早々、大挙して押し寄せた「招かれざるお客」の相手に大わらわであった。
その正体は一言で言うなら「反義昭・反信長」の寄せ集めの連合軍である。
いつの間にか阿波より手勢を引き連れて舞い戻った三好三人衆を筆頭に、三好の宗家から離反した三好山城入道(康長)、果てはどこから沸いて出たのか浪人衆を率いた一色龍興など、周辺地域に展開したものまで含めると1万にも及ばんとする大軍である。
ではこれを迎え撃つ将軍家(幕府軍)といえば……名前を列挙すれば、将軍家と織田家の取次ぎである明智十兵衛光秀、細川典厩家当主の細川藤賢、三淵大和守(藤英)……
つまり、数えたほうが早いほど少なかった。
2ヶ月ほどで畿内のほぼ全域を平定し、幕府の新体制が構築したのを確認すると、織田弾正少忠信長(正式に任官)は、若狭国衆などの一部を京の防衛に残すと、本拠地である美濃への帰国を宣言した。
これには将軍のみならず幕臣も朝廷も、政権が不安定になると大反対であったが、弾正少忠が「今の畿内において誰が幕府と争おうというのです。何かあれば美濃よりすぐさま駆けつけますゆえ」と宣言されると、表立った反対は出来なかった。
朝廷や幕府の懸念は、最悪の形で的中したわけである。
「たしか三淵大和守の実弟である兵部大輔(藤孝)殿は、暴走する野良牛を一人で取り押さえたという勇士と聞きます。なんとも頼もしいことではありませんか」
「それは兵部大輔藤孝、今ここに詰めておる細川は典厩家当主の右馬頭藤賢、別人じゃ」
「……明智十兵衛なるものも鉄砲を扱わせれば右に出るものがないと聞きます。まさに一騎当千ですな。ちょうど相手の数もこちらの千倍ほどいますし、数としては釣り合いがとれているやもしれませぬ」
「だから、そのようなことを言ってる場合ではなかろうが……」
「あん?」
時折本陣を離れていなくなる管領がどこで何をしているのかと気になり、ままならない戦況への不満をその背中にぶつぶつぶつけながら本圀寺本堂の中を進んでいた征夷大将軍の足利義昭は、その場に広がる光景に思わず自分の目を疑った。
境内中庭にはいつのまに持ち込んだのか、大きな竈をいくつもならべさせ、ふつふつと米を炊かせている。
正月の寒空に濛々と立ち上る竈の煙を背景に、幕府管領たる斯波武衛家の当主が自ら米を握っていた。
炊き上がったものはすぐに桶にあけて冷まし、手に水と塩をつけて手際よく握っていく。指示する姿も手馴れたものなら、握る姿はさらに堂に入っていた。
その現実離れした光景に義昭は思わず素に戻り、管領に尋ねた。
「左兵衛督……その……一体、おぬしは何をしておるのだ?」
「合戦が始まり、およそ三刻(約6時間)ほどにもなります。戦えば腹が減りますからな」
「いや、そういうことではなくてだな」
「人手が足りないのですから、やむを得ません。管領たる私が前線に出て指揮すれば、かえって足手まといになると、十兵衛(光秀)に追い返されてしまいましてな」
「だから!」
「そういうことを聞いているのではない」という義昭の言葉は、途中で遮られた。
管領自らが、むすんだばかりの熱々の米を将軍の口に押し付けたからである。
周囲の人間があっけにとられるなか、その米の熱さと無礼な態度に吐き出して「ふざけるな」と怒鳴ろうとした義昭であったが、そうはしなかった。
考えるよりも先に顎が無意識に動き、咀嚼を始めていたからである。
「腹が減っては戦は出来ぬと申します」と、管領は何事もなかったかのように米を結び続けている。そういえば襲撃が開始されて以来、ほとんど寝ずに水も飲まず、当然何も口にしてはいなかった。
「人間、腹が減るとろくなことを思いつきません。楽観は意思、悲観は気分ともうしましてな。腹が減ると、当然思考は悲観的な気分になり、悲観的な頭では如何に優秀な人間でも、決して現状を打破するかのような前向きの発想は生まれてこないものです」
「父上、いや失礼しました。管領様」
「おう、義冬か。まだ生きていたか。どうだ食べるか」
「頂き……いや、それは後で。山県源内の手勢が、裏手に迫った三好勢を追い払いました」
「ほう!それはそれは!見事であるな。ここからここまでの桶を運んでやれ。何人か連れて行ってもよいのでな」
義冬が桶を運び出したのを確認すると、斯波武衛は顔いっぱいに笑みを浮かべて義昭に体を向け、そして再び自らがむすんだ米を差し出した。
「どうです?腹が減っては戦は出来ぬでしょ?」
「……左兵衛督は人が悪いの」
「何、そうでなければ、うつけの織田弾正少忠の上役などつとまりませぬからな」
再び米にかぶりついた将軍に、斯波武衛は肩をすくめながら言った。
「所詮、われらは前線において命を張ることは出来ませぬ。命が惜しいからではなく……それがないとはいいませんが、それ以上に己の命に重い責任が、互いの家にも幕府にもあるからです。それでも私たちは彼らに戦えと、必要とあらば死ねと命じる必要があります。いくら言葉を飾ろうとも、偽善のきわみですな」
それでもと、斯波武衛は米を握りながら言葉を続けた。
「しかし命を張る者を信じて待つことは出来ます。信じてやりましょう」
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1月5日を通じて、本國寺防衛線は成功した。明智十兵衛率いる鉄砲衆や、奉行衆、援軍である若狭国衆である山県源内、宇野弥七らの獅子奮迅の働きによるものである。三好の手勢は幾度も攻め寄せたが、そのたびに進入を阻まれた。
翌日、日を改めて本國寺攻めを再開しようとした反幕府軍であったが、周辺より急報を聞きつけた「野良牛をねじ伏せた男」こと細川兵部大輔(藤孝)や三好左京大夫、摂津国衆の伊丹・池田・荒木らの後詰めにより撤退を決断。
幕府軍の追撃を受けた反幕府軍は桂川で反転して一戦に及ぶも敗北し、この正月の「招かれざるお客」は、ほうほうの体で阿波へと逃げ帰ったのである。
なお1月6日に岐阜で一報を受けた信長は、大雪の中で出陣。本来であれば3日か4日はかかる行程を2日で駆け抜け、8日には10騎足らずの供を連れて本國寺に到着した。その強行軍は途中で凍死者が出るほどだったという。
自ら擁立した将軍家の危機に慌てたのか、「大丈夫です」と朝廷にも幕府にも大見得をきって帰国した後ろめたさを誤魔化すためだったのかは、定かではない。
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- 将軍、管領武衛は「上総守、大儀」と、弾正少忠様をそろって呼び間違えられた。不思議なことである - 『信長公記』 -




