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斯波武衛家顛末記  作者: 神山
天文11年(1542年) - 永禄3年(1560年)
1/53

斯波武衛「働かずに食う飯は美味い」


こちらでは初投稿になります。


完結まで気長にお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。



- 斯波武衛顛末記 -


 細川は誰でも読めるだろう。畠山も読めなくはないだろう。


 斯波-これを初見で、斯波しばという名字を一体どれだけの人間が読むことが出来るだろうか?


 そも斯波は元々が「芝」の当て字ではないかという説もあるなど、その始まりはよくわかっていない。室町のいつの頃から正式に斯波を名乗るようになったのかも定かではない。こうしたないない尽くしの解らないことだらけではあるが、室町以前-つまり鎌倉時代には「足利尾張家」と呼ばれていたのは確かであるという。


 つまり足利宗家とは別の足利氏-別流である。


 現在の当主は「三河の吉良氏(*1)の、そのまた分家でしかない駿河の今川某とは格が違うのだよ」等と公言しているらしいのだが、そんなことはどうでもいい。


 その斯波氏の嫡流である斯波(しば武衛(ぶえい)家は、室町幕府における管領(かんれい)職を、前述の細川氏や畠山氏と共に務めたという名門守護家である。


 武衛とは兵衛府の唐名(大陸風の呼び方)であり、代々の斯波氏当主が兵衛府の督(長官)や佐(次官)に任ぜられたことに由来している。


 左兵衛督は室町幕府においては足利あしかが尊氏たかうじや、その近親者に限られていたが、斯波しば義将よしゆきが任じられてから、以降の斯波氏当主は左兵衛督に任官するのが慣例となった(*2)。


 そのため斯波武衛家と呼称されるわけであるが、将軍一族の官職を事実上世襲していたことからもわかるように、家格の高さは相当なものだ。最盛期には一族合わせて守護は5カ国(信濃・若狭・越前・加賀・尾張)に及び、幕府で占める役職も管領を初め九州探題や陸奥守護、関東執事など多岐にわたった。


 いや、名門で「あった」というべきか。


 細川や畠山が足利の庶流であるのに対して、斯波氏は鎌倉時代に「尾張足利家」と呼ばれていた別流であることは先に述べた。


 話が前後するが、斯波氏の初代は鎌倉時代に足利泰氏の嫡子であった家氏が、陸奥国むつのくに斯波郡しわぐんをあたえられ、宗家から分かれたのに始まる。


 家氏が嫡子でありながら別家を興したのは、北条得宗一族の名越なごえ光時みつときが鎌倉幕府に反乱を起こし、その余波を受けて光時の妹である母が正室から側室に格下げとなったことが原因であるとされる。


 とはいえ家氏元は嫡子。宗家の家人であった他の足利氏庶流とは一線を画した存在であったことは想像に難くない。家督を相続した弟の死後、甥が幼少であることから足利総領を代行するなど、宗家に準ずる格を有し、かつ地頭職や所領の広さから、鎌倉幕府においてはほとんど対等な関係でもあった。


 室町幕府の創成期に当主だった斯波(しば)高経(たかつね)(足利を名乗ったともいわれる)は一族家臣を率いて倒幕に決起した足利尊氏の元に馳せ参じ、その後も新田(にった)義貞(よしさだ)征伐など南朝方との戦いにおいて多大な貢献を果たした。


 その反面、非常に自尊心が高く、自らが正当に評価されていないと感じれば、たとえ相手が将軍家といえども敵対することを辞さなかった。家柄と能力、そしてそれに似つかわしい自負心という三拍子揃った高経は、足利尊氏にとっても扱いづらい存在であったに違いない。


 そのため斯波氏は一時期幕政を追われるが、3代将軍の足利あしかが義満よしみつの時代に斯波義将(高経の子)は、管領として幕政を主導していた細川ほそかわ頼之よりゆきを失脚させて復帰。以降は自らが幕政における主導権を握った。


 以降の歴代当主である義重よししげ義淳よしあつは、むしろ当然といわんばかりに管領職に就任。斯波武衛家の名声は否応なく高まった。


 ところが直系の男子の早世が相次いだことで庶流出身の当主を迎えたことから、斯波氏の権勢に陰りが見え始める。


 名門の家臣もやはり自尊心が高く、当時の斯波氏家臣の筆頭格であった甲斐氏は庶流出身の当主を軽んじた。かくして一門と重臣の間で内紛が絶えなくなった結果、ついには反当主派は幕府をも巻き込んで当主を追放。新たな当主を斯波連枝から迎えたが、それで収まるわけもなかった。


 この2人の当主と家臣団の派閥対立構造は、幕政を巡って対立を深めていた細川氏と山名氏介入して後援したことから、話が拗れに拗れた。


 どれくらい拗れたかというと、細川氏と山名氏が互いに推していた斯波家の派閥がそれぞれ入れ替わるぐらいに拗れた。


 ついには将軍家後継問題や、同じく三管領家のひとつ畠山氏の家督相続の混迷、細川と山名の対立激化、そして大和国人の対立が発火点となったことで、応仁の乱(1467-77)が勃発。花の都と謳われた京は、あらゆる伝統的な権威と共に灰燼に帰した。


 それは斯波氏も例外ではなかった。



 痛み分けとされることもあるが、応仁の乱における勝者は間違いなく東軍である。


 西軍の領袖であった山名氏が、その後は中央への影響力をほとんど失ったのに比べ、東軍の細川氏はその後も半世紀以上にわたり幕政の中心にあった。この細川京兆家は三好氏の下克上が成功した後も管領であり続けるしぶとさを見せるのだが、今は本題から外れるので語らない。


 一方で斯波氏の家督争いに「勝利」したのは、東軍に所属した斯波しば義寛よしひろであった。


 勝利?


 斯波氏の分国は遠江・尾張・越前であったが、越前は東軍に転じた守護代の朝倉氏(あさくらし)に横領され、守護職を奪われた。


 遠江は駿河今川氏との勢力争いの真っ只中。


 唯一残った尾張-応仁の乱以降、斯波武衛家が下向した領国は、守護代の織田一族に実権を握られて久しい。


 これで一体、何を持って勝利というのか?


 京都の幕府には管領細川氏とそれを担ぐ三好氏がある以上、尾張すらまとめ切れていない斯波氏の出る幕などあろうはずがなかった。


 さらに都合の悪いことに、第10代将軍の足利(あしかが)義澄(よしずみ)の正室日野氏亡き後の継室に、斯波義寛は娘を送ったのだが、その将軍自身がなんと細川氏の家督争いと、大内氏の上洛によって京都から逃げ出してしまう。紆余曲折を経て、義澄の子である義晴(よしはる)が12代将軍として即位することになるのだが、そんな状況では近江に逃れた将軍義澄の妻の実家と誇ったところで、何の役にも立たない。


 中央政界との独自のパイプが途切れつつある中、状況を打開すべく義寛と、その息子である斯波しば義達よしたつは、今川に蚕食されつつある遠江への介入を本格化させる。井伊氏を始めとする反今川勢力を糾合し、遠江を回復することで尾張国内における守護権力の確立を図ったのである。


 本格的な遠征軍を編成しようとする義達に、尾張守護代の織田おだ達定たつさだ(大和守家)を始めとした織田一族はこぞって反対した。


 当然である。尾張国内のことならまだしも(それすら安定していない)、まして隣国三河ですらない、そのまた向こうの遠江だ。そして東には駿河守護の今川氏。政治的支配の安定性を得るのは極めて困難であることは、容易に想像出来たからである。


 そもそも尾張守護代の織田一族にとっては、何の利点もない。


 守護と守護代の対立は、ついには武力対立にいたり、結果は守護である義達の勝利に終わった。


 織田達定を自害に追い込み、織田氏を実力で押さえ込んだ義達は大規模な遠征軍を編成し、自ら軍勢を率いて遠江に出陣。


 ここで勝利していれば、斯波氏は戦国大名として何らかの形で飛翔出来ていたのかもしれない。



 永正12年(1515年)8月、引馬城近郊において、斯波義達率いる尾張と遠江反今川連合軍は今川氏の軍勢と衝突する。


 その結果は反今川連合軍の大敗。それも義達自身が捕虜になるほどの大敗北であった。


 斯波に加勢した遠江国内の国人衆は悉く今川に降参し、あるいは粛清された。


 その元凶である義達は「殺す価値もない」との判断で剃髪させられた上、尾張に強制送還されるという屈辱的な扱いを受ける。


 遠征軍の壊滅に、尾張は大混乱に陥った。


 ここまでの大敗となると、義達個人の責任がどうこうという話ではすまない。斯波派の物理的な壊滅によって復帰した守護代織田氏は、事態の収拾を急いだ。今すぐにでも元凶である義達を殺害しようという強硬意見も存在したが、それは実行に移されなかった。この状況で尾張国内で内紛が起きればどうなるか。周辺諸国の武力介入は何としても避けなければならないという危機感によるものだ。



 そうした状況下において、新たに織田氏によって尾張守護-当代の斯波武衛家当主に擁立されたのが、当時3歳であった義達の長男である斯波しば義統(よしむね)であった。


 彼の母は家女房の多々良氏である。多々良は長門・周防の守護大内氏の一族とされるが、義達の母が丹後守護の一色(いっしき)義直(よしなお)の娘であるのと比べると、明らかに格が落ちることは否めない。


 それだけ斯波氏の勢力が衰えていたということであろうし、いまさら斯波氏が幕府やほかの守護大名との縁戚関係を頼りにして、状況を打開するだけの方策もなかった。


 さて、こうした斯波武衛家と尾張の危急存亡の状況下で守護となった斯波義統であったが、戦に出ることもなく、守護として、最終決裁待ちの書状に花押をしたためるため、筆をひたすら走らせ続ける以外の公務らしい公務もしないままに成長した。


 時折、御呼びが掛かったり、または(名目上)主催した連歌会や宴会などでは「床の間の飾り物」としての役割をしっかりと果たしている。


 自らを擁立した織田氏の中では、あいも変わらず飽きもせずに大和守家・伊勢守家を始め、その下の又守護や奉行家まで入り乱れた陰険な主導権争いと足の引っ張り合いが続いていた。


 その状況を利用すれば、多少なりとも守護の権威を再び確立することは不可能ではなかったかもしれない。


 しかし義統は家督相続以来、何年経っても、それに関わる素振りすら見せようとしなかった。


 10を数え、15を越え、20を通り過ぎ、30が近くなってもなお、何もしなかった。


 大和守家当主であり、義統を守護に擁立した中心人物である織田おだ信友のぶとも(義達に討たれた守護代織田達定の息子。孫とも)などは、何かあれば一族ごと滅ぼしてくれるという暗い情念を抱えたまま、自らにとって都合のよい傀儡の地位に甘んずる義統のありかたに、なんともいいがたい複雑な感情を燻らせ続けている。


 いずれ大和守家主導の体制を覆したい伊勢守家などは、何度となく守護に誘いをかけていたが、まるで反応がないことから、次第に関与を諦める様になった。



 さて、なにゆえ自らに敵意をもつ織田大和守家に擁立され、その居城である清洲に囲われるという生殺与奪の権を奪われた状況にもかかわらず、斯波義統はなんの行動も起こそうとしなかったのか?


 政治的なリスクを恐れたから……というわけではない。


 自らの政治的基盤を確立するために、ひそかに暗躍努力していた……というわけでもない。


 ならば父親の遠江での敗戦の政治的責任を痛感して、身を慎んでいた……というわけでもなかった。



「本日は、白米、蜆のすまし汁、鮎の漬け焼き、香の物。それと-」


 昼食の内容を説明する近習の毛利十郎の説明を聞いているのかいないのか、斯波武衛義統は無造作に箸を掴むと、湯気の立つ白米を口の中に放り込んだ。


- やはり飯は炊きたてでなくてはのう -


 義統は口の中全体に広がる熱と、雑穀交じりのそれでは味わえない白米のみがもつ甘みに顔をほころばせると、二口、三口と続けて箸を動かした。


 3歳で守護になってから今日に至るまで、彼が何か我儘を通したことがあるとすれば、米は炊きたてを食べたいと希望したということだけかもしれない。


 昼夜を問わず炊きたてのものを食べるのが義統流である。そのため守護館の台所からは昼夜を問わず飯炊きの煙が高く昇っており、清洲の風物詩ともなっている。


 冷めた飯にも味噌を少し載せて、熱い湯を注いで食べると、それはそれで美味いというのが義統の持論なのだが、それは今は関係ない。


 そんなことをつらつらと考えながら一杯目の飯を食べ終えた義統は、早速茶碗を突き出す。


 侍女も心得たもので、用意していた次の茶碗をすぐに手渡した。


 箸でほぐした鮎を噛み、すまし汁を一口啜り、再び飯を掻き込む。


 合間に湯さましを含んで咥内に残った塩気を流し込み、米と副菜がなくなるまで、何度も何度もそれを繰り返す。


 そうしてくちた腹を撫でながら、斯波武衛家14代当主、尾張守護の斯波兵衛佐義統は思った。


- 働かずに食う飯ほど、美味いものはない -


 分国守護代として政務と政争に走り回っている織田信友が聞けば、問答無用で清洲城内の守護館を焼き討ちしてもおかしくないことを考えながら、義統は侍女(お手つき)の膝を枕に、だらしなく横になった。



*1:注釈を入れるまでもないかもしれませんが、吉良氏は赤穂浪士の敵役である吉良氏の先祖です。

*2:15代将軍の足利義昭が、織田信長に「副将軍」を打診したのは、斯波氏の跡を何らかの形で相続しろという意味だったのかなと個人的に考えています。


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