報告
ついに、来てしまった。
クロニカは、父の執務室の前で立ち尽くしていた。
この奥には、父がいる。夏休み以来、初めて言葉を交わすのだ。
立ち往生して、やはり出直そうか、と考える。
(い、いや! ここは勢い任せて、行くぞ!)
と、意気込んでみるものの、勢いがつかない。クロニカは深呼吸をして、落ち着かせた。
父に話すのだ、ジュリウスと結婚する、と。
おそらく、許してくれるだろう。なにせ自分には、母の遺言という強い味方がついているから。
それでも、親に結婚の報告というのは、夏休みのことで気まずいのを除いても、気恥ずかしいもので、あの父のことだから尚更のことで。
いつまでも突っ立っているわけにはいかない、とクロニカは意を決してノックした。
「なんだ」
久しぶりに聞いた父の声に、緊張度が一気に上昇する。だが、逃げるわけにはいかない。
「ち、父上! クロニカです、お話したいことが……」
最後の言葉は萎んで、声に出なかった。叱られたらどうしよう、と思っていると、淡々とした声が帰ってきた。
「入りなさい」
棘のない声色に、不審に思いながらも、クロニカは執務室に入った。人生三回目の執務室だ。
「し、失礼します」
父はこちらに背を向けて、窓の外の空を見上げていた。
重苦しい空気がないのが不思議で、首を傾げる。
それと気になるのは、執務室の上に置いているボトルシップだ。あれがルーカスが言っていた、例のボトルシップだろうか。確かに古そうなボトルシップだ。
「何の用だ」
話しかけられ、クロニカは背筋を伸ばした。
やはり声色に棘が見当たらない。戸惑いながらも、クロニカは口を開いた。
「あの、オレの結婚のこと、なんですが」
それ以上の言葉が出てこない。悩んでいると、父が言葉を投げた。
「ああ。ビアンカの倅と結婚するのか」
「え」
さも知っていたかのように言われ、クロニカは混乱した。
「なななな、なんで、知って!?」
「母上が言っていた。お前がビアンカの倅に口説かれている、と。あと、絶対に落ちるからとも言っていたような」
クロニカはあんぐりと口を開いた。
(お、お婆様あああぁぁぁぁ!!)
ここにいない祖母の、してやったりの笑顔を想像し、心の中で絶叫する。
「ビアンカの倅には言ったか」
「言いましたけど」
「なら、あちらから正式な申し込みがあるだろう。それを承諾すればいいのだな」
「は、はい。ジュリウスは、そう言っていましたが」
「分かった。結婚式に関しては、任せる。好きなようにしなさい」
「え、いいんですか? 身内だけの結婚式になっても」
「問題なかろう。公爵家の威信に関わるが、あまり盛大にやると王家が良い顔をせん。むしろ、その方がいいかもしれないな」
「ああ、そうですね……」
公爵家同士の結婚だ。派手な結婚式を挙げれば、最悪、謀反の疑いを掛けられることがあるかもしれない。公爵は王族の親戚、ということを踏まえると、公爵同士が結託して、今の王家を潰そうとしている、という根も葉もない噂が流れる可能性がある。
他国で、そういった事例があるのだと、リリカが言っていたような気がする。
「では、そのように話しておきますね」
「ああ。ビアンカによく相談しなさい。あれは、ああだが、こういうことに関しては頼りになるだろう」
「は、はい」
クロニカは困惑する。
こんなに長く父と話したことが初めてのうえ、父が冷たく言い放つことも怒鳴る様子もない。そして、すごく結婚に対してあっさりしている。
やはり、変だ。
「……父上」
「まだ用があるのか?」
「いえ、あの……熱があるのでしたら、横になっては」
そこで初めて、父が振り返ってクロニカを見た。ほとんど無表情に近いので、その表情が何を語っているのか分からない。
「私は平熱だが?」
「本当にですか? 体温計で計りましたか?」
「毎朝計っているから、間違いない」
「その体温計、壊れていませんか?」
そこまで言うと、父が重く溜め息をついた。これは分かった。呆れている。
「壊れていない、大丈夫だ」
本当にそうだろうか。クロニカは半信半疑になる。
つい勢いで話してしまったが、いつもなら怒鳴るか睨まれるはずだ。その両方がないのは、やはりおかしい。
まさか、脳の病気ではなかろうか。
考え込もうとして、ハッと我に返る。
用が終わったのなら、とっとと退室しないと。本当に怒鳴られてしまう。
父に視線を向けて、固まった。
あの父が、じっと自分を見ている。いつもなら視界に移すだけでも嫌がるというのに。その瞳には、いつもの憎悪の色がない。
「あの……父上?」
父が視線を逸らし、再び窓の外を見やった。
なんだっただろうか。とりあえず、そろそろ退室しないと。
退室しようと、動き出した、その時。
「クロニカ」
クロニカは驚愕して、父を凝視した。
今、自分の名前を言った? そんなはずがない。きっと、幻聴だ。
期待する気持ちを抑えるが、父はさらに言い続けた。
「ミリアの部屋にある箪笥の、一番上を開けろ。そこに、ミリアが生前、クロニカが嫁に行くときに使ってほしい、と大事に仕舞っていた装飾品がある。それに合うようなドレスを仕立てるよう、ビアンカたちに相談しなさい。結婚費用は、こちらも出すと伝えておけ」
また、言った。幻聴ではない。
父が初めて、自分の名前を口にした。
驚嘆というか、唖然というか、それが現実だと認識した瞬間、真っ先に思ったことを、無意識に声を出して言っていた。
「父上……オレの名前、覚えていたんですね」
間。
父はびくっと肩を震わせるが、一言も声を発しない。
居たたまれなくなって、クロニカは慌てて頭を下げた。
「そ、それでは失礼しました!」
脱兎の如く、執務室を出て、クロニカは母の部屋へ向かった。
思えば、母が死んで初めて入る。本当は入りたかったが、父がよく出入りをしていたから、入れず仕舞いだったのだ。
母の部屋の扉を、ゆっくりと開ける。
定期的に掃除をしているのか、部屋の中は誇りっぽくなかった。
母が愛用していた箪笥の前に立ち、言われたとおりに一番上の段を引く。中には、母が宝箱と言っていた、両手で軽く持てるくらいの宝石箱だけが置かれていた。
そっと、宝箱を持ち上げてみる。ずっしりとした重みを感じて、宝箱を抱き締める。
「母上……」
瞼を閉じて、母の顔を思い出す。あの人がどういう表情をしていたのか、かなり忘れてしまっている。
だが、この宝箱を持って、いつか中身ごとクロニカにあげるわ、と微笑んでいたことは覚えている。
「母上、あのね、さっき父上が、初めてオレの名前を呼んだんだ」
ここにいない、見えなくなった母に小さく話しかける。
「あの人のことに関しては、もう期待することをやめたのに……」
たった、名前を呼んでくれただけなのに、あの頃の夢が蘇ってきたのだ。
父と仲良くしたい、という幼かった夢が。
「今はまだ、無理だけど、これから上手くいけるかな……」
胸の中に熱いものがこみ上がってきて、目頭が熱くなる。
「父上と、普通の親子の関係を、築けるかなぁ……」
そのとき、知っている匂いが鼻腔を掠めた。
まるで、大丈夫、と言われたような気がして、宝箱に一滴の雫が滴り落ちた。




