激突②
どうやら、エントランスのほうで言い争っているらしく、微かだが声が聞こえる。壁も扉も分厚いので、さすがに内容は分からない。
クロニカはゆっくりと深呼吸をして、少しだけ扉を開く。怒鳴り声が明瞭になった。怒鳴っているのは、祖父と父だ。
音を立てないように、ゆっくりと開いて、扉の隙間から様子を窺う。
こちらに背中を向けているのは、父だ。向き合っているのが祖父で、二人の間に祖母がいた。祖母ははらはらとした面持ちで、二人の顔を交互に見ている。
険悪な雰囲気だ。それに尽きる。
「あの子を他国に嫁がせるなど、俺は認めんぞ!!」
「貴方に決定権はない!! あれを誰に嫁がせるのか決めるのは、私だ!!」
「自分は恋愛結婚しといて、あの子には政略結婚を押し付けるってか!!」
「政略結婚は、貴族の務め。なに甘いことを!!」
父が祖父の胸倉を掴む。止めようと、扉を開けようとしたが、祖父の怒声で留まる。
「政略結婚? 政略結婚というわりには、相手と結婚した利益がないように見えるんだが?」
「しばらく領地の運営に携わっていない貴方には、今の領地の事情を知らないでしょう。とやかく言われる筋合いはありません」
「三十年間領地運営をやって、ずっとここで暮らしている俺を舐めるんじゃない!! 領地の事情は、お前より詳しい!!」
「ふんっ! 母上にも領地運営を手伝わせた人が、偉そうにしているんじゃない!!」
「なんだと!!」
お互い、一歩も引かない。すると、おろおろしていた祖母がカッと瞠目し、声を張り上げた。
「落ち着きなさい!!」
アリーシェの一喝で、静まり返る。父が手を解いたのを見ると、こほん、と咳き込んで、アリーシェは二人を交互に見た。
「お二人の言い分は正しいわ。ええ。政略結婚は貴族の義務ですもの。でも、ミリアさんとの結婚は、うちに大した利益はなかったけど、不利益もなかったわ。当時も今も、利益を求めるほど困窮していなかったから良いわ」
僅かだが、今も、を強調していた。
「では、この人と一緒に領地経営していた立場から、言わせてもらいましょう。この人の言うとおり、相手と結婚しても、こちらに利益がないと思うわ。利益がない以上、政略結婚と言えないのは分かるわね?」
父は何も言わない。それを肯定と受け取ったのか、アリーシェは続けて言った、
「うちの特産品や、相手の特産品。全くもって噛み合っていないわ。相手の特産品はうちにも流通しているし、その特産品が他のと違うわけでもない。ジルド、うちの利益はなに? ちゃんと説明して。ちゃんとした理由があるのなら、この人も納得はするわ」
アリーシェがジルドを真摯に見据える。だが、父はそんな母を見て、鼻で笑った。
「あれを家から追い出す。それがこちらの利益ですが?」
祖父母の顔が強張った。自分の息子から、そんな冷淡で残酷な台詞を聞くなど、優しくて、父のことを想っている二人には衝撃が大きいに違いない。
強張った顔に変化があったのは、ヘンゼルが一番だった。ヘンゼルは、怒りを顕わにし、片手で父の胸倉に掴んだ。
「お前はっ!! クロニカのことをなんだと!!」
ヘンゼルが怒りのような悲鳴のような声を上げる。父は眉間に皺を寄せて、胸倉を掴んでいる手を振り払う。振り払った勢いが強すぎたのか、その拍子にヘンゼルが尻餅をついて転んでしまった。
もう、見ているだけでは我慢できなくなった。
「お爺様!」
扉を開けて、祖父に駆け寄る。祖母が、クロニカ! と、悲鳴を上げたが無視した。出るな、と暗に言われたことは分かったが、それでも放っておけなかった。
ヘンゼルの許に駆け寄り、屈める。
「お爺様、大丈夫ですか?」
「ああ……すまんなぁ」
祖父が申し訳なさそうに、顔を歪める。クロニカは首を横に振った。
庇ってくれた、それがとても嬉しいから謝る必要がないのだと、伝えるため笑顔で返した。
今は言葉で伝えるよりも、目の前の人をどうにかしないといけない。
クロニカは、自分たちを見下ろしている父を睨めつけた。
久しぶりに視線を交わした父は、相変わらず冷淡な目をしていた。クロニカの反抗的な目が気に入らないのか、それともただ存在自体気に入らないのか、クロニカと視線を交わした瞬間、これでもかというくらいに眉間に皺を寄せた。
「帰るぞ」
そう言って腕を掴んできた父の手を、思いっきり振り払った。父が自分に触れるのは、これで二回目だった。だが、怒りが先立って、それについて気にする余裕などなかった。
父はいっそう皺を濃くして、クロニカの頬を叩いた。乾いた音が響き渡る。息を呑む音がした。クロニカは心に衝撃を受けなかった。今まで押し止めていた感情が逆流してきて、気にしていられなかった。
クロニカは、父を睨み返しながら、父の頬を殴る。僅かだが、父の目が見開いたような気がした。
だが、すぐに凍てついた目で、クロニカを見据えると、クロニカの胸倉を掴んだ。
「自分が何をしたのか、分かっているのか?」
「分かっていますよ。でも、それが何か?」
クロニカはふんっと鼻を鳴らす。
「親に向かって、なんて口の利き方だ」
「あなたが言いますか?」
父の眼光が鋭くなる。だが、恐ろしいとは思わなかった。
昔は、睨まれるだけで竦み上がっていたのに。今はただ、視線が近くなったことに、ほんの少しだけ驚いているだけだった。
「父上も、だいぶお爺様に暴言を吐いていたではありませんか。それに左足が麻痺しているお爺様を転ばせておいて、謝罪を一切しない人に言われたくありません」
父は何も言わない。だが、眉間の皺がさらに濃くなった。
「謝罪はしないのですか?」
父が祖父に一瞥するが、すぐにクロニカのほうへ視線を戻した。謝罪はするつもりはないようだ。
「母上もよく言っていたでしょう? 悪いことをしたら、たとえ相手が目下の相手でも謝らないといけない、と。悪いことをしたら目上も目下も関係ない。あなたは、母上の言葉に背くのですか?」
「うるさい!! 御託を並べていないで、帰るぞ!!」
母が出てきて、僅かに狼狽えたようだが、父は振り払うように声を張り上げた。
クロニカは口元に弧を描いた。
これが英雄か。笑わせる。こんなの、ただの弱虫ではないか。
過去と、親と、自分と、向き合うことを恐れている、ただの大きい子供ではないか。
「なにがおかしい」
僅かな笑みに気付いたのか、父が訝しげに訊ねてきた。さすがに、大きな子供みたいだ、と言ったら今よりも激高するだろう。クロニカは咄嗟に冷たく言い放った。
「帰るぞ、帰るぞって、まるで親みたいなことを言うな、と」
「親だろう」
「親? あなたのどこが親なんですか?」
クロニカははっと鼻で笑う。
「名前も呼ばず、子供に会いに来ず、なにやっても褒めず、手を握らず、生まれてこなければよかったと殴る。それが親なんですか?」
クロニカは祖父母を一瞥する。倒れている祖父を、祖母が支えている。二人は言葉を失い、二人を凝視していた。
二人から目を逸らし、再び父を睨む。
「親っていうのは、母上と、この二人のことをいうんですよ!」
クロニカは声を荒らげ、言い放った。
「お爺様もお婆様も、ほぼ真っ先に訊いたことは、ジルドは元気にしているか、ですよ!! 父上が子供だった頃の思い出話も、すらすらと出てくる!!
それに対して、あなたはどうですか?
オレの好物も知らない、趣味も苦手な科目も、オレに関することは何も知らない、知ろうとしなかった!! あなたが語れるのは、精々母上との思い出話だけ。それなのに、どうして親だと悪びれもなく言えるのですか!?
自分の子供だとも思っていないくせに!!」
父の力が弱まった。その隙を突いて、クロニカは父の腕を振り払う。
一気に言ったせいか、動悸が激しい。喋っただけなのに、息切れを起こしていた。だんだんと頭が冴えてきて、感情の渦が消えかかっていく。
「オレはクリス伯父上じゃない」
気が付けば、その言葉が口から漏れていた。父が瞠目する。やはり、自分と伯父を重ねていたのであろうか
。
だが、そんなことは関係ない。今は、ただただ言いたい。
「たしかに瞳の色は同じでした。でも、それがなんです? ただ、色が同じなだけで、他は全く似ていないではありませんか」
何度も周りの人に聞かされた。使用人、じいや、ジュリウスの母、そしてジュリウスに。自分は母親似であると。
それはクロニカ自身も、そう思う。どこからどう見ても、自分は父似ではない。目元も口元も、母似だ。それなのに、父は瞳の色でしか自分を見ていなかった。
違うのに。自分と伯父は、血が繋がっていても違う人間なのに。割り切れなかったのだろうか。だとしたら、自分はとてつもなく振り回されていたものだ。
「あなたと伯父上の間に何があったのか、オレは知りません。けど」
拳をぎゅっと握り締める。クロニカは、父を見据えた。
「どう足掻いたって、オレはあなたの娘だ。ジルドとミリアの間に生まれた、娘なんだ。伯父上と一緒じゃない」
静寂が流れる。誰もが言葉を失い、唖然としていた。父も唖然として、クロニカを見つめていた。
父のこのような表情を見たのは、初めてだ。
クロニカは見つめ返した後、つうっとと視線を逸らして、玄関に向かって歩き出した。




