森へ
例の森は、ちょうど街と屋敷の間にある。
この森は定期的に伐採されているので、草もそこまで生えていない。人がよく通っているから、野生動物とは滅多に遭遇しないらしい。ただし、奥は人が出入りしていないので、野生動物と遭遇しない保証はなく、自己責任となるから絶対に足を踏み入れるな、ということだった。
ともあれ、二人はゆったりと森を歩いていた。
もっと鬱蒼としているかと思っていたが、予想以上に明るくかった。伐採されているからか、程よく太陽の光が入っている。麦藁帽子を着けていなくても、大丈夫なほどだった。
影があるので、森の外と比べると随分と涼しい。ジュリウスも快適そうだ。
「伯父上が落ちた崖って、どこにあるんだろうな?」
「聞いてきたから、案内するよ」
「聞いてきたって、誰にだよ?」
「当事者に」
クロニカは首を傾げる。
「当事者って?」
「あの診療所の所長、元はクリス氏の主治医で、当時の捜索隊の一員だったらしくて、クリス氏を発見したのもその人らしくて、色々聞けた」
「お前、よく短い間に色々と聞けたな」
ここに来て三日目なのに、よくそう辛い過去に触れる事柄を聞けたものだ。距離を測らないと、聞けない事柄だというのに。
「クロニカが伯父が死んだ場所を聞いて、花を添えたいらしいけど、屋敷の人達には聞きづらいって零していたって言ったら、快く教えてくれた」
「オレ、花を添えたいとは一言も言ってないんだけど」
すると、ジュリウスはしれっと言いのけた。
「嘘だからね」
「お前……」
クロニカは半眼で、ジュリウスを見据える。
「花持ってきてねーんだけど」
「クリス氏は、花屋に売っている花よりも、そこら辺に咲いている野花のほうが好きだったから、そっちのほうが喜ばれるかもって言っていたから、行く途中で野花を摘んで花束にして供えますって返しておいた。これで花屋に行かなくても、不審がれない」
「抜かりねーな。っつっても、野花って色々あるからなぁ」
ぐるりと辺りを見渡すと、ヤマユリが見えた。
「ヤマユリだけじゃ、つまらないよな。他の色も足すか」
「そこは任せる。僕はあまり分からないから」
「おう」
ヤマユリを摘んで、他の野花を探しながら例の場所に向かう。ジュリウスはコンパスと地図を交互に見ながら道を先導し、クロニカはジュリウスの指示通り、枝に布を括り付けながら、野花を探すのは時間が掛かるため、色が被らないように選びつつ、道の途中で咲いていた野花だけを摘んでいく。
そうこうしているうちに、例の場所に辿り着いた。
「ここだ」
「ここかぁ……」
辿り着いたのは崖上ではなく、崖下だ。アリーシェが言っていた通り、高さはそれほどでもない。クロニカでも上まで登れそうだ。
「クリス氏は、どうやら木に凭れかかっていたらしい」
「倒れていたわけじゃなかったんだな」
「自分で移動しようとしたみたいだけど、すぐ諦めたみたいだ」
ジュリウスは辺りを見渡しながら、木を眺める。そして、ある一本の木の前で立ち止まった。
「多分、この木だと思う」
「なんで分かるんだ?」
「主治医の人が、事細かく覚えていたんだ。伐採されているけど、ここら辺は事故が起こった頃からされていないみたいで、その木の目印を教えてもらった」
クロニカはゆっくりと、その木に近付いた。根元のほうに視線を向け、凝視する。
(ここに伯父上が……)
肖像画で見た伯父の姿を思い描き、その姿を木に凭れかかせる。
「あと、発見されたときは、まだ息があったって」
「え? そうだったのか?」
それは聞いていなくて、クロニカは目を丸くする。
「らしいよ。応急処置したんだけど、その後に息絶えたらしい」
「そうだったのか……」
では、ここで亡くなったわけではなかったのか。
クロニカはその場所に、そっと野花で作った花束を供えた。黙祷を捧げ、崖を見上げる。
「あそこらへんで落ちたんかな?」
「そうじゃない?」
ジュリウスも崖を見上げる。
「たしかにこの高さだと、良くて打撲、悪くて骨折、最悪死ぬな」
そうだな、とクロニカは頷く。崖を見上げながら、昨日、庭師が言っていたことを思い出す。
――クリス様が崖から落ちたのは、ジルド様が突き落としたからっていう噂があるんだ
もし、そうだとしたら、父はあの場所にいたのだろうか。
あの話を聞いて衝撃を受けたが、信じる信じないかの話になってくると分からない。父上がそんなことするはずがない、と言い張えるほど、父のことを知らないし、自分でも驚くほど、淡々と噂を受け入れている。
あの庭師が強く前置きとフォローをしてくれたからなのか、それとも情があまりないのか。
もし、後者なら薄情な奴だ、と自分が嫌になってくる。昔は認めてもらいたいくらいに情があったはずなのに。
「クロニカ?」
ジュリウスに呼ばれて、我に返る。
「考え事?」
「ああ、うん」
ジュリウスのほうを一瞥して、再び崖上を仰ぐ。
「昨日さ、父上の噂を聞いたんだけど」
「噂?」
「父上が伯父上を突き落としたんじゃないかっていう噂」
「ああ、やっぱりあるんだ」
クロニカは崖上から、ジュリウスに視線を移した。
「やっぱりって?」
「一緒にこの森に来たうえに、動機がある。そんな噂が流れていてもおかしくないな、とは思っていたんだ。ま、実際のところは分からないけど。クロニカは、その噂を信じている?」
「どうだろう。正直言って、分かんねーや」
偽りなく述べ、さらに言い募る。
「信じられるほど一緒に過ごしてねーし。だから、お爺様とお婆様のように、あの子がそんなことをするはずがない! って、胸を張って言えない」
「あの二人は、公爵のことを信じているんだ」
「みたい。庭師が言うには、だけど。お前はどう思う?」
訊ねると、ジュリウスは肩をすくめた。
「どちらでも、別に良いかな。僕も公爵と話したことがないし、顔すらまともに見たことがあるの一度だけだから」
「そうだったっけ?」
「顔を合わせたときって大体、クロニカと一緒にいるときで、一言言うか無視するかだったし」
記憶を手繰り寄せてみる。たしかに、ジュリウスと一緒にいるとき、何回か鉢合わせしたことがあるが、そのときは一言だけ言ってさっさと去るか、ジュリウスごと無視されたことか、どちらかだったような気がする。その一言もとても冷たいものだった、と思い出し、苦虫を噛み締めたような顔になる。
「ん? その一度っていつだ?」
つまり、クロニカがいない時以外というわけで。
「夫人が亡くなった日に、まともに顔を見たよ。まあ、まともって言っても、短い間しか見ていないけど」
「そういえばお前、あの日屋敷に来たんだっけ」
「来ていなかったら、お前死んでいたぞ」
はあ、と盛大に溜め息をつく。なにを今更、という感じでつかれた。
クロニカはむっとしたが、言葉を呑み込む。頼んでねーよ、と返すのはさすがに拙い。
「まともに顔を見たのって、その日だけかよ」
「それは見るよ。母上がすごい剣幕で、公爵をぶったんだから」
「………………へ?」
間を置いて、クロニカが素っ頓狂な声を出す。
あのいつもニコニコしている、ノリも軽いセピール夫人が怒ったうえに、父をぶっただと。
そんな話、聞いていない。
「あれ? 言ってなかったか?」
「言ってもないし、聞いてもないぞ! あの時は、ジュリウスが運んでくれて、屋敷の方は忙しいから、ジュリウスの屋敷で看病されたとしか……」
「ああ、そうだったか。言う必要もなかったから、言わずしまいだったな」
ジュリウスが得心したふうに頷く。頷くのはいいが、説明してほしい。
「なんで殴ったんだよ」
「公爵がクロニカに言った言葉を聞いて、そうなったんだよ。あんな母上を見たの、初めてだった」
ジュリウスが遠い目で語る。
父がクロニカに言った言葉。絶対にあの言葉のことだ。母の主治医か女中に聞いたかも、と思っていたが、やはりあの言葉のことを聞いていたのか。
「余談だけど、その後母上が、やっぱりグーで殴れば良かった、と零していたよ」
「あの人、怒るとけっこう激しいな……」
殴らないでよかった、とか、淑女がグーって、という感想より、それが真っ先に言葉に出た。ジュリウスは肩をすくめる。
「僕たちには怒ったことがないけど、よほど公爵の態度に腸が煮えくり返ったんだろうな。今でも怒っているよ」
「怒ってくれるのは嬉しいけど、意外に恨に持つというか……」
怒っても次の日には、けろりと忘れていそうな人なのに。しかも、友人の娘とはいえ他人なのに、そこまで怒るとは。
「まあ、怒っても時間が経ったら、忘れる人だけど。母親としての矜恃が許せないみたい」
「なんだよ、それ」
クロニカが胡乱げに首を傾げる。
あの時の剣幕を細かく言ってもよかったのだが、話すと長くなるし、何よりあんな言葉を自分の口から言うのは性に合わない。ジュリウスはふっと笑って小さく首を傾げてみせた。
「さぁ?」
「さては、言う気がないな、お前」
「僕の口からだと、言えないっていうだけだよ。どうしても知りたいんなら、母上かラリー先生に聞いたらいい」
そう言って、ジュリウスは溜め息をつく。
「それはそうと、満足した?」
「あの崖の上に立ってみたい」
「危ないから却下」
速攻で却下され、クロニカはむっとなる。
「気を付けるからいいだろ?」
「駄目。気を付けても落ちることがあるから、絶対に駄目」
「ちぇっ」
クロニカは唇を尖らせながら、ジュリウスから視線を逸らした。強い口調で言った時には、逆らわないほうが懸命だ。ジュリウスは根に持つし、クロニカでもさすがに彼を怒らせると怖いと思うのだ。
「そろそろ帰るか」
「そうだな」
ここに来た目的は、特にない。ただ、来たかっただけなのだ。だから、目的は果たされたに等しい。
「屋敷まで送るよ」
「大丈夫だって。お前が遠回りになっちゃうだろ」
「いいから送らせてよ。ここら辺は治安が良くても、一人だと心配だから。それに、できれば長くお前と一緒にいたいし」
「んなっ!?」
さらり、と告げられた台詞に赤面する。テンパっていると、ジュリウスがとっとと先に歩き始める。赤面しながらも、クロニカは慌ててその後を追った。
ジュリウスは何も喋らない。だが、耳が赤くなっているのが見えて、若干だが頬が冷めた。照れるんなら言うなよな、と思いながら、後ろを歩く。
ジュリウスの後ろ姿を眺めながら、あの日のことを回想する。
あの日……母が死んだ日のことを、今でも昨日のことように思い出せる。足に絡まったあの冷たい空気も、胸騒ぎも、叩かれた頬の痛みも。全部、覚えている。
だが、屋敷を飛び出した後は記憶が曖昧だ。林の中に逃げ込んで、雨が降って、倒れたことは覚えているが、景色の詳細はおぼろだ。
死んでもいい、と思っていた。自分が死んで悲しんでくれる人なんかいない。絶望して、自己放棄して、諦めていた。
けど、屋敷を飛び出したクロニカを、ジュリウスは探しに来てくれた。雨の中、ずっと。一人で自分を運んで、目が覚めるまでずっと傍にいてくれた
。
どうして、助けてくれたのだろうか。どうして、探しにきてくれたのだろうか。今になって、その疑問がまた浮上する。
「……なあ、ジュリウス」
「…………なに」
先程の余韻なのか、随分と間を置いてから返ってきた。こちらに一瞥も寄越さない。
「……いや、なんでもない」
訊く気を無くし、クロニカは俯く。ジュリウスは振り向こうとしたが、やはり止めたのか、すぐに前を向いた。




