その頃のルーカス
カリカリ、と羽ペンを走らせる音が執務室に、響き渡る。ルーカスは半分死んだ目をしながらも、目の前の書類を完成させるため、羽ペンを動かしていた。
意識は半分どこかに飛んでいる。それでも動いているのは、身体に染みこんでいるからだ。
(どうして、俺は文字を書き続けている? この行動になんの意味があるんだ? そもそも、俺の存在意義とはなんぞや? ただただ意味もない書類を精算することが? そもそも、俺とはなんだ?)
と、残っている意識はそんな自問自答を繰り返している。利き手に一瞬激痛が走り、ルーカスは我に返った。どこかに飛んでいた意識も戻ってきて、唖然とする。
「うわ、俺、完全にイっていた。こわっ」
ぶるり、と身体を震わせながら、利き手を摩る。神経痛だろうか。痛いけれど、とりあえずありがとう。
心の中で神経痛に感謝して、羽ペンをペン立てに戻す。今、自分に必要なのは休憩だ。急遽、取らなければ。
傍で書類の整理をしていた執事に、話しかける。
「セバス、しばらく休憩するよ」
セバスは振り返って、笑みを浮かべながら頷いた。
「畏まりました。では、お茶とお菓子を持って来ますね」
「お願いするよ」
「あと、ルーカス様。お時間が掛かると思われるので、その間に仮眠されたほうがよろしいかと」
「はははは……そうするよ」
ルーカスは苦笑いをした。先程の呟きが聞こえていたらしい。恭しく一礼し、執事が執務室を出て行った。
ようやく肩の力が抜けて、ルーカスは腕を回した。かなり肩が凝っている。身体も固い。
仮眠する前に身体を動かそうと、立ち上がって体操をする。しばらく動かしていなかったあとに身体を伸ばすと、痛いが気持ちいい。
一通り体操が終わり、身体がある程度解れた。肺に溜まった空気を一気に吐き出し、ルーカスは窓の外に視線を投げる。
昨日は雨が降っていたからか、空気がとても澄んでいる。空も遙か青く、大きな入道雲が近い。良い天気だ。こういう日は、散歩をしたいところだ。気分転換に花迷路を楽しむのもいいかもしれない。
「ていうか、もう、外に行きたい……」
だが、書類の山が許してくれない。この書類の山を半分くらい減らしておいてからではないと、義父は良い顔をしてくれないだろう。
「ていうか、良い顔を見たことないな、うん」
笑ったことは見たことがない。表情の違いを一応見分けることは出来るが、基本仏頂面である。誰でも分かるほど表情を変えるのは、かなり怒っている時くらいである。
(ああ、そういえば、クロニカは元気でやっているかなぁ)
クロニカが祖父母の所に行って、十日目。何事もなければ、あと二十日で帰ってくる。
この国の学園の長期休暇は、長くて二ヶ月、最低一ヶ月だ。夏は一ヶ月なので、あと二十日で帰ってくる。
(ジュリウス曰く、クロニカは気に入ってもらっているみたいだから、そこは心配していないけど)
手紙の約束を取り付けたジュリウスに感謝だ。状況が分かっていなかったら、祖父母の態度についても心配しなければならない。自分も手紙の約束を取り付けておけばよかった、と少し後悔した。
(あ、取り付けていたら、恨み辛みを綴った手紙が来ていたか。うん、帰ってきたらなにか言われるかもしれないけど、取り付けなくて正解かな?)
ジュリウスが領地に向かって、二日目。順調にいけば三日後にはあちらに着くだろう。建前、自分の依頼で赴いた形になっているが、真の目的は、ジュリウスがクロニカを落とすためにある。
(ジュリウスは、無事、クロニカを落とせるか……それが最大の、謂わば問題だ)
ルーカスが心配しているのは、それだけであり、最大の悩み事であった。
ジュリウスは素直ではないが、クロニカに対する好意を隠すつもりはないらしく、堂々としている。いや、あれはクロニカに気付いてもらうため、開き直っているのかもしれない。
好意を堂々しているのはいい。クロニカに対しては効果抜群だろうし、変に抉られずにすむだろう。
問題は、口説き方だ。
ジュリウスは今まで、女性と関係を持ったことがない。なんでも昔、声を掛けた女子が苛められて、その子が精神を病んでしまい、それ以降クロニカ以外の女子と話したことがないという。そういった過去もありの、他人の恋愛にも全く興味を示せなかったジュリウスが、はたして上手く口説けるだろうか。
(そもそも口説き方、知っているのか。それが心配だ。ジュリウス、絶対にクロニカ以外の子、好きになったことないだろうし、口説く口説くと言いながら、そんなに口説いていないんじゃなかろうか)
ルーカスの杞憂は当たっているのだが、ルーカスが知る由もない。
(もしそうなら、いっそのこと口説くのは後回しにして、さっさと婚約取り付けたほうが早い気がするな)
ジュリウスは、外堀を埋めてからクロニカを婚約者にするつもりらしいが、それはあくまでクロニカの気持ちを確認してから、らしい。変に真面目というか律儀というか。感心する以上に、呆れてしまった。
幸いにも、クロニカはジュリウスのことをただの友達とは思っていないらしく、ジュリウスの気持ちを一蹴していないという。
これはチャンスとしか言いようがない。兄として、クロニカの幸せに一役買いたい。
別に結婚が女の幸せだと、ルーカスは考えていない。ただ、この国だと貴族の女性の就職は極めて難しいし、ここにいてはクロニカは幸せになれないと思って、ジュリウスに協力しているのだ。
(あの人はクロニカの結婚相手を探しているけど、理由はクロニカを自分から遠ざけるためだし、結婚した後のことなんてどうでもいいんだよな、きっと)
つくづく、親としてどうかしている、と思いながら、ぼんやりと外を眺めていると、執務室の扉が激しく開く音がした。
驚いて振り向くと、そこにはいつもにも増して顰めっ面の義父、ジルドがいた。ルーカスは首を傾げる。
「そんな顔をして、どうかされたんですか?」
飄々とした風で訊くと、剣呑な目つきで睨まれた。心の中で、おっかないなぁ、と呟きながら養父が喋るのを待つ。
憶測を立てるより、こうして喋るのを待ったほうがいい。そうしないと分かるものも分からない。それが、開き直ったルーカスの持論であった。
ジルドは鋭い眼光を放ちながら、憎々しげに口を開いた。
「あれは何処にいる」
あれ、とはクロニカのことだ。ルーカスはわざとらしく、目を瞬く。
「クロニカがどうかされたんですか? なにかやらかしたので?」
しれっと聞き返す。場所は知っているが、すぐに答えない。ジルドはずかずかとルーカスに近付く。
「あれの見合い相手が決まった」
「へぇ……」
とうとう見つかってしまったのか。そういう気持ちを込めて、相槌を打った。
「あれの姿が見えない。何処にいるのか、お前なら知っているだろう」
「さて、どうでしょう? クロニカは交友が広いですからね」
「しらばっくれるな。馬車を用意していることは分かっているぞ」
ルーカスは、薄ら笑みを浮かべながら、視線を泳がせた。
十日でバレるとは、この人にしては早い。後六日はバレないと思っていた。
「学生最後の夏休みなので、旅行に行っていますよ」
「何処にいると訊いている」
「お見合いっていつですか? 別に今すぐではないのでしょう?」
「十二日後だ」
「それはまた、急ですね」
普通は早くても一ヶ月後だ。早すぎるのは、卒業までに決めたいからなのか。
「だから、あれは何処にいると訊いている」
「えーと……」
誤魔化すべきか、正直に言うべきか。時間稼ぎをしたいところだが、見合い相手のことを考えると、そう悠長なことを言ってられるのか。
しかし、今の様子から見ると、クロニカの意思を無理し、たとえ帰りたくない実家だろうが赴き、無理矢理連れて帰ろうとするだろうから、言いにくい。
思案していると、ひょっこりと顔を出している見習い執事が見えた。そういえば、扉は開いたままだったな、と廊下でこちらの様子を窺っている見習い執事と目が合う。
助けてくれるとありがたいけれど、と思っていると、ジルドが扉のほうに振り向いた。見習い執事が、びくっと身体を震わせる。
「おい」
「は、はひぃ!」
いつもよりも低い声色で話しかけられ、見習い執事が悲鳴の混じった声で返事をした。
これが蛇に睨まれた蛙、と暢気に考えた。
「あれが何処にいるか、知っているか」
「お嬢様、ですか? 領地の屋敷に滞在中とお聞きしましたが」
刹那、ジルドから殺気がぶわっと溢れてきた。見習い執事がひぃっ! と先程よりも大きな悲鳴を上げる。
ジルドが睥睨してきたが、ルーカスは口笛を吹きながら素知らぬ顔で、目を逸らした。
やがて、忌々しげな舌打ちが聞こえてきた。ジルドはルーカスに言葉を掛けず、大股で執務室を後にした。
ジルドが執務室を去り、ルーカスは盛大な溜め息をつく。見習い執事を見ると、今でも泣きそうな顔をしてルーカスを見ている。
「あーあ……やっぱりこうなっちゃうかぁ」
あの様子だと、今すぐ馬車を用意して領地に向かうだろう。こうなれば、ルーカスは止めることはできない。
ああ、面倒くさいことになってしまったなぁ、と頭を掻く。
(まあ、鬼の居ぬ間に色々と手を回しておこうかな)
この間の訪問で仲良くなった、彼の弟ジェットの顔を思い浮かべながら、長椅子に座り、大きく欠伸をした。
「あ、あの、ルーカス様」
「あ、今から仮眠するから」
「へ?」
「というわけで、おやすみ~」
と、言いながらそのまま横になり、目を瞑る。ちょっとルーカス様ぁ! と、見習い執事が起こそうと身体を揺らすが、知るか。
ジュリウスにこのことを、今すぐ知らせる術はないし、手紙は間に合わない。もう、あっちのことはジュリウスに任せた。それに今、猛烈に眠い。手を回すのは後でもいい。それから睨まれる筋合いもない。あの馬鹿のせいだ。クロニカがあっちに行ったのも、全部馬鹿のせいだ。俺、知らない。
ルーカスは、後々のことを考えるよりも先に、不貞寝することにしたのだった。




