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美しきモノ  作者: 空廼紡
空の向こう
39/63

追憶②

――兄が死んだ、死んでいた。


 月の光が弱い夜、少年は光を宿していない瞳で、虚空を見つめていた。寝具の上で膝を抱え、怯えながら、目に見えない誰かから身を守るように、息を潜めている。


 胸の内にあるのは虚無なのか、虚しさなのか、罪悪感なのか、それとも愉悦なのか。曖昧になるほど溶けた感情の本質を、冷静に客観的に見つめるほど、少年は大人ではないし、本質を本能的に悟るほど子供でもなかった。


 ちぐはぐな精神は、歪む。


「ねぇ、聞いた? クレス様のこと」

「やめなさい。ジルド様のお部屋の前なんだから」

「いいんじゃない? こんな時間なんだから、どうせ寝ているわ」


 廊下の明かりである蝋燭の火を消しに来たのだろう。廊下から、女中の会話が聞こえてきた。


 澄み切った空気が流れ、虫の鳴き声もしない、そんな夜中だったから、女性の高い声が廊下からだというのに、やけに部屋に響いた。


「それよりも、他の女中から聞いたんだけど、実はジルド様が」


 反射的に耳を塞ぐ。


 女中の台詞は、分かっている。時には密かに、時にはわざとらしく、使用人たちが噂をしているのを、何十回も聞いたからだ。


(やめろ)


 違う、そうじゃない。

 兄は、落ちたんだ。あの崖から、落ちただけなんだ。


(やめろ!!)


 心の中で叫んでも、女中が聞こえるはずもなく、噂話は進んでいく。耳を塞いでいるが、それでも微かだが音が聞こえてくる。


 それが、少年の心を引き裂き、歪にしていく。


 慟哭したところで、誰も気付いてはくれない。気付いても、疑惑の目で見つめるだけに違いない。両親も、使用人も、自分を信じてくれない。全員が、自分を疑っている。


 味方などいない。誰も、いないのだ。


 ふと、壁に掛けられた肖像画が目に入った。


 それは、兄の誕生日にくれた物だ。お揃いの物を飾ってほしい、という兄の願いで、画家が同じ絵を二枚描いたのだ。


 それは、兄と自分の肖像画だ。肖像画の兄と目が合う。澄んだ空色の、目。


「っ!!」


 刹那、激情が少年を襲う。


 あの時、自分をじっと見つめた目が、そこにある。それが、我慢できなかった。

 ベッドから下りて、勉強机の上に置いてあった羽根ペンを握り締め、ズカズカと派手な音を立てながら肖像画に近付く。


 そして、肖像画をわざと落とし、覆い被さるように肖像画に跨ぐと、羽根ペンを強く握り締めながら、それを兄の目元に当てる。


「――見るな」


 兄の目元を引っ掻く。一線が、兄の目を傷付けた。


「見るな、見るな……」


 呟くたびに、兄の目に一線を刻む。


 一線を刻み続けても、兄が自分を見つめる。

 まるで責められているようで、許さないと言われているようで、少年の目前が真っ赤に染まった。


「見るな、見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな!!」


 徐々に声を荒々しく上げながら、一心不乱に、額縁を突き破りそうな勢いで、羽根ペンでガリガリと激しく抉っていく。


 激情のままに、鬱憤を晴らすように、目を潰す。


 息を切らした頃には、目が潰れていた。それでも、まだ足りなかった。

 兄に見られている。そんな錯覚が付きまとう。


 小さく悲鳴を上げながら、少年は兄の顔の部分を破り、破った部分をさらに破った。激しい感情をぶつけるように、粉々にした。


 ばらばらになった兄の顔を見て、少年はやっと安堵した。


 だが、次に目に入った己の顔に、嫌悪感が込み上がってくる。嫌悪感のまま、自分の顔も服装も、破り捨てた。ぐしゃぐしゃにして、そのまま細かく破っていく。


 破り終えると、静寂が部屋を支配した。廊下にいた女中の声は、いつの間にか消えていた。もしかしたら、物音がしたから逃げたのかもしれない。そんなの、どうでも良かった。


 頭が冴えてきて、少年は頭を抱えた。

 後悔、罪悪感、憎しみ、嫌悪感が一気に押し寄せてくる。


(ぼくなんて、消えてなくなればいいんだ)


 今、破り捨てた自分のように、本物の自分も消えていなくなってしまえばいい。

 少年は、心の底から望んだ。

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