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美しきモノ  作者: 空廼紡
空の向こう
35/63

追憶①

「母上!」


 アリーシェは振り返る。六歳になったばかりの息子、ジルドがこちらに破顔している。

 大きくなるにつれ、夫の面影が強くなっていく息子に笑みを返しながら、目線を合わせるため屈んだ。


「なにかしら?」

「ぼく、一人でポニーにのれるようになったんです」

「まぁ! すごいわね!」


 ジルドが乗馬を始めてから、六日。短い期間で乗れるようになるとは思ってもみなくて、アリーシェは喜色を浮かべた。

 褒められて、ジルドは照れくさそうに笑う。


「次はうまに乗りたいです」

「まだ背が足りないから駄目よ。それまで、ポニーでいっぱい練習しなさい」


 そう諭すと、ジルドは不満そうに顔を顰めた。ここで折れたら駄目だ。馬は良き友となるが、落馬したら命を落としかねない。ポニーもそうといわれれば言い返せないが、無理に馬に乗ったら危険すぎる。


「いい? まだ馬には乗らないで。分かった?」

「……はい」


 まだ不満そうだが、言質は取った。ジルドは良い子だ。約束したら守ってくれる。


「あの、馬には乗らないので、僕が」

「奥様!」


 切羽詰まった女中の声がして、アリーシェは振り返った。


「どうしました?」

「クリス様の熱が、また上がって」

「なんですって!」


 もう一人の息子、クリスは生まれつき身体がとても弱かった。昨日から高熱を出して、医者が掛かりっきりで診てくれている。ただでさえ高かったのに、あれ以上高くなったら。


「わかったわ。すぐに向かうわ」

「母上、あの」


 ジルドが呼ぶ。アリーシェは再び、ジルドに視線を向けた。


「ジルド、母は行きますからね」

「あの」


 顔色をなくした息子の肩を、優しく叩く。


「また後でね、ジルド」

「でも、兄上ばっかり」

「ジルド!」


 思わず声を張り上げる。ジルドがびくっと肩を震わせて、俯く。


「ごめんなさい。けど、お兄様が危ないの。誰かが傍にいてあげないといけないの。我が儘を言わないで」

「……」

「あとで聞いてあげるわ。良い子で待っているのよ」


 立ち上がって、アリーシェはクリスの部屋に向かう。ジルドの返事はなかったのも気にせず、後ろも振り返られないで。





 俯きながらも、分かった。母が、こちらに振り向かず、迷いなく去っていくのを。


「どうして……」


 ジルドは拳を強く握り締め、唇も強く噛み締めた。声音は震えており、怒りと失望が感じ取れた。


「あの、お坊ちゃま」


 母を呼びに来た女中に話しかけられる。母の意識を自分から逸らした本人だというのに、僅かながら同情しているらしい。


 それが不愉快だった。この女中も、自分のことなんてどうでもいいのに。


「はやく行け!」


 冷たく言い放つ。女中は少し間を置いてから、去っていった。母と同じく、兄のところに向かったのだろう。


 握り締めた拳を、壁にぶつける。


「なんで、なんで……っ!」


 褒めてもらったのは嬉しかったのに、その気持ちはすっかり萎んでしまった。自分がポニーを乗りこなす姿を、見てほしかったのに。ただ、それだけだったのに。


 それだけでも、我が儘なの? 今までも我慢してきたのに?


「なんで、兄上ばっかりなんだっ!」


 誰かが傍にいてあげないといけない、だなんて嘘だ。だって、兄の周りにはいつも人がいる。今だって、医者が傍にいるはずだ。それなら、自分の傍にいてくれてもいいのに。


 きっと母は、兄の傍にいたいだけだ。母は、ジルドよりも兄の傍にいるほうがいいんだ。父も、兄のことを心配するばかりで自分のことを構ってくれない。


 使用人だって、そうだ。皆、口々に兄のことを心配する言葉を出す。いつだって、自分のことは言っていない。


 また後でね、と言われたけど、それが叶ったことは一度もない。看病で疲れてしまって、休んでいる間にうやむやになるのだ。今回だって、そうなるに決まっている。


 良い子にしてなさい、また後で、我が儘を言わないで。この言葉をあと何百回聞けば、両親は自分の傍にいてくれるの?


「兄上なんて、兄上なんてっ……!」


 涙腺が緩み、視界が霞む。頭が熱い。悲しくて、恨めしくて、悔しくて、頬に冷たい滴が伝った。


「兄上なんて、はやく死ねばいいんだっ!」


 廊下に、ジルドの小さな慟哭が響く。

 そして結局、また後でね、が叶うことはなかった。

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