追憶①
「母上!」
アリーシェは振り返る。六歳になったばかりの息子、ジルドがこちらに破顔している。
大きくなるにつれ、夫の面影が強くなっていく息子に笑みを返しながら、目線を合わせるため屈んだ。
「なにかしら?」
「ぼく、一人でポニーにのれるようになったんです」
「まぁ! すごいわね!」
ジルドが乗馬を始めてから、六日。短い期間で乗れるようになるとは思ってもみなくて、アリーシェは喜色を浮かべた。
褒められて、ジルドは照れくさそうに笑う。
「次はうまに乗りたいです」
「まだ背が足りないから駄目よ。それまで、ポニーでいっぱい練習しなさい」
そう諭すと、ジルドは不満そうに顔を顰めた。ここで折れたら駄目だ。馬は良き友となるが、落馬したら命を落としかねない。ポニーもそうといわれれば言い返せないが、無理に馬に乗ったら危険すぎる。
「いい? まだ馬には乗らないで。分かった?」
「……はい」
まだ不満そうだが、言質は取った。ジルドは良い子だ。約束したら守ってくれる。
「あの、馬には乗らないので、僕が」
「奥様!」
切羽詰まった女中の声がして、アリーシェは振り返った。
「どうしました?」
「クリス様の熱が、また上がって」
「なんですって!」
もう一人の息子、クリスは生まれつき身体がとても弱かった。昨日から高熱を出して、医者が掛かりっきりで診てくれている。ただでさえ高かったのに、あれ以上高くなったら。
「わかったわ。すぐに向かうわ」
「母上、あの」
ジルドが呼ぶ。アリーシェは再び、ジルドに視線を向けた。
「ジルド、母は行きますからね」
「あの」
顔色をなくした息子の肩を、優しく叩く。
「また後でね、ジルド」
「でも、兄上ばっかり」
「ジルド!」
思わず声を張り上げる。ジルドがびくっと肩を震わせて、俯く。
「ごめんなさい。けど、お兄様が危ないの。誰かが傍にいてあげないといけないの。我が儘を言わないで」
「……」
「あとで聞いてあげるわ。良い子で待っているのよ」
立ち上がって、アリーシェはクリスの部屋に向かう。ジルドの返事はなかったのも気にせず、後ろも振り返られないで。
俯きながらも、分かった。母が、こちらに振り向かず、迷いなく去っていくのを。
「どうして……」
ジルドは拳を強く握り締め、唇も強く噛み締めた。声音は震えており、怒りと失望が感じ取れた。
「あの、お坊ちゃま」
母を呼びに来た女中に話しかけられる。母の意識を自分から逸らした本人だというのに、僅かながら同情しているらしい。
それが不愉快だった。この女中も、自分のことなんてどうでもいいのに。
「はやく行け!」
冷たく言い放つ。女中は少し間を置いてから、去っていった。母と同じく、兄のところに向かったのだろう。
握り締めた拳を、壁にぶつける。
「なんで、なんで……っ!」
褒めてもらったのは嬉しかったのに、その気持ちはすっかり萎んでしまった。自分がポニーを乗りこなす姿を、見てほしかったのに。ただ、それだけだったのに。
それだけでも、我が儘なの? 今までも我慢してきたのに?
「なんで、兄上ばっかりなんだっ!」
誰かが傍にいてあげないといけない、だなんて嘘だ。だって、兄の周りにはいつも人がいる。今だって、医者が傍にいるはずだ。それなら、自分の傍にいてくれてもいいのに。
きっと母は、兄の傍にいたいだけだ。母は、ジルドよりも兄の傍にいるほうがいいんだ。父も、兄のことを心配するばかりで自分のことを構ってくれない。
使用人だって、そうだ。皆、口々に兄のことを心配する言葉を出す。いつだって、自分のことは言っていない。
また後でね、と言われたけど、それが叶ったことは一度もない。看病で疲れてしまって、休んでいる間にうやむやになるのだ。今回だって、そうなるに決まっている。
良い子にしてなさい、また後で、我が儘を言わないで。この言葉をあと何百回聞けば、両親は自分の傍にいてくれるの?
「兄上なんて、兄上なんてっ……!」
涙腺が緩み、視界が霞む。頭が熱い。悲しくて、恨めしくて、悔しくて、頬に冷たい滴が伝った。
「兄上なんて、はやく死ねばいいんだっ!」
廊下に、ジルドの小さな慟哭が響く。
そして結局、また後でね、が叶うことはなかった。




