終
今思えば、あの時が切っ掛けだった。自分が医学者になろうと、決意したのは。
クロニカの泣き顔を見たくないのも理由の一つだが、血によって受け継がれていく病気がある。犬種によって、なりやすい病気となにくい病気があるのと同じだ。
それは、夫人と同じ病気を発症する可能性をクロニカは持っているということだ。
夫人の病気が、血によるものなのか分からない。だが、クロニカが苦しむ姿を見たくないし、あの時のように何も出来ず、ただ祈ることしか出来なかった自分は嫌だった。
(ほんと、クロニカはすごいよ)
他人に無関心で、ただ知識を吸収していただけの自分を、ここまで変えてくれた。
誰かの為に、知識を昇華する時が来るなんて、クロニカと出会う前は考えもつかなかった。
軽やかな足取りで、研究施設に赴く。
いつも通り門を潜り、警備員に挨拶する。
「こんにちは」
「あ、こんにちは、セピール様。先程、セピール様にお客様がいらっしゃいましたよ。応接室でお待ちです」
「分かりました。すぐ向かいます」
予定よりも早く来ていたようだ。自分も約束の二十分程前に来たのだが。
足早に応接室に向かう。応接室の前に立ち、ノックした。そして、扉を開く。
客人はソファに腰を下ろし、のんびりと茶を啜っていた。
恰幅の良い老人である。垂れた目を縁取る片眼鏡が、きらりと光った。ジュリウスの姿を見ると、客人は目元を緩ませた。
「お待たせしました。ラリー先生」
「いやいや、私もさっき来たばかりですから、それほど待ってはいませんよ……ご立派になられましたね、ジュリウス様」
ラリーは、クロニカの母親、ミリアの主治医だった医者だ。
ミリアが逝って数ヶ月後、年老いたからと医者を辞めて、故郷の田舎で隠居生活を送っていた。
何故、ジュリウスがラリーを呼んだのか。それは、ミリアのカルテを入手するためだ。
ジュリウスはミリアの死に至った病を治す術を探すべく、過去に同じ病にかかった者達のカルテを集め、当時担当していた医師に話を聞いて回っていた。
ミリアのカルテについては、ラリーが所持していた。連絡を取るのに手紙を送ったのはいいものの、ラリーの故郷がここからかなり遠い場所にあったため、返事が来るのに時間が掛かった。
本当はラリーの故郷へ旅立つ予定だったが、ラリーから、カルテを持ってそちらに行く、という返事を貰い、ラリーが訪れるのを待っていた。そして今日、やっとそれが実現された。
「わざわざお越し下さり、ありがとうございます。本来なら、僕が行くべきだったのに」
「なに。久しぶりに孫の顔を見に来たついでですよ」
ラリーはおどけて笑ってみせた。
「お嬢様はお元気ですか?」
「はい。さっきまで一緒にお茶していました」
「それは良かった。ずっと、お嬢様のことが気掛かりで」
「先生がお辞めになった後、公爵が跡取りとして男子を引き取ったのですが、クロニカの仲は良好です。ほんと、兄妹みたいですよ。夫人が生きていた頃に比べればあれですけど、家の環境は悪くなさそうです」
「そうですか……養子……お嬢様の努力を思えば複雑ですが、仲が良いのなら」
「様子見に行ったらどうですか? クロニカも喜ぶと思いますよ」
「そうですね。そうしましょうか」
さてと、とラリーが鞄を膝の上に乗せる。
「早くお嬢様の様子を見に行きたいので、さっさと終わらせますか」
ラリーは鞄から例のカルテを取り出し、机の上に広げて見せた。
その後の話は、淡々と進めたが長く続いた。
ラリーがカルテの説明をし、当時の様子を語る。挟むようにクロニカの思い出話が入っていたのは、ご愛嬌だ。
分からないところは聞き、ラリーも丁寧に説明する。
全て語り終えたのは、それから二時間後だった。
「もうこんな時間ですね」
時計で時間を確認し、ラリーが肩を回す。
「あはは。こんなに話し込んだのは、久しぶりですな。今日はこれでお終いにしましょうか」
「そうですね。今日はありがとうございました」
「お役に立てたのなら」
カルテを譲り受け、ジュリウスはカルテを自分の鞄に仕舞い込んだ。
「しかし、ジュリウス様が医学者になったとは驚きでした」
ラリーが感慨深そうに呟く。
「しかも、奥様の病の治療法をお探しとは。やはり、お嬢様が切っ掛けで?」
「そうですね」
「お嬢様もお喜びになると思いますよ」
「そうだと、いいですね」
「おや。もしや、お話していないので?」
「はい。治療法の目処が立つまで秘密にしようかな、と」
「そうですか。では、お嬢様に言わないよう、努めましょう」
「お願いします」
ラリーがにっこりと笑い、立ち上がる。
「では、私はこれで」
「送りましょう」
「いいですよ。このままジュリウス様と一緒にいると、お嬢様の昔話がしたくてしょうがなくなってしまって、お嬢様と話す時間が減ってしまいますから」
「先生はほんとう、クロニカが可愛くて仕方ないのですね」
「おや。ジュリウス様には言われたくないですな」
では、と頭を下げてラリーは退室した。
ジュリウスはラリーの最後の言葉を反芻し、苦笑を漏らす。
「確かにそうだな」
と、呟いてソファの背もたれに凭れた。
「クロニカが喜ぶ、か」
彼女なら喜ぶだろう。母と同じ病気で死ぬ人が減る、と。そして、ジュリウスに、ありがとう、と言うだろう。
だが、そう言われるほどのことはしていないのだ。
(結局は自分の為だから)
ミリアと同じ病で、クロニカを喪いたくない。ただ、それだけだ。
もし治療法が見つかって、クロニカに告げたとしよう。ありがとう、と言われた後に、あの時この治療法があれば、と悲しげに呟くかもしれない。
クロニカが純粋に喜ぼうが、悲しげな顔をしようが、どちらでも良い。これはジュリウスの自己満足だ。
「さて、まとめようか」
鞄を抱えて立ち上がり、応接室を出る。
応接室から出ると、中庭に続く硝子窓がある。そこから見える青い空を見るため、ジュリウスは硝子窓に歩み寄る。
クロニカの屋敷から出て行った時と同じ色の空。快晴と呼べる青空を仰ぎ、ジュリウスは表情を和らげた。
死後の世界など信じてはいないが、ミリアが空の上でクロニカのことを見守ってくれたら、と願わずにはいられない。そうだとしたら、ミリアはジュリウスのことも見守ってくれているだろう。
『あの子のこと、幸せにしてあげてね』
ミリアの最期の言葉を思い出す。正確には最期ではないが、ジュリウスにとってそれが最期の言葉であり、ミリアからの最後のお願いでもあった。
あの時、ミリアはどんな気持ちだったのだろう。知る術はないが、きっとジュリウスを信じてくれたのだろう。
「大事な一人娘を任されたんだ。頑張らないとな」
託された想いを無駄にしないために。クロニカや、目に視えなくなっても見守ってくれているだろう彼の人の目に映る己が恥じるものではないように。
今を足掻いて、生きてみせよう。
その為にはまず、口説き文句を考えないといけない。彼女を取られないために、自分が自分のままで生きられるように。
ジュリウスは空から目を逸らし、自分の研究室に向かう。
その足取りは強く、確かに未来へと続いていた。




