自覚
クロニカを背負い、屋敷に戻ってから慌ただしかった。
クロニカは思っていた以上に危ない状態で、今夜が峠だと告げられた。
その日はマカニア邸に泊まり、クロニカの容態が落ち着くのを待った。
その日の夜は、いくら目を閉じてもなかなか寝付けず、気が付けば朝になっていた。
一晩中、生きた心地がせず、ただ祈るしかない、情けなく無力な自分を呪った。
峠を越えられた、と聞いた時、どれほど安心したか。宙にぶらさがっていた不安と恐怖が地に着いて、消え去った。
だが、クロニカの意識が戻らず、峠は越えたものの高熱が続いていたので、主治医の許可を得てクロニカは一時的、セピール邸に移動することになった。
クロニカの精神的に、マカニア邸にいるのは拙いのもあるし、奥方の葬儀の準備で誰もクロニカの看病する余裕がなかった。
二日後、夫人の葬儀が行われた。母は葬儀に参加したが、ジュリウスは参加しなかった。それよりも、クロニカの傍にいることを選んだ。
学園は休んでいる。一週間休んだとて、勉学に遅れることはない。母もそれがいい、と学園に話を付けてくれた。
「マカニア……」
魘されているクロニカの汗を手拭いで拭き取りながら、彼女の名を呼ぶ。
意識は戻らないが、時折目が開くことがある。本人には自覚ない、浅い覚醒だ。
そんな彼女は当然、食事はできない。点滴で何とか栄養を送っているのが現状だ。
クロニカの額に滴る汗を拭き取り、汗ばんだ前髪を掬う。
「天才、か」
それは、周りの大人達がジュリウスに言い続けた称号。
ジュリウスも驕りなどではなく、実質自分は天才なのだと思っていた。だが、今は。
「僕のどこか天才なんだか」
自嘲気味に呟く。
「こうして見守ることしか出来ない、起きても掛ける言葉の一つすら思いつかない、僕のどこが……」
天才なんだ。
最後の言葉は、咥内に消える。それはとても苦い味がした。
前髪を掬っていた手を、クロニカの頬に滑り落とす。汗ばんだ頬はしっとりとしていて、熱のせいでとても熱かった。
ジュリウスの手が冷たくて気持ち良かったのか、クロニカが擦り寄ってきた。
慌てて手を引っ込む。起きたのか、と顔を覗き込んだが、覚醒した様子はなかった。
胸を撫で下ろす。目覚めてほしいが、今のタイミングで目を覚ましたら、どんな顔をしていいか分からない。
「ん……」
呻き声がした。今度こそ目が覚めたのか、と顔を覗き込む。が、その様子はなく、唇が震えていた。
「はは、う……え」
魘されている唇から、漏れた呼び声。それと同時に、眦から一粒の涙が零れ落ちる。
胸がぎゅうっと締め付けられた。夢の中でも、母を求めるその姿は小さな子供そのものだ。十四歳であるが、それよりも幼く見えた。
「自覚するしかない、か」
溜息をつくように呟く。
自覚してしまった。気付いてしまった。
どうして、紅と青を追ってしまうのか。
どうして、彼女の傍が心地良いのか。
どうして、彼女を見て飽きないのか。
どうして、彼女には笑ってほしいと願うのか。
答えは、一つだけだった。
「マカニア、僕は……」
鮮やかな紅の髪を撫でる。思ったより柔らかいそれは、不思議と手に馴染んだ。
自覚したら、たくさんの初めての気持ちが溢れてくる。
熱いような、暖かいような、ムズムズするような、でも嫌ではない気持ち。
「入るわよー」
ノックもなしに母が入室した。慌てて手を引っ込める。
「母上、ノックくらいして下さい」
「あ、ごめんなさい」
おどけて笑ってみせる母を見て、舌打ちをしたくなった。が、寸の所で止める。舌打ちをすると母は煩いのだ。
代わりに半眼で睨みつける。母には効果なく、寝台の傍まで来た。
「クロニカちゃん、まだ目覚めない?」
「はい。葬儀はどうでしたか?」
「人が沢山いたわ。公爵家だからっていうのもあるけど、ミリアちゃんって夫人の間でも評判が高くてね。夫人たちもたくさんいらしていたわ」
「マカニアがいないことに、どんな反応をしましたか?」
「高熱を出しているって言っておいたから、大丈夫よ。ほとんどの人が、クロニカちゃんに同情していたわ。それだけ有名だったっていうことね。クロニカちゃんに対する態度」
母が目を細めた。あれから二日経っているが、母の怒りは未だに治まっていないようだ。
「母上」
「なに?」
「あの時、言いましたよね? 子を産み落としたことは、母にとって誇り、と」
「ええ」
「僕も母上の誇りですか?」
母はきょとん、とした顔でジュリウスを注視した。そして、吹き出した。
「もしかして、実は気にしていたの? 御義母様に人の気持ちを理解しない冷たい子って言われたことと、学者たちに化け物呼ばわりされたこと」
「いえ、そういうわけではありません」
それは本音だった。ただ、周りから化け物呼ばわりされている子供を産んだ母から、そんな言葉が出るのが不思議だっただけ。
「もちろんですとも」
母は強く頷いた。
「ジュリウスもジェットも、私の誇り。私の命より、価値のあるものよ」
今度はジュリウスがきょとんとなる番だった。そこまで大切に想われているとは、想像もしていなかった。
「それはそうと、あの馬鹿、このままクロニカちゃんへの態度を軟化しないつもりかしら?」
母が話題をすり替えた。
「どうなんでしょうね……理由があるらしいですが、その理由は夫人も知らなかったみたいですし」
「あら。ミリアちゃん、あなたにそこまで話していたのね」
母がニヤニヤと笑う。
「ふーん、なるほどね」
「なんですか」
「なにもないわよー」
ぶすっとした顔で母を睨み付けるが、母は取り繕うとはせずニヤニヤ顔を止めなかった。
「そうかそうか。ふふふ……まあ、もしあのままだったら、クロニカちゃんをあの家から引き離すことを考えないとね」
「方法があるんですか?」
「簡単なことよ。お嫁さんに行けばいいの」
「は?」
「ていうか、あなたが娶りなさい」
「はぁ!?」
思わず声を張り上げた。
あまりにも唐突な提案に、珍しく彼の頭がこんがらった。
「異議あるの?」
そんな息子を気にすることなく母は、むしろ何か問題でも? とばかりに問うてきた。
「ありまくりですよ。マカニアには結婚願望がありませんし」
「願望は植え付ければいいだけのこと」
「母上、あくどいです。それに、マカニアがそう簡単に自分の意思を曲げませんよ」
「未来のことなんて分からないわよ」
「第一、マカニアは僕のこと好きじゃありませんし」
「それこそ、未来のことなんて分からないわ。それに」
母がジュリウスを一瞥する。
「あなた、クロニカちゃんのことが好きなんでしょう? だったら、ぐいぐいっと行ったらいいじゃない」
母の言葉に思考が停止した。
何故、知っている。二日前まで自覚していなかった、自分の気持ちを、何故、知っている。
「あなたって、分かりにくいようで分かりやすいわね」
母がおかしそうに笑う。
「諦める気なんて、さらさらないんでしょう? なら、進むしかないわね? ま、頑張りなさい」
言うだけ言って、母は退室した。
反論できないまま、ジュリウスはその背中を見送り、母が退室した後に、徐々に思考が動き始めた。
一気に疲れて、盛大に溜息をつく。
「諦める気はさらさらない、か」
まったくその通りである。母は見てないようで、ジュリウスのことをしっかり見ていたようだ。
クロニカに結婚願望がなかろうが、脈がなかろうが、ジュリウスの中にはクロニカを諦めるという選択肢がないのだ。
クロニカを誰にも取られたくない。クロニカを、この手で抱き締めてあげたい。
その為なら、いくらだって努力しよう。
「誠実で真面目で、自分と子供のことも愛してくれる、物腰が柔らかくて笑顔が絶えない、その笑顔も素敵な人、か……」
二年程前に聞いた、クロニカの理想の男性を口にする。この時ばかりは、無駄に記憶力が良い自分を褒めたくなった。
鏡台に映る己を見る。自分でも思う無愛想な顔つき。笑顔が素敵な人、には程遠すぎる。
「…………まずは笑顔、だな」
いきなり満面の笑顔は無理だ。むしろ怖がらせてしまう。自然に笑まないといけない。
第一関門が既に難関だ。だが、やるしかない。
こうして、ジュリウスにとって初めての努力が始まったのだった。




