女
その日は、今でも雨が降り出しそうな空が広がっていた。
夫人が亡くなった、と報せを受けたのは日が昇り始めた頃で、ジュリウスと母は急いでマカニア邸に向かった。
マカニア邸に着くと、いつもはクロニカの笑い声が響く邸は、重い空気に包まれていた。
出迎えてくれたのは執事で、クロニカの姿が見えない。
辺りを見回しても、あの目立つ赤髪が見当たらない。おかしい。たとえ母親が亡くなった後でも、客が来たら出迎えるはずだ。
「セピール夫人、わざわざお越しくださって……」
「あの、マカニアは」
ジュリウスが訊くと、執事の顔が切なげに顔を顰めた。
「お嬢様は……」
「執事長、大変です!」
女中が階段から声を張り上げる。
「今、セピール夫人たちを案内している最中ですよ」
「それよりも、大変なんです! お嬢様が、どこにもいらっしゃらなくて!」
「なんですって!?」
執事よりも母がその言葉に反応した。
「庭にもですか?」
「庭にも厨房にもお部屋にもですよ!」
「いったい、どちらに……」
その時、白衣を着た男が沈痛な面持ちで階段を下りてきた。その男に見覚えがあった。クロニカの母親の主治医だ。
「先生、お帰りに?」
執事が主治医に声をかけた。主治医は力無く首を横に振る。
「いいえ……お嬢様の事が気掛かりですので、お嬢様が落ち着いたら話したいので」
「それが……お嬢様がどこにも見当たらくて」
「そうですか……もしかしたら、屋敷の外にいるかもしれません。探すのなら、屋敷の敷地内ではなく、敷地外にしたらいいかと」
ジュリウスは主治医の様子に、引っ掛りを覚えた。
クロニカが行方不明になったと聞いても、主治医は表情を動かさなかった。むしろ納得しているようだ。
主治医はクロニカの事を気に掛けていたし、可愛がっていたと記憶している。少しは焦ってもいいと思う。母親が死んだだけで、クロニカが屋敷の敷地外に飛び出すことはないと分かっているはず。
それなのに、何故。もしかして。
「先生」
気付けば、ジュリウスは主治医を呼んでいた。
「なんでしょうか?」
「夫人が亡くなった以外に、マカニアを追い詰めるような事があったのですか?」
主治医だけではなく、執事と女中の顔が強張った。
憶測が確信に変わる。
「何があったんですか?」
口調を強めて、問う。
主治医たちの視線が彷徨う。その視線を集めたのは、母の一言だった。
「言いなさい。あの子に何があったの?」
応えたのは、主治医だった。
「旦那様が……」
一拍置いて、主治医が告げる。
「お嬢様に、お前なんか生まれてこなければ、奥様が死なずにすんだ、と頬を叩いて」
ひゅっと言葉が掠れる。
それはあまりの仕打ちだ。
ジュリウスは知っている。彼女が父親に認められたくて、どれだけ努力したのかを。
苦手な数学を囓りつくように、予習していた事。
剣の特訓だって、手に胼胝ができて、潰れても血が出ても、弱音を吐かず、真剣に取り組んでいた事。
女、しかも令嬢だというのに、お世辞にも綺麗な手だと言えないほど、彼女の手は荒れていた。堅く、潰れた胼胝の痕が痛々しい。クロニカは自分の手を見て、男みたいな手だろ、と笑ってみせていた。笑っていたが、どこか哀愁を漂わせていた。
全ては父の為。それなのに、マカニア公爵は一蹴した。
残酷にも、クロニカの存在自体を否定した。
腸が煮えくり返りそうだ。フツフツと湧き上がる激情を、己は知らない。
「あの、馬鹿が」
隣にいる母が、聞いたことのない程の低い声色で、呟いた。
一瞥して、瞠目する。
母は今まで見たことのない表情を浮き出していた。麦色の肌が、何故か白く見える。眉間に皺を寄せ、何もない空虚を見据えているというのに、眼力が強く、射貫かれていないというのに身が竦んだ。
――怒り。それが見てとれた。
「セピール夫人、来ていたか」
階段の上からあの男の声が響いた。
ジュリウスがマカニア公爵の姿を確認する前に、母が動いた。
階段を駆け上がり、一気にマカニア公爵との距離を縮め、そして。
――パシンッ
渇いた音が、ホールに反響する。暗く澱んでいた空気を張り詰めたものに変えたそれは、やけにジュリウスの鼓膜を震わせた。
主治医も執事も女中も、そしてジュリウスも唖然と母とマカニア公爵を眺めた。
頬を叩かれたマカニア公爵は、叩かれた反動で首を横に反らしたまま動かない。突然の事に反応が遅れているような気がした。
「貴方は」
凄まじい剣幕のまま、母が紡ぐ。
「ミリアの誇りを穢した」
低く、あらゆる感情が混ざり合った声色。
いつも、ちゃん付けする母が、呼び捨てになっている。
ジュリウスは、こんな母を見たことがなかった。
こんなに静かに怒り狂った母を、知らない。
「子を産み落としたことは、母にとって誇り」
淡々と、だが身を竦むような口調で言葉を募る。
「それは、ミリアにとっても同じこと。たとえ身体が弱くても、自分の寿命を縮める結果になっても、あの子を産み、出会い、愛したことは、ミリアにとって最高の幸運だった。たとえ、あの子を産み落とした直後に死んでしまったとしても、ミリアは後悔しない。恨みもしない。誇りを抱いたまま、幸せに眠りについたことでしょう」
マカニア公爵は振り向き、瞠目した。唖然とした様子で母を凝視する。
「それなのに、貴方はあの子を否定した。片親である貴方が、あの子の生を、ミリアが生きた証を!!」
母が声を張り上げた。
その怒声の中に、母の慟哭を聞いたような気がした。
「あの子を否定したことは、ミリアの生を否定したのも同じこと!! ミリアを愛していた? 笑わせてくれる!! 愛していたのなら、あの子ごと愛してあげてばいいものを!! 貴方があの子を愛していないことを、ミリアがどれだけ悲しんでいたか知りもしないで!! どんな言い訳や理由を聞こうが、私は貴方を許さない。母の誇りを踏みにじった貴方を、決して許しはしない!!」
静寂が流れる。
主治医たちも、マカニア公爵も沈黙したままだ。母も肩で息をして何も言わない。
「……マカニアを、探してきます」
自然と声が出た。
踵を返し、扉に手を掛ける。
背後で母が呼んだが、それに応えず、ジュリウスは屋敷を飛び出した。
● ○ ● ○ ● ○ ●
雨が降り出した。
最初はぽつぽつとしか降ってなかったが、みるみる内に細い糸のような雨が勢いをつけて、ジュリウスを襲った。
傘など持って来なかった。思い付かなかった。それよりも、頭がクロニカの事で一杯だった。
目に雨が当たらぬように、腕を翳して雨を防ぐ。
「どこに行ったんだっ!」
思わず声を荒げる。クロニカが何処に行ったのか、皆目見当がつかなかった。
擦れ違った人に、クロニカの特徴を伝え、見かけなかったと訊いたが、手掛かりになりそうな情報は得られなかった。
(落ち着け……こんな時、クロニカはどこに行く?)
クロニカの性格上、友の屋敷に行くことはないだろう。迷惑を掛けることや心配されることを、クロニカは嫌がる。嫌がるというより、遠慮するというのが正しい。
今の状態で友の屋敷に行ったのであれば、友に心配かけ、突然の訪問に迷惑だと思われるかもしれない。だから行かないだろう。
人の多い所も行かないだろう。クロニカは、人に涙を見せない。心を開いていた夫人の前ですら、無理して笑う。泣くとしたら、人がいない場所だ。
総合的にまとめると、人が来ず、落ち着く場所にいるだろう。
クロニカにとって、落ち着く場所。自分専用の庭。だが、そこにはいなかった。庭に近い環境にいるかもしれない。
ふと、視界に入ったのは林だった。あの林は、誰も管理されず、人の手が加わっていない。
もしかして、と閃く。
人が来ず、植物に囲まれた場所。あの林の中なら該当する。
ジュリウスは、祈りながら勘に従うことにした。
林に足を踏み入れ、駆ける。
土はぬかみ、泥が跳ね飛び、ジュリウスの靴と服を汚していく。構わず、ジュリウスはクロニカを探した。
雨がだんだん激しくなる。林の中といえど、これだけ降っていれば、木の傘など意味がない。
耳の中に水が入り、音が聞き取れ難くなる。視界も白く霞み、辺りの様子を窺えなくさせた。
「あ……」
だが、ジュリウスの視界に鮮やかな紅が映り込んだ。その紅を見間違えるわけがない。水溜まりに浸かり、ぐったりと倒れているクロニカを。
「マカニア!」
ジュリウスはクロニカに駆け寄る。
「おい、マカニア!!」
身体を揺らそうと、クロニカに触れた。
「っ!」
クロニカのあまりの冷たさに、思わず手が引っ込む。
もしかして、死んでいないか。最悪な結末を想像し、身体の芯が冷え切った。
バクバクする心臓を抑え、おそるおそる首の脈に指先を添える。
弱々しいが、確かに脈打っていた。
(生きている……よかった)
安堵の溜息を漏らす。高鳴った心臓も治まった。
だが、まだ安心してはいけない。このままだと、クロニカの命が危ない。
(急いで、屋敷に戻らないと)
ジュリウスは上着をクロニカに掛けた。上着は水分を吸い込み、重く湿っていたが、幸いにも内側まであまり染み込んでいなかった。
意識が戻らないクロニカを背負い、ジュリウスは愕然とした。
とても、軽かったのだ。
クロニカは剣術の修行をしている為、鍛えられているはずだ。走り込みやトレーニングをサボった事はないし、他の令嬢に比べれば、体格がしっかりとしている。対して自分は、鍛えてなどいない。
それなのに、クロニカはジュリウスが背負っても苦に感じないほど、軽かったのだ。
(ああ……そういえば、そうだった)
ジュリウスは、唇を噛み締めた。
(クロニカは、女だ)
男になろうと、令嬢である自分を蹴ってまで、必死に足掻いて。
その足掻く姿を、ジュリウスは見てきた。男に負けないほど強くなって、誇らしそうに剣を振るって。
だが、それでも、この背中に収まるほど華奢な身体と重みは、明確に男と女の差がある事をジュリウスに突き立ててくる。
胸が締め付けられる。
クロニカの努力を嘲笑うほど、クロニカは確かに女だった。




