出会い
それから二年経ったある日のこと。
ふと、とある本が読みたくなって通い慣れた図書室に赴いた。図書室、と呼ばれているが実際には図書館と言うべき場所であった。そこは、学園の中でジュリウスが入り浸っている場所の一つである。静かで誰も邪魔はしない。雑音があるのはネックだが、それでも他の場所に比べたら静かな場所だった。
その本を探していると、ある人物に目がいった。
緋色の髪をした男子生徒だ。身長からして年下のようで、背伸びして少し高い場所にある本を取ろうとしている。
派手な色だと思った。赤い髪は見た事はあったが、あんなに鮮やかな緋色を見たのは初めてだった。
それにしてもどうして、脚立を使わないのだろうか。別に遠い所にあるわけでもない。見渡せば、すぐに視界に入る距離にある。
よく見ると、自分が探していた本もそこにあった。その生徒がそこを退かない限り、自分も本を取れない。
男子生徒が本を取るまで待っていてもいいが、あのままだと時間がかかりそうだった。
時間の無駄だ。さっさと立ち去ってもらおう。
手近にあった脚立を持って、男子生徒の横に行く。脚立を置き、彼が取ろうとしたのであろう本を取ってあげた。
男子生徒が振り返る。
透明度の高い、空色の目が見開いて、ジュリウスを見ていた。
見たことのない色だと思った。厳密には空色の瞳など珍しくないが、こんなにも澄んだ瞳を見るのは初めてだった。
本を差し出すと、男子生徒はおそるおそると受け取った。
男子生徒が口を開こうとした。その前に訊きたかった事を訊いた。
「すぐ近くに脚立があっただろう。目に入ってなかったのか? なんで脚立を探そうとしなかったんだ? 馬鹿なのか?」
男子生徒の目がさらに見開く。
肩をわなわなさせて、キッと睨まれた。
刹那、心臓を射抜かれたような、烈しい衝撃を受けた。
――なんて、強い瞳なんだ
今まで向けられたのは、怯え、蔑み、妬み、そんな負の感情をはらんだものばかりで。
その瞳は違った。
怒りをはらんでいたが、根本的に他と違っていた。
蔑み、妬まれていても、必ずある感情が見え隠れしていた。
恐れ。それは母以外の家族、そして教師や他の生徒、自分に熱を上げている令嬢達も。口では称えていても、心の奥では自分の事を化け物扱いしている事を隠しきれていなかった。
だが、この男の瞳にはそんな感情が見えない。
垣根すらなく、ただ、純粋な怒りをジュリウスにぶつけていた。
その真っ直ぐで強い瞳に気を取られていたら、男は本をジュリウスに返し立ち去ってしまった。
ジュリウスは少し後悔した。名前を聞きそびれたことを。
(あんな派手な髪をしているんだ。少し調べたら分かるだろう)
本を元に戻し、ジュリウスもその場を去る。
もう本を読む気にはなれなかった。
あの瞳が忘れられず、そればかり気になっていた。
● ○ ● ○ ● ○ ●
男子生徒の名前は、すぐに分かった。
クロニカ・マカニア。今年入学したばかりで、青獅子と謳われている英雄の一人息子。英雄の才能を受け継いでいるのか、細身でありながら剣の腕は確かなようだ。
学年が違うから、滅多に会わないだろうと思っていたが、不思議とばったりと出くわす事が多くあった。
その時は互いに無視するか、ジュリウスから話しかけるか、どちらかだった。
寝癖がついている、リボンタイが曲がっている、裾がめくれている、など。
目敏くそれらを見つけ指摘すると、クロニカは威嚇する猫のように牙を剥いては、真っ直ぐな瞳でジュリウスを見据えていた。
この無垢な瞳を見たくて、らしくもなく子供のように彼に突っかかった。結果、天敵扱いされたが、それほど気にしていなかった。
出会って四ヶ月経ったある日。
その日は、クロニカの姿を見ていなかった。それが落ち着かなくて、探すがどこにも居なかった。
彼の友に訊くのもはばかれて、以前彼が裏庭の奥を行くのを見かけたのを思い出し、そこに行ってみることにした。
普段から人気のない裏庭のさらに奥を歩いていると、クロニカが花壇の前でうずくまっていた。
どこか具合でも悪いのかと思ったが、どうやら土いじりをしていたようで、花の種らしきものを拾って、新しい花に植え替えていた。
目を眇める。一体、何をやっているのか。
花壇をいじっているのは分かっている。どうしていじっているのかが理解できない。
「……マカニア。お前はそこでなにをしているんだ」
気付けば、そう漏らしていた。
クロニカが顔だけ振り返る。露骨に嫌そうな表情を浮かべ、ジュリウスを見据えた。
「なにって、花壇に花を植えているんだよ。見て分かんねえのかよ」
「貴族の男がやることじゃないだろ」
植物の世話など、庭師か女がする。それが普通だ。貴族の男がするものではない。だが、クロニカは男だ。ますます理解しがたい。
「別にいいだろ。趣味なんだし」
「趣味? 花を愛でることが? 女々しいな」
「女々しくて悪かったな!」
クロニカが怒鳴る。ああ、威嚇している猫だ。
「それに愛でるんじゃなくて、育てているんだよ。植物は良いぞ。愛情を持って接したら、素直に綺麗な花を咲かすから」
愛でる、育てるにどう違いがあるのだろうか。愛でながら育てていることには、変わりないのに。
それにしても、彼の言葉に既視感がある。たしか、談話していた女中達がそんな話をしていた気がする。
植物は丹精込めるとちゃんと育ってくれるから男よりも楽、と口は笑っているが目が笑っていなかった女中が言っていたような。
「……まるで、疲れた女中のような理由だな」
「なんだとゴラァ!」
先程よりも低い声色で怒鳴られる。なにか反論するかと思いきや、もうこの話はやめだ、という風にそっぽ向いてしまった。
目的は達成した。帰ってもよかったのだが、ふと花壇に咲いている花が視界に入った。どうやら、全部は枯れていないようだった。
橙色のそれは小さかったが、まるで菜の花のような形をしていた。植物には明るくないので名前は分からない。
なんとなくその花を眺めていると、前日の事を思い出した。
祖母との会話だ。祖母は植物を育てるということよりも、愛でる方が好きな人で庭には祖母の好きな花ばかりが植えられている。
ジュリウスは祖母の事が嫌いだ。自分が一番正しいと思っている姿勢、ジュリウスよりも劣っているのに上に立ちたがる。そして、祖母もジュリウスの事を嫌っていた。
会えば何かと嫌味を言ってくるが、積極的にジュリウスと関わろうとはしなかった。
だが、前日は違っていた。庭で本を読む場所を探していると、祖母と出くわした。
『お前も花を見る趣味があったのですね』
嫌味を含ませた口調だった。別に嘘をつく必要もないので、素直に答えた。
『別にそうではありません』
『お前は花を見て、なんとも思わないのですか』
『ただ咲いているだけ。それ以外になにがあるというのです』
『やはりお前は異常ですね。こんなに綺麗なものを美しいと思わないなんて。ああ、なんてつまらない子』
あなただってつまらない人だ、と口に出しそうになったが、呑み込んだ。会話を続けるのが億劫になったのだ。
祖母はそれ以上は何も言わず、その場を去った。ジュリウスも萎えて、祖母とは別のルートで屋敷に戻った。
その事に対して、傷ついたわけでも気にしたわけでもない。
ただ、ふと思い出しただけだ。
彼はどうなのだろうか。植物を育てているのだ。植物は好きだろう。では、花を祖母のように綺麗だと思っているのだろうか。
「……お前は、花を美しいと思うか?」
「花ァ?」
胡乱げに返しながらも、根は素直なのか、律儀に答えてくれた。
「まあ、きれいだとは思うけど。お前はきれいだと思わないのか?」
「全く」
「あっそう」
あっさりした返しに、虚を突かれる。てっきり、彼も否定するかと思ったからだ。
「……それだけか?」
「それだけって?」
首を傾げる彼の顔は険もなく、ただ純粋に疑問を浮かべていた。
「祖母にいわれた。花を美しいと思わないお前は異常だと」
「花がきれいって、だれもが思うわけねーじゃん。俺の父上だって多分そういうタイプ」
意外に客観的に物事を見ているな、と少しばかり感心した。
そして、自分に対して攻撃的である彼がジュリウスを肯定した事に、背筋がむずむずする。
「カラーシィ令嬢って知っているか?」
「名前くらいは」
カラーシィ。同級生が噂していたのを、たまたま耳にしたことがある。その程度の女だ。実際に見たことはない。
たしか、彼の学年で一番の美人だと言っていた記憶がある。
「みんな、アイツのことをきれいとか言うけど、俺は思わねぇもん。むしろ、どこが? って思う。そんな感じで自分がきれいって思うもんが、他の人にとってのきれいとは限らねぇじゃん。美的感覚をとよかくいわれる筋合いはねぇ」
「僕の場合は、美しいと、感動したことがないんだが」
「ないんなら、これから見つければいいんじゃね? よく分からねぇけど、今はただ周りにないだけじゃねーの? お前が美しいって思うものが」
ああ、そうか、なるほど。
すとん、と心の中ではまった音がしたと同時に、軽くなったのを感じる。
そこでジュリウスは初めて、祖母の言葉をほんの少しだけ気にしていたことに気付いた。
自分の事を人間だと思ったことなんて一度もないくせに。むしろ、受容していたくせに。
らしくもない、人間らしい感情が一欠片もあったとは。愉快な発見であった。
「ああぁぁーっ! 別に手伝わないんなら、とっとと行ってくれないか!?」
クロニカが急に喚き始めた。顔が赤い。ジュリウスは怪訝に眉を顰める。
「なんで急に怒り出したんだ……まったく分からん」
なにがともあれ、当初の目的は達成した。思わぬ収穫も得た。ここにいても仕方ない。大人しく退散することにした。
校舎に向かいながら、先ほどの彼の言葉を反芻する。
綺麗だと思えるものが周りにないだけ。これから見つければいい。
本当に、見つけられるのだろうか。もしかしたら、ないかもしれない。
その事に対して不安も焦りもない。むしろ、清々しかった。
お人好し。そんな言葉が思い浮かぶ。
嫌いな相手に助言なんかして。ジュリウスなら絶対しない。彼にはその言葉がお似合いだ。
「それを抜きにしても、ほんと、変な奴」
柔らかい声色は、そよ風によってそっと掻き消された。




