Stage6-1
耳をすませば。
クールでツンツンな美少女がシャワーを浴びている音が聞こえる。
三日前の春風ならこの不慣れな状況にどきまぎしていたが、今は違う。美人は三日で慣れるというのはその通りだった。
というよりも、切羽詰まっているのだ。焦燥感のせいで醒めてしまっている。
春風は今日も朝練を行い、最後のストレッチを終えたところだ。まだ身体が火照っている上に、世間は相変わらずの曇天で蒸し暑い。そこにふさふさのトラ丸がまとわりついてくるものだから堪ったものではない。
しかしあの貧乳クールビューティーは、欠片ほどの色気もないとはいえ年頃の女の子だ。汗をかいたまま待たせるのは気が引けるので、今日も先を譲った。……が、
「長えよナギ! さっさと上がんねえとこの至近距離なのに遅刻すっぞ!? 俺が!」
「へっ?」
脱衣所のドアを開け浴室に向けて叫んだ、その先に。今まさにタオルを取ろうとしていた水も滴る良い女がいた。
興奮するどころか血の気が引いた。テンプレ過ぎる展開に開いた口が塞がらない。
「こんの変態ッ……いっぺん死ね!」
「むがっ」
固形石鹸が口内にどストライク。泡を吹いて倒れた春風の上で、暑苦しいもさもさがのんきに鳴き声を上げた。
凪沙の遭難イベントから四日が経った。
凪沙は(少しだけ)態度が丸くなり、春風が一緒に練習するのを認めてくれた。また、毒を含んだ物言いは相変わらずだが、サドルの上以外でもまともに会話してくれる。話題はもっぱら自転車のことばかりだが。
それから、朝練の後に凪沙が反町家を訪れるようになった。
「おいハル、うわさは聞いたぞ」
「何だよ?」
放課後。
教科書を鞄に突っ込んでいると、遠矢がうわさ好きなおばさんのような笑みを浮かべてすり寄ってきた。
「今朝お前んちから遠海と一緒に出てくるのを見たって子が、部活の後輩におってさ。最近なんだか仲良さげだし? 昨晩は彼女のサドルになってたのかしら、なんつって。レッツ騎乗位!」
「しっ! 馬鹿、遠矢お前、そんな下ネタをナギに聞かれてみろ、石鹸を口ん中にぶちこまれるぞ?」
「ハハハ、何ねその珍しい仕打ちは。妙にリアルだな」
「リアルだからな」
「……体験談、なのか?」
「ああ。くっそ不味かった」
一歩間違えたら一限を休んで病院に駆け込んでいたくらいにはマズかった。
ちなみにやたらと凪沙のシャワーが長かったのは、祖母が要らない気を利かせて湯を張っておいてくれたかららしい。残り湯? 入る時には抜かれてました――。
「ナギは駐輪場と更衣室の代わりにうちを使ってるだけだよ」
「行為室!?」
「ノーチャンだから安心しろ。じいさんとばあさんもいるし間違いは犯さねえよ。二人ともなんでかナギのこと気に入ってるし……」
昨日は時間に少しだけ余裕があったため、四人で食卓を囲った。やれ「みじょか(かわいい)」だの「ひ孫はいつか」だの……祖父母は絶対に二人の関係を勘違いしている。
「でもさぁ、こないだハルが走ってるとこ見たけど、あのパンツぴちぴちだろ? あれ穿いた遠海の尻ば、お前は毎日間近で見とるんだろ」
「レーパンな。ちなみにあの下、基本的にはノーパンだぜ」
「ガチで?」
「ガチだ」
「何にやにやしてんだ覗き野郎」
「!? なっ、ナギ、凪沙さん……もう御用は済まされたので?」
「なんで畏まるし」
凪沙は今朝の〝事故〟を引きずっているのか、分かりやすくむっすーとしている。今日は元から少ない口数がさらに減り、視線の凶暴度も数倍増しだった。
「ほら、さっさと行くよ」
「はい、姉御!」
「ふざけてんの?」
「行く行く! 行くから石鹸は勘弁しろって!」
「ったく…………まぁ流石に今朝のはやりすぎた、かな。悪かった」
むすっとしたままの凪沙を追いかけて教室を出る。後ろで遠矢のつぶやきが聞こえた。あの遠海が謝ってる……。
二人並んで昇降口に向かう。空いている階段を並んで下りながら、春風は「そういえば」と訊ねた。
「さっきまでどこ行ってたんだ? ホームルーム終わったら消えてたけど」
「進路指導室」
「進路か……」
「便所行ったらクマ先生に捕まって、そのまま連行された。乱暴されるんじゃないかとびびったね」
「そりゃ災難……。だけどナギ、せめて人前では『便所』じゃなくて『お手洗い』と言おうな。俺みたいに気にするやつは気にするぞ、そういう細かいとこ」
「それって男女差別だ。ジンケンシンガイだ」
「お前のために言ってんだろ。せっかく素材は良いんだからもっとおしとやかにしとけっての。そうすりゃもっと他の人も近づきやすくなるだろ」
「そういう連中を『悪い虫』っていうんじゃないか?」
「片思いする男をそうやって決めつけるなよ。男女差別だ」
「む……」凪沙は残りの段を飛び降り、くるりと振り返ってふくれ面でにらみつけてくる。「そもそも! おしとやかな女ってハルの好みだろ。あたしにゃ関係ないじゃんか」
「えぇ、まぁ。おっしゃる通りで」
適当に受け流して小走りに駆け下りた。廊下を抜け、下駄箱の前で靴を履き替えて外に出る。昼前から雨がしとしと降り続いていた。
「今日はローラーか」
「じゃああたし帰んなきゃいけないじゃん。それなら先に数学の課題教えてよ。で、柔軟と筋トレしてから解散ね」
「りょーかい」
反町家まで目と鼻の先だから傘は持ってきていない。二人は通学鞄を頭上に掲げ、「せーの」と合図して駆け出した。凪沙は足が遅いので、春風が彼女に歩幅を合わせることになる。
「ハル。さっきの話だけど」
「うん?」
「あたしがおしとやかになったら嬉しいか?」
「そりゃあ、まぁ」
「そっか。……そっかぁ」
おかしなことを訊くなぁと目をやると、凪沙もこちらを見ていた。彼女は目が合うとパチッとひと瞬きし、顔を逸らして鞄の陰に隠れてしまう。
――――勘違いだろうけど。
「いや、でもやっぱり、お前にそういうのは求めてないわ。女性っぽい立ち居振る舞いは最低限身に着けるべきだと思うけど、でも、ナギはナギでいいじゃねぇか」
「……そう」
鞄を下ろした凪沙はいつものように、つんと澄ました顔で前を見ていた。気のせいだったか――春風はほっと息をついた。おこがましいかもしれないが、凪沙との関係は自転車における相棒のままで留めておきたい。儚との関係を壊したくないのと同じだ。
もちろん単純に、好みのタイプでないというのもあるけれど。
「あ」
正門の前で凪沙が急に立ち止まった。春風はちょっと行き過ぎてから止まる。
「どした?」
凪沙の目線を追った先には一人の女子生徒がいた。制服からして近所の高校生だ。門を出たところで傘を手にお行儀よく立っている。春風はそのきれいな立ち姿に目を奪われてしまった。
女子高生がこちらに気がついた。彼女は歳の割に豊かな胸の前で小さく手を振り、穏やかなほほ笑みを浮かべる。凪沙は一度春風の方へ目を逸らし、また女子高生を見やって、複雑そうな表情をした。
「…………姉さん」