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西果てのローディ  作者: 中村なめ
8/25

Stage5-2

『あんたなんか途中でパンクしてちぎれて予備のチューブまでパンクさせて、いきなり降り出した雨の中凍えながら野垂れ死ねばいいんだ!』



 まさかあの言葉が自分に跳ね返ってくるなんて。


「…………寒い」


 凪沙は思わず呟かずにはいられなかった。ずっと雨に打たれているせいで体温が下がっており、手先はかじかんでしまって感覚がない。鳴り続けて止まない歯のカチカチという音がひどく耳障りだ。


 パンクしたのは春風のアタックを追いかけた時だ。違和感に気づいた時にはすでに後輪がぺしゃんこになっていた。すぐに予備のチューブと交換して走り出したものの、焦っていたせいで穴を開けてしまったらしく、間もなく二度目のパンクに見舞われた。


 この辺りの道は市街地のようにきれいには舗装されておらず、枝や小石の類も多い。パンクしたまま走ればホイールを駄目にしかねないため、散々渋った末に春風に助けを求めようとした。が、ケータイは日常的に使わないため部屋に置き忘れていた。


 その後しばらくパンクしたまま走ったのだが、フロントライトの電池が切れてしまい追い打ちとなった。山の中にはほとんど街灯がない。ただでさえ荒れている上に濡れた山道を、パンクした自転車で光源もなしに走る度胸は凪沙にはなかった。


 ――――見えない。

 ――――何も見えない……。


 辺りは一面、夜に沈んでいた。雨天のせいで月明かりさえない。足もとにじっと目を凝らし、道の端に沿って歩く。


「っ」

 アスファルトが欠けた部分に足を取られ、膝を着いた。転がっていた石が膝に押し付けられ、情けなく悲鳴を上げてしまう。「痛っ……」


 自転車のシューズは靴底にクリートがあるため歩きづらいが、脱いだら足を怪我するに違いない。麓に着くまで我慢するしかなかった。

 我慢。


 ――――あと、何時間歩けばいいんだろう。


 視界は最悪。身体は冷え切り、空腹も深刻だ。補給食はとっくに食べてしまい、残っているのは水だけだ。こんな状態で下山できるはずがない。野宿という単語が頭をよぎるが、雨宿りできる場所など見当たらない。低体温症という不吉なワードが脳裏をよぎる。


 自分がどれだけ歩いたのかも、あとどれだけ歩けばいいのかも見当がつかない。ゴールどころか数メートル先も見えない闇の中で、スポンジに泥水が浸み込むように、心が急速に黒く浸食されていく。


 ――――もうやだ……休みたい。もう歩けない……。


 立ち上がる気力が湧いてこない。坂道にへたり込んだまま、もう何を頼ればいいか分からずにロードのフレームを抱き寄せた。

 自分が嗚咽する声を聞いたのは、いったい何年振りだろう。


「……助けて……」


 ようやく他の誰かの存在を願った、その時。

 頭上から希望の灯が差した。


「ハル――!?」


 凪沙は涙を拭う間もなく顔を上げ、呆気にとられた。光と一緒に悲鳴が降ってくる。


「ちょっ!? 危ねぇどけナギ!」

「ひっ」


 急ブレーキをかけたらしい春風が目の前に迫っていた。彼はぶつかるすれすれのところで車体を横に振り、凪沙をかわしてドリフトするように滑り落ちていく。


「うわああああぁぁぁぁぁぁ……」悲鳴が闇に溶けていった。「……ぐはっ」

「……うわぁ」


 とんだ救世主だ。転ばずに滑り降りていったバランス感覚は流石だが、声から察するに最後は結局こけたらしい。


 凪沙が呆然と待っていると、春風が自転車を押して登ってきた。ぼんやりと見える顔とジャージは泥にまみれている。「にっひひ」と笑われた。


「助けに来たぞ。相棒」

「…………うん」

「もしかして泣いてる? あのナギが? そんなに感動されると逆に引くわー」

「な、泣いてないし! 雨水に決まってんでしょ!」

「そっか。良かった」


 春風は穏やかに笑い、ロードバイクを地面に寝かせた。サドルバッグからチューブを取り出し、ハンドルに付けていたライトも外す。


「パンクしたのはどっちだ? 貸してみ」

「自分でやるからいい」

「どうせ手ェかじかんでるんだろ。見るからに寒そうだし。初心者の方がましだ」

「…………後輪。……よろしく」

「おう」


 ロードバイクのホイールは着脱が簡単だ。春風はさっさと後輪をフレームから外し、修理に取り掛かる。凪沙の仕事は彼の手元をライトで照らすことだった。

 春風は自宅で練習したのか、なかなか修理の手際が良い。思い出してみれば授業も真面目に聞いているし、実は勉強家なのかもしれない。などと密かに感心していると話を振られた。


「こんなことは滅多にないだろうけど、これからはちゃんと連絡取れるようにしといてくれよ。ただでさえ島のこっち側は車が少ないんだ。事故や落車の時に困る」

「……ん。だけどあんた、なんで戻ってきたのよ。まさかずっとコンビニで待ってたわけじゃないんでしょ?」

「お前のお姉さんから電話があった。帰ったらちゃんと謝れよ」

「……うん」


「しかし、おかげでお前の貧相なアドレス帳をお姉さんに見られちまったな」

「むっ……別にあたしがボッチなのは昔からだし、姉さんにとっては今更でしょ。むしろ家族以外の番号が入ってて感動したかもね」

「ハハ。まぁ友達ってのは数が多けりゃいいってもんじゃないけどなぁ。でも、多いに越したことはないだろ。一人で頑張ってるやつを否定するつもりはねえけど、さ」

「……なんか、実感のこもってそうな台詞だね」

「そりゃあもちろん。俺も一人で戦ってたことがある」

「あんたが?」


 にわかには信じられない。凪沙から見た春風は、容姿も運動神経もそれなりに優れていて、適度にバカなことをして、友達付き合いも普通にできている。


「前の中学の話?」

「あぁ。部活でちょっとね」

「でも、バレーって団体競技でしょ。みんなで戦うもんじゃん」

「だからだよ」春風の言葉がなんとなく弱々しくなった。「一人だけ目指す場所が違った。そのために選んだ手段も、心意気も、たった一人だけ違ってたんだ。チームを引っ張ってるつもりが、振り返ったら誰もいなかった……隣にいると信じてた相方も、いなくなってたよ」


 春風はそう前置きして、昨年の出来事をかいつまんで聞かせてくれた。


 春風には二人の幼馴染がいた。片方はマネージャーの雨宮儚。もう一人は小学生の頃から一緒にバレーをしていた守一騎という少年だ。三人は同じ市立中学に進学し、バレーボール部に入った。春風と一騎には「全国大会出場」という約束があったが、二人がいた部のレベルはいたって平凡。二人がベンチ入りし、特に春風がチームの柱になるまでに時間はかからなかった。


 しかし二人がレギュラーになっただけでは意味がない。チーム全体の実力を底上げしなければ試合には勝てなかった。そのためには練習の時間も質も、部員のモチベーションも不足していた。


「だから俺、顧問に掛け合って練習メニューを変えたんだ。元々顧問もやる気がなかったから、練習中の指揮も俺が任された。それで俺は、俺が当たり前だと思ってただけの練習をみんなにも押し付けちゃってさ」

「どうなったの」

「……みんな離れてった」


 後輩に実権を握られた先輩はさぞ居心地が悪かっただろう。三年生や初心者の部員を中心に退部者や無断欠席する者が出た。残った者も、春風と普通にコミュニケーションを取ることをしなくなった。部内の雰囲気に影響されたようで、儚や一騎ともぎくしゃくし始めた。


 そして、中学二年の新人大会。


 オーバートレーニングのツケが春風に回ってきた。


「大会の最中に肘を痛めたんだ。そしたらみんな、ここぞとばかりに俺を心配するふりしてさ、コートから追い出そうとして……でも俺は、『俺がいなきゃ勝てない』つって残った。っで、次にスパイクを決めようと跳んだ先に、一騎はトスを上げなかった……『もう降りろ』ってさ」


 パンクの修理が終わった。凪沙は春風から後輪を受け取るが、すぐにはフレームに取り付けない。まだ春風の話が終わっていない。

 彼のことを知りたい。


「それで、どうしてあんたは停学になったの? こないだ言ってたでしょ。あれはその試合に関係あるんじゃないの」

「……その場で一騎を殴ったんだ。あの時はかなりキレてたから。怪我してるってだけで俺にトスを上げないのはおかしい、約束のためなら俺を使い潰してでも勝てって怒鳴った。本当に欲しいモノのためならどんな犠牲でも払うべきだ――って。そしたらあいつ、何て言ったと思う?」



『あんな約束、本気だと思ってたのかよ?』



 ……その言葉はきっと、春風にはこの上ない裏切りに思えたのだろう。

 コート上で唯一の味方だと信じていた者に、それまで目指し続けてきたゴールが何の価値も持たないと宣告されてしまった。そうして生じた怒りを抑えきれなくて、春風は自分たちの関係を壊した。


 目指す場所を失って、たった一人立ちすくんで、動けなくなったという。


「だからナギ。おまえには感謝してる」

「あたしは何もしてないし」

「してないつもりでもさ、知らないうちに助けてくれたんだよ。あの日お前を追っかけて顔面を蹴られたから、俺はまた走り出せた。だから、ありがとう」

「…………バカじゃないの」


 ――――ありがとう、とか。

 ――――そんな恥ずかしいこと、よく平気で言えるよな……。


 春風は満足そうにニヤニヤしてフレームに跨った。凪沙の自転車を指差して促す。


「っさ、帰ろうか。俺のテールライト追ってきな」

「急ブレーキかけないでよ」

「雨は弱まってきたし、たぶん大丈夫。安全運転で帰ろう」


 二人は軽いギアでゆっくり登り始めた。一人で歩いていた時とは安心感が明らかに違う。暗闇に浮かぶ背中は細身なのにとても頼りがいがあった。


 ――――こいつとなら、一緒に走っていいのかな。


「…………春風」

「おう。……あれ? もしかして今、初めて名前で……」

「春風!」

「はい!?」

「さっきあんた、あたしのおかげとか言ってたけど。何のために走ってんの? あたしとお近づきになりたいとかじゃないんでしょ」

「そりゃあね」


 ――――即答されるとちょっとムカつく……。


「じゃあどうして? 自転車なんて日本じゃまだまだマイナーだし、金はかかるし、練習は地味できついのに」

「地味できついからだ」

「はぁ? 何あんた、マゾなの?」

「ナギもそうじゃないのか」

「あたしが!? なんでっ」

「だって、きっと根っこの部分は同じだよ、俺らは」


 春風がこちらを振り向いた。暗くて表情は見えないが、無邪気に笑っているような気がした。


「自転車に乗ってると心臓の鼓動を感じるんだ。俺はまだ死んでない、腐ってない――まだ生きてるって、確かめられる」


 どきりとした。

 そうか。

 ――――こいつもあたしと同じなんだ。


「ぷっ……あっはは」

「なんで笑うんだよ!?」

「いや……ははっ。だって、こんなバカがこの狭い島に二人もいるなんて、びっくりじゃない?」


 ひとしきり笑ったところで坂を登り切った。下りでは追突しないよう少し距離を開ける。風にかきけされないように声を張った。


「ねぇ、バカ二号!」

「ンだよバカ一号!」


 もう一度心臓が高鳴った。自分らしくもなく浮かれた気分だ。告白前の女子はこんな気分なのだろうかと考えると、尚更らしくないと思う。だが、たまにはこんな青春っぽい夜も悪くない。



「あんたをあたしの仲間にしてあげる!!」

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