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西果てのローディ  作者: 中村なめ
7/25

Stage5-1

 凪沙とのレースの後。春風が帰宅して最初にすべきことは自転車の整備だった。ずぶ濡れのジャージからスウェットに着替え、広い玄関でロードバイクの手入れをする。祖父母の家が大きくて助かった。手際の悪い初心者でも作業しやすい。


 自転車に付いた水滴や泥汚れをウエスでふき取り、ブレーキシューの滓で汚れたリムもきれいにする。次いでチェーンの汚れを落とそうとクリーナーの缶を手に取った。が、目を離した隙にウエスが消えている。


「あ、こら! 返せトラ丸! 汚いから食べちゃダメだってば」


 祖父母の愛猫がウエスをくわえていた。毛並みがふさふさな、すばしっこいトラ猫だ。春風をからかうように逃げ回った末、自分から胸に飛び込んできた。


「おっと。なんだよお前、甘えんぼさんだな? ん? ……にひひ」


 ウエスを取り上げ、代わりにのどをゴロゴロしてやる。思わず笑い声が漏れるほど可愛い。トラ丸を抱かせてやれば、凪沙の態度も案外丸くなるのではなかろうか――なんて思ったり。


「――ん?」

 眉間や耳の辺りをマッサージしてあげていると、ポケットの中でスマホが震えた。通話の相手は幼馴染だ。

「アロー?」


『あ、ハ、ハル? 久しぶり。いま時間ある?』

「おう。でも珍しいな、はかなが電話なんて。いつもラインなのに」

『…………久しぶりに、声が聞きたくなったの』

「うわーまじ萌えるー」

『バッ……じょじょじょ冗談に決まってるでしょ!? 声が聞きたいとか言っても、別に他意はないんだからね? 勘違いしないでよね!』

「わーかってるよ。こんなんいつもの冗談じゃねえか」

『ですよねー……』

「っで、何の用?」


 トラ丸が春風の指を舐め、「右手がお留守だぞ」と求めてくる。いつの間にか止まっていたマッサージを再開しつつ、儚の返答を待った。

 雨宮儚は幼稚園からの幼馴染だ。中学校ではバレーボール部のマネージャーだったが、今はもう辞めてしまったらしい。今年は受験だし、春風の一件もあったから仕方ないだろう。


『最近どうしてるかなーと思って。ハルって私から連絡しないと音沙汰ないんだもん。ちょっとは親切な幼馴染に気を遣いなさいよ』

「特に連絡することなんかないってば。自転車乗って、飯食って、勉強して、寝るだけの毎日だよ」

『ふぅん……じゃあその、まだ……そっちで彼女とかいないんだ?』

「むしろいると思うのか? 思われてんなら光栄だね」


『ハルって無駄にちょっとだけハイスペックだし。狙ってる子もいるんじゃない? こないだ言ってた自転車の女の子は?』

「ナギか? あいつは美人だけど、そういうんじゃないよ。ライバルとか相棒的な感じでさ。いっそのことナギが男だったらいいのにとか思うレベル」

『うわぁ……』

「まぁ俺、年上が好みだし、ナギはないわ。それにしてもお姉様とお近づきになる機会がないのが困りもんなんだなぁ、これが」


 島に大学や短大はなく、若いOLが勤めているようなオフィスも思い当たらない。大抵の若者は島を出ていくのだと祖父母が嘆いていた。


「儚こそどうなんだよ。受験勉強はサボってないか?」

『ハル先生がいないせいで塾に通い始めました』

「そりゃあいいや。毎日練習後にタダ働きさせられるのはもう御免だね」

『せっかく頭の出来が良いんだし、あれぐらい構わなかったでしょ?』

「脳みそはいたって平凡だよ。こつこつ続けるのがちょっと得意なだけでさ。少し頑張れば、あれくらい誰にでもできる」

『努力も才能って言うじゃない』


 ぴくっとこめかみが震えた。右手に力が入りかけ、トラ丸が嫌そうに身をよじる。


「……だから、才能なんてねえってば。俺はみんなと変わらないはずだ」

『……ごめん』

「謝んなよ」ふっと息を吐き、落ち着きを取り戻した。トラ丸の機嫌を取り直しながら意識して柔らかい声を出す。「儚は関係ないだろ。あれは全部、俺や一騎たちの問題だ」

『……あのね、ハル。カズくんもね――』

「あいつには興味ない」

『……ごめん』

「だから謝んなって……」


 これ以上泣きそうな声を聞き続けても気分が萎えるだけだ。せっかく手にした初勝利の余韻を台無しにしたくない。「もう切るぞ。勉強頑張れよ」


『うん。ハルも、自転車頑張ってね。インハイとか出たら応援に行ってあげなくもないから』

「無理して来ることないぞ?」

『行ってあげるって言ってるの! 幼馴染なんだから察しなさい!』

「はいはい。じゃな、おやすみ」


 通話を終え、スマホを床に置いた。長いため息が出てくる。

 儚は春風にとって良い友達だ。春風がバレー部で孤立した時にも味方でいようとしてくれた。実際に味方でいられたかはともかく、彼女の優しさには気づけた。おそらく春風のことを幼馴染以上の存在として意識しているであろうことにも、あの時気づいた。


 だが、これ以上近づきたいとは思わない。自分と儚はきっと根っこの部分が違っているから、長く隣に居たらその差がやがて表面化するだろう。そしてその時にはもう、開きすぎた溝を埋めることはできない。


 これも、ソースは春風自身だ。


 何でもこつこつ努力するのが当たり前だと。目標に向けてぶれずに突っ走るのが当たり前だと。目指す場所に辿り着くためなら、どんな代価でも支払うのが当たり前だと思っていた。そんな自分の価値観が誰にとっても当たり前なのだと勘違いしていたから、春風は今、ここにいる。


「ナー」

 トラ丸に呼ばれてハッとした。スマホが床の上で振動し、不快な音を立てている。


 ――――また電話?


 訝りながら手に取るが、着信は予想外の相手からだった。


「もしもしナギ? どうした?」

『あのう……』


 聞こえてきた声は凪沙のものではなかった。よく似ているが凪沙よりも棘がなく、やわらかでゆっくりだ。


『初めまして。私、凪沙ちゃんの姉の、美紗季みさきといいます』

「ナギのお姉さん?」


 姉がいたとは初耳だ。凪沙はプライベートについて明かした例がない。


『反町春風くんですよね? 凪沙ちゃんがいつも、自転車でお世話になっとる……』

「はい。あっ、いや、世話になってるのは俺――僕の方でして……」

 くすっと笑う声が届いた。『タメ口でよかよ。歳は二つしか変わらんけん』

「やっ、そういうわけには。むしろ敬語使わなきゃ落ち着かないもんで」

『へー。なんだか、凪沙ちゃんに聞いとったのとは大違い。へらへら笑って馴れ馴れしく付きまとってくるチャラ男さんやと聞いとったのに』


 ――――あのアマ!


「あ、ははは、そうなんですかー。参ったなぁ」心の声が出てしまわないように堪える。「それでお姉さん――美紗季さんが、どうして凪沙さんの電話を?」

『はい……そのう、春風くんは、もうお家ですよね? 凪沙ちゃんがお邪魔しとらんかなー……と』

「いいえ? いませんけど」


 凪沙が反町家に来たことは一度もない。朝練の後の駐輪場にしてもいいぞ、と提案してはいるのだが、頑なに拒まれている。下心は(ほとんど)ないのだが。


「もしかしてナギ、まだ家に帰ってないんですか?」

『うん……雨だし、早めに帰ってくると思うとったのに、いつまでも戻らんくて。ケータイもこの通り家に忘れとるけん連絡も取れんし……』

「あのバカ!」

『へっ?』


 つい口をついて出てしまった。だが、今は気にしている余裕はない。トラ丸をどかして立ち上がり、整備の道具を片づけながら美紗季に問う。


「たぶんあいつ、まだ練習コースにいるんだと思います。何かトラブルがあったのかも。親御さんが車で探しに行ったりは?」

『いいえ……うちは父子家庭で、父は今仕事で長崎の方に……』

「じゃあ俺が捜します。今日走ったコースを逆走するんで、見つけたら連絡します。お姉さんも、もしあいつが帰ってきたら俺に電話ください。んで、ナギに代わってもらえます? 一発叱ってやらないと気が済まない」

『はい……じゃあ、お願いしても?』

「当然っす。俺はあいつのこと仲間だと思ってるんで。まぁ、片想いっすけど」


 美紗季はまた控えめに笑ったようだった。『凪沙ちゃんをお願いします』とおしとやかで大人びた声で頼まれる。心臓がどきりと跳ねた。やばい、この人、かなりタイプかもしれない。


 ――――っと、どきまぎしてる場合じゃねえ。


 電話を切り風呂場へ向かう。洗濯器から濡れたジャージを引っ張り出して着替えはじめた。自転車のジャージは濡れていると着替えづらい。


「春風?」

「げっ。ばあちゃん……」

「あらまぁ、お着替え中? ごめんなさいねぇ」


 ――――とか言いつつあそこをガン見すんなよ!


「春風もふとうなったねぇ」

「っ……ちょっと出かけてくる!」


 着替え終わり、玄関に引き返す。濡れたジャージが肌に貼り付いて気持ち悪いが、外に出たら気にならなくなるだろう。


「夕ご飯できてるわよー?」

「ごめん! 先にじいちゃんと食ってて!」


 スマホをジップロックに入れて背中のポケットに仕舞い、ロードバイクと一緒に雨の下に飛び出した。相棒がきっと、助けを待っている。

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