Stage4
雨の中走るとヘルメットからやばいダシ汁が染み出てくる件。
五月がもう終わる頃、五島列島も梅雨入りを迎えた。
雨の日の朝は外には走りにいかず、屋内でローラー台に乗る。長方形のフレームに三本のローラーがついていて、その上で自転車に乗れるという道具だ。自転車用のランニングマシンと捉えたらイメージしやすい。そこそこ音が出てしまうが、祖父母はとっくに起きている時間なので許してくれる。
信号や自動車、風、坂道などに影響されず練習できるため便利だが、三日も屋内練習が続くとさすがに飽きてくる。どんなにペダルを回しても進まないのはストレスが溜まるのだ。
だから五限の最中に窓から天使の梯子が見えた時は、思わず机の下で拳を握った。
「晴れた……!」
授業が終わったところで、居眠りしていた凪沙の肩をゆすった。不機嫌そうに睨みつけられ、肩に置いた手を払われる。「……何さ。そんなに女体に触れたいか」
「違うって! 雨あがったんだよ。俺たちのテルテル坊主のおかげかな? な?」
「あぁ……まぁ、さすがにあれだけ作ればね。雷様もビビるでしょうね……」
教室のカーテンレールには端から端まで、不気味な表情のテルテル坊主が大量にぶら下げられていた。すべて春風と悪乗りした男子たちが昼休みにこさえたものだ。凪沙曰く、集団で首を吊っているように見えて気味悪いらしい。
「今日は久々に走りに行けるな! ローラー練の成果見せてやるよ」
「あんたが後ろでちんたら走ってる限り、あたしには見えやしないんだけど?」
「言ったな。今日の俺は一味違うぞ? 覚悟しとけよ」
いつものように掛け合っていると担任の岩尾が教室にやって来た。
「おいお前ら、清掃時間のチャイムが聞こえんのか。掃除しろ掃除――」と、ここで言葉を切り、岩尾は視界に入らないはずのないテルテルたちに歩み寄った。毛むくじゃらの手でむんずと掴み、容赦なくむしり取っていく。制作者の一人である遠矢が悲鳴を上げた。
「あぁっ、クマ先生酷い! 鬼! 悪魔! ……あ、クマか」
「下らないこと言っとらんで片づけんか!」
「練習中に雨が降り出したらクマ先生のせいだかんなー!」
残りのテルテル坊主を速やかに自主回収しながら春風が言った。ぎろり、と巨熊の双眸が光る。
「ま・た・お・ま・え・かッ――遠海!」
「だからなんであたしなのさ……」
「旦那の躾けくらいしておかんか」
「旦那!?」
「おい反町、お前もケラケラ笑ってんな。どうせ主犯はお前だろう」
「ひっ……」
人を何人か殺したことがありそうな視線を喉元に向けられた。「すみません。反省してます……」
「……お前はいささか素直すぎるな。叱りごたえのない奴だ」
「ねぇちょっとクマ先生!? なんでこんなのがあたしの旦那なのさ! 冗談でもやめてくんない気持ち悪いッ」
「そっすよ、俺だってこんな口の悪いやつタイプじゃないですし。あくまで相棒っす」
「相棒でもない!」
腹立たしげに吐き捨てて、凪沙は教室から出ていく。
「おいちょっとナギ! どこ行くんだよ」
「帰る」
「じゃあ俺も一緒にげへっ」
岩尾に襟を掴まれ、片手で持ち上げられた。
「相棒の分も働くか、放課後居残って相棒の反省文を代筆すっか、選ばせてやろう」
「……いま働きます」
「うむ」
こうして春風は十分弱、雑巾を手に馬車馬のようにこき使われた。
おかげでアップはバッチリだ。
ホームルームが終わった三分後には自宅に戻り、ジャージに着替えた。背中のポケットに小銭入れと補給食の羊羹、それからジップロックに入れたスマートホンを仕舞う。ボトルは薄めたスポーツドリンクと水の二本を用意し、フレームのボトルケージに差した。ストレッチを簡単に済ませて家を出る。
学校の前で遠矢たちに出くわした。あちらが先に気づき、手を振ってくる。片手を上げて応じた。辺りには下校中の生徒がたくさんいる。この島ではロードバイクに乗っているとそれなりに人目を集めるのだが、これがなかなか気持ちいい。
にへっと緩んだ頬を両手でぴしゃりとして気持ちを切り替える。しばらく両手を放したまま走り、ぐるりと肩を回す。そしてバレー部時代にやっていたように両手を組み、眉間の前に掲げて祈るようにした。試合前のルーティンだ。
「……行くぞ」
凪沙との時間差を概算し、ペースを調整した。ショッピングモールの通りに出て右折。緩い坂の下方にロードレーサーを発見した。二人の距離はおよそ二百といったところか。どんぴしゃだ。
脚を緩めてショッピングモールの前を通過した。ほどなくして凪沙が追いついてくる。タイミングを見計らい立ち漕ぎして、彼女の後ろにつく。
「もしかして待たせちゃった?」
「誰があんたなんかを待つかっての」
先ほどの「旦那」発言がよほど気に障ったのか、いつもよりドスの効いた声でぐさりとされる。しかしあれが心外なのは春風も同じだ。
「重ねて言っとくけど、俺だってお前のこと嫁だなんて思ってないからな。お嫁にもらうならもっとおしとやかで大人びたお姉さんがいい。料理が上手だったりすると尚さら良い。むしろ俺から婿入りしたいくらいだわ」
「あんた、自分にそんな人と結婚できるだけの価値があると思ってんの?」
「えっ…………ない、かな?」
「ないでしょ」
いつもより凪沙の巡航速度が速い。間もなく峠に差し掛かった。
「でもさぁナギ、夢を持つのはいいことだって、ジャ○プで毎週習わなかったのかよ。まさか友情・努力・勝利の三大原則を知らないのか?」
「あんたのは夢じゃなくって、うぬぼれとか妄想の類でしょ。駆けっこで女に勝てないような貧弱な男に、どこの美女が惚れるってのよ」
「足が速いからモテるってのは小学生までの話じゃねえの。つうか俺、けっこう足速いんだが」
「自転車の話」
「ああ、それなら発展途上なんだ。お前の貧相なマウスパッドと同じだよ」
「……?」
「ブラはまだ要らないんだろ?」
「コロス!」
「うぉわ!?」
凪沙が車体を振り、後輪を春風の前輪にぶつけてきた。ハンドルを取られ、危うく転倒しそうになる。
――――要らないは言い過ぎたか。Bくらいあんのかな……。
「……悪かったよ。でもマジでぶつけんなよな、落車するだろ」
「うっさい死ね! あんたなんか途中でパンクしてちぎれて予備のチューブまでパンクさせて、いきなり降り出した雨の中凍えながら野垂れ死ねばいいんだ!」
登坂中に長めのツッコミを入れたせいで、さすがに凪沙といえども息が上がっていた。春風は後続車がいないことを確かめて彼女の隣に並ぶ。
「んじゃ俺が牽くから、後ろで大人しく休んどけよ」
「ッ……あんたの、せいでしょ……!」
「冗談が通じないやつって損するぞ?」
上っ面だけの言葉を鵜呑みにして、その気になってはいけない。
ソースは春風自身だ。
「…………はぁ」
嫌なことを思い出した。ぷるぷるとかぶりを振ってネガティブな感情を頭から締め出す。登っている最中なので手は組めないが、淡々とペダルを回すことだけ意識して、もう一度集中の海に潜り込んだ。
凪沙と先頭を交代しながら海沿いの道を駆けていく。三つのトンネルを抜け、墓地や親戚の家がある辺りを通過。さらに数キロ進むと、夏には大勢の客で賑わうという海水浴場に到着した。がらがらの駐車場を横目にカーブを曲がり、再び峠を登り始める。
ふと、今更ながらに思い出した。
「今日のコースは?」
「……半周」
「オッケー」
祖父母の家から見てちょうど島の反対側まで走り、内陸部を通って帰るルートだ。すでに三分の一を消化している。往復や一周するよりも距離が短いが起伏が多い。登りで春風を潰す腹づもりだろう。だが、
「まだ余裕みたいね」
「おう。なんか調子いいんだよ、今日」
近頃はローラー台と筋トレばかりだったため、なかなか成長を実感できずにいたが、もう練習を始めて二か月が経っているのだ。バレーボールを辞めてからのブランクはほぼ帳消しになっているのではないか。
「ふぅん……」
凪沙は思案しているのか間を空けた。おもむろに空を見上げて呟く。
「……天気、本格的に崩れるかも」
「そうなのか?」
春風も空を見上げるが判断はつかない。確かに雲が多くてうっすらと暗いが、梅雨時だからこんなものではなかろうか。
「さっさと帰った方が良さそうだ。あたしはペース上げるけど」
「待ってました!」
飛び出そうとした春風は凪沙の手に止められた。「待ちなさいって。まだルール言ってないでしょ」
「ルール? ってことは、」
「そう。勝負だ、反町。今日は一緒に走ってやる」
「ほーう。どういう風の吹き回しで?」
「別に……最近あんたが調子乗ってるから、改めて叩き潰してやりたいだけ」
凪沙が提示したルールは三つだった。まず、当然のことながら交通ルールを順守。車が少ないとはいえ無理してはいけない。次に、ゴールは島内で唯一のコンビニ前で、ゴールスプリントは禁止。
「じゃあ実際は、平地に出る前に差をつけたら勝ちか」
「っそ。それから最後に……これはルールってわけじゃないけど、先にゴールした方は後続を待たずに帰って良しってことで。いいでしょ? 雨の中あんたの到着を待つなんて御免だし」
「その言葉、そっくりそのままお返しするぜ」
「それじゃあ――」
互いに目を合わせ、タイミングを合わせてペダルを踏み込む。号砲の代わりに、一瞬遅れて遠雷が聞こえた。
一瞬だけ見えた凪沙の背中がコーナーの向こうに消えた。春風は無理して速度を上げたくなるのを我慢して、一定のスピードを守り続ける。テクニックが必要な下りのつづら折りで引き離されてしまったが、差は徐々に縮まりつつある。焦る必要はない。確実に追いつき、追い越せばいい。
――――勝つ。
薄めたスポーツドリンクを口に含み、ゆっくりと咀嚼するようにして飲み込んだ。心拍にはまだ余裕がある。半周のコースはあまり走ったことがないので距離感を掴みづらいが、現在地はおそらく中間地点といったところだろう。このペースなら脚も最後まで耐えられそうだ。
きつくないわけではない。
長い登り坂は好きではないし、平地よりも脚への負担が大きい。ヒルクライムは一度失速したら踏み直すのにまた体力を使う。しかし凪沙に追いつくためには登りでペースを落としてはならない。重力による負荷は確実に筋肉を痛めつけ、肺を締めつける。
それでも勝つ。
――――絶対に捕まえてやる。
コーナーの先にいる彼女の背中だけを見据え、ひた走る。
自転車ロードレースにはスポーツ漫画でよくあるような必殺技が存在しない。球技や格闘技のように分かりやすい技があるわけでもない。自転車という道具を使ってはいるが、根っこの部分はただのマラソンだ。
ひたすら淡々と黙々と、ゴールに辿り着くかレースから降ろされるまで走り続ける。
もちろんレース中に駆け引きは存在する。だが、その本質はシンプルで過酷な駆けっこだ。足の速さと心の強さを競う争いだ。春風はレースのDVDを見ながら、あるいは今日まで走ってきた中で、そう考えるようになっていた。
だから、目的意識を強く持つ。絶対に凪沙に追いつくのだと。
――――もう、折れるもんか。
コーナーを二つ過ぎた先に、二か月間追いかけ続けた背中を捉えた。凪沙が振り返り、春風は彼女の鉄仮面が崩れかけているのを確認した。このコースで、しかもレースというシチュエーション。春風も凪沙もつらいのは変わらない。ならば優位に立つには、まずは精神面から。
「……にっひひ」
「!?」
精一杯の笑顔をお見舞いしてやった。凪沙が狼狽えたであろう一瞬を逃さず、春風は下ハンドルを握ってダンシングした。全身のバネを引き絞り、解き放つ。自分自身が弓となり矢となるイメージで、目標に向けて一直線に駆け上がる。タイヤがアスファルトを噛む音を響かせて、凪沙の右横を一気に抜き去った。
「くっ……」
凪沙はすぐに追いすがってきたが、春風の視界から外れた。坂を登り切り、短い平らな区間に出たところで、凪沙がまた目の端に映り込む。
「待て……このッ!」
ぶっちぎれ!
春風は立て続けにスプリントした。先行したまま次の登り坂に突入し、全速力で凪沙を振り落しにかかる。全身の力を使って脚を打ち出し、ペダルを踏み壊すつもりで漕ぎ続ける。
全身にかかっている負荷は限界に近い。生物としての本能が願っている。『休みたい』『止まりたい』『もうやめたい』――それらに打ち勝つのは、痛みがもたらす強烈な生の実感。喪失と引き換えに春風が手にした武器だ。
――――俺はまだ、ここで生きてる。
「待て……ッ!!」
凪沙の声を置き去りにして登り切った。
「ッしゃ……」
ガッツポーズする余裕はない。振り返らず、声がした位置から距離を推測。意外と離れていそうだ。スプリントの惰性が残っているうちに下り始める。水を口に含み、べたついた唾液を茂みに吐き捨てた。
あとの行程はスポーツドリンクのボトルだけで足りると判断した。水を捨てるついでに火照った身体に浴びせようとするが、ちょうど降り出した雨に先を越される。もう一口飲んでボトルケージに仕舞い、下りきったところで中身だけ道端に捨てた。身体は雨が冷ましてくれる。
一度だけ振り返ってみたが、凪沙はまだ来ない。登りで春風に敗れたことで心が折れたのだろうか。視界に入れられたら精神的に立ち直られてしまいかねないので、春風は休むことなく次の坂を登り始めた。レースはまだ終わっていないのだ。
峠の向こうにあるゴールを目指し、ペダルを回し続ける。
この日は結局、春風が逃げ切って初勝利を収めた。