Stage3-1
春風は仲間の誰よりも上を見ていた。
もっと強く、速く、高く……絶えずそんな風に望み続け、がむしゃらにもがいていた。
勝利のために使える時間はすべて、バレーボールに費やした。
チームのために。
親友のために。
あの日交わした約束のために。
俺が先頭に立って頑張れば、きっとみんなだってついてきてくれるから――と。
全部自分が背負って飛ぶつもりだったのだ。
『あんな約束、本気だと思ってたのかよ?』
……翼をもがれたあの日までは。
朝五時起床。
まだ早寝早起きの生活サイクルに慣れていない春風は、寝ぼけ眼をこすりながらのお目覚めだ。自堕落な生活に戻りたい欲求は当然あるが、彼女もこの時間帯に目覚め走り出すのだと思うと、脳内のモヤが晴れていく。
――――今日こそは最後まで食らいつく。
身支度を済ませ、前日に用意しておいた軽食を腹に収める。時間が許す限りストレッチをしてから出発だ。春風は自転車用のビンディングシューズを履き、広い玄関に置いてある愛車と外に出た。
「んん……」
ぐっと伸びをして、深呼吸。早朝の静謐な空気が肺に染みわたる。実家もそれなりに田舎だったが、島の空気はもっと美味しい。
ストレッチの感じでは、今日の調子はまずまずのはずだ。あとは実際にどこまで粘れるかにかかっている。スタミナと根性の問題だ。
――――うしっ。
簡単に車体の点検をして、マットブラックのフレームに跨った。ハンドルのバーテープは新品に交換してある。ブラケットを握ると風を切って走る感覚が思い出され、「にっひひっ」とにやついてしまう。シューズの底についている金具をペダルに嵌め、ヘルメットをかぶり、ゆっくりと走り出す。アイウェアはまだ持っていないので裸眼のままだ。日差しのきつくなる夏までには買いたい。
ロードバイクのエンジンは乗り手自身だ。
スタートからしばらくはウォーミングアップに徹する。軽めのギアでくるくると脚を回し、眠っていた身体を暖機する。すっかり走り慣れた住宅地と農道を抜け、ショッピングモールへ通じる道に出た。緩やかな坂道を上り、店の前を素通りして直進すると峠に差し掛かる。傾斜が増すにつれ脚に負荷がかかり、刺激を受けた身体が本格的に目覚めていく。
――――今日こそは。
春風が凪沙との練習(?)を始めて一か月が経った。朝夕問わず凪沙に勝負を挑み続けているのだが、未だに最後までついていけた例がない。短距離のダッシュなら競り勝てるのだが、長い登り坂はあまり得意ではなかった。アップダウンの多いこの島で走るためには越えねばならない壁だ。
――――こうじゃないんだよな、きっと。
つい力任せにペダルを踏みがちになるが、これでは凪沙と戦う前に疲れてしまうのだ。春風はネットで調べた情報や凪沙の走りを参考に、軽いギアでたくさんペダルを回してみる。かなり回転数を上げても脚はついてきた。……上げすぎだろうか? 自分には分からない。経験者の意見がほしいところだ。
頭上を覆う枝葉のトンネルを抜け、コースは長い下り坂に転じた。下りの間も脚を止めないよう気をつけ、次の上りもペースを維持して走る。
キィ、ギッ……
チェーンの軋む音が追い風に運ばれてきた。先輩のお出ましだ。
「おはy――」
「回し過ぎ」
凪沙は一言だけつぶやき追い抜いていった。春風はすかさず追いかけるも、加速が足りず差が詰まらない。脚を速く回し過ぎて神経が焼き切れそうな感覚がする。急いでギアを重くした。急激な負荷の増加に筋肉が軋む。ミスった。
構わず立ち漕ぎで凪沙に追いつき、改めて声を掛ける。「おはよ、ナギ」
「ナギって呼ぶな。馴れ馴れしい」
「いいじゃん、俺たちもう一か月だよ、ナギナギ。俺のこともハルでいいからな? その方が仲良さげだし」
「あたしがいつ、どこで、あんたと仲良くしたいっつった?」
「言ってないけど。狭い島で自転車やってる者同士、仲良くした方が得だと思うぞ? 練習の質とか、何かあった時の対処とか……」
「あんたにとって得なだけでしょ。あたしに言わせてみれば、のろまと走ったら手加減しなきゃいけないし、落車に巻き込まれる危険だって出てくるんだから御免だね」
「でもナギ、」
「あたしは一人で走りたいの」冷たいナイフのような態度で威嚇してくる。「だからあんたの遊びに付き合ってる暇はない。これ以上邪魔するなら帰れ」
「…………たまたま同じ方向に向かって走ってくだけなら、文句無いよな?」
「タイヤ引っ掛けたら殺す」
こいつなら本当に殺りかねない……。ぞっとして鼻の傷跡を撫でた。凪沙はかわいらしい見た目に反して、相対する者を黙らせる凄みを持っている。誤って自分の前輪を彼女の後輪にぶつけないように、春風は慎重に車間を縮めていく。ひとまず三十センチ前後が目安だ。
自転車の最大の敵は〝空気〟と言っても過言ではない。選手は少しでも空気抵抗を減らすため、タイトな薄手のジャージを着て、他の選手の後ろに隠れる。レースでは敵も含めた皆で風除けを交代しながら高速で巡航するのだ。
この一か月、春風は毎回凪沙に牽いてもらっていた。先行することも時々あるが、大半は凪沙の陰に隠れさせてもらっている。しかし日に日に体力が戻ってくるにつれて前に出たい気持ちが膨らんで、今でははち切れそうだ。
――――俺も牽きたい。
足手まといでなくなれば――凪沙と対等に走れるようになれば、仲間だと認めてくれるだろうか。そのためには春風が前を牽いて証明しなければならない。凪沙と同じくらい速いのだと。
大きなアップダウンがある区間を過ぎ、潮の匂いが濃くなってきた。視界の端に海が映っては消える。トンネルを三つ通って海岸沿いに出ると風が強さを増した。凪沙のペースが落ちたタイミングで前に出る。
「ちょっとあんた……」
「俺にも牽かせろ!」
春風は徐々にスピードを上げ、凪沙が牽いていた時よりも速く巡航する。体勢を低くして向かい風を切り裂いていく。良いペースだ。やはり春風の力も平地なら通用する。
今日こそは――ッ!
ホームルームの五分前。
「…………負けた」
崩れ落ちるようにして席に座ると、春風は力なく机に突っ伏した。傍に立ったクラスメイトに苦笑される。「また叩きのめされたん?」
「うぅー……今日こそはついてけると思ったんだけどなー。最後の峠の前に脚が無くなっちゃってさ、そのまま登りでちぎられた」
「ハハ。ほんと、毎日そんなに負け続けとるのに、よくめげないもんだね」
大平遠矢は指で眼鏡を押し上げ、大人ぶった態度で笑った。それから井戸端会議に臨むおばさまの顔をして、声を潜める。
「で? どうなん遠海は。脈あり?」
「そんなんじゃねーよ」
「でもみんな噂しとるよ。転校生があの遠海を追っかけ回してる――って。そんなやつ今までいなかったけん、ハルってば目立ちまくっとるよ?」
凪沙との付き合いが長い同級生たちからしたら、彼女は一人で我が道をゆく痛い子であり、誰にも手の届かない高嶺の花でもあるらしい。そんな凪沙の尻を追いかけフラれ続けている春風への評価は変態か、ただのスポコンか……。
「やっぱ都会のもんはみんなチャラかと? ナンパとか余裕でしまくっちゃう?」
「いや、そんなことは……ってか俺もチャラくはねーよ。まじめなスポコン野郎だよ!」
「ばってん、年相応に変態じゃろ? 思春期じゃろ? きつい練習に耐えられるし、遠海の毒舌にも平気で絡んでくし。実は遠海にいじめてもらいたがってるとか?」
「なるほど」
変態呼ばわりされるのは心外だが、言われてみればMっ気はあるのかもしれない。しかし根幹にある理由は健全で、強烈な本能だ。春風は下心に関係なく凪沙を追いかけているつもりでいる。
「だけど遠矢。俺はあいつに何回フラれ続けたって、自転車で走ってると思うぞ。たぶん、最悪一人になっても自転車は続けると思う。今の俺にはこれしかないからさ」
「? まぁよくわからんけど、頑張ってな」
担任の岩尾が現れたので遠矢は席に帰っていった。
走ることが、生きている実感をくれる。
ひと月以上経っても褪せないこの気持ちは、走っていない人には理解してもらえないのかもしれない。だとしたら、この島で共感してもらえるのは凪沙だけだ。きっとあいつと俺は、根っこのところが似てるから。
「出席取るぞー」岩尾は教室をぐるりと見渡して、春風の隣に目を留めた。「遠海はまた遅刻か?」
「います」
凪沙が何食わぬ顔で入ってきた。表情をぴくりとも変えないまま席に着き、誰とも目を合わせないように視線を落とす。
「俺より先にゴールしたんじゃないのかよ」
「あたしんちは遠いの。あんたは立地がチートで良かったね、のろまでも大丈夫だ」
「ぬぐっ……放課後は絶対負かしてやるからな。絶対にだ!」
「お生憎さま。今日はあたしローラー練なの」
「マジ!? 俺もローラー台乗ってみたい! ってか乗らせて!」
「嫌に決まってんでしょ汚らしい。あたしの練習時間が減るじゃない。なんでアンタなんかに――」
「遠海うるさいぞー」
「だからなんでいつもあたしなのさ!?」
凪沙はガルルルッと噛み付かんばかりの迫力で抗議する。こんな時ばかりは彼女の鉄皮面も崩れ、人間らしさが垣間見える。
この後はいつも通り、ほとんど口を利いてもらえなかった。自転車について――そして凪沙についても――もっと話したいこと、訊きたいことがたくさんあるのに。
春風はまだ、凪沙のことを何も知らないのに。