Epilogue
ゴールです。
最後までお付き合いくださった読者さま方、本当にありがとうございます。
季節は巡り、再び三月が来た。
充実した月日が経つのは早いもので、この島に移り住んでからもう一年かと感慨深くなる。
同時に、たった一年か、とも。
早朝。
春風は近所の船着き場に来ていた。ほとんどの荷物は先に実家へ送ってしまったので、手荷物は輪行バッグに入れたロードバイクと鞄だけだ。これからフェリーで長崎に渡り、父親と合流する。
春風は四月から小豆餅高校に通うことになった。無事に特待生として合格したので授業料が免除される。勉強も部活も今まで以上にこなさねばならないが、自信はある。
「向こうに帰っても、たまには遊びに来なさいねぇ。ごちそう用意して待ってるけん、お友達たくさん連れて来なさい」
「そうだ、春風。友達と一緒に自転車でここまで走ってくるといい。きっと良い練習になるぞ」
「ハハ、そだね。ありがとうじいちゃん、ばあちゃん。夏にはまた帰ってくるから」
春風は祖父母に手を握られて苦笑いを浮かべた。今月に入ってから毎日この調子なので、今では流石に泣きそうになることはない。
「わしらも老い先長くないからなぁ。早くひ孫の顔を見せておくれ」
「ちょっ……そういう話は遠慮してよ! 美紗季さんも赤くなんないで!」
「うん……ご、ごめんね」
美紗季も見送りに来てくれていた。見送りは祖父母と美紗季の三人だ。岩尾先生も含めた同級生たちは、卒業式の後に送別会を開いてくれた。
春風はまた考えが顔に出ていたらしく、美紗季がさらにしゅんとしてしまう。
「凪沙ちゃんのことも、ごめんね……何度も呼んだんだけど、部屋から出てきてくれなくって……こないだのお別れ会にも行かなかったんでしょう?」
「まぁ、仕方ないっすよ。俺のわがままで傷つけちゃったし……またメールで謝ります。美紗季さんからも、伝えといてもらえるとうれしいです」
「うん。……でも、凪沙ちゃんはもう怒ってはいないんだよ? ただ、泣いちゃうところを見られたくないんだと思う」
「あいつらしいっすね」
本心を言えば、彼女が来ていないことは寂しい。寂しい、なんて一言で片づけられないくらい、寂しくてたまらない。八月のレース(黒羽はパンクして結局二位だった)の後も練習は一緒に続けたし、勉強も教えた。島で一番の友達で、相棒だったと思っている。
「美紗季さんにも、ほんと世話になりました」
「えっ、や、やめて。顔上げて……」
がばっと頭を下げたら慌てられた。あたふたする彼女を笑いながら面を上げる。美紗季は湯気が立ちそうなほど赤くなって、何事か言いたそうに悶えていた。
「……わ、私も、来年はそっちに行くけんっ……ちゃんと勉強して、大学生になるけんね。そしたら、その……春風くんちまで遠いけど、たまには会えるし……」
「……え、と」こっちまで恥ずかしくなってきた。「それで?」
「それで、私……春風くんに振り向いてもらえるようになるから! 自転車よりも、私のこと好きになってもらうから……覚悟してね」
「!」
美紗季が少し背伸びしてキスをした。
ターミナル内の視線が集まり、春風は目を泳がせる。そんな春風を見て美紗季が悪戯っぽくほほ笑んだ。
「次は春風くんからキスしてほしか」
「……が、がんばります」
「うんっ」
二人の様子を眺めていた祖父母がにまにまと笑う。「……ひ孫」
「もうその話はよしてよ! ――っと、そろそろ時間か」
腕時計を見やると出航の時間が近づいていた。ほどなくして乗船が始まり、春風も三人のもとを離れる。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ほほ笑む祖父母と涙ぐんだ美紗季に見送られ、乗船者の列を追う。振り返ったら春風まで涙腺をやられそうで、頑なに前だけを見ていた。
――――結局、ナギには会えなかった。
――――夏には会えたらいいんだけど……。
ボーディングブリッジの途中、名残惜しくて島の方を見やった。
凪沙がぎりぎりに駆けつけてくれるなんて、そんな都合の良いことはなくて。春風は輪行バッグを肩に担ぎ直し、フェリーに乗った。自転車は係員の指示に従って壁際に置いた。肩ひもを手すりにくくりつけておく。
二等客室では先に入った乗客がくつろいでいた。春風はそれを横目にデッキに出た。冷たい海風が頬を撫でていく。胸に秘めた切なさが助長されて、岸の方へと展望デッキを迂回する。
「美紗季さん……?」
船着き場の出入り口から続くレンガの歩道に彼女がいた。ぴょんぴょん飛び跳ねて何か叫んでいるが、船の音がうるさくてよく聞こえない。どこかを指差している。春風はその先を目で追いかけて、息が止まるかと思った。柵に勢いよく飛びついたあまり、危うく海へ転がり落ちるところだった。
一台のロードバイクが後輪を滑らせて交差点を曲がり、駐車場に駆け込んできた。
「ナギ!」
部屋着のまま飛び出して来たらしくラフな格好だ。靴もビンディングシューズではなくサンダルだった。ヘルメットもかぶっていない。彼女は歩道に乗り上げ、フェンスの手前で急停車した。
「ハル――――――――ッ!!」
人目もはばからずに叫ぶ凪沙に、春風は反射的に言い返す。
「っんだバカ一号! ヘルメットくらいかぶりやがれ、危ないだろうが!」
「ハァ!? 何さこのバカ二号! せっかくあたしが見送りに来てやったのに第一声がそれ? もうちょっと気の利いた言葉はないの! やっぱバカなの!?」
「ざっけんな出航ギリギリに来やがって! 会えないまま帰るのかと思って危うく泣くところだったんだからな!」
「ッ……ごめん! でも間に合ったからいいでしょ!?」
「許して遣わす!」
「あんた何様!?」
エンジン音に負けないよう懸命に叫びながらも、慣れ親しんだやりとりに笑いがこぼれた。さっきまで空っぽで、冷たい風の吹いていた胸の内に、一人では決して得られなかった温もりが満ちていく。
汽笛が鳴った。
お別れだ。
でも、最後に顔を見られてほっとした。
「……じゃあな、ナギ。会えてよかった」
「待って。約束して!」
立ち去りかけた春風は半身になって振り向いた。凪沙が胸に手を当て、海風に負けじと声を振り絞る。
「あたしも絶対、全国まで行くから! だからハルも強くなって、勝ち上がって! 同じレースは走れないけど……でも、また一緒に走るって約束して!」
「……ったり前だ! いつか俺たちで男女のロード優勝かっさらうんだからな!」
春風は凪沙を指差し、にひひっと口の端を吊り上げた。
「今度こそ、じゃあな。相棒」
「うんっ……バイバイ、春風」
春風は踵を返し、もう振り返ることはなかった。
凪沙に向けてひらりと手を振り、反対側のデッキへ回った。壁にもたれて海と空を眺め、それから、ゆっくりとまぶたを閉じる。鼻の傷跡を優しく指でなぞった。
「……ありがとうな」
一年前より少しだけ大人になった春風を乗せて、船は出航した。




